2014-02-22

ナオミ・クライン


 1冊読了。

 9冊目『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く(下)』ナオミ・クライン:幾島幸子〈いくしま・さちこ〉、村上由見子訳(岩波書店、2011年)/グローバリゼーションという現代史の闇に戦慄した。ミルトン・フリードマン率いるシカゴ学派が世界各地で惨事に便乗して経済的白紙状態を創造する。ブッシュ大統領が叫んだ自由と民主化は規制撤廃と民営化を意味した。そしてグローバル企業が行うのは「エコノミック・レイプ」に他ならない。彼らは惨事に便乗した挙げ句に更なる惨事を拡大再生産するのだ。それにしても凄まじい限りだ。米国内においても極端な民営化を進めるあまり国家が空洞化しているという。最終章で南米各国の希望的前進が描かれているが、やはり犠牲が大きすぎる。日本にもTPP加盟でショック・ドクトリンが処方されることだろう。それを防ぐためにはゆうちょ銀行・郵便局や水道事業などの民営化を阻止する必要がある。中道左派による社会民主制が望ましいが該当する政党が日本には存在しない。社共を含めた政界再編が求められる。本書を読まずして現代史に目を開くことはできない。

感覚は「苦」/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・怒りの起源
 ・感覚は「苦」
 ・怒りの終焉

『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 立っていても苦痛です。座っていても苦痛です。ちょっと走るのも、走り続ければ苦痛になります。「今日は疲れたから」といって寝たとしても、寝過ぎればやはり苦痛です。
 食事も同じです。ちょっとお腹が空いたら、「空腹」という苦痛を感じます。だからといってごはんを食べ過ぎるとこれまたお腹がいっぱいで苦痛です。
 ですからはっきりしています。感覚は「苦」なのです。

 生きることは「感覚があること」、そしてその感覚は「苦」なのです。そして、この「苦」が消える瞬間はありません。ただ変化するだけです。
 たとえば、1時間ぐらい座っていると腰が痛くなってしまいます。そこで立ったら、立った瞬間は「ああ、楽になった」と思うかもしれませんが、実際に起こっていることというのは「座っている苦」から「立っている苦」への変化です。一瞬、それまでの「座っている苦」が消えますから、幸福に感じるかもしれませんが、それは勘違いです。ただ、新しい「苦」に乗り換えただけのことです。
 私達は瞬間、瞬間に、「苦」という感覚を味わっているのです。

 私たちは、いつも「苦」のなかにいます。しかし、ふだんは「苦」を感じていることに気づいていません。「とても苦しい」という感覚が起こって、はじめて苦痛を感じるのです。たとえば、お腹が空いても、ほんのちょっとの空腹だったら気にしないでしょう? ずっと放っておいて今にも倒れそうだったり、飢え死にするかもしれない状態になったりすれば、かなりの苦痛を感じます。
 それは、私たちに訪れる絶え間ない「苦」は、ある程度、大きくならないと気にならないというだけのはなしです。「苦」のレベルを表示するメーターがあって、そこに苦を認識する赤い水準線が付いているようなものです。絶え間ない「苦」がある程度大きくなって、赤いラインより上に振れたときにはじめて気にする、それまでは気にしないというはなしなのです。実際は「苦」のメーターがゼロになることはありません。

【『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年)以下同】

 多少を問わず仏教の知識がある人ならスマナサーラの卓越した説明能力がわかることだろう。しかも一読すればその説明能力が才覚ではなく、初期仏教(=上座部)の教えから導かれたものであることが理解できる。テーラワーダ仏教シャム派)は和製仏教(平安仏教および鎌倉仏教でありその実体は密教)を揺るがす破壊力を秘めている。


 八正道(はっしょうどう)よりも四諦(したい)の重要性を示したのは馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』春秋社、2008年)だ。

・苦諦(くたい):この世界は苦しみに満ちていると明らかにする
・集諦(じったい):苦の原因がなんであるかを明らかにする
・滅諦(めったい):苦の原因を滅すれば苦も滅することを明らかにする
・道諦(どうたい):苦の滅を実現する道を明らかにする

Wikipedia

 三車火宅の譬えで知られる法華七譬(ほっけしちひ)も元来は苦諦を示すものであったと推察される。だが大衆部(だいしゅぶ)は自らを「大きな乗り物」(=大乗)と位置づけるために「希望」を語って(=騙〈かた〉って)しまった。希望というプロパガンダは悟り(=自由)から離れて幸福を目指す。仏道修行は幸福実現のための手段と化した。これが和製仏教の実態であろう。

 仏法は個人(自分)の苦と向き合うところに基本がある。にもかかわらず大衆部は菩薩道などと称して布教を励行した。悟りから離れた人物の騙る希望が誤ったコースに導くことは避けようがない。

 生の本質は「苦に対する反動」である。何と重い指摘か。我々は「生きたい」から生きているのではなくして、「苦しみたくない」から生きているだけなのだ。何だか急に人生がつまらないものに思えてきた(笑)。

 生きるという仕事は、あらゆることすべてが「苦」と「苦は嫌」という働きで成り立っているのです。
 つねに無常で変化し続ける「苦」という感覚があり、その「苦」の感覚が嫌で、「変えなくちゃいけない」という希望があります。その二つの働きが「生きること」になるのです。
 もし、「苦は楽しい」と思ったら、死んでしまいます。ですから、「苦は嫌だ」と思わないと生きていられません。この「嫌だ」という反応が「怒り」です。これがいちばん基本的な怒りのポイントです。
 つまり、「怒りをもたずに生きることはできない」のです。人は、生命は、本来的にずーっと「怒り」をもち続けているのです。生きるとは、そのように基本的に怒ってしまう構造にはめられていることなのです。

「生きることは反応すること」というのが私の持論ではあるが、それが「怒り」に基いている事実にまでは思い至らなかった。生きとし生けるものは皆苦痛を回避する。釣り針を呑み込んだ魚みたいなものだ。そして溺れる者は藁をも掴み、財布の紐を緩め、高価な壷を買ってしまう。他人の苦に付け込むのがあいつらの手口だ。

 人生は思い通りには運ばない。肚(はら)の底に諸行無常を叩き込む。そうすれば上手くゆかなかったとしても「当然のこと」として受容できる。願ったりかなったりとなっても「単なる偶然に過ぎない」と達観することだろう。

 西洋では仏法が人生に消極的な態度を勧めるニヒリズムの教えと長らく誤解されてきた。最大の犯人はショウペンハウアー(1788-1860年)だ。

神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール

 キリスト教を始めとするアブラハムの宗教が天にまします神が軽やかに劇的に言葉を操るのに対し、仏法は生の水底(みなぞこ)に沈潜する。その積極性を見よ。深海のごとき生命の深層にブッダは座る。怒りの波に翻弄される人生を拒むのであれば、我々も海に潜らなければならない。

怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)

2014-02-21

怒りの起源/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・怒りの起源
 ・感覚は「苦」
 ・怒りの終焉

『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 生命にはかならず怒りがあります。残念ながら例外はありません。なかなか納得できないことだと思います。なぜ生命は怒ってしまうのか、そのしくみをご説明したいと思います。いってみれば「怒りの起源」です。怒りが起こるには、明確な発生原因があります。それは「無常」ということです。ブッダのもっとも根本的な発見が無常です。そして、その無常こそが怒りの原因なのです。
 皆さんも無常という言葉をご存じだと思います。日本人は情緒的、感傷的にとらえているのですが、無常の本当の定義は「ものごとは瞬間、瞬間で変化し、生滅していく」ということです。自分も世界も、けっして一瞬たりとも同じではありません。無常とは、一切のものごとの真理です。私であろうが、他人であろうが、環境であろうが、世界であろうが、宇宙であろうが、すべて無常です。つまり、変わり続けているのです。そしてこの「変わり続けている」ということが、怒りを生む原因なのです。一切のものごとは無常であり、「無常が怒りの起源」だとすると、一切が怒りに通じているように聞こえるかもしれません。しかしその通りなのです。はっきりいってしまえば、実は、生命は基本的に怒りの衝動で生きています。
 怒りの衝動で生きるということは、悪いとか良いとかいえることではなく、われわれの生命はそういう構成になっているのです。

【『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年)】

 怒りと逆の状態を考えればわかりやすいとスマナサーラは続ける。例として「気分が良い」場合を挙げる。色々な場面が想定できるわけだが、結局のところ「なにかの条件によって気分が良くなっている」。だがその状態は長く続かない。なぜなら人生も世界も無常であるからだ。更にもう一つの例として「希望」を挙げる。人は誰もが未来に向かって何らかの希望を抱いている。しかし希望通りに人生が進むことはない。無常は生老病死・成住壊空(じょうじゅうえくう)のリズムを奏で肉体は必ず衰えてゆく。

 スマナサーラは実にやさしい言葉で仏法の深淵を巧みに説く。私は30年近く仏教を学んできたが、怒りの起源が無常にあるという指摘は初耳だ。驚くべき卓見である。

 これは死を思えばもっとわかりやすい。例えば夭折(ようせつ)、事故死、自殺など不慮の死に遭遇した時、我々が覚えるのは怒りであろう。それが神の定めた運命であろうと過去世の宿命であろうと変わらない。理不尽・不条理に対する怒りがムラムラと沸き起こる。

 自分の死を想像してみよう。静かに安祥として息を引き取るわけにはいかない。絶対に。まだやり残したことがいっぱいある。その時になって初めて人生で得たものの貧しさに気づくかもしれない。死ぬ瞬間に怒りのマグマが噴出することだろう。目の前に神が現れたら迷うことなく石打ち刑にするよ。俺は。

 文明の発達や資本主義経済が怒りに拍車をかける。便利さや豊かさは恩恵に与(あずか)れぬ者たちに不幸の影を落とす。不幸とは怒りの異名だ。我々は満たされないから怒るのだ。

 無常を受け入れることは難しい。これにまさる困難はないといってよい。ありとあらゆる不測の事態、人生の荒波、逆境、リスクを引き受ける覚悟が求められるためだ。そこまで考えてやっと気づくのだが、我々は「自分の死」を受け入れていない。先にあることはわかっているのだが、絶対に見つめようとしないし、思ったり、考えたりもしない。だから日常の中で怒りに翻弄されるのだろう。

 怒りの感情が毒であり、戦争の原因であり、人々を不幸にする元凶であることを自覚しながら怒りから離れる。欲望よりも怒りから離れることの方が重要だ。徐々にとか少しずつではダメだ。「今日から怒らない」と決めた者が勝つ。

怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)

2014-02-20

正しい怒りなど存在しない/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 正義の味方になるためには悪人を倒さなければなりませんね。では、人を倒したり殺したりするために必要なのは何かというと、「怒り」なのです。
 ということは「正義の味方」という仮面の下で、我々は「怒り」を正当化していることになります。正義の味方は「悪人を倒してやろう」などと、わざわざ敵を探して歩きまわるのですから、よからぬ感情でいっぱいというわけです。
 正義の味方までいかなくても、そういう「何かと戦おう」という感情が強い人は、すごくストレスが溜まっていて、いろいろな問題を起こします。(中略)
「悪に向かって闘おう」「正義の味方になろう」というのは仏教の考え方ではありません。「正しい怒り」など仏教では成り立ちません。どんな怒りでも、正当化することはできません。我々はよく「怒るのは当たり前だ」などと言いますが、まったく当たり前ではないのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)以下同】

 私憤は否定しても公憤を肯定する人は多い。そこに落とし穴がある。そもそも私憤と公憤の間(あわい)は人によって異なり、グラデーションを描いている。ともすれば私憤を公憤に見せかける人もいる。「皆が困っている」と言いながら実は自分が一番困っていたりする。

 私は幼い頃から困っている人を見ると放っておけない。親切といえば聞こえはいいが、困らせている人物に対する怒りがとてつもなく激しい。中年期を過ぎてからは殺意にも似た感情が芽生えるようになってきた。怒鳴って引き下がるような相手ならいいのだが、それでもダメとなればいつでも実力行使をする準備ができているのだ。「感情には『どんどん強くなる性質』がある」とも書かれているが本当にその通りだ。私はゴミをポイ捨てする人を見ただけで「ぶっ殺してやろうかな」と思う。しかも本気で。

 怒りを甘くみてはいけません。怒りが生まれた瞬間に、からだには猛毒が入ってしまうのです。たとえわずかでも、怒るのはからだに良くないとしっかり覚えておいてください。怒りはまず自分を燃やしてしまいます。本当に自分のからだが病気になってしまうのです。
 陽気で、もう底抜けに明るいような人が深刻な病気になったという話はほとんど聞きません。そういう人はたとえ病気になっても、お医者さんとすぐに友だちになったりして治療効果も上がるので、治りが早いのです。入院したのが明るい人だったら、看護師さんたちも楽しくなって親切に面倒を見てくれるし、みんなが治るようにと願ってくれますからね。

 本書でも引かれているが「怒りが猛毒である」というのはスッタニパータ冒頭の指摘である。

蛇の毒/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

 つまり正当化された怒りとは毒に酔っている状態なのだ。魯迅は「水に落ちた犬は叩け」(「『フェアプレイ』はまだ早い」)と言った。婦女子だけは生かしておいて、男であれば幼児でも殺してしまう発想と一緒だ。林檎堂との論争でさすがの魯迅も筆の勢いが余ったか。

 相手を滅ぼそうとする怒りが実は自分を滅ぼす。仏法では迷い(≒不幸)の根本的な原因は三毒にあると説く。その筆頭が瞋恚(しんに/=怒り)だ。瞋恚は地獄の門を開く。地とは最低を表し、獄には束縛の意がある。すなわち地獄とは外部環境ではなく自分の生命が最低の境涯にあることを示す。

 怒りには明るさが伴わない。明るさとは智慧の異名だ。老子曰く「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富み、強めて行なう者は志を有す」と。

 スマナサーラは具体的なアドバイスを欠かさない。

 けれどよく考えてください。ただ「お茶を入れなさい」と言われただけなのに、悩んだり苦しんだり、怒って自分の健康まで害したりするなんて、本当にバカげたことですよ。
「お茶を入れて」と言われたら、お茶を入れればいいのです。べつにどうということもありません。会社に行ったらどうせ終業時間まで会社に縛られているのですから、お茶を入れようが、便所の掃除をしようが、すべては給料のうちなのです。仕事をする時間は決まっていますし、その時間にできることも決まっています。ですから、「私にお茶を入れさせるなんて」などと考えずに、自然の流れの中で、できることをやればいいのです。

 確かにそうだ。怒りは合理性を見失わせる。怒りとは狂気なのだ。そして自分を傷つける凶器でもある。

 不殺生戒とは怒りの否定なのだろう。怒りっぽい仏など存在しない。本物の強さは穏やかな表情をしている。

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

天才博徒の悟り/『無境界の人』森巣博

女性パンクバンドを鞭打つコサック兵(ソチ)




プッシー・ライオット
プッシー・ライオットをソチで拘束:Bloomberg

2014-02-19

目撃された人々 54






「私」とは属性なのか?~空の思想と唯名論/『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵

2014-02-18

「私は正しい」と思うから怒る/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 怒らないほうがよいとわかっているのに、我々はなぜ怒るのでしょう。
 いつでも、我々には「こういうことで怒ったのです」という理由があります。その理由をひとつひとつ分析してみると、「自分の好き勝手にいろいろなことを判断して怒っている」というしくみがあります。
 人間というのは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。それで怒るのです。「相手が正しい」と思ったら、怒ることはありません。それを覚えておいてください。「私は完全に正しい。完全だ。完璧だ。相手の方が悪いんだ」と思うから怒るのです。
 他人に怒る場合は「私が正しくて相手方が間違っている」という立場で怒りますが、自分に怒る場合はどうでしょうか。
 そのときも同じです。
 何か仕事をしようとするのだがうまくいかないという場合、すごく自分に怒ってしまうのです。
 たとえば「自分がガンになった」と聞いたら、自分に対して「なぜ私がガンになったのか」とずいぶん怒るのです。「なぜこの仕事はうまくいかないのか」「どうして今日の料理は失敗したのか」とか、そういうふうに自分を責めて、自分に怒る場合もあります。「私は完璧なのに、なぜ料理をしくじったのか。ああ嫌だ」「私は完璧に仕事ができるはずなのに、どうして今回はうまくいかないのか」と怒ります。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 この前に絶妙な例えで「怒りという感情が生じるプロセス」を教えている。美しいバラを見て「きれいだ」(愛情)と思う。再び目をやるとそこにゴキブリがいる。「ああ、嫌だ。気持悪い」(怒り)との感情が芽生える。これらの感情は誰のせいにすればよいのか、と。

 感情とはある対象への反応にすぎない。喜びも怒りも自分の内側から湧いたもので、バラが喜ばせてくれたわけでもなければ、ゴキブリが怒らせたわけでもない。ひょっとすると感情は妄想の可能性さえある。いや妄想なのだ。我々は自分勝手に周囲の世界を低いレベルで創造するから互いを理解し合うことができないのだろう。

 怒りの元(原因)は自分の中にある。何らかのきっかけ(条件/縁)によって、怒りという現象(結果)が生じ、自分と周囲に影響を及ぼす(報い)。これを因縁果報という。

 例えば韓国を憎むようになった「きっかけはフジテレビ」という人もいる。確かに。ま、一理ある。と私が思うのはフジテレビに対して同じ感情を抱いて、その物語に乗っかっているためだ。自分の憎悪や怒りそのものを正面から見つめることは決してない。

 とすれば、より多くの人々に共有される感情を煽り、皆が求める妄想を示すところに政治家、宗教家、芸術家、音楽家の役割があるのだろう。感情の手配師。

 またスマナサーラはバラの例えで「受け入れること」(愛情)と「拒絶すること」(怒り)と示す。自我の形成や社会における自己存在性もこうした条件に大きく左右される。

 ああ、わかった! 今書きながら悟った。「感情は比較から生まれる」のだ。

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ

 泥棒にとっては盗むことが正しいのだ。吟味されない正義が何と多いことか。

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

「怒り」が生まれると「喜び」を失う/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 怒りというのは愛情と同じく、心にサッと現れてくるひとつの感情です。
 私達は自分の家族を見たり、自分の好きな人を見たりすると、心の中にすぐ愛情という感情が生まれます。何かを食べる場合、おいしい食べものを見たときも口に入ったときも、楽しい感情が生まれてきます。それは瞬時に起こるのです。怒りは、愛情と同じように人間の心に一瞬にして芽生える感情です。
 大雑把にいうと、我々人間はこの2種類の感情によって生きていると言えます。ひとつは愛情で、もうひとつが怒りの感情です。

 怒りを意味するパーリ語(お釈迦さまの言葉を忠実に伝える古代インド語)はたくさんありますが、一般的なのは《ドーサ》です。この《ドーサ》という言葉の意味は「穢れる」「濁る」ということで、いわゆる「暗い」ということです。
 心に、その《ドーサ》とうい、穢れたような、濁ったような感情が生まれたら、確実に我々はあるものを失います。それは、《ピーティ》と言って、「喜ぶ」という意味の感情です。我々の心に怒りの感情が生まれると同時に、心から喜びが消えてしまうのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 パーリ語は省略しカタカナを二重山括弧でくくった。

私のダメな読書法」で紹介した通り、気に入ったテキストを見つけると片っ端からデジカメで撮影し、SkyDriveに保存するというのが私のやり方だ。付箋を挟んだままにしておくと本が傷んでしまう。時に半分以上のページに付箋をつけることもあるため本の形が実際に変形したこともある。デジカメのカウンターを何気なく見たところ、既に2万枚を軽く超えていた。Windows8に買い換えたところ、なんと最初からSkyDriveが内蔵されていた。以前より格段に作業効率もアップ。ノートパソコンの15.6インチでも画面を2分割できるので頗(すこぶ)る重宝している。

 ただし問題が一つだけある。ウェブ上からログインできなくなってしまった。で、アップロードしたフォルダの更新日がなぜか全部一緒になっているのだ。タイトルをつけたフォルダーはあいうえお順で表示される。今のところ私に解決策はない。ってなわけでこれまでは読了順に紹介してきたわけだが、今後はランダムに展開してゆく予定である。

 スマナサーラの言葉は極めてやさしい。たぶん中学生でも理解できるだろう。ただしそこでわかったような気になるのが凡夫(ぼんぷ)の浅はかなところだ。人間の残酷さはすべて怒りから生まれる。怒りこそ暴力の温床だ。ゆえに我々の暴力的な現実世界を変革するためには、怒りのメカニズムを知り、勇気を出して怒りを捨て、怒りから離れることが重要なのだ。

 本書は微に入り細を穿(うが)つようにして怒りの様相を示す。短気な私にとっては耳が痛い話ばかりだ。「私が怒るのは怒るだけの理由があり、その理由は絶対に正しい」と誰もが思い込んでいる。これが国民の総意となるところに戦争が生まれる。日本では反中国・半韓国感情が昂(たかぶ)りつつある。中国や韓国の首脳が国際舞台で扇情的な日本叩きを続ければ、日本国民の間で静かに開戦への気運が高まることだろう。

 バブル景気が弾け、失われた20年の間にソフトな暴力が社会を雲のように覆った。貧富の格差、セクシャルハラスメント、パワーハラスメント、児童虐待、いじめ問題、銀行による貸し渋り・貸し剥がし、振り込め詐欺、検察の国策捜査、メディアリンチ、就職時の圧迫面接、増税……。鬱屈した思いや鬱積した感情がはけ口を求めている。そして慢性的な疲労が人々の判断力を誤らせる。

 暴力行為は必ず弱い者に向かう。これが暴力の法則だ。喧嘩っ早い私だって、相手が本物のやくざ者やプロレスラーであれば必ず下手(したて)に出る。日本は韓国や中国と戦争をする可能性はあるがアメリカとは絶対にやらない。

「怒り」が生まれると「喜び」を失う。ということは怒りこそが不幸の最たる原因と考えてよかろう。怒っている人と喜んでいる人とが喧嘩になることはない。「自分は大したものだ」との錯覚から怒りは生まれる。「自分なんて何者でもない」と自覚すれば諸法無我だ。怒りの恐ろしさはエゴを強化するところにある。そして強化されたエゴはどこまでも肥大化し、怒りの波に翻弄されてゆくことだろう。西洋の神を見よ。あいつは怒ってばかりいたよ。

聖書の中で、人を一番殺してるのは誰なの?

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

怨みと怒り/『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎

2014-02-16

香月泰男のシベリア・シリーズ/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


真の人間は地獄の中から誕生する
・香月泰男のシベリア・シリーズ
香月泰男が見たもの
戦争を認める人間を私は許さない

 もう戦争が終ってから24年、シベリヤから復員して22年になる。
 22年前、私は満州での軍隊生活とシベリヤ抑留生活をモチーフに描きつづけてきた。帰国した翌年に発表した「埋葬」にはじまり、つい最近制作が終ったばかりの「朕」までで、すでに43点になる。いつのまにか“シベリヤ・シリーズ”の名がかぶせられ、私はその作者として多少知られることになった。
 もっとシベリヤを描けという人もいれば、そろそろシベリヤから足を洗ったらどうだとすすめる人もいる。そうはいわないまでも、なぜいつまでもシベリヤを描きつづけるのかという問いを受けることは始終ある。正直の(ママ)ところ、私自身、それがなぜなのかよくわからない。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)以下同】


 特筆すべきは本書に香月の『私のシベリヤ』(文藝春秋、1970年)が収められていることだ。「テキスト部分の復刻」となっているが全部かどうかはまだ確認していない。

 外野はいつだって勝手なものだ。マスメディア、評論家、美術品バイヤー、音楽プロダクション、そして客という名の大衆……。勝手なリクエスト、希望、願望を並べ立てる。本来、批評とは独善と無縁のものであらねばならない。

 ほとんど毎年のように、私はこれが最後の“シベリヤ・シリーズ”だと思いながら絵筆をとってきた。そしてそのたびに描いているうちから、「ああ、あれも描いておかなければ」と早くも次の絵の構想が自然にできあがってくる。描くたびに、こんなものではとてもオレのシベリヤを語りつくしたことにはならない、という気がしてくるのだ。

 香月がシベリアで目撃したものは何だったのか。それを我々は絵を通して見ることができる。真実とは彫琢(ちょうたく)された現実である。個の深き泉が大海に通じる。

 多分ずるずるとこれから先何年もシベリヤを描きつづけることになるのではないかという気がする。もしかしたら私は死ぬまでシベリヤを描くことになるかも知れぬ。

 この言葉通りとなった。否、香月は石原吉郎と同じくシベリアを生き続けたのだろう。描く営みは現在と過去の往還であり、生きることそのものであった。単なる回想から芸術作品は生まれない。創作とは常に現在性を刻印する作業であるからだ。

 私の個展を見にきてくれた戦友がこんなものはみたくないといった。もうシベリヤのことなんか思い出したくもない、といった。私にしたって同じことだ。シベリヤのことなんか思い出したくはない。しかし、白い画布を前に絵具をねるとそこにシベリヤが浮びあがってくる。絵にしようと思って絵にするのではない。絵はすでにそこにある。極端な言い方をすれば私のすることは、ただそこに絵具を添えていくことだけだといってもよい。

 本物の芸術は作為から解脱(げだつ)する。まさに無作(むさ)の境地といってよい。制作が創造へと飛翔する様が見てとれる。


「黒い太陽」に至ってはマンダラと言い切ってよいほどの荘厳さを湛(たた)えている。凡人の苦悩は時間を経ることで達観可能となる。しかし偉大な人物は苦悩した瞬間に苦悩そのものを達観する。悟りとは瞬間を開くものだ。であれば香月の絵は既にシベリアの地で生まれたものと考えてよかろう。

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界