2014-02-13

タコツボ化する日本の大乗仏教という物語/『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男


【大乗】人間は誰でも釈尊と同じ仏となれると考えられている。
【小乗(部派)】人間は釈尊にはほど遠く、修行してもとてもおよばないと考えられている。

【大乗】最終的に仏となり、自覚・覚他円満の自己を実現する。
【小乗】最後に阿羅漢となり、身と智とを灰滅して静的な涅槃に入る。

【大乗】一切の人々を隔てなく宗教的救済に導こうと努力し、利他を重視する。
【小乗】自己一人の解脱のみに努力し、自利のみしか求めない。

【大乗】みずから願って地獄など苦しみの多い世界におもむいて救済行に励む、生死【への】自由がある。
【小乗】業に基づく苦の果報から離れようとするのみで、生死【からの】自由しかない。

【大乗】釈尊の言葉の深みにある本意を汲み出すなかで、仏教を考えようとした。
【小乗】釈尊の言葉をそのまま受け入れ、その表面的な理解に終始する傾向があった(【声聞】といわれる。なお、声聞は本来、弟子の意である)。

【大乗】在家仏教の可能性を示唆した。
【小乗】明確な出家主義。

【『インド仏教の歴史 「覚り」と「空」』竹村牧男(講談社学術文庫、2004年)】

 実際の本文はページの上下に分けて一覧表記されている。テーブルタグの挿入が面倒であるため、このような書き方となった。

 竹村は大乗【主義者】である。そもそも今時「大乗」「小乗」などと表現すること自体が疑問だ。素人の私ですら「大衆部」(だいしゅぶ)「上座部」(じょうざぶ)と称しているのだ(尚、厳密には大乗=大衆部と言い切れないのだが、小乗というネーミングが大乗側のつけた貶称〈へんしょう〉である以上、大乗を採用するわけにはいかない。現代的に申せば大衆派と出家派くらいの意味合いで構わないだろう)。

 しかも「大乗」を上に置き、説明そのもので「小乗」を否定的に扱うという愚行を犯している。

 日本の仏教学者はいつまでこんな真似をするつもりなのか? 「天台ルール」(五時八教)という前提すらきちんと示さず、完全に密教化した平安仏教-鎌倉仏教を「大乗」と言い切っているのだ。学問として世界に通用するとは思えない。どちらかといえば文学や古典のレベルであろう。そもそも鎌倉時代に南伝仏教(≒上座部)は正確に伝わっていなかったはずだ。そろそろ文学や民俗学の次元から離れるべきだ。

「大乗仏教」と呼ぶから私の逆鱗(げきりん)に触れるのだ。「大乗思想」であれば構わない。

 あとは面倒なんで竹村宛ての簡単な質問を掲げて終えよう。

・「釈尊と同じ仏」はどこにいるのか?
・「最終的に仏」になった人は誰か?
・自己実現は諸法無我に反するのではないか?
・「宗教的救済」の内容を示せ。また「救済されていない」人が他人を救済することは可能なのか?
・「生死【への】自由」と「生死【からの】自由」の意味が不明。
・ブッダは「本意」を説かなかったということか?

 竹村の主張は思想・哲学を志向しているようでありながら、その実は仏教から派生したスピリチュアリズム(密教)を擁護する思考法となっているように映る。

 日本の仏教界は束になって掛かってもティク・ナット・ハンアルボムッレ・スマナサーラにかなわないことだろう。


インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)

歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男

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