2013-12-28

真の学びとは/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


自由の問題 1
自由の問題 2
自由の問題 3
欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
教育の機能 1
教育の機能 2
教育の機能 3
教育の機能 4
縁起と人間関係についての考察
宗教とは何か?
無垢の自信
・真の学びとは

開いた心

 学びとは何かを見出すことは、とても興味深いですね。私たちは本や教師から、数学や地理や歴史について学びます。ロンドンやモスクワやニューヨークがどこにあるのかを学びます。機械の働き方や鳥の巣作りやヒナの育て方などを学びます。観察と研究によって学びます。それが一つの種類の学びです。
 しかし、また他の種類の学び――経験から来る学びがありませんか。静かな河に帆を映した舟を見るとき、それはとてつもない経験ではないですか。そのとき、何が起きるでしょう。心はちょうど知識を貯えるように、その種の経験をも蓄えます。そして、次の夕方、同じような感情――喜びの経験、人生にとてもまれにしか訪れない平和の感覚を得ようと願い、舟を眺めるためにそこに出かけます。それで、心は勤勉に経験を蓄えているのです。そして、私たちが思考するのは、このように経験を記憶として蓄えているからでしょう。思考といわれるものは記憶の応答です。その河の舟を眺めて、喜びの感覚を感じたあとで、経験を記憶して蓄え、そのうえでそれを反復したがります。それで、思考の過程が働きだすのでしょう。
 私たちのほとんどは、どのように考えるのかを本当は知らないでしょう。私たちのほとんどは、本で読んだり、誰かの話してくれたことを単に反復するだけであり、その思考はごく限られた自分の経験の成果です。たとえ世界中を旅して回り、無数の経験を積み、さまざまな人に大勢会い、彼らの言いたいことを聴き、彼らの風俗、習慣、宗教を観察するにしても、私たちはそれらの記憶を保持するし、そこから思考といわれるものが生じるのです。私たちは比較し、判断し、選択し、この過程によって生に対する何らかの合理的な態度を見つけたいと願います。しかし、その種の思考はごく限られていて、ごく狭い範囲に限定されています。河の舟や、死体がガートの焼き場に運ばれていったり、村の女性が重い荷物を運んでいるのを見るような経験はするのです。これらすべての感銘はそこにありますが、私たちはとても鈍感なので、それは私たちに染みこんで熟すことがないのです。そして、ただまわりのあらゆるものへの敏感さによって、自分の条件づけに制限されていない異なった思考が始まるのです。
 何らかの信条に固くすがりついているなら、君たちはその特定の先入観や伝統によってあらゆるものを見るのです。現実との接触を持ちません。君たちは、村の女性が重い荷物を町に運んでいるのに気づいたことがありますか。それに本当に気づくとき、君はどうなり、何を感じるでしょう。それとも、これらの女性が通っていくのはしばしば見ているので、慣れてしまったためにまったく何の感情も持たないし、したがって彼女たちにはほとんど気づかないのでしょうか。そして、初めてあるものを観察するときでさえも、どうなるでしょう。先入観にしたがって見るものを自動的に解釈するでしょう。共産主義者、社会主義者、資本主義者、その他「主義者」という自分の条件づけにしたがってそれを経験するのです。ところが、これらのもののいずれでもなく、そのためにどんな観念や信念の幕をも通して見ず、実際に直かに接触するなら、そのとき君は、自分とその観察するものとの間には、なんというとてつもない関係があるのかと気づくでしょう。先入観や偏見を持たずに開いているなら、そのときは、まわりのあらゆるものがとてつもなく興味深くなり、ものすごく生き生きとしてくるでしょう。
 それで、若いうちに、これらすべてのことに気づくことがとても重要であるわけです。河の舟に気づきなさい。通り過ぎる汽車を眺め、農夫が重い荷物を運んでいるのをごらんなさい。豊かな者の高慢さ、大臣や偉大な人々、自分はたくさんのことを知っていると考える人たちの誇りを観察するのです。ただ彼らを眺めてごらんなさい。批判してはいけません。批判したとたんに、君は関係していないし、すでに君自身と彼らとの間に障壁を抱えています。しかし、単に観察するだけなら、そのとき君は人々や物事と直接に関係を持つでしょう。鋭く機敏に判断せずに、結論を下さずに観察できるなら、思考が驚くほどに冴えてくるのがわかるでしょう。そのときは、いつのときにも学んでいるのです。
 君たちのまわりのいたるところに、誕生と死、金や地位や権力のための闘い、生と呼ばれる果てしない過程がありますね。君たちはたとえ幼い間でも、ときには、これはどういうことだろうと思いませんか。私たちのほとんどは答えをほしがり、それがどういうことかを【教えて】ほしいでしょう。それで、政治や宗教の本を取り上げたり、誰かに教えてほしいと言うのです。しかし、誰も私たちには教えられません。なぜなら、生は本によって理解できるものではないし、その意義は他の人に倣ったり、ある形の祈りによって察することができないからです。君と私はそれを自分自身で理解しなくてはなりません。それは、私たちが充分に生きていて、とても機敏で、見つめて、観察し、まわりのあらゆるものに興味を持つときにだけ、できるでしょう。そのときには、本当に幸せであるとはどのようなことかを発見するでしょう。
 ほとんどの人は不幸せです。そして、心に愛を持たないためにみじめです。君たちが君自身と人との間に障壁を持たないとき、人々を判断せずに、彼らに会って観察するとき、河の帆舟をただ見て、その美しさに喜ぶとき、心に愛が生じるでしょう。自分の先入観のために、ありのままの物事の観察をくもらせてはいけません。ただ観察してごらんなさい。すると、この単純な観察や、木や鳥や、歩いていたり、働いていたり、微笑んでいる人々への気づきから、君の内部に何かが起きるのを発見するでしょう。このとてつもないことが君に起きず、心に愛が生じないなら、生にはほとんど意味がありません。それで、君がこれらすべてのことの意義を理解するのを助けるように、教師が教育を受けることがとても重要であるわけです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】

「感動」では何かが足りない。クリシュナムルティが説く「学び」とは気づき&理解=変化を意味する。「学んだことのたった一つの証は変わることである」と林竹二〈はやし・たけじ〉は言った(『わたしの出会った子どもたち』灰谷健次郎)。

 変わることは「自分の中にまったく新しい何かが生まれる」ことだ。ここでハタと気づく。諸行無常とは世界の有為転変を説いたものであるが、瞬間瞬間自分自身も更新されている事実を示したのであろう。我々がそれを実感できないのは固定した自我を抱えているためだ。

 数日前に「学術的成果と真の学びとは別物だ」と書いた(歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男)。学問の世界における学びは技術であり、自我の上に構築され蓄積される。そこには常に成功や名利(みょうり)を欲する異臭が漂う。だから功成り名を遂げた学者連中は勇んで御用学者の道を辿るのだろう。

 こんなところにも聖俗の道があるのだ。例えば本を著すチャンスがあったとしよう。大半の人々が何らかの「売る努力」を試みるはずだ。こうして「わかりやすさ」が「大衆迎合」に変貌する。上下の違いはあろうとも迎合に変わりはない。自らの意に随(したが)うことは難しい。

 せっかくなのでもうひとつ紹介しよう。

 結局、生のとてつもない深みを測ったり、神や真理とは何かを見出すには、自由がなくてはなりません。そして、見出し、学ぶ自由は経験をとおしてあるのでしょうか。
 君たちは経験とは何かということを、考えたことがありますか。それは挑戦に応じた感情でしょう。挑戦に応じることが経験です。そして、君は経験をとおして学ぶのでしょうか。挑戦や刺激に応じるとき、君の応答は自分の条件づけや受けた教育、文化的、宗教的、社会的、経済的な背景に基づいています。ヒンドゥー教徒やキリスト教徒や共産主義者や何であろうとも、自分の背景に条件づけられて、挑戦に応じます。自分の背景を離れなければ、どの挑戦への応答もただその背景を強めたり、修正するだけです。それゆえに本当は決して自由に、真理とは何か、神とは何かを探究し、発見し、理解することはできません。
 それで、経験では自由にならないし、経験をとおした学びはただ、自分の古い条件づけに基づいて、新しい型を作る過程にすぎません。このことを理解することが、とても重要だと思います。なぜなら、私たちは大きくなると、経験をとおして学ぼうと思い、自分の経験にますます立て籠もってゆくからです。しかし、何を学ぶのかは背景が指定します。それは、私たちは経験によって学ぶけれども、経験をとおしては決して自由がなく、条件づけの修正があるということなのです。
 そこで、学びとは何でしょう。君たちは読み書きの方法や静かな坐り方、従ったり、従わなかったりするすべなどを学ぶことから始めます。あれやこれやの国の歴史を学んだり、伝達に必要な言語を学びます。生計の立て方や畑の肥やし方などを学びます。しかし、心が条件づけから自由な学びの状態、探究のない状態はあるのでしょうか。質問が理解できますか。
 学びというものは、適応し、がまんし、征服する連続的な過程です。私たちは何かを避けたり、得たりするために学びます。そこで、心が学びではなく、【ある】ということの器になるような状態はあるのでしょうか。違いはわかりますか。習得したり、得たり、避けたりしているかぎり、心は学ばなくてはなりません。そして、このような学びにはいつもたいへんな緊張やがまんがあるのです。学ぶには、集中しなくてはならないでしょう。そして、集中とは何でしょう。
 君たちは何かに集中するとき、何が起きるのか、気づいたことがありますか。勉強したくない本を勉強するように要求されるとき、たとえ勉強したいにしても、他のことはがまんして、わきに置かなくてはなりません。集中するために、窓の外を見たい、人に話をしたいという意向をがまんします。それで、集中にはいつも努力があるでしょう。集中には、何かを獲得するために学ぶ動機や誘因や努力があるのです。そして、人生はそのような努力や、学ぼうとしている緊張状態の連続です。しかし、まったく緊張がなく、獲得がなく、知識の積み重ねもなければ、そのとき心ははるかに深く、早く学ぶことができないでしょうか。そのとき心は、真理とは何か、美しさとは何か、神とは何かを見出す探究の器になるのです――それは本当は、知識や社会、宗教や文化や条件づけの権威であろうとも、どんな権威にも服従しないということなのです。
 何が真実かを見出せるのは、心が知識の重荷から自由であるときだけでしょう。そして、見出す過程には蓄積がないでしょう。経験したり、学んだことを蓄積しはじめたとたんに、それは心を捕える拠点になり、さらに進むことを阻みます。探究の過程では、心は日に日に学んだことを脱ぎ捨ててしまうので、いつもはつらつとして、昨日の経験に汚染されていないのです。真理は生きています。静止していません。そして、真理を発見するような心もまた、知識や経験の重荷を負わずに、生きていなくてはなりません。そのときにだけ、真理の生じてくる状態があるのです。
 こういうことは言葉の意味においてはむずかしいかもしれませんが、心を込めるなら、その意味はむずかしくはありません。生の深い事柄を探究するには、心は自由でなくてはなりません。しかし、学んで、その学びをそれ以上の探究の基本にしたとたんに、心は自由ではないし、もはや探究していないのです。

 クリシュナムルティという風によって脳内のシナプスが舞い上がり、そして飛翔する。

 我々は経験を重んじる。なぜなら経験こそが自我の骨格であるからだ。私が小林秀雄を信用しないのは彼が経験至上主義者であるためだ(『新潮CD講演 小林秀雄講演 第2巻』)。

 認知は必ず誤謬を伴う(認知バイアス)。経験や体験は「自分」というフィルターを通して感得されたものだ。そして記憶は修正と捏造(ねつぞう)を繰り返す(『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー)。

 答えは言葉そのものにある。経験の「験」の字は「ためす」「しるす」を意味する。すなわち経験とはその時その場での感覚的シンボルに過ぎないのだ。

 我々が経験に照らして物事を判断する時、新たな出来事は古いカテゴリーに押し入れられる。そう。血液型占いと一緒だ。このようにして25歳を過ぎたあたりから「新しい何か」は自分の心の中で殺されてゆく。「私」は傷ついた古いレコードのように同じ反応を繰り返す。「これが私らしさだ」と自慢しながら。

 それにしても何ということか。クリシュナムルティは経験も集中も否定する。当然のように努力と理想も否定する(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。彼が肯定したのは自由だけであった。その自由もありきたりではない。極言すれば「感じる自由」であり「見る自由」であった。

 我々の心はいつも波立っている。明鏡止水の如く心を静まらせれば、一滴(ひとしずく)の水からも無限の波紋を生むことができるに違いない。

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

「知る」ことは「離れる」こと/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳

2013-12-27

A級戦犯容疑者

哲学と不幸


ラ・ロシュフコー箴言集 (岩波文庫)

2013-12-26

『ライ・トゥ・ミー 嘘は真実を語る』のモデル、ポール・エクマン


 精神行動分析学者であるカル・ライトマンが、「微表情」と呼ばれる一瞬の表情や仕草から嘘を見破ることで、犯罪捜査をはじめとするトラブル解決の手助けをする姿を描く。主人公であるカル・ライトマンは、実在の精神行動分析学者であるポール・エクマンをモデルにしている。実際にエクマンが体験したことが、そのまま主人公の過去として描かれている部分がある。

Wikipedia - ライ・トゥ・ミー



 ポール・エクマン(Paul Ekman、1934年 - )は感情と表情に関する先駆的な研究を行ったアメリカ合衆国の心理学者。20世紀の傑出した心理学者100人に選ばれた。アメリカのテレビドラマ『Lie to Me(ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間)』の主人公カル・ライトマン博士のモデルとなった。

 マーガレット・ミードを含む一部の人類学者の信念に反して、エクマンは表情が文化依存的ではなくて人類に普遍的な特徴であり生得的基盤を持つことを明らかにした。エクマンの発見は現在科学者から広く受け入れられている。エクマンが普遍的であると結論したのは怒り、嫌悪、恐れ、喜び、悲しみ、驚きである。軽蔑に関しては普遍的であることを示す予備的な証拠があるが、まだ議論は決着していない。

 エクマンはあらゆる表情を分類するためにFACS(Facial Action Coding System、顔動作記述システム)を考案した。これは表情に関連する精神医学や犯罪捜査の分野で幅広く利用されている。エクマンは表情以外にも広く非言語コミュニケーションの研究を行った。同情、利他的行為や平和的な個人関係の科学的解明にも尽くした。さらに人々が嘘をつくこと、嘘を見破ることの社会的な側面の研究にも貢献した。ディミトリス・メタクサスとともに視覚的嘘発見器の開発を行っている。

Wikipedia - ポール・エクマン

顔は口ほどに嘘をつく子どもはなぜ嘘をつくのか

ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間 シーズン1 (SEASONSコンパクト・ボックス) [DVD]ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間 シーズン2 (SEASONSコンパクト・ボックス) [DVD]ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間 シーズン3 (SEASONSコンパクト・ボックス) [DVD]



関連書:キネシクス

ウォッチメイカー〈上〉 (文春文庫)ウォッチメイカー〈下〉 (文春文庫)スリーピング・ドール〈上〉 (文春文庫)スリーピング・ドール〈下〉 (文春文庫)

ロードサイド・クロス 上 (文春文庫)ロードサイド・クロス 下 (文春文庫)バーニング・ワイヤー

カルト教団のリーダーvsキネシクス/『スリーピング・ドール』ジェフリー・ディーヴァー

2013-12-25

「女性は男性より将棋が弱い」


 世の中には、なぜという理由がきちんと説明できない事実というものがある。たとえば「女性は男性より将棋が弱い」という事実。もちろん、ヘボ将棋を指す男など苦もなくやっつける女性はいくらもいるのだが、頂点を比べれば、男女の力の差は厳然として存在する。▼いま女性で一番強いといわれる里見香奈さん(21)は一方で女流棋士として活躍し、一方では奨励会という名の棋士養成機関でプロの卵の少年にまじってしのぎを削っている。女性だけが少々甘い基準でなれる「女流棋士」は、男であれ女であれ奨励会を突破しなければなることができない「棋士」とは格がまったく違う。▼その里見さんが奨励会で一番上の三段に昇段し、棋士までもう一歩に迫った。棋士はおろか奨励会三段になった女性すらこれまで一人もいなかったのだから、快挙である。つぎは三段の40人ほどが戦う半年ごとのリーグ戦が待っている。上位2人に入れば、「女流最強棋士兼棋士の卵」から晴れて「女性初の棋士」である。▼とはいえ三段から棋士になれるのは半数以下という。「奨励会員なんてのは、虫ケラみたいなものなんだ」。奨励会の厳しさを描いた「将棋の子」(大崎善生著)にそんな一言がある。棋士を目指す貪欲な少年たちとどう戦うのか。里見さんのこれからは、大げさにいえば「将棋における男と女」の常識に一撃を加えうる。

【「春秋」/日本経済新聞 2013-12-25】

将棋の子 (講談社文庫)

2013-12-24

満面の笑み


 セピア調ではあるが、多分それほど古い写真ではない。カメラによる画質なのだろう。外から戻ったばかりか、あるいは部屋が寒いのか。丼から顔を上げた少女が笑い声を立てる。懐かしい光景だ。無着成恭の『山びこ学校』(青銅社、1951年/角川文庫、1992年/岩波文庫、1995年)に「みんなゲラゲラでんぐりかえる(ひっくりかえる)ほど笑った」とある。でんぐり返るという言葉は北海道でも使う。私が子供の時分は「腹を抱えて笑った」ものだ。今はどうか。「爆笑」という言葉が誤って多用されている。本来は大勢の人々がどっと笑う様子を指す言葉だ。でも今時は一人称でも「爆笑した」と言ってのける。音の響きは威勢がよいのだが、「爆笑」には笑わせられたという受け身の姿勢を感じる。身体の運動を欠いた口先だけの笑いがあちこちから聞こえてくる。時に蔑みが込められることも珍しくない。写真の向こうで笑う少女の顔は天真爛漫そのものだ。強烈な伝染性をもって見る者の眼尻を下げてしまう。年の瀬は人それぞれの苦悩を深める時期でもある。そんな人々にこそこの写真を見てもらいたい。少女につられてマグカップのペコちゃんも笑っているよ。



2013-12-23

反原発ソングまとめて21曲(たぶん最強)


 わかる範囲で新→旧に並べた。


歌詞


歌詞





















チェルノブイリに悲しい雨が降る (Cherunobuiru ni Kanashii Ame ga Furu) - ドラゴンアッシュ / Dragon Ash















歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男


開祖や教団の正統性に寄りかからない
大乗仏教の仏は“真実(リアリティ)の神話的投影”
・歴史的真実・宗教的真実に対する違和感

 さらに、歴史的真実よりも宗教的真実を重んじるとき、必ずしも釈尊に帰れば説得力を持たないこともありうることである。我・法の二空を説き、無住処涅槃を説き、他者への慈悲と永遠の利他活動を説く。こうした大乗仏教は、宗教としては一定の原始仏教部派仏教よりも勝れているという判定は、大いにありうることである。人間として、虚心に宗教性の深みを問うとき、たとえ『阿含経』や『ニカーヤ』が釈尊の語ったことを確かに記録にとどめているとしても、時に非仏説とも批判される大乗経典の方により心を打たれ、より感銘を受けるものがあることも否定しえない事実である。

【『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男〈たけむら・まきお〉(大東出版社、1997年)】

 botの入力をしていたところ目に止まったテキスト。読んだのが5年前なので当時の書評は当てにならない。その後私の価値観が激変しているためだ。

 竹村の学問的アプローチはプラグマティックなもので望ましい姿勢であろう。ただし日本仏教なかんずく鎌倉仏教を擁護する悪臭を放っている。「歴史的真実よりも宗教的真実を重んじる」との言葉づかいにそれが顕著だ。

 ティク・ナット・ハンが法華経の内容に対して「歴史的次元と本源的次元」という枠組みを示している(『法華経の省察 行動の扉をひらく』)。確かに霊山会(りょうぜんえ)と虚空会(こくうえ)を理解するためにはそう解釈せざるを得ない。

 本来であれば「歴史的事実」とすべきであろう(※私の入力ミスである可能性も否定できず)。歴史的事実とはブッダが語った言葉と振る舞いだ。そして宗教的真実とはブッダの悟り以外の何ものでもない。ここから離れて大衆部(だいしゅぶ=大乗仏教)を持ち上げる行為は、悟りを斥(しりぞ)けて理論に接近することを意味する。

 理論が人々を救い、欲望から解き放つのであれば、我々は思考によって所願満足の人生を送ることが可能となる。そんな馬鹿なことなどあるわけがない。

 学術的成果と真の学びとは別物だ。

 学びというのは、不断の、蓄積しない過程であり、「自分自身」というのはつねに変化しつづけるもの、新たな考え、新たな感覚、新たなかたち、新たなヒントです。
 学ぶことは、過去や未来にかかわることではありません。
 私は学び終えたとか、私は学ぶだろうとか言うことはできないのです。
 したがって、精神は絶えず学びの状態でなくてはならないことになりますから、つねに進行中の現在にあり、つねに新鮮なのです。蓄積された昨日の知識を抱えた状態ではないのです。
 それを探ってみるなら、あるのは知識の獲得ではなく、ただ学びということがわかるでしょう。
 そのとき精神はとてつもなく気づき、目覚め、鋭敏に見るようになるのです。

【『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ:竹渕智子〈たけぶち・ともこ〉訳(UNIO、1998年)】

 理論とは説明されるものだ。悟りとは何か、生とは何かを言葉で説明することはできない。テキスト化された言葉は真実から離れてしまう。それゆえソクラテスは書字を嫌ったのだ(『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ)。

 仏法は啓典宗教ではない(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹)。その一点から開始しなければ、いかなる仏教研究であろうとキリスト教のサブカルチャー的位置に貶(おとし)められてしまうだろう。

 続いてクリシュナムルティが説く「学び」について書く予定だ。

仏教は本当に意味があるのか入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書)あなたは世界だ

真の学びとは/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
タコツボ化する日本の大乗仏教という物語/『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男

2013-12-22

ジョン・ル・カレ、増田悦佐、マシュー・スチュアート、ギュンター・アンダース、ジャン・ハッツフェルド、他


 12冊挫折、2冊読了。

青い城』モンゴメリ:谷口由美子訳(篠崎書林、1980年/角川文庫、2009年)/『赤毛のアン』シリーズを2冊しか読んでいないので何となく手にした。「青い城」って妄想なんだよね。50歳の私が付き合うべき作品ではなかった(ため息)。Wikipediaによると、「少女期から『赤毛のアン』を愛読していた作家の松本侑子は、1990年代に原書で読み直したところ、中世から19世紀にかけてのイギリス文学のパロディが、大量に詰め込まれていることを発見し、1993年に詳細な注釈つきの『赤毛のアン』の改訳版を刊行した」とのこと。松本侑子訳を読んでみるか。

反撃のレスキュー・ミッション』クリス・ライアン:伏見威蕃〈ふしみ・いわん〉訳(ハヤカワ文庫、2008年)/出だしが乗れず。というか他の本を読んでいるうちに失念していた。

魔女遊戯』イルサ・シグルザルドッティル:戸田裕之訳(集英社文庫、2011年)/巻頭の殺人事件で掃除婦たちがぞろぞろ付いてくるのが不自然。

飛ぶ教室』エーリヒ・ケストナー:池田香代子訳(岩波少年文庫、2006年)/昔は「エーリッヒ」だったよな。小学生の時分、我がクラスでは本書のタイトルが大流行したことがある。「飛ブー」と言いながらジャンピング・ニー・アタックの要領で屁をこくのだ。ナチス前夜に書かれた作品らしいが、どうしても馴染めない西洋の香りがする。

自律神経をととのえるリラクセーション』綿本彰〈わたもと・あきら〉(主婦と生活社、1997年)/飛ばし読み。綿本は粗製乱造気味ではあるが説明能力が高いため、ついつい読んでしまう。あと『綿本彰のパワーヨーガ パーフェクト・レッスン』を読んで卒業する予定。

隣人が殺人者に変わる時 ルワンダ・ジェノサイド生存者たちの証言』ジャン・ハッツフェルド:ルワンダの学校を支援する会(服部欧右〈はっとり・おうすけ〉)訳(かもがわ出版、2013年)/訳が悪い。もっと性差を強調すべきではなかったか。編集の手薄すら感じた。

われらはみな、アイヒマンの息子』ギュンター・アンダース:岩淵達治訳(晶文社、2007年)/それにしても、なぜ公開書簡としたのか。たぶん読んだ方がいいのだろうが、何となく腑に落ちないものを感じつつ本を閉じた。著者はハンナ・アーレントの元夫。

ヒトラーのスパイたち』クリステル・ヨルゲンセン:大槻敦子訳(原書房、2009年)/好著。上下二弾で330ページ、写真も豊富で2800円は安い。ただ私の時間がないだけ。

ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』リチャード・ドーキンス著、デイヴ・マッキーン(イラスト):大田直子訳(早川書房、2012年)/今時珍しい大型本だ。出来としては疑問。『ネイチャー』同様、イラストと文字のバランスが悪い。ビル・ブライソンに軍配が上がる。

生の短さについて 他二篇』セネカ:大西英文訳(岩波文庫、2010年)/新訳。茂手木元蔵訳の方がいいのは知っていた。親切な古書店主は読者のために翻訳比較を紹介しようと企てたのだが、師走も迫るとそうそう親切にしているわけにもいかなくなったというわけ。amazonのカスタマーレビューを参照せよ。

怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也〈かねとし・たくや〉訳(岩波文庫、2008年)/名訳。他の本が色褪せてしまうほどの衝撃を受けた。半分ちょっと読んだのだが、姿勢を正して最初から読み直すことにした。ストア派の凛々しさが堪(たま)らん。

宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』マシュー・スチュアート:桜井直文〈さくらい・なおふみ〉、朝倉友海〈あさくら・ともみ〉訳(書肆心水、2011年)/今年最大の難関であった。とにかく文体が濃密でイギリス文学の薫りを放っている。中世の歴史にこれほど目配りできている作品は初めて。スピノザはダーウィン以前に革命を起こした哲学者であった。彼は合理的思考によって真理を神と表現した。俗人ライプニッツは当時の知性を代表する人物であったが時代の影響から免れることはできなかった。ライプニッツは隠れスピノザ主義者であった。だが彼はスピノザと直接見(まみ)えた後、アンチ・スピノザを標榜した。この謎に迫ったのが本書というわけ。まあ凄いもんだ。この二日間ほどあらん限りの精力を注入して百数十ページを読んだのだが、結局3ヶ月かかって100ページを残してしまった。私が哲学に興味がないためだ。3800円+消費税と値は張るが並みの書籍の4冊分の価値はあるから決して損をすることはない。ホワイト著、森島恒雄訳『科学と宗教の闘争』と同じ光を放つ傑作だ。ジョン・ル・カレと文体がよく似ている。

 63冊目『危機と金(ゴールド)』増田悦佐〈ますだ・えつすけ〉(東洋経済新報社、2011年)/文章が軽いためゴールド万歳本かと思いきやそうでもない。クルーグマン批判などがキラリと光る。最大の瑕疵はリスクを明示していない点だ。その意味でバランスはかなり悪い。ゴールドの歴史、裏づけのない紙幣の役割、コモディティの中でなぜゴールドなのかがよく理解できる。中長期的観点に立てば、ドル円が下がり初めてからゴールド(現物)を買うのが正しい。

 64冊目『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』ジョン・ル・カレ:菊池光〈きくち・みつ〉訳(ハヤカワ文庫、1986年)/旧訳。村上博基訳の評判があまりに悪いため入手し直す。流麗な筆致でぐいぐい読ませる。ただし構成が緻密すぎて時折混乱を招く。もちろん私の脳味噌の問題だ。社員食堂の本棚にあった『スマイリーと仲間たち』を読んだのはもう30年以上前のこと。殆ど記憶に残っていない。カーテンを閉ざした部屋の談合から始まるのだがまるで影絵だ。そして終始会話を基調としてストーリーは進む。本書はイギリス文学の匂いが立ち込める戯曲といってもよい。と突然途中で胸が悪くなった。それ以前の007型スーパーマンスパイから米ソ冷戦構造のリアルな本格スパイを描いた本書が官僚を描いている事実に気づいたためだ。大英帝国の美しい物語は植民地主義に支えれれている歴史を忘れてはなるまい。スマイリーが妻の浮気に平然としているのも不自然である。異彩を放つのは敵方(ソ連情報部)のカーラだ。超然とした振る舞いがどこか映画『ショーシャンクの空に』のティム・ロビンスを思わせる。