2013-11-02

ジェフリー・ディーヴァー、アンデシュ・ルースルンド、ベリエ・ヘルストレム、丸山健二、ネレ・ノイハウス、ユッシ・エーズラ・オールスン


 5冊挫折、2冊読了。

深い疵』ネレ・ノイハウス:酒寄進一〈さかより・しんいち〉訳(創元推理文庫、2012年)/酒寄進一の訳が苦手だ。読み終えた例(ためし)がない。

風を見たかい?』丸山健二(求龍堂、2013年)/求龍堂というスポンサーに丸山は支えられているのが腑に落ちない。数ページで挫ける。

人生なんてくそくらえ』丸山健二(朝日新聞出版、2012年)/つい半分以上読んでしまった。昔を懐かしむあまり。若い人は読むといいよ。丸山のメッセージは常に一方的だ。対話性を欠いている。その独善性が小説作品をつまらなくしてしまったのだろう。『メッセージ 告白的青春論』(1980年)、『君の血は騒いでいるか 告白的肉体論』(1981年)を読んだ時の昂奮はどこにもなかった。なんと、『新装版 まだ見ぬ書き手へ』(眞人堂、2013年/朝日文芸文庫、1997年)が出た。これはお薦め。

時空の歩き方 時間論・宇宙論の最前線』スティーブン・ホーキング、他:林一〈はやし・はじめ〉訳(早川書房、2004年)/予想以上に難しかった。

特捜部Q 檻の中の女』ユッシ・エーズラ・オールスン:吉田奈保子訳(ハヤカワ文庫、2012年)/翻訳がダメ。意味不明な箇所が目立つ。シリーズものだけに残念。

 53冊目『追撃の森』ジェフリー・ディーヴァー:土屋晃訳(文春文庫、2012年)/こりゃダメだろう。手抜きとしか思えない。ま、それでも最後まで読んだけどさ。

 54冊目『死刑囚』アンデシュ・ルースルンド、ベリエ・ヘルストレム:ヘレンハルメ美穂訳(RHブックス・プラス、2011年)/武田ランダムハウスジャパンの文庫本。これは佳作。ヘレンハルメ美穂とくれば北欧ミステリ。社会派小説かと思いきや、最後に大どんでん返しが待っている。死刑反対の物語でもある。

古代中国では、宇宙=世界を覆う屋根


 古代中国、後漢時代(25年~220年)に編纂された最古の部首別辞書『説文解字』()によれば、“宇”の文字はもともと建物の屋根の縁を示しており、そこから時間とともに“この世の限りを覆う大屋根”を指すようになっていったという。また、“宙”の文字は、もともと建物の屋根の中心である“棟木”の意味で使われていたが、徐々に“過去・現在・未来の時間の広がり”といった意味を含むようになったことが記されている。

宇宙という言葉はどこから来たの?:秋山文野

我々は闇を見ることができない/『暗黒宇宙の謎 宇宙をあやつる暗黒の正体とは』谷口義明

宇宙の終焉


宇宙の終焉
宇宙の最後

宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)宇宙創成〈下〉 (新潮文庫)サイクリック宇宙論―ビッグバン・モデルを超える究極の理論インフレーション宇宙論―ビッグバンの前に何が起こったのか (ブルーバックス)

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF)宇宙の始まりと終わり多世界宇宙の探検 ほかの宇宙を探し求めて仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN選書)

ロン・マッカラム:視覚障害者の読書を可能にした技術革新


 ロン・マッカラムは1948年に生まれ、生後数か月後に視力をなくしました。この愛情に溢れた感動的なスピーチにおいて、彼は優れたツールやコンピューターを利用した支援技術の進化によっていかに彼が読めるようになったかをお話しします。親切なボランティア達の協力によって、彼は法律家になっただけでなく、学問の世界で生き 何よりも素晴らしいことに貪欲な読書家になりました。視覚障害者の読書革命へようこそ。(TEDxSydneyで撮影)


 巧まざるユーモアが彼の豊かな人生を雄弁に物語っている。録音テープを「聴く」ではなく「読む」と表現しているところに注目。テクノロジーの進化が脳と身体機能の拡張であることがよく理解できる。レイ・カーツワイルの名前も登場する。スピーチ終了時における天衣無縫さが少年のようだ。

ヘルマン・ヘッセ著『シッダルタ』『シッダールタ』翻訳比較


◆美しくて意味明瞭な翻訳

 ヘルマン・ヘッセの「シッダルタ」は入手可能な翻訳が何点かあります。そのうち三点から冒頭の数行を抜き出して、比較できるようにしました。

【手塚富雄訳】蔭なす我が家のほとりに、日あたる川岸の小舟のかたわらに、沙羅の森、無花果の木蔭に、婆羅門の美しい子、若き鷹、シッダルタは、彼の友で同じ婆羅門の子であるゴヴィンダとともに育った。川の岸辺で、彼が沐するとき、浄めのすすぎを行うとき、聖なる犠牲を捧げるとき、日はかがやかな肩の肌を褐色に染めた。マンゴーの森で、彼が少年らしい遊びに耽るとき、母の歌にうっとりとするとき、聖なる犠牲を捧げるとき、学識深き彼の父の教えに耳を傾けるとき、賢者の談話の席につらなるとき、木下闇の影は彼の漆黒の目に流れ入った。

【岡田朝雄訳】家の陰で、小舟の浮かぶ日の当たる川岸で、沙羅の森の陰で、無花果の木の陰で、美しいバラモンの子、若い鷹、シッダールタは、彼の友、バラモンの子、ゴーヴィンダとともに生まれ育った。太陽は、川岸で、神聖な沐浴のときに、供犠を行うときに、彼の輝く肩を褐色に焼いた。マンゴーの林で、少年たちと遊ぶときに、母の歌を聞くときに、神聖な供犠を行うときに、学者である父の教えを受けるときに、賢者たちの談話に加わるときに、影は彼の漆黒の目に流れ込んだ。

【高橋健二訳】家の陰で、小ぶねのかたわら、川岸の日なたで、サラの木の森の陰で、イチジクの木の陰で、シッダールタは、バラモンの美しい男の子、若いタカは、その友でバラモンの子なるゴーヴィンダとともに、生い立った。太陽が彼の輝く肩をトビ色に焼いた。川岸で、水浴の折りに、神聖な水浴の折りに、神聖ないけにえの折りに。……影が彼の黒い目に流れこんだ。マンゴーの森で、少年の遊戯の折りに、母の歌を聞くときに、神聖ないけにえの折りに、学者なる父の教えを聞くときに、賢者たちの談話の折りに。

 手塚富雄の翻訳が、日本語として最も美しく、流麗で、上品なのは一目瞭然ですが、少し検討すると最も意味明瞭なのも手塚の訳だと判ります。

 他の二点には状況描写で曖昧な箇所がいくつかあります。例えば、シッダルタの目に流れ込んだ影はマンゴーの木陰だということが不明。

 高橋健二訳は残念ながら、配慮が行き届いた翻訳とは言えないように思います。文を途中で切断したために「日がシッダルタの肩を焼いたのは、川岸でのこと」だと分からないし、「何をしているときに、シッダルタの目に影が流れ込んだのか」が不明です(意味を保存せず文や句を切断して訳すのは彼の通常の傾向のようです)。また、同一の文の中で「シッダールタは…」「バラモンの美しい子、若いタカは…」と続けて、二重に主語があるような混乱した印象を与えます。さらに外国小説でいきなりカタカナ表記で「若いタカ」とあるので、人名か鳥名か一旦は迷います。

 高橋訳「シッダールタ」は新潮文庫の一冊で、入手容易であったため多くの読者を獲得し、アマゾンの投稿数にも反映されています(現在39件)。一方どういうわけか手塚訳は長らく入手困難で、ようやく昨年(2011年)岩波文庫から復刊されました。

 これだけの傑作ならばどのように翻訳しても伝わるものがあるでしょうから、高橋や岡田の「シッダルタ」がアマゾンで高評価を受けたのは、あながち間違いでもないと思います。でも、これからは手塚富雄の「シッダルタ」がもっと評価されるよう願っています。この文庫本は1953年刊の翻訳を底本にしていますが、私が最初に読んだのは1972年刊の筑摩世界文学大系の翻訳でした(図書館で借りた)。両者を比較すると微細な言い回しの異同があちこちにあって、翻訳家としての彼の誠実さがうかがえます。

立山太郎 2012-07-18】

シッダルタ (岩波文庫)シッダールタシッダールタ (新潮文庫)

2013-10-31

実際には螺旋を描く太陽系惑星の公転軌道


 ぶったまげた。私の想像力がいかに静止的かつ平面的であるかを思い知らされた。それにしても何と力強い動きだろう。諸行無常とは宇宙のダイナミズムを表しているのかもしれない。




螺旋蒐集家
仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀
太陽系の本当の大きさ/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン

ブログに関する覚え書き




2013-10-30

「五穀で元気!」が美味い


 賞味期限は約1年後。非常食によいと思う。リッツやビスコよりも美味い。


2013-10-28

ちょっとお手上げ/『哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題』河本英夫


 読んだ時は確かに昂奮した。だが抜き書きしたテキストを読み直しても何ひとつ思い出せない。しかもテキストはいずれも短いときたもんだ。加齢のせい、ではない。多分。きっとオートポイエーシスよりも著者の表現力に胸をときめかしたのだろう。そもそも私は本書を読んだにもかかわらずオートポイエーシスを説明することができない。つまりオートポイエーシスという生命システム論は私の脳を書き換えるまでに至らなかったわけだ。

 読書履歴でいうと認知運動療法からアフォーダンス理論を辿ってオートポイエーシスに至ったわけだが、ちょっとコースを誤ったかなという印象を拭えない。もちろん私の知的エンジンの馬力が低いためだ。

 検索し、あちこち見回したのだがそれでもダメだった。オートポイエーシスが理解できん。というわけで「必読書」からも削除した。もういっぺん読んで判断し直そうと思う。

 というわけで、抜き書きの羅列とリンクの紹介で誤魔化すことを許されよ。

 つまり、うまく歩けないときには、ガマンして乗り切るのではなく、少し浅めの深呼吸をして力を抜くのである。力をこめることは誰にでもでき、また反射的な対応は力をこめてしまっている。だが、力を抜くためには、少しエクササイズ(練習)がいる。

【『哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題』河本英夫〈かわもと・ひでお〉(日経BP社、2007年)以下同】

 本書で展開しようと思うのは、こうした身体行為を含めたイメージの活用法であり、【イメージを通じて経験の動きに自在さを獲得することである】。

 ここで重要なのは、「学習」と「発達」を区別しておくことである。
 視点や観点の選択肢が一つ増えることは、学習の成果である。それに伴って知識も増える。しかし、能力そのものの形成や、能力形成の仕方を修得するのでなければ、テクニックが一つ増えるだけにとどまってしまう。(中略)【本来、課題になっているのは、能力を形成することであり、発達を再度リセットすることである】。

 個々人の肺でさえ、酸素吸着能力はトレーニングによって7倍もの開きがでてくる。

【手は外に出た脳であり、身体は外に出た脳の容器である】。

【発達のリセットには、わかるとは別の仕方で「できるようになる」という広範な視野がある。こうした領域ではイメージが決定的に利いている】。

 歴史は、一定の長さと、一定の隔たりを必要とする。ある隔たりがなければ歴史とは言わない。そこで「1秒の歴史」という語を、無理やりひねり出してみる。

 身体の感覚は、不要であるものをおのずと無視するようにできている。

 立てた途端に終わっている問いは、本当は問いではない。

【実は狭い問いに拘泥してしまって、どうにも前に進めなくなってしまう人はとても多い】。

 日常の余り部分としての余暇ではなく、本当に楽しい日々であれば、楽しさのなかになにかを発見するものである。ただ楽しいというのは、偽りの楽しさにすぎないのかもしれない。そのため玉手箱のような封印が必要なのである。そうだとするとあの玉手箱の意義は、偽りの楽しさの代償である。

【見いだしてしまった問いによって自分の経験の仕方がいくぶんかでも変化すれば、それは良い発見を行ったのである】。

 賢明さと優秀さは別のことである。

 次元を一つ増やすと、実はもう一つの見え姿がある。

 うまい事例を出せる人は、うまく経験を処理できる。

 目盛りの単位を、測度(メジャーメント)という。測度は空間的な大きさだけではなく、感覚質の目盛りの細かさに関連している。

【測度を変えて生きるには、それまで見えていなかったものが見えてきたり、それまで見えていたものが消滅するような経験が必要である】。

 スケール変換では、視野だけではなく視界まで変わる。

 1軒の家の一部屋だけは、「柔(軟)らかい部屋」というのをつくってみることにする。

 火の強さの度合いはおのずとわかるのである。この度合いを「強度」と呼ぶ。
 ある意味で感覚的に捉えられたこの強度を、目盛りによって計量された測度に置き換えていく作業が、経験科学の営みだったのである。

 人間の世界は、見えないものに満ちている。あるいはほとんどの現実は見えるものではなく、見て知るようなものでもない。【かたちや色は見えるが、それ以外の物性(素材の本質)のほとんどは見えない】。唾液のなかのつやの素は見えず、樹皮に含まれる染料も見えない。働きや活動は、通常見えない。胃は見えるが消化は見えない。脳は見えるが思考は見えない。細胞の構造は見えるが、細胞の働きそのものは見えない。見えないものは恐らく無数にある。眼前に机がある。この机は炭素でできている。しかし、炭素は見えない。

 現実は一つには決まらないのだから、非決定論なのか。実はそうではない。マッチを擦るような単純な事態でも、うまく擦れて火が点くことも、煙だけ立って火が点かないことも、マッチ棒が折れてしまうこともある。いずれの場合でも、物理法則は貫いている。しかし、現実に起こることは、当初の初期条件から見て、一つに決まらないのである。

 直交する角をもつものは、衝撃が垂直に当たり、しかも部材構造のなかに衝撃が吸収されにくい。
 外からの衝撃に強い構造は、内的に生じる力学的撹乱に対しても吸収できる構造をもっている。これに最も対応するのが、平面図形では三角形であり、立体では正四面体である。どこに圧力をかけても図形全体に分散し、図形そのものが変形する可能性は低い。

 外見上、【上下の区別がつかないことは、形態が運動とは独立に形成された可能性が高い】。運動するものは進行方向があり、それによって前と後ろが決まり、上下方向の回転をしないかぎり、上下も決まる。

 クジラも肺呼吸だが、一度陸に上がった形態がある。陸に上がりカバの類縁として暮らしていたようだが、再度海に戻っている。

 陸に上がったとき、浮力がなくなるために、自動的に体重は7倍になる。水圧がなくなり血流を圧迫するものがないから、十分な血液を供給でき、大気中に増えた酸素を活用できる。陸に上がる利点は、身体運動の多様性が一挙に増すことである。行動のパターンが新たな次元に入っている。【体重の重さを身体運動の多様性に転化できないものは、陸にいる意味がない】。そのため再度海に戻ることになる。身体運動に直結するのが音である。音感と運動感は、起源は同じである。

 実際、自然選択には、いくつもの問題点がある。しかし、【問題点をそのまま探求課題に転化できれば、それはそのままプログラムとして活用することができる】。

 目の出現は、何度か異なる回路で試みられた生命史の果敢な挑戦なのである。

 片目を閉じても世界は半分になるわけではない。

(※進化において)敗北の原因は決定できるが、勝利の原因は決定できない。

 知覚とは実践的には、予期である。動くものを捉えるさい、知覚はあるものを「それとして」捉えてしまっている。だが、動くものを捉えているかぎり、この知覚は誤った現実を捉えていることになる。捉えたと思った途端、ボールは既に動いているからである。

 動きを誘導しようとして外から強制力をかけてしまうのが普通で、これを通常治療的介入と呼んでいる。

【知覚は見るべきものが既に決まっている】。多くの場合、見えるものが見えているだけである。【それに対して注意は、見るということが出現する働き】であり、見るという行為が起動する場面を想定している。ある意味で注意は知る能力ではなく、知ることが成立する実践的な能力である。

【新たなものを見いだすことは、知覚ではなく、注意が向くかどうかに依存している】。

 金米糖は、砂糖の結晶が自動的にできるだけで、あのかたちになる。

【体験的世界は、知よりももっと根の深い行為の世界に基づいている】。

【湿感や温感はなにかに触れているが、触れたものにはかたちがない】。

 18世紀ヨーロッパで百科全書が編纂されていた頃、知識の全体的配置という意味で、システムという語が用いられるようになった。この語がドイツ観念論に継承され、全体的統合や、自らを組織化するもの、あるいはそれ自体で動きの継続を行いながら自己形成するものというような意味がこの語に加えられることになった。この語が日本語に導入されるさい、体系と訳されることが多いのは、哲学用語として導入されたからである。今日では系とだけ訳すことが多い。

【どのような行為であれ二重に自ら作動する】。

 言ってみれば、パラダイム転換は、歴史の傍観者の主張であり、対岸の火事を見ているようなものである。
 実際、転換のさなかにあってこの転換を成し遂げている人たちは、視点の転換のようなことはしていないはずである。後に視点に要約されていくものを、繰り返し試行錯誤を通じて形成しているのであって、転換すれば済むような視点はどこにも存在しないからである。

哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題

オートポイエーシスとは何か|システム論アーカイブ論文編|永井俊哉
オートポイエーシス
「オートポイエーシス」に対する批判的書評
オートポイエーシス - digital-narcis.org
「オートポイエーシス論」の法学分野への応用
オートポイエーシスと時間 : 情報学ブログ
オートポイエーシスとアフォーダンス(PDF)
オートポイエーシスって何なのよ?~社会学における応用篇~|自分内対話
pooneilの脳科学論文コメント: オートポイエーシスと神経現象学 アーカイブ
わかりやすいオートポイエーシス(自己生産)
オートポイエーシス論のポイント
オートポイエーシス : クオリアの風景
精神分析的主体のオートポイエーシス

ドキュメント「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追」


 冒頭のMCが素晴らしい。後半は著作権が絡んでブロックされている


LIVE福島 風とロックSUPER野馬追

2013-10-27

真理をどう捉えるか/『法華経の省察 行動の扉をひらく』ティク・ナット・ハン


 覚え書きを残しておこう。特筆すべき内容はない。言い回しや表現の仕方にキラリと光るものはあるが、斬新さを欠く。ティク・ナット・ハンは『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』が傑作すぎて、他の本はあまり面白味がない。読み物としてはアルボムッレ・スマナサーラの方がお薦めできる。

 われわれは形式上は釈尊がその晩年にインドの霊鷲山(りょうじゅせん)において『法華経』を説いたとしているが、実際には近代の文献学的研究や調査から、この経典が釈尊の死後約700年ごろ、おそらくは紀元2世紀の終わりごろに現在の形に編纂され、書きとめられ、流布したことがわかっている。

【『法華経の省察 行動の扉をひらく』ティク・ナット・ハン:藤田一照〈ふじた・いっしょう〉訳(春秋社、2011年)以下同】

 まず大前提として大乗非仏説は正しい。次に大衆部(だいしゅぶ=大乗)を信じるのであれば、それはブッダの教えから派生した思想を信じることになる。とすると社会の変遷(コミュニティの変化)に伴って新しい仏教が誕生することを認めたも同然だ。

 何が厄介かというと、結局のところ「真理をどう捉えるか」というテーマに帰着するのだ。例えば日蓮を本仏と仰ぐ宗派がある。彼らにとってはブッダが迹仏(しゃくぶつ)となる。迹とは「かげ」の謂(いい)だ。ま、それなりに理論武装をしているのだが、いずれにせよ「真理が変わった」ことを意味している。明らかにマルクス主義の進歩史観と似た思想傾向が見てとれる。つまり遠い将来――あるいは近い将来――日蓮も迹仏となる可能性を秘めているのだ。

 後半の14章は本源的次元(「本門」)を扱っている。本源的次元では、釈尊が前半とは全く異なった次元、つまり時間と空間についてのわれわれの通常の見方をはるかに超越した次元にいることが示されている。それは生きたリアリティとしての仏、つまり法の身体(法身〈ほっしん〉、ダルマカーヤ)としての仏である。本源的次元においては、生まれることと死ぬこと、来ることと行くこと、主体と客体といった二元的観念にもはや関わることがない。本源的次元はそういったあらゆる二元論を超えた真のリアリティ、涅槃、法の世界(法界〈ほっかい〉、ダルマダートゥ)なのである。

『法華経』はそれぞれの章で、また一つの章のなかでも異なった場面で、歴史的次元と本源的次元のあいだを行ったり来たりしている。

 霊山会(りょうぜんえ)を歴史的次元、虚空会(こくうえ)を本源的次元と捉えるのは卓見だ。法華経のSF的手法。

 根本(オリジナル)仏教(あるいは「源流〈ソース〉仏教」とも呼ばれる)は歴史的仏である釈迦牟尼が生きている間に説いた教えから成り立っている。これが最初の仏教である。

 個人的には「最初の仏教」だけでよいと思う。大衆部の教えは政争の臭いを発している。本来の仏教は武装を目的とした理論ではなかったはずだ。とはいうものの正確無比な「最初の仏教」は現存していない。ゆえに上座部(じょうざぶ=小乗)を手掛かりとしてブッダの悟りにアプローチする他ない。

(※初期大乗の空という考えは)言い換えれば、いかなる物も単独では存在しないこと、どのような物も固定的な状態にとどまってはいないこと、絶えず変化している原因(「因」)と諸条件(「縁」)の集合によってはじめて生起するということなのだ。これは相互的存在性(インタービーイング)の洞察に他ならない。

 因縁生起(=縁起)と諸行無常。

 出家者の僧伽は五つのマインドフルネス・トレーニング(五戒)と具足戒(プラーティモクシャ。波羅堤木叉)をその拠り所としていたが、菩薩修行の独自の指針はまだつくられていなかったのだ。

 とすれば修行は目安でしかない。

 したがって、この三つの世界のどこにいても本当の平安と安定を見出すことはできない。それは、罠や危険がいっぱいある燃えている家のようなものだ。(「三界は火宅なり」)
 檻の中にいるにわとりの一群を想像してみよう。かれらはえさのとうもろこしを奪い合ってお互いにけんかをしている。そして、とうもろこしのほうがおいしいか、それとも米のほうがおいしいかをめぐって争っている。数粒のとうもころし、あるいは数粒の米をめぐっってお互いに競い合っているあいだ、かれらは自分たちが数時間後には食肉処理場に連れて行かれるということを知らないでいる。かれらと同じように、われわれもまた不安定さに満ちた世界に住んでいる。しかし、貪欲さや愚かさにがっちりと捕らえられているためにそのことが少しも見えていないのだ。

 まるで仏教内で争う各宗派の姿を思わせる見事な喩えだ。我々は三毒という煩悩の檻に囚(とら)われた存在だ。すなわち囚人なのだ。

監獄としての世界/『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』大野純一

 この声聞の道の成果である涅槃は、文字通りの意味はろうそくの炎を吹き消すように、「吹き消す、滅する」である。それは、流転輪廻という燃えている家をきっぱりと去って、もう決して生まれ変わらないということだ。しかし、愚かさを捨て去ること、涅槃を「消滅」と考えることはまだ真の解脱ではない。それは解脱の最初の部分ではあってもその全体像ではないのだ。涅槃とは消滅であるという考えはあくまでも、人々をして修行の道へと入らせる方便の教えなのである。

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(『涅槃経』)だ。涅槃(≒悟り)とは何かを実現することではない。煩悩の炎を吹き消すことなのだ。

 本当に誰かを愛しているなら、その人を自由にしておかなければならない。もしその人を自分の愛情のなかに閉じ込めておこうとするなら、たとえその絆が愛からできていたとしても、その愛は本物ではない。

 これが慈悲。

 話を戻そう。真理は理法である。真理を具体化したのが涅槃であるならば、真理とは「ある状態」を意味する。理は理屈というよりも、「ことわり」であり「道」と捉えるべきだろう。その一点においてブッダとクリシュナムルティは完全に一致している。だから経典を弄(もてあそ)んで学術的な論争をするよりも、クリシュナムルティを辿ってブッダを見つめる方が手っ取り早いというのが半世紀生きてきた私の現時点における結論だ。

法華経の省察―行動の扉をひらく

歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男