2011-11-11

人は自分自身の光りとなるべきだ/『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ


『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

 ・人は自分自身の光りとなるべきだ
 ・瞑想の否定

『真理の種子 クリシュナムルティ対話集 Truth And Actuality』
『最後の日記』J・クリシュナムルティ

 誰しも日記をつけたことがあるだろう。若い頃の日記は感傷に傾きすぎて、後から読むと思わず赤面するような文章が多い。日記とは自問自答でもある。どのように繕(つくろ)ったとしても心の遍歴が浮かんでくるものだ。逆説的ではあるが、それゆえに大半の日記は読む価値がない。

 ウェブ上を占める膨大な数のブログも多くは日記の類いである。たとえ有名人であろうとも、私は他人の日常に興味を覚えない。また素人であっても書く以上は批評的な視点や、何らかの価値観を記さなければ表現とはいえないだろう。

 クリシュナムルティが突然日記をつけ始めた。1973年のことである。既に78歳であった。本書には1975年までの日記が収められている。宮内勝典〈みやうち・かつすけ〉は作家だけあって訳文も読みやすい。文章の体裁は『生と覚醒のコメンタリー』(全4冊)と全く同じである。風景や人物を描写しながら既成概念を粉砕し、我々の思考を激しく揺さぶる。

 なにが正気で、なにが狂気だろう? だれが正気で、だれが知っているだろうか? 政治家は正気だろうか? 聖職者たち、彼らは狂っていやしないか? イデオロギーに専念している人たちは正気だろうか? 私たちは彼らに操られ、型にはめられ、小突きまわされている。私たちは正気だろうか?
 正気とはなんだろうか? 全人的であること、行動や生活や、あらゆる種類の関係において、断片的でないこと――それが正気であることの本質だ。正気とは全体的であること、健康で神聖であることを意味する。狂気、神経症、精神病、失調症、分裂病、病名はなんでもかまわない。それは行動が断片的であるということだ。関係の動き――、つまり存在そのものがばらばらになっていることだ。敵対や分裂を生みだすこと、これがあなたがたの代表である政治家のやっている仕事だが、それが狂気をはぐくんでいる。独裁者としてであれ、平和の名においてであれ、他のどんなイデオロギーの名においてであれ、事情は同じだ。そして聖職者だが、彼らの世界を見るがいい。みんなが真理であると見なしているもの、救世主や、神や、天国、地獄、それとあなたとの間に聖職者は立っている。彼は取次役であり、代理人だ。彼は天国の鍵を手にしている。彼は信仰と教義(ドグマ)と儀式を通して、人間を調整してきた。彼はまことに伝道者(プロパガンディスト)である。あなたが安逸と安全を求め明日を恐れるからこそ、聖職者はあなたたちを調整してきたのだ。それに芸術家たち、知識人たち、科学者たち。たいそう崇(あが)められ称えられてきたが、彼らは正気だろうか? それとも彼らはまったく違った二つの世界に住んでいるのだろうか? 表現へ駆り立てる理念や想像の世界があり、それは悲しみや喜びの日常から完全に分離しているのだろうか?
 あなたの周囲の世界は断片的であり、あなたもまた断片的だ。その表現が闘いであり、混乱や、みじめさなのだ。あなたがそのような世界であり、そんな世界があなた自身なのだ。正気とは、行為を伴いつつ人生を闘いなしに生きることだ。行為と理念は相対立する。見ることは行なうことだ。先に観念構成があってその結論に従って行為があるというのではない。それでは混乱を生むばかりだ。分析者自身が分析されるものだ。もし分析者が、自分を分析されるものとは違ったなにか分離したものだと考えれば、そこには衝突が生じ、この衝突の場に不調和が生じる。観察者は、同時に観察されるものだ。そこに正気があり全体があり、神聖なものとともに、愛がある。

【『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ:宮内勝典〈みやうち・かつすけ〉訳(めるくまーる、1983年)以下同】

 狂気と正気を分けるのは多数決である。皆が「魔女を退治しようぜ」といえば魔女を焼くことは正気となる。関東大震災の時は朝鮮人を殺すことが正気であった。戦争においては敵国の兵士を殺戮することが正気である。ベトナム戦争でアメリカ兵は、ベトナム人の耳や首のコレクションを自慢した。

米兵は拷問、惨殺、虐殺の限りを尽くした/『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン

 では現在の我々の正気度を検証してみよう。多くの人々にとって人生の目標は「競争に勝つ」ことであり、それが上手くいかないところに悩みが生まれる。学生であろうと社会人であろうと一緒だ。少しでも他人を出し抜くことこそが生き甲斐なのだ。

 毎年3万人の人が自殺をし、5000人の人が交通事故で死亡しても我々の人生は何ひとつ変わらない。ルワンダで大虐殺があっても、パレスチナ人がイスラエル軍に殺されても全く変化しない。

 確かに気の毒だとは思う。でも、どうせ何もできない。だったら深刻に考えてもしようがない。自分のことだけで頭がいっぱいだ。私の将来さえよくなってくれれば後はどうでもいい。

 これが果たして「正気」といえるだろうか? 資本主義に毒された世界で、何から何まで経済的な尺度で判断し、競争に駆り立てられる我々は正気なのだろうか?

 政党も企業も学校も教団も自分のことしか考えていない。自分たちさえ繁栄できればよい。そのために戦い、争い、罵り合うのが我々の日常だ。勝てば官軍、負ければ賊軍だ。

 そのありのままの自分を見つめよ、とクリシュナムルティは教える。見ることが気づくことであり、洞察から英知が生まれる。「ここがよくないから、今度からはこうしよう」ということではない。クリシュナムルティは理想も努力も斥(しりぞ)ける。そのような思考や行為自体が「社会の鋳型」(いがた)であるからだ。

理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一
努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

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 人は自分自身の光りとなるべきだ。この光りが、法である。他に法などない。他の法と言われるものはすべて、思考によってつくられたものだ。だから分裂的で、撞着(どうちゃく)を免れない。自己にとって光りであるとは、他人の光りがどんなに筋が通っていようが、論理的であろうが、歴史の裏づけをもっていようが、自信に満ちていようが、けっして追従しないということだ。もしあなたが、権威、教義、結論といったものの暗い陰の下にあれば、自分自身の光りであることはできない。倫理性は、思考によって組み立てられるものではない。環境の圧力に押されて出てくるものでもない。それは昨日に属さず、伝統にも属さない。倫理性は愛の産む子供であり、愛は欲望や快楽ではない。性愛や官能の楽しみは、愛ではない。

 ブッダの教えと完全に一致している。否、クリシュナムルティが説いているのは仏法そのものであると私は受け止める。「なんじらは、ここに自からを燈明とし、自らを依所として、他人を依所とせず、法を燈明とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい」(大般涅槃経)。ブッダもクリシュナムルティも「私の教えに従え」とは絶対に言わない。一切の隷属から人々を解放することが彼らの教えであった。

 自由とは、あなたが自分自身にとって光りとなることだ。その時、自由は抽象ではない。思考によって組み立てられたものでもない。現実問題として、自由とは、依存関係や執着から、あるいは経験を渇望することから、いっさい自由になることだ。思考の構造から自由になることは、自身にとって光りとなることだ。この光りのなかで、すべての行為が起こる。そのとき矛盾撞着はない。法や光りが行為から分離しているとき、行為する者が行為そのものから分離しているとき矛盾撞着が起こる。理念とか原理とかは思考の不毛な動きであり、この光りと共存することはできない。一方が他方を否定するのだ。この光り、この法が、あなたと分離している。観察者がいるところには、この光り、この愛は存在しない。観察する者の構造は、思考によって組み立てられたもので、けっして新しくなく、けっして自由ではない。方法とか、体系、修練といったものなど、なにもない。見ることだけがあり、それが行為することだ。あなたは見なければならない。ただし他人の目を通してではなく。この光り、この法は、あなたのものでも他人のものでもない。ただ光があるだけだ。これが愛だ。

 真の哲学や宗教は鋳型ではないはずだ。教育という名目で行われるコントロールとも無縁であろう。この腐りきった社会を構成している自分の腐敗ぶりを見つめる。本当に見つめることができれば、その瞬間に腐敗から離れているはずだ。

Jiddu Krishnamurti

 宮内勝典〈みやうち・かつすけ〉はクリシュナムルティの講話を実際に聴いている。

 一人の老人がテントの隙間から現われた。いや、老人という言葉はそぐわない。完全な白髪なのに不思議な若々しさがあった。肉の若さではない。意識がしんと張りつめ、それでいて、いまの瞬間に没入し、活(い)きいき弾むような自由感があった。新鮮な老人――、そんな印象だ。クルタというなんの変哲もない白い木綿服を着ていた。台の上にあぐらをかいて合掌し、テントのなかを埋めつくす数百人の聴衆を、ゆっくり5分ほどかけて眺め回した。見るというより写しとるような眼差だった。なにも喋らない。さらに5~6分過ぎた。宙から垂れる透明な糸でもたぐり寄せるように、ふっと口をひらいた。流暢な英語だった。意味を追うよりも音の響きそのものに耳を澄ませたくなる声だ。(訳者あとがき)

 実に見事な描写である。クリシュナムルティの言葉は水のように浸透し、風のように頬を撫でる。

一読者からクリシュナムルティの料理人となった青年/『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン

 真のコミュニケーションは見つめ合うところに極まることが、よく理解できる。互いの瞳が鏡となって光を反射し、世界を照らすのだ。世界に平和が訪れていないのは、我々が相手を見つめていない証拠といえよう。

2 件のコメント:

  1. けいすけ。2013年8月15日 11:26

    クリシュナムルティの言葉で、一番心の奥に届いたものが、この文章に過不足なく書いてあります。
    まさに、その部分に私も感化されました。これが人の叡智というものでしょう。有難うございます。

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  2. そりゃ、よござんした。

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