2012-04-14

言葉を紡ぐ力/『石原吉郎詩文集』石原吉郎


 ・究極のペシミスト・鹿野武一
 ・詩は、「書くまい」とする衝動なのだ
 ・ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある
 ・「棒をのんだ話 Vot tak!(そんなことだと思った)」
 ・言葉を紡ぐ力

『望郷と海』石原吉郎
『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介

 以前から読んでいるブログが中断を経て再開された。

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

 名前は〈やち・しゅうそ〉と読む。息の長いブログである。読むたびに「言葉のマッサージ」を受けているような気分になる。あるいは「言葉のリハビリテーション」と言ってもよい。ヒラリヒラリと舞う言葉が、直情径行型の私に変化を及ぼす。

 ふと詩を読みたくなった。そうだ、石原吉郎に会いにゆこう。

 しずかな肩には
 声だけがならぶのでない
 声よりも近く
 敵がならぶのだ
 勇敢な男たちが目指す位置は
 その右でも おそらく
 そのひだりでもない
 無防備の空がついに撓(たわ)み
 正午の弓となる位置で
 君は呼吸し
 かつ挨拶せよ
 君の位置からの それが
 最もすぐれた姿勢である(「位置」)

【詩集〈サンチョ・パンサの帰郷〉より/『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)以下同】

 はっきり言ってしまえば意味はよくわからない。それでも構わないだろう。人間は外国語の歌にも感動することができる動物なのだから。

 空間の歪みと時間の頂点というコントラストが既成概念を揺さぶる。石原にとってシベリア抑留は歪んだ空間であったことだろう。しかし「歪んだ時間」ではなかったはずだ。なぜなら彼はシベリアで鹿野武一〈かの・ぶいち〉と出会ったからだ。

 石原自身は真面目で平凡な人物であったと思われる。その彼に「言葉を紡(つむ)ぐ力」を与えたのが鹿野であった。

 石原は言葉を失いかけた。否、失ったのかもしれない。

詩は、「書くまい」とする衝動なのだ/『石原吉郎詩文集』石原吉郎
ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある

 人は大なり小なり国家に依存している。それは考えるまでもない事実である。国家のために命を賭して戦地へ赴き、挙げ句の果てに国家から見捨てられる。シベリアで抑留された人々はかような状態に置かれた。自分の生死をも不問に付された時、存在は透明化し抹消されたに等しい。

 人間は相手(=観測者)がいなければ言葉を発することすらできないのだ。

 さびしいと いま
 いったろう ひげだらけの
 その土塀にぴったり
 おしつけたその背の
 その すぐうしろで
 さびしいと いま
 いったろう
 そこだけが けものの
 腹のようにあたたかく
 手ばなしの影ばかりが
 せつなくおりかさなって
 いるあたりで
 背なかあわせの 奇妙な
 にくしみのあいだで
 たしかに さびしいと
 いったやつがいて
 たしかに それを
 聞いたやつがいあるのだ
 いった口と
 聞いた耳とのあいだで
 おもいもかけぬ
 蓋がもちあがり
 冗談のように あつい湯が
 ふきこぼれる
 あわててとびのくのは
 土塀や おれの勝手だが
 たしかに さびしいと
 いったやつがいて
 たしかに それを
 聞いたやつがいる以上
 あのしいの木も
 とちの木も
 日ぐれもみずうみも
 そっくりおれのものだ(「さびしいと いま」)

 慎ましい言葉の端々(はしばし)から、存在への憧憬(どうけい)が狂おしいまでに溢(あふ)れ出る。強制された孤独が完膚なきまでに自我を打ちのめす。変わらぬ自然の光景を「おれのものだ」と言わずにはいられない、その「さびしさ」を思う。

 憎むとは 待つことだ
 きりきりと音のするまで
 待ちつくすことだ
 いちにちの霧と
 いちにちの雨ののち
 おれはわらい出す
 たおれる壁のように
 億千のなかの
 ひとつの車輪をひき据えて
 おれはわらい出す
 たおれる馬のように
 ひとつの生涯のように
 ひとりの証人を待ちつくして
 憎むとは
 ついに怒りに到らぬことだ(「待つ」)

 腐敗でも発酵でもない。憎悪の純化だ。石原は憎しみを保ち続けることで、鹿野の死や時の経過と戦ったのだろう。忘却を拒む者の覚悟が屹立(きつりつ)している。

 世界がほろびる日に
 かぜをひくな
 ビールスに気をつけろ
 ベランダに
 ふとんを干しておけ
 ガスの元栓を忘れるな
 電気釜は
 八時に仕掛けておけ(「世界がほろびる日に」)

 ゲオルギウの言葉と一緒だ。

自分は今日リンゴの木を植える

 いつものように、そして今までどおりに生きる。淡々と平凡を貫ける人は偉大だ。

 生の意味を探し回ることは空虚だ。人生を改造するような真似も見苦しい。ただ生きる。川の水が流れるように。そんな生き方を私は望む。

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

私を変えた本

『なぜアメリカは戦争を続けるのか』シャーロット・ストリート・フィルムズ制作(アメリカ、2004年)



アーロン・ルッソ

2012-04-13

宗教には啓典宗教とそれ以外の宗教がある/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹


『青い空』海老沢泰久

 ・キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教の「空(くう)」
 ・「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた
 ・宗教には啓典宗教とそれ以外の宗教がある

目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世
キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?

宗教」という言葉は、明治時代になって「religion」の訳語として作られた新しい言葉で、もともとのレリジョンの意味は、「繰り返し読む」ということ。
 欧米人のほとんどはキリスト教こそが本当の宗教だと想っているから、宗教といえばキリスト教、そして文字で表された最高教典、すなわち啓典(正典ともいう)のある啓典宗教と考える。

【『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹(徳間書店、2000年)以下同】

 キケロはレリゲーレ[relegere](「とり集める」ないしは「再読する」を意味する)に由来すると考えていた。

宗教の語源/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

 教団は文献を取り集め、信者に再読を促す。再読は「考える力」を奪う。そして教団は迷える人々を取り集め、金銭を取り集めるのだ。

 マックス・ヴェーバーはかくいった。宗教とは何か、それは「エトス(Ethos)」のことであると。エトスというのは簡単に訳すと「行動様式」。つまり、行動のパターンである。人間の行動を意識的及び無意識的に突き動かしているもの、それを行動様式と呼び、ドイツ語でエトスという。英語では、エシック(ethic)となる。
 ここで注意を一つ。英語の場合、どこに注意するかというと、語尾にsがないこと。sがあったらエシックス(ethics)となり「倫理」という意味になる。
 倫理というのは、ああしろこうしろという命令もしくは禁止を指すが、その上位(一般)概念であるエシックはもっと意味が広い。禁止や命令も含むが、さらに正しいだとか正しくないだとかいうことも含む。そればかりか、さらに意味は広く、思わずやってしまうことまでも含むのである。

エトス 通信し合えないぼくらの時代
最狭義と最広義の宗教/日本教的宗教観

 簡単にいってしまえば、エシックス(倫理)は思考に訴え、エトスは情動を支配するのだ。倫理は社会の機能で、エトスは個人を規定するものと考えてもよさそうだ。「内なる良心の声」がエトスの正体だ。我々はこれを疑うことを知らない。

 なぜヴェーバーの定義がいいのかというと、宗教だけでなくイデオロギーもまた宗教の一種であると解釈できるところにある。どういうことなのかというと、マルキシズムも宗教である。資本主義も宗教である。そして、武士道などというのも一種の宗教だといえる。

 つまり宗教とは「行動様式原理」を意味する。悪くいえば洗脳だ。

 これから本格的に宗教の議論に入る前にコメントを一つ挙げておく。それは、宗教には啓典宗教とそれ以外の宗教がある、ということだ。
 これは、イスラム教徒による宗教分類であるが、比較宗教学のために便利な分類でもあるので、この本においても採用したい。
「啓典宗教(revealed religion)」とは啓典(正典=canon, Kanon, cannon)を持つ宗教である。ユダヤ教キリスト教イスラム教は啓典宗教である。仏教儒教ヒンドゥー教道教、法教(中国における法家〈ほうか〉の思想)などは啓典宗教ではない。

 啓典という言葉は日本人にあまり馴染みがない。それゆえ「教典(経典)宗教」と言い換えてもよかろう。神の言葉を絶対視することで、信徒は「言葉の奴隷」とならざるを得ない。「言葉に従わせる」という操作性に宗教の本質があるとすれば、ここに絶対的権力が立ち現れる。

 啓典宗教は、存在論、すなわちオントロジー(ontology)に貫かれている。啓典宗教であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教においては、神の存在が最大の問題なのである。

 西洋哲学は存在を巡る議論である。「天にまします我らが父」を目指して形而上学へ傾くことは必然であった。そう考えると西洋と東洋では「生きる」という意味合いすら異なっている可能性が高い。我々日本人は存在に無頓着だ。生きるの語源は「息をする」こと。だから死ぬことを「息を引き取った」と表現する。また人生は川に喩(たと)えられるが、存在性よりも「流れ」と考える人が多い。六道輪廻(ろくどうりんね)を意味する生死流転(しょうじるてん)という言葉も、輪ではなく川をイメージする。

 このままでは言葉が通じない。その深き溝を翻訳する作業が必要だ。日本の外交音痴も「言葉の問題」が本質的な原因と考えられる。

「啓典宗教」というキーワードが閃(ひらめ)きを与えてくれる。大乗仏教は仏教の啓典宗教化を目指したのだろう。つまりコミュニティの人数が多くなれば、「言葉の支配」を避けられないのが人類の宿命なのだ。

 啓典宗教が誤っていることは簡単に証明できる。言葉は絶対のものではない。それは所詮、「解釈される」性質のものだ。ゆえに同じ言葉であったとしても受け止め方は千差万別だ。こうして教義論争が始まる。「religion」の意味が「結びつける」ではないことが明らかだ。

日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか

自由を達成するためには、どんな組織にも、どんな宗教にも加入する必要はない/『自由と反逆 クリシュナムルティ・トーク集』J・クリシュナムルティ
教条主義こそロジックの本質/『イエス』R・ブルトマン
歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男
宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
宗教の社会的側面/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
アブラハムの宗教入門/『まんが パレスチナ問題』山井教雄
電気を知る/『バーニング・ワイヤー』ジェフリー・ディーヴァー
信じることと騙されること/『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節

2012-04-12

広河隆一、ロブ・ブッカー&ブラッドリー・フリード

1冊挫折、1冊読了。

チェルノブイリ報告』広河隆一〈ひろかわ・りゅういち〉(岩波新書、1991年)/良書。ただ、今の私が必要とする内容ではない。

 20冊目『超カンタン アメリカ最強のFX理論』ロブ・ブッカー&ブラッドリー・フリード(扶桑社、2009年)/惜しげも無く投資手法を公開している。これを良心と受け止めるかどうかは読者次第だろう。素人は直ぐに飛びつくだろうが、実践するとなると意外と難しいことに気づくと思う。ロブ・ブッカーはカリスマFXコーチという肩書きの人物。

シリア危機 アルジャジーラ情報捏造の現場





◎シリア ディルエルゾル(プロパガンダ創作チャンネル)の撮影現場
◎シリア情勢 記者の戦闘参加・情報捏造 フランス人諜報員逮捕

ガザ支援船攻撃を喜ぶイスラエル人達 テルアビブ2010年6月





◎ガザ支援船

「イランの原爆」の実体 新世界秩序への最後の挑戦





 仏作家アラン・ソラル。グロ-バル主義帝国の宗教とも言える「ホロコースト」(ガス室を用いたユダヤ人殲滅)の歴史見直しを主張するアフマディネジャド大統領はユダヤロビ­ーから第二のヒトラーと呼ばれイスラエルの脅威と見なされる。帝国の中心地イスラエルの存在理由を与えるショアーの現実について世界で初めて疑問を呈した国家イランはグ­ローバル主義世界統治計画者にとって邪魔な存在であり、かつてのヒトラーと同様の運命を辿る可能性がある。

2012-04-10

手の表情


Untitled


 手を拱(こまね)いているのではない。酷使に耐えてきた手を少し休めているだけだ。それにしても神々(こうごう)しいまでの穏やかさを湛(たた)えている。彼はホームレスだ。

◎美しき合掌
◎M・C・エッシャー「描く手」

「薄紫」SION


 知っている曲のはずだった。苦く、せつない歌詞に今初めて耳を傾ける。



俺の声/SION 月明かりの下で [DVD]

SION
原田芳雄「only my song」

2012-04-09

原発は明治政府が朝敵(天皇の敵)とした地域に立てられている

「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹


『青い空』海老沢泰久

 ・キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教の「空(くう)」
 ・「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた
 ・宗教には啓典宗教とそれ以外の宗教がある

目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世
キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?

「歴史は勝者によって書かれる」と陳舜臣〈ちん・しゅんしん〉は喝破した(『中国五千年』1989年)。蓋(けだ)し名言である。

 中世までは文明においても学問においてもアラブ世界がリードをしていた。

 歴史をさかのぼってみよう。まず十字軍(1096-1272年)によって西洋の暴力性は噴出した。

 セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの依頼により、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この呼びかけにこたえた騎士たちは途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略し虐殺、レイプ、略奪を行いながらエルサレムを目指した。(第1回十字軍)

Wikipedia

 彼らは神からの免罪を勝ち取るために、別の罪を犯しながら進軍したのだ。この病根は今もなお西洋を支配している。根っこにあるのは「神という被害妄想」であろう。

 ところが十字軍は9回に渡って遠征が繰り返されているが、明らかな勝利を収めたのは第1回だけであった。ざまあみやがれってえんだ。

 当時、アジアからは大モンゴル帝国の蹄(ひづめ)が高らかに鳴り響いていた。圧倒的な武力を誇るモンゴルはヨーロッパ世界にまで辿りつく。(Wikipediaのgif画像を参照せよ)

 西洋は八方塞(ふさ)がりであった。これを打開したのが大航海時代(15-17世紀)である。以下に三つのテキストを紹介する。

 しかも、毎年毎年同水準の生活や産業を維持してゆくだけなら、同じ規模の土地を「エンクロージャー(囲いこみ)」して守っていけばいいが、その水準をあげてゆくためには、土地の規模を拡大していかなければならない。かくして、北フランスやイギリスなどの石の風土に成立した牧畜業は、不断に新しい土地(テリトリー)を外に拡大する動きを生む。これが、いわゆるフロンティア運動を生み、アメリカやアフリカやアジアでの植民地獲得競争(テリトリー・ゲーム)を激化させるのである。
 つまり、西欧に成立し、ひいてはアメリカにおいて加速されるフロンティア・スピリットは、本来、牧畜を主産業とするヨーロッパ近代文明の本質を「外に進出する力」としたわけである。これは、ヨーロッパ文明に先立つ、15~16世紀のスペイン、ポルトガルが主導したキリスト教文明、いわゆる大航海時代の外への進出と若干その本質を異にする。
 いわゆる大航海時代の外への進出は、17世紀からのイギリスやオランダやフランスが主導した、国民国家(ネーション・ステイト)によるテリトリー・ゲームとは若干違う。大航海時代というのは、キリスト教文明の拡大、つまり各国の国王が王朝の富を拡大するとともに、その富を神に献ずる、つまり「富を天国に積む」ことを企てるものであった。

【『砂の文明・石の文明・泥の文明』松本健一(PHP新書、2003年)】



 ベルは、近代の終焉についても述べている。彼によると、近代の特徴は「超越(beyound)」にある。しかし、ポスト・モダーンは「限度(limit)」である。確かに、近代がルネサンス、宗教改革、大航海時代から始まるとすると、その特徴は「超越すること」にあった。近代の原理は「無限への衝動」であり、「ファウスト的衝動」とも呼ばれる「もっと、もっと」の精神によって営まれてきたのである。言い換えれば、「無制限の無条件の顧みるところなき」衝動によって駆動されてきたのが、近代の特徴であった。(訳者解説)

【『二十世紀文化の散歩道』ダニエル・ベル:正慶孝〈しょうけい・たかし〉訳(ダイヤモンド社、1990年)】



 モンゴル帝国の弱点は、それが大陸帝国であることにあった。陸上輸送のコストは、水上輸送に比べてはるかに大きく、その差は遠距離になればなるほど大きくなる。その点、海洋帝国は、港を要所要所に確保するだけで、陸軍に比べて小さな海軍力で航路の制海権を維持し、大量の物資を低いコストで短時間に輸送して、貿易を営んで大きな利益を上げることが出来る。これがモンゴル帝国の外側に残った諸国によって、いわゆる大航海時代が始まる原因であった。

【『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘(ちくまライブラリー、1992年/ちくま文庫、1998年)】

 すなわち陸路を阻まれた西洋世界は行き場を失った格好で海へ飛び出したわけだ。船を出すからには金がかかる。また航海で命を失うリスクもある。一方、新天地に辿りつけば香辛料などを獲得できる可能性がある。こうした利益とリスクをバランスすることで共同資本という概念が生まれた。ここに株式会社の起源がある。

資本主義経済の最初の担い手は投機家だった/『投機学入門 市場経済の「偶然」と「必然」を計算する』山崎和邦

 ヨーロッパ人は新天地で何を行ったのか?

 15世紀から17世紀後半にかけての大航海時代、コロンブス(イタリアの航海者。1451頃~1506)やマゼラン(ポルトガルの探検家。1480頃~1521)が未知の国へ向けて航海した。そこで新大陸に上陸した彼らは一体何をしたか。
 正解は、罪もない現地人の鏖(みなごろし)! 大虐殺である。別に住民たちがこぞってこの侵入者たちを襲ったわけでもないのに。何と酷いことをするのだ、と怒ってみても詮(せん)はない。侵入者たちのほうからすれば、キリスト教の教義(おしえ)に従って異教徒を殺したまでなので、後ろめたさなどあろうはずもないのだ。

【『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹(徳間書店、2000年)以下同】

 彼らは貴重な食料や資源の獲得とともに、キリスト教を宣教することを目的としていた。思想的侵略といってよい。神の僕(しもべ)は神の代理人でもあった。

 小室直樹はヨーロッパ人の暴力性を一文で解き明かす。

 その答えは『旧約聖書』の「ヨシュア記」を読むとわかる。(中略)
「ヨシュア記」にこそ〈宗教の秘密〉は隠されているのだ。
 神はイスラエルの民にカナンの地を約束した。ところが、イスラエルの民がしばらくエジプトにいるうちに、カナンの地は異民族に占領されていた。そこで、「主(神)はせっかく地を約束してくださいましたけれども、そこには異民族がおります」といった。すると神はどう答えたか。「異民族は皆殺しにせよ」と、こういったのだ。
 神の命令は絶対である。絶対に正しい。
 となれば、異民族は鏖(みなごろし)にしなくてはならない。殺し残したら、それは神の命令に背いたことになる。それは罪だ。
 したがって、「ヨシュア記」を読むと、大人も子供も、女も男も、一人残さず殺したという件(くだり)がやたらと出てくる。(中略)
 異教徒の虐殺に次ぐ大虐殺、それは神の命令なのである。

 長らく抱えてきた西洋世界への疑問が氷解した。モンゴルと中東からの圧力から解放されたヨーロッパ人は、アメリカでインディアンを虐殺し、国内では魔女狩りを行っていた。

侵略者コロンブスの悪意/『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』ディー・ブラウン
「コロンブスの新大陸発見は先住民虐殺の始まり」、チリ先住民が抗議デモ
魔女は生木でゆっくりと焼かれた/『魔女狩り』森島恒雄
「欧米人が仕掛ける罠」武田邦彦、高山正之

 更に小室は驚くべき指摘をする。

「隣人にかぎりなき奉仕をする人」が、同時に大虐殺を行っても矛盾ではない。両方とも神の命令であるからである。

 つまりヨーロッパ人が虐殺と慈善活動を同時に行うことには合理性があるのだ。「理」とは東洋の道理とは異なり、この世界を創造した神の摂理を意味する。

 信仰とはただ神を仰いで神の言葉に従うことだ。厳密にいえば仏教の信心とは異なる。まず西洋と東洋の言葉の溝を理解することが重要だ。それゆえ西洋世界の信仰とは教条主義(ドグマティズム)となる。

 日本語の「絶対」は副詞として使われることが多く、「どうしても、なにがなんでも、必ず、決して」(Weblio 辞書)との意味合いである。だが西洋の絶対は違う。絶対とは動かし得ない座標軸である神を意味するのだ。

 であるからして天動説が地動説にとって変わろうとも、神だけは不動の位置を占めている――などと説明を試みる私の文章もまだまだ甘い。「神が絶対」なのではなく「絶対とは神のこと」なのだ。

 神という絶対の前に自分が存在する。これが「個人」である。「個人」とは翻訳語であって明治以前の日本に「個人」という概念は存在しなかったと考えてよい。柳父章〈やなぶ・あきら〉は「個人ではなく身分としての存在」であったと指摘している。

 そして神という絶対性に対置するところに自我が立ち現れるのだ。キリスト教の自我と仏教の我も異なる。自我は存在性で、我は当体・主体を意味する。自己実現病に取りつかれている人々が増えているのは、キリスト教文明による害毒であると思えてならない。

 絶対の前では自我が揺らぐ。自我は絶対ではないからだ。それゆえ確実な存在性を示すためにデカルトは考え続けた――「我思う、ゆえに我あり」。あいつが思っていたのは神様のことだ。生きている間の存在証明はできたとしても、死を前にしては無力な哲学だ。やつらの死後は神に祝福されることが約束されているから、死と取り組む必要もなかったのだろう。

 神という絶対性が人間を言葉の奴隷にした。そしてヨーロッパ人は殺戮(さつりく)の限りを尽くした。一方ブッダは存在=我を打ち破り、諸法無我と悟った。時間軸においては諸行無常である。これが「空」(くう)の思想だ。神は点であるが、空はあらゆる次元へと広がっている。

川はどこにあるのか?

 世界を平和にするためには神に死んでもらう他ない。本気でそう思う。

日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか

虐殺者コロンブス/『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』ハワード ジン、レベッカ・ステフォフ編
エンリケ航海王子
ナット・ターナーと鹿野武一の共通点/『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン
戦争まみれのヨーロッパ史/『戦争と資本主義』ヴェルナー・ゾンバルト