2014-04-05

官僚機構による社会資本の寡占/『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』響堂雪乃


 ・官僚機構による社会資本の寡占

・『略奪者のロジック 支配を構造化する210の言葉たち』響堂雪乃

 この国は【官僚機構と米国から重層的に搾取を受けている】わけです。【各種租税、新規国債、借換債、財投債により編成される370兆円規模の特別会計から推計70兆円が人件費、福利厚生、償還費、天下り、関連団体の補助金として公的部門へ吸収され、さらに外国為替特別会計を通じ既述のごとく莫大な金が米国に収奪されるという図式です】。

【『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』響堂雪乃〈きょうどう・ゆきの〉(ヒカルランド、2012年)以下同】

 ブログに大幅な加筆をした書籍である。全国紙系列の広告代理店で編集長を務めた人物で著者名はハンドルと思われる。ジャン・ボードリヤールを思わせる華麗な文体は意図的なもので正体を隠すためか。明らかにアジテーター的要素が強いが、傑出した説明能力の持ち主である。

【この国のエスタブリッシュメントが国民を殺戮している】わけです。経済産業省を頂点とする官僚機構が主導的に原発行政を推進し、電力企業関連会社に天下り、業界団体に公益法人を設立させ、さらに天下り、莫大な不労所得と引き換えに無軌道な運用管理を是認するという、監督者と被監督者による癒着(ゆちゃく)と共依存が利権の淵源(えんげん)となります。【文科省、国家公安委員、国土交通省などおおよそ主要官庁全てがこの腐敗構造に与(くみ)され、つまりは官僚機構】によるジェノサイド(大量虐殺)です。

 福島原発事故による被曝を声高に糾弾しているのは災害直後に書かれたためか。ただしここは吟味が必要なところで被曝の根拠が荒っぽい。国民が知るべきは原発利権であってエネルギー問題へと目を逸(そ)らしてはなるまい。

 国家システムのアルゴリズム(計算手順)とは、官僚機構の肥大化に他ならないわけです。繰り返しますが、【国税または地方税は全て官僚の給与、福利厚生および外郭団体の補助金として消えます。政府公表の公務員人件費総額には独立行政法人、特殊法人または特殊会社に属す「みなし公務員」の給与や補助金は含まれず、実際に租税から拠出される人件費または天下り団体の償還費等は年間70兆円に達すると推計されます】。

 官僚機構は癌細胞なのだろう。無限に増殖を繰り返し、肉体そのもの(国家)を滅ぼすまで蝕み続ける。著者は国家予算の中身を読めない者をB層と位置づけている。

【財政投融資とは、国民資産の不正流用】であり、【郵貯、年金、簡保の積立金が複雑な会計処理を経て特別会計予算に編入され国の外郭団体へ貸付けされ債権化】します。これまで400兆円規模の金が77の特殊法人や自治体などへ還流されながら、それらは統一されたバランスシート(貸借対照表)を持たず、財務内容も事業内容すらも不明瞭にいまだ跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)しています。
 2002年に日医総研が年金積立金の調査を行ったところ、【147兆円あるべき運用資金が財政投融資による87兆円を毀損(きそん)している】実態が明らかとなりました。(中略)
【日本国の本質とは、官僚機構による社会資本の寡占(かせん)】であるわけです。【過剰な公債発行と国民資産の流用により370兆円規模の特別会計という裏予算を編成し独立行政法人、特殊法人、特殊会社さらに系列3000社のグループ企業へ還流させ、洗浄した社会資本を天下りにより合法的に収奪する】、これが利権構造の概観です。【国家予算とはすなわちブラックボックスであり、我々のイデオロギーとは旧ソビエトを凌ぐ官僚統制主義に他なりません】。

 複式簿記を導入しているのはたぶん東京都だけだ(石原慎太郎「こんなでたらめな会計制度、単式簿記でやっているのは、先進国で日本だけ」の真意。複式簿記とは何か。)。この国は国家予算のバランスシートさえ明らかにしていないのだ。驚愕の事実である。

 本当の「戦後レジーム」とは、米国の意向を受けた官報複合体の利権構造を意味する。つまり政治家から権力が剥奪されているのだ。立法府の役割は法整備と予算編成にあるわけだが完全に官僚が牛耳っている。この国では国会議員が起草する法案をわざわざ「議員立法」と呼称するほどで、可決される法案のうち20%にも満たない。

 日本をアメリカの属国にしているのは官僚とメディアだ。響堂雪乃の言葉は彼らを銃弾のように撃つ。

独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?

虐殺者コロンブス/『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』ハワード ジン、レベッカ・ステフォフ編
マネーと民主主義の密接な関係/『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康
マネーサプライ(マネーストック)とは/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
日本の原発はアメリカの核戦略の一環/『原発洗脳 アメリカに支配される日本の原子力』苫米地英人
資本主義経済崩壊の警鐘/『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン
「物質-情報当量」
汚職追求の闘士/『それでも私は腐敗と闘う』イングリッド・ベタンクール
借金人間(ホモ・デビトル)の誕生/『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート

母なる大地、アメリカ先住民族の想い


「わたしはこれまでただの一度も自らを『ネイティブ・アメリカン』だと名乗る『インディアン』と会ったことがない」(北山耕平)。尚、インディアンのグランドファザー、グランドマザーとは長老を意味する言葉である。

日本そして世界へ ホピ族からのメッセージ


 ホピとは「平和の人」を意味する。インディアの中でも最も神秘的な部族。

「或教授の退職の辞」/『西田幾多郎の思想』小坂国継


 西田幾多郎〈にしだ・きたろう〉の著作『続思索と体験』(昭和12年)のなかに、「或教授の退職の辞」という題の短編が収められている。この短いエッセイのなかで、西田は、停年になった老教授の口を借りて、彼自身の生涯を次のように回顧している。

 私は今日を以て私の何十年の公生涯を終ったのである。……回顧すれば、私の生涯はきわめて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。しかし明日ストーヴに焼(く)べられる一本の草にも、それ相応の来歴があり、思い出がなければならない。平凡なる私の如きものも六十年の生涯を回顧して、転(うた)た水の流れと人の行末という如き感慨に堪えない。

 西田の生涯、とくにその前半は波乱に富んだものであった。後年、西田は「哲学の動機は悲哀の意識である」ということを再々いっているが、この言葉は彼の実体験からでた切実な言葉であったといえよう。西田は学者としては本道を歩いた人ではなく、むしろ脇道を歩きつづけた人であった。そして、それがまた西田哲学の性格を形成しているといえる。

【『西田幾多郎の思想』小坂国継〈こさか・くにつぐ〉(講談社学術文庫、2002年)】

 山村修の『〈狐〉が選んだ入門書』にも紹介されている件(くだり)だ。「起きて半畳寝て一畳」に通じる味わいがある。功績や評価を誇ったところで人の人生における行動には大差などない。食べて、寝て、仕事をして、遊んで、学んで、死ぬだけだ。達観すれば単純なものだ。

 人の本質は振る舞いに現れる。言葉はいくらでも嘘をつけるものだ。仮に偽善的な行為があったとしても、見る人が見れば卑しい振る舞いとなって映る。作為や演技は決して長続きしない。心根から心掛けが生まれ、振る舞いにつながる。慇懃(いんぎん)でありながら無礼な人もいれば、粗暴の中に優しさが滲む人もいる。いにしえの中国ではそれを礼容(れいよう)といった。

 私は西田の哲学にはとんと興味がないのだが、人間には惹かれるものがある。

西田幾多郎の思想 (講談社学術文庫)

我が子の死/『思索と体験』西田幾多郎
他人によってつくられた「私」/『西田幾多郎の生命哲学 ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』檜垣立哉、『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人

『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会、新潮社編(新潮社、2014年)

学生との対話

「さあ、何でも聞いて下さい」と〈批評の神様〉は語りかけた。伝説の対話、初の公刊! 「僕ばかりに喋らさないで、諸君と少し対話しようじゃないか」――。昭和36年から53年にかけて、小林秀雄は真夏の九州の「学生合宿」に5回訪れた。そこで行われた火の出るような講義と真摯極まる質疑応答。〈人生の教室〉の全貌がいま明らかになる。小林秀雄はかくも親切で、熱く、面白く、分かりやすかった!

信ずることと知ること/『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会・新潮社編
超能力に対する態度/『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』
集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ

2014-04-04

紳士服「AOKI」の詐欺商法発覚

紳士服「AOKI」の詐欺商法発覚
AOKI 詐欺行為発覚の顛末

 ニュースサイト HUNTER(ハンター)は実によい仕事をしている。

他人によってつくられた「私」/『西田幾多郎の生命哲学 ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』檜垣立哉、『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人


 それに、「私」が経験していることとは、それが何かの意味を持つ以上、実は「誰か」の経験であることのたどり返しであるという部分も大きい。
 そもそもが、本当に、「私」に独自のものとして見ていることなどあるのだろうか。「私」が何かを感じていても、その感じ方自身、「他人」にょってどうしようもなく刷り込まれたものでしかないのではないか。また「私」の経験とは、ある意味で「他人」の経験である「過去」の「私」によって感じられた事柄が、いかんともしがたく介在している、そうしたものではないか。その意味で見ることや感じることは、「私」のコントロールを、はじめから外れているのではないか。
 こうした事態を、哲学はさまざまな仕方で論じている。西田と同時代のいくつもの思考が、「私」以前に作動しているような、こうした場面を解き放っている。

【『西田幾多郎の生命哲学 ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』檜垣立哉〈ひがき・たつや〉(講談社現代新書、2005年)】

 このくどい文章も西田の影響を受けているのだろう。「その感じ方自身」は自体とすべきだ。苫米地英人がもっと明快に書いている。

 つまり、あなたが見ているのは【過去の自分にとって価値のあるもの】だけであり、それは【他人によってつくられた世界】なのです。
 あなたの生きている世界は、すべて【他人によってつくられた世界】なのです。あなたの見ているもの、あなたの行動、あなたの思考は他人によってつくられている可能性が高いのです。
 これは、たいへん怖ろしいことです。もしも、ある一部の権力者によってメディアがコントロールされてしまえば、あなたは【他人によってつくられた人生】を生きるしかないのです。「自由」は完全に奪われてしまいます。

【『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(フォレスト出版、2011年)】

 檜垣の文章が同じ場所をグルグル回っているのに対して、苫米地はどんどん前へ進んでいる。哲学が考えることであるなら、考えすぎた挙げ句に足がもつれて転んでしまう。更に決定的なことは哲学によって救われた人を私は見たことがない。ま、私の知能レベルだと澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉のエッセイくらいしか理解できない(『「自分で考える」ということ』)。

 私が半世紀前に誕生した時、私は何ひとつ「つくっていない」。確かに「他人によってつくられた世界」だ。そして価値観は親を始めとする大人たちの態度(教育や言動ではない)によって形成された。子は親の顔色を窺う。褒められたり叱られたり貶(けな)されたり無視されたりする中で我々は社会のルールを学んだ。ま、くそ下らないルールではあるが。

 私とは私の過去である。過去と同じ一貫性のある反応を我々は個性と呼ぶ。各人が「私」という物語を編んでいるわけだ。諸法無我とは「私」という幻想に鉄槌(てっつい)を下した言葉である。「私」とは私の欲望の異名でもあった。「私」に固執するから喧嘩となり、戦争に至る。私のもの、私の考え、私の神こそが争いの原因だ。

 よく考えてみよう。ただ、「私」という受信機があるだけだ。それゆえ反応の仕方を少しずらしたり変えたりすることで世界は別の顔を現す。世界が退屈なのは君が退屈なせいだ。世界がつまらないのはお前がつまらない人間だからだ。厳密にいえば世界とは「私の世界」に他ならない。だから、あんたの世界と俺の世界は別物だ。俺の世界は満更でもないよ。

 ただ、愚かな政治によって私の世界が侵食されているのは確かだ。

西田幾多郎の生命哲学 (講談社現代新書)現代版 魔女の鉄槌

欽定訳聖書の歴史的意味/『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
我が子の死/『思索と体験』西田幾多郎
「或教授の退職の辞」/『西田幾多郎の思想』小坂国継

長時間睡眠自慢/『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆


愛国心への疑問
ギネス認定はインチキ
個性は伸ばすものではなく、勝手に伸びるものだ
勝ち上がってくる力士
・長時間睡眠自慢

 少し前に以下のページを見つけた。面白かった。

中野翠と斎藤美奈子

 女性のコラムニスト(当初「女流」と書いたが差別用語っぽいのでやめた)といえばこの二人しか頭に浮かばない。女性とコラムは相性が悪いのだろうか? たぶん違う。女に世の中のことをあーだこーだと言われたくない男が多いだけのことだろう。中野翠〈なかの・みどり〉はどこか品を捨てきれないところがあるし、斎藤美奈子は才が走りすぎる嫌いがある。二人が長時間睡眠を自慢しているのが面白い。だが、まだまだ甘い。

 素晴らしい天気だ。昨晩の11時から朝の7時まで寝て、午前10時から午後5時まで昼寝をした。
 15時間睡眠。こんなにも素晴らしい空の下で、私はただ眠り続ける。薄もやのかかった憂悶を遠い記憶の底に沈めて。移動曲馬団の無口な象のように。もちろん夢は見ない。空に太陽のある限り。

【『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆(朝日新聞社、2005年)以下同】

 小田嶋がアルコールに耽溺(たんでき)し、ほぼ廃人に近い状況で書かれた一冊である。廃人というのは私の想像にすぎないが当たらずとも遠からずだと思う。その後、彼は酒と手を切った。

「移動曲馬団の無口な象」ときたもんだ。曲馬団ってえのあサーカスのことね。これが「サーカスの無口な象」だとニュアンスがまったく違う。サーカスの象だと何となく愛嬌を感じる。移動曲馬団だといかにも脇役という匂いがプンプンする。

頑張らない介護」でも紹介したが、「私の祈りは空しく、努力は報われず、私のささやかな願いは線路工夫の口笛のように風の中に消えてしまった」(『我が心はICにあらず』)という文章も忘れ難い。時折漂う詩情が胸を鷲掴みする。

 せっかくなんでもう少し紹介しよう。酔っ払いの名調子だ。

 なあ、ねえちゃん、言っておくぞ。あんたがセクシーなのは魅力的だからじゃない。ただ露出面積が多いってだけで、それは魅力とは別のものだ。元来、魅力というのは手の届かない存在に対して感じるものだ。それが、あんたたちときたら、手が届きそうどころか、手を伸ばすまでもなく既に剥き身で転がっている。

 これを差別と捉えるのは誤りだ。なぜなら女性の露出は犯罪を誘発する要因となり得るが、男の露出が犯罪を誘発することは考えられないからだ。露出狂はまた別の話である。

 JTの諸君は知っておいた方が良い。愛煙家は、君達を憎んでいる。愛煙家は、煙を愛しているのではない。タバコを愛しているのでもなければ、ましてJTを愛しているなんてことは、絶対にない。
 というよりも、愛煙家という名称自体が、悪質なプロパガンダなのであって、喫煙者の正体は依存症患者にすぎない。誰も好んで煙を吸い込んでいるのではない。煙を吸わないと呼吸が苦しいという自縄自縛の状態に追い込まれているがゆえに、余儀なく呼吸を楽にするために肺を傷つけている、と、それだけの話だ。
 たとえば、シャブ中を愛粉家と言うか? ジャンキーを愛針家と呼ぶのか?
 たばこ(ママ)が心の日曜日なら、シャブは夏休みか? アヘンは心の大晦日。
 で、心の日曜日は諸君の給料日で、誰の命日なんだ?

 中毒と格闘する苦しみが滲み出ている。現在、小田嶋はCS放送やラジオのレギュラーを抱えていることもあって、昔に比べると毒が少なくなった。選挙の投票にも行くようになった。まったく信じられない事態である。それでも現代の戯作者(げさくしゃ)たり得るのは小田嶋しかいない。

イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド

レオナード・クワン (Leonard Kwan)



ハワイアン・スラック・キー・ギター・マスターズ・シリーズ10 ケアラズ・メレ~ハワイ、甘き香りのギター~スラック・キー(紙ジャケット仕様)The Legendary Leonard Kwan : The Complete Early Recordings

スラック・キー・ギター

2014-04-03

被爆を抱えた日常/『夕凪の街 桜の国』こうの史代


 ・被爆を抱えた日常

『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル
『チェ・ゲバラ伝』三好徹
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎
小倉に投下予定だった原爆

 死体を平気でまたいで歩くようになっていた
 時々踏んづけて灼けた皮膚がむけて滑った

 地面が熱かった靴底が溶けてへばりついた

 わたしは
 腐ってないおばさんを冷静に選んで
 下駄を盗んで履く人間になっていた。

【『夕凪の街 桜の国』こうの史代〈ふみよ〉(双葉社、2004年)】

 昭和20年8月7日、広島。これは原爆が落とされた翌日の出来事である。その地獄絵図にどうしても私の想像が及ばない。私が知っている暴力は殴ったり蹴ったりするレベルのものだ。人間が人の形を維持したまま炭化したり、影しか残っていなかったりするのは一瞬の出来事である。そこに感情を喚起する余地はない。まったくない。化学反応のように始末あるいは処分されただけだ。それもボタンひとつで。

 マンガ作品としてはそれほど評価できない。物語が寸断されており、出来損ないのモザイク画みたいになってしまっている。ただし描こうとしたテーマは素晴らしいと思う。被爆を抱えた日常はそこはかとなく死とあきらめ、倦怠感に包まれている。

 広角で描かれた淡い景色が味わい深い。原爆ドームのカットを見るだけでも本書を読む価値がある。ラストにかけて絵は消え失せ、主人公の科白(せりふ)だけが続く。そこに強い憎悪は見られない。庶民の感覚からすれば「どうして?」という疑問は浮かんでも、この惨劇を遂行した人間の姿が浮かび上がってこないためだろう。人間の所業とは思い難い残酷を繰り返すのが人類の業(ごう)なのか。

 アメリカは原爆投下に関して一度も謝罪をしていない。そのアメリカに安全を保障してもらうというのだから日米安保ほど不思議なものもあるまい。原爆を落とされた唯一の国が戦後、アメリカの核の傘の下に入るというのも理解しにくい。傘から核が振ってくる可能性はないと言い切れるのか?

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2014-04-02

あなたの現実はあなたの信念によって形成される/『タープ博士のトレード学校 ポジションサイジング入門 スーパートレーダーになるための自己改造計画』バン・K・タープ


 彼の最大の問題点は、エンジニアになるのには8年も勉強したにもかかわらず、投資はだれもが簡単にできるものと甘く見て十分な勉強をしなかった点である。これでは素人が橋を建造するようなものだ。仕事は素人ではできないが、市場では素人で通用する、というわけだ。素人が橋を造れば崩壊する。同じように素人が投資するということは、口座の死を意味するのである。

【『タープ博士のトレード学校 ポジションサイジング入門 スーパートレーダーになるための自己改造計画』バン・K・タープ:長尾慎太郎監修、山下恵美子訳(パンローリング、2009年)以下同】

 投資とは資本を投ずること。ま、わかりやすくいえばカネを貸すことだと思ってよい。貸す相手も知らずにお前は投資をするのか、という助言である。確かに。そして投資とはリスクを引き受ける行為でもある。株式(現物)であればその企業の未来を買っているわけだ。先のことは誰にもわからない。当てが外れれば当然損失を被る。ただし貸す相手が確かであれば(預金や国債や投資信託など)旨味は少ない。

 ギャンブルをするのであれば投資をした方がよい。特に若い人は小口で投資の経験を重ねてゆけばリスクマネジメントが身につくことだろう。あらゆるマネーは最終的に投資される。銀行や保険会社が行うか、自分がやるかだけの違いだ。自動車に例えればタクシーに乗るか、自分が運転するかの違いである。バン・K・タープは会社を立ち上げるつもりで事業計画を練るように投資をせよと警鐘を鳴らす。

 洒脱な文章でグイグイ読ませる。価格も良心的だ。投資手法はポジションサイズに極まる。

 ギャンブル本や投資本の妙(面白味)は人間心理の洞察に尽きる。賭場や相場で身を滅ぼす人は決して珍しくない。大小の差はあれど利益は生、損失は死を意味する。

 分かりやすい例を見てみよう。マレーシア出身の私のめいは19歳のときに私たちの元にやってきた(アメリカの大学を卒業するまで私と妻が面倒を見た)。ここに来て1年ほどたったある日、彼女は私に言った。「おじさん、私、次に生まれてくるときは、もっときれいで有能に生まれたいわ」。めいは非常に芸術的(彼女は芸術畑を歩んできた)で、まるで歌うために生まれてきたように歌がうまい。文系肌でありながら、大学では生物医学工学を修め、主席で卒業した。有能さという点では合格点に達しているのではないだろうか。美しさという点でも、私から見れば驚くほどの美人で、会う人々は口々に彼女の美しさをたたえる。これほど美しく有能な女性であるにもかかわらず、彼女が自分のことを美しくもなければ有能でもないと嘆くのは彼女の信念によるところが大きい。【あなたの現実はあなたの信念によって形成される】のである。(中略)
 同じように、あなたがどういう人間なのかはあなたの自分自身についての考え方によって決まる。ついでに言えば、あなたがトレードするのは市場ではなく、市場についてのあなたの信念なのである。自己改善を図るうえでのひとつのキーポイントは、自分の信念を吟味し、それが役に立つかどうかを見極めることである。役に立たない信念であれば、役に立つ別の信念に改める。これは自己改善を図るうえで最も重要なことである。

 思考も信念も現実化する。そんなことは当然である。客観的な世界が「目の前」にあるわけではない。世界とは自分の感覚や認識および解釈の中に存在するのだから。それゆえ楽しい人の周りには楽しい出来事が多いし、悲観的な人には不幸が押し寄せる。それにしても見事な文章だ。「あなたの現実はあなたの信念によって形成される」ことを仏典では次のように説かれている。


 五陰(五蘊〈ごうん〉とも)とは人間を形成している五つの要素のこと。仏教では人間を五蘊仮和合(ごうんけわごう)と説く。「仮に和合」しているから死ぬわけだ。そして世界は五蘊に収まる。今の世界に違和感を覚える人ほど不幸になりやすい。運がよい人の世界はバラ色だ。だから世界が暗いわけではなくて、お前が暗いだけってな話だ(笑)。

「あなたがトレードするのは市場ではなく、市場についてのあなたの信念なのである」――これはどんな世界にも当てはまる。トレードとは交換を意味する。因みにディーリングのディールは取引、スワップポイントのスワップも交換の意である。会社では労働力と賃金がトレードされている。宗教団体ではご利益と奉仕(あるいは修行)がトレードされている。人間の営みはすべてがトレード行為といってよい。ボランティアだって労力や時間を自己満足や感謝の言葉とトレードしていると見なすことが可能だ。そこに我々の信念が反映されている。少しの過不足もなく。

 で、相場である。テクニカル分析(チャート分析)にせよファンダメンタル分析(経済要因分析)にせよ、プレイヤーは必ず何らかの信念に基いて売買を行う。自分の意に反した動きがあると「相場がおかしい」と決めつける。「この動きは誤っている」と判断した時から損失はどんどん膨らむ。そしてストップ(強制執行)となり、挙げ句の果てには追証(おいしょう=追加証拠金)を求められる。撤退を想定しない戦闘行為は必ず敗北を招く。投資は博打(ばくち)に似て博打には非ず。リスクマネジメントとは損失の計算に他ならない。

 売買回数が増えれば増えるほど損失が拡大することが既に数学的に証明されている。やはり個人投資家の場合、中長期投資が正しい。日本社会は格差という形のリスクが顕著となりつつある。普通預金の金利は現在、年利0.02%で、スーパー定期(300万円以上)で年利0.034%である。これを上回るパフォーマスはそれほど難しくはない。何と言っても難しいのは「自己改善」である。

タープ博士のトレード学校 ポジションサイジング入門 (ウィザードブックシリーズ)

2014-04-01

集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ


現代人は木を見つめることができない
・集団行動と個人行動

 私たちは自分のまわりに混乱、不幸、ぶつかり合う願望を見、そしてこうした混沌とした世界の現実に気づいて、真に思慮深くて真摯な人々──絵空事をもてあそんでいる人々ではなく、本当に真剣な人々──は、当然ながら行動という問題を考究することの大切さがわかるでしょう。集団行動があり、また個人行動があります。そして集団行動は一個の抽象物、個人にとって好都合の逃避となっています。つまり、この混乱、たえず起こっているこの不幸、この災いは集団行動によって何とか変えることのできる事態であり、それによって秩序を回復できると思うことによって、個人は無責任になるのです。集団というものは、間違いなく虚構の実体です。集団とは、あなたでありそして私なのです。あなたと私が真の行動というものを関係性において理解しないときにのみ、私たちは集団と呼ばれる抽象物に頼り、それによって自分の行動において無責任になるのです。行動を改善するため、私たちは指導者や、あるいは組織的な団体行動に頼ります。私たちが指導者に行動上の指示を仰ぐとき、私たちは常に、自分自身の問題、不幸を超克するのを助けてくれると思われる人を選びます。が、私たちは自分の混乱から指導者を選ぶので、指導者自身もまた混乱しているのです。私たちは、私たち自身に似ていない指導者を選びません。選べないのです。私たちは、私たちと同様に混乱した指導者しか選べないのです。それゆえ、そのような指導者、教導者、およびいわゆる霊的(宗教的)なグルは、私たちを常により一層の混乱、より一層の不幸へと導くのです。私たちが選ぶものは私たち自身の混乱に由来しているので、私たちが指導者に従うとき、私たちはたんに自分自身の混乱した自己投影物に従っているだけなのです。それゆえ、そのような行動は、直接的結果をもたらすかもしれませんが、結局は常により一層の災いに帰着するのです。(ニューデリー、1948年11月14日)

【『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1993年)以下同】

 長文のため一段落ごとに区切って紹介する。私が暴力について考えるようになったのはV・E・フランクルの『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』を読んでからのこと。20代から30代にかけて集中的にナチスものを読んだ。40代半ばでレヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』を読み、私の価値観は木っ端微塵となった。同時期に読んだユースフ・イドリース著『黒い警官』とジョージ・オーウェルの新訳『一九八四年』を私は「暴力三部作」と名づけた。

 他にはパレスチナに対するイスラエルの蛮行(『パレスチナ 新版』広河隆一、『アラブ、祈りとしての文学』岡真理)や黒人奴隷(『奴隷とは』ジュリアス・レスター、『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン、『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要)、そしてキリスト教による暴力(『魔女狩り』森島恒雄、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス)などが私の血となり肉と化した。

 暴力の問題を突き詰めてゆくとヒエラルキーに辿り着き、最終的には集団そのものが暴力であることに気づいた。集団は集団であるというだけで既に暴力的要因をはらんでいるのだ。なぜならそこに利害が絡んでいるためだ。集団には構成員を庇護する機能がある。また集団には必ず目的がある。守るためにも目的を果たすためにも力が求められる。そして求心力が強ければ強いほど暴力的な様相を帯びる。

 そこまでは自力で辿り着いた。だがそこから前へ進むことができなかった。その時、私はクリシュナムルティと遭遇した(クリシュナムルティとの出会いは衝撃というよりも事故そのもの/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ)。

 集団は虚構であり個人を無責任にする。小林秀雄が次のように語っている。

 信ずることは諸君が諸君流に信ずるということですよ。知るということは万人の如く知ることですよ。人間にはこの二つの位置があるんです。知るってことはいつでも学問的に知ることです。
 信ずるってことは責任をとることです。僕は間違って信ずるかもしれませんよ。万人の如く考えないんだからね僕は。僕流に考えるんですから、もちろん僕は間違えます。でも責任はとります。それが信ずることなんです。
 だから信ずるという力を失うと人間は責任をとらなくなるんです。そうすると人間は集団的になるんです。「会」が欲しくなるんです。自分でペンを操ることが信じられなくなるからペンクラブが欲しくなるんです。ペンクラブは自分流に信ずることはできないんです。クラブ流に信ずるんです。クラブ流に信ずるからイデオロギーがあるんじゃないか。そうだろ? 自分流に信じられないからイデオロギーってもんが幅を利かせるんです。
 だからイデオロギーは匿名ですよ、常に。責任をとりませんよ。そこに恐ろしい力があるじゃないか。それが大衆・集団の力ですよ。責任を持たない力は、まあこれは恐ろしいもんですね。
 集団ってのは責任取りませんからね。どこへでも押し掛けますよ。自分が正しい、と言って。(中略)
 左翼だとか右翼だとか、みんなあれイデオロギーですよ。あんなものに「私(わたくし)」なんかありゃしませんよ。信念なんてありゃしませんよ。

【『小林秀雄講演 第2巻 信ずることと考えること 新潮CD』】


 書籍(『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』)にも収められているが要旨をまとめた代物となっている。暴走族でなくとも集団は暴走しやすい。群衆の中から石を投げるような手合いが必ず現れる。人は責任を失うと容易に罪を犯す。そして集団はリーダーに依存することで一人ひとりは更に無責任の度合いを強める。

 このように私たちは、集団行動は──場合によってはやりがいがあるものの──災い、混乱に帰着せざるをえず、また個人の側の無責任をもたらすということ、そして指導者への服従は常に混乱をつのらせるということを見ます。けれども、私たちは生きなければなりません。生きることは行動することであり、存在することは関係することです。関係なしにはいかなる行動もなく、そして私たちは孤立して生きることはできません。孤立などというものはないのです。生きるとは、行動することであり、また関係することなのです。そのように、より一層の不幸、混乱を引き起こさない行動というものを理解するには、私たちは自分自身を、そのすべての矛盾対立する要素、たえず互いに闘っている多くの面と共に、理解しなければなりません。私たちが自分自身を理解しないかぎり、行動は必然的により一層の葛藤、不幸に帰着せざるをえないのです。


 社会をよりよくするために始めた運動がその正義感によって内部分裂をすることは決して珍しいことではない。むしろ純粋であればあるほど分裂しやすい傾向がある。目的が明らかであれば目的以外の行動は規制され、禁止される。集団は規則を必要とするのだ。そして今度は規則が人々を縛り、蝕んでゆく。組織が大きくなると成果が問われ、内部で競争が始まる。組織は自律的に分割統治へ至る。

 ですから、問題は理解と共に行動することであり、そしてその理解は自己認識によってのみもたらすことができるのです。結局、世界は私たち自身の投影です。あるがままの私、それが世界なのです。世界は私とは別個にあるのではなく、世界と私は対立しているわけではありません。世界と私は別々の実体ではないのです。社会は私自身であり、二つの別個の過程ではないのです。世界は私自身の延長であり、ですから世界を理解するためには、自分自身を理解しなければならないのです。個人は集団、社会に対立してあるのではありません。なぜなら個人は社会だからです。社会とは、あなたと私とその他の人々との間の関係です。個人が無責任になるときにのみ、個人と社会との間の対立があるのです。ですから、私たちの問題はとてつもなく大きいのです。あらゆる国、あらゆる集団、あらゆる人が直面しているとてつもない危機があります。その危機に対して私たち、あなた、私はどんな関係があるのでしょうか。そして私たちはどのように行動したらいいのでしょうか? 変容を起こすためには、どこから始めたらいいのでしょう? すでに言いましたように、もし私たちが集団に頼れば、出口はありません。なぜなら、集団は指導者を含蓄しており、ゆえに常に政治家、司祭、専門家によって搾取されるからです。で、集団を構成しているのはあなたと私なのですから、私たちは自分自身の行動に責任を持たなければならないのです。すなわち、私たちは自分自身の性質、ひいては自分自身を理解しなければならないのです。自分自身を理解することは、世間から引き籠もることではありません。なぜなら、引き籠もることは、孤立を含んでおり、そして私たちは孤立状態で生きることはできないからです。ですから私たちは、関係における行為というものを理解しなければなりません。そして、その理解は、自分自身の葛藤し、矛盾する性質への「気づき」にかかっているのです。そのなかに平和があり、そして私たちがあてにできる状態をあらかじめ思い描くことは愚劣だと私は思います。自分が知らない状態を私たちが思い描くことなく、ひたすら自分自身を理解するときにのみ、平和と静謐がありうるのです。平和の状態はあるかもしれませんが、しかしたんにそれについて思い描くことは無意味です。

 集団は人間を手段化する。人々に組織の手足となることを強要する。社会とは所属の異名であり、我々のアイデンティティはどこに所属しているかで決まる。そこに「平和と静謐」はなく、仕事と役割を与えられるだけだ。人生の幸不幸は集団内の序列で決まる。

 正しく行為するためには、正しい思考が必要です。正しく考えるためには、自己認識が必要です。そして自己認識は、孤立によってではなく、関係によってのみもたらすことができるのです。正しい思考は自分自身を理解することにおいてのみ起こりうるのであり、そしてそこから正しい行為が湧き起こるのです。自分自身――その一部ではなく、矛盾撞着した性質を含んだその中身の全部――を理解することから起こる行為こそが、正しい行為なのです。私たちが自分自身を理解するにつれて正しい行為が起こり、そしてその行為から幸福が生まれるのです。結局、私たちが望んでいるもの、様々な形で、あるいは様々な逃避――社会活動、官僚主義的栄達、娯楽、崇拝、語句の反唱、セックス、あるいはその他の活動を通じての無数の逃避――によって私たちのほとんどが捜し求めているものは幸福なのです。が、私たちは、これらの逃避が永続的な幸福をもたらさないこと、それらが束の間の気休めしかもたらさないことを見ます。根本的には、それらには何ら真実なるもの、何ら永続的な歓喜はないのです。

「様々な逃避」――何と辛辣(しんらつ)な指摘か。我々は現実から逃避し、生そのものから逃避し、自分自身からも逃避しているのだ。我々が人生に求めているのは「単なる刺激」だ。それを幸福、成功、満足と呼んでいるのだろう。集団が与えてくれるのは役割であって生き甲斐ではない。組織のために貢献することで自分の存在が大きくなったように錯覚するのも間違いである。所詮、部分は部品でしかない。

 さて、自己認識・自己理解の旅に出るとするか。


信ずることと知ること/『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会・新潮社編

クリシュナムルティ『生の全体性』


断片化の要因/『生の全体性』J・クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ

2014-03-31

エティ・ヒレスムの神/『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック


 かくいう私は、社会学者だ。社会学的啓蒙の救済力を信じており、世俗主義の用語は私の血肉と化している。世俗化の基本想定、端的にいえば、近代化が進むと宗教的なものはおのずと解消していくという考え方は、たとえこの予測が歴史によって否定されようとも、そう簡単に社会学的思考からとりのぞくわけにはいかない。宗教には、他者についての様々なヴィジョンを掲げて世界を動かしていく、相対的に自立した現実性と力が備わっている。したがって、そうした宗教の中身が、ありとあらゆる両義性を含めて社会学の視野に入ってくることはめったにない。

【『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック:鈴木直〈すずき・ただし〉(岩波書店、2011年)以下同】

 社会学的な懐疑主義につきまとう非宗教性・反宗教性を乗り越えようと試みた労作。上記テキストの「宗教的」とは神秘的と同義であり、非科学的と言い換えてもよいだろう。ウルリッヒ・ベックは宗教社会学の空白を埋めようと意気込んでいるわけだが、出発点からして方向を誤ったように見える。相対主義的観点からは新しい統合的な発想は生まれにくい。宗教と科学を相対的に捉え、聖俗を分けて考え、学問や科学を高みに置く考え方そのものを疑うべきだろう。

 科学は文明の発達をもたらし生活を便利にしたが、人生を豊かにしたとはいえない。学問がそんなに立派であるなら学者は模範的な生き方をしているはずである。とてもそんな風には思えない。極端に言ってしまえば宗教も科学も学問もひとつの文脈であり物語にすぎない。社会学はデータを重視するが、どのようなデータを選ぶかはその時代の社会的価値で決められる。つまり恣意的なものなのだ。すべてのデータを網羅することが不可能である以上、データ解釈には「読み解く」作業が付随する。ま、データで絵を描くようなものだ。その絵が科学的かどうかはまったくの別問題だ。

 オランダのユダヤ人女性エティ・ヒレスム[1914年生まれ。アムステルダム大学でスラブ学、法学を学んだ後、ナチ占領下のアムステルダムやヴェスターボルク収容所でユダヤ人のために活動。1943年11月、アウシュヴィッツで虐殺される。戦後、その手紙と日記が出版され大きな反響を呼んだ]はその日記に、彼女が探し求め、発見した「自分自身の神」の記録を残した。

 著者はエティ・ヒレスムの日記を通して「自分自身の神」からコスモポリタン化を探る。

 彼女「自身」の神は、シナゴーグの神でも、教会の神でも、あるいは「無信仰な者たち」と一線を画す「信徒たち」の神でもなかった。「彼女」の神は異端を知らず、十字軍を知らず、言語を絶する異端審問の残忍さを知らず、宗教改革も反宗教改革も知らず、宗教の名による大量殺戮テロも知らなかった。彼女自身の神は神学から自由で、教義を持たず、歴史に無頓着で、おそらくそれゆえにこそ慈愛に満ち、弱々しかった。彼女はいう。「祈るとき、私は決して自分自身のためには祈らず、いつでも他者のために祈る。あるいは私の内なるいちばん奥深いものと、時にはばかげた、時には子供っぽい、時には大まじめな対話をする。そのいちばん奥深いものを、私は簡便のために神と呼んでいる」。

 つまり一人を掘り下げて人類共通の泉に辿り着こうとする作業である。エティ・ヒレスムの信仰は制度化も組織化もされていなかった。そこに生まれ立ての宗教の姿を見ることは可能だろう。教団とは宗教の国家化に他ならない。ゆえに教団は信徒からカネを集め、他教団との戦闘に臨む。信仰のヒエラルキーが残虐行為を命じる。

 ではエティ・ヒレスムの神との対話を見てみよう。

 神様、私はあなたが私のもとを去って行かれぬように、あなたをお助けするつもりです。でも私は最初から何一つ請け合うことはできません。ただ一つのことだけは、ますますはっきりとわかってきました。それは、あなたが私たちを助けられないこと、むしろ私たちこそがあなたをお助けしなければならないこと、そしてそれによって結局は私たちが自分自身をも助けることができるのだということです。神様、大切なことはただ一つ、私たち自身の中に住まうあなたのひとかけらを救い出すことなのです。もしかすると私たちは、さいなまれた他の人々の心の中で、あなたを復活させるお手伝いができるかもしれません。確かに神様、あなたでもこの状況はあまり大きく変えることはできないように見えます。それはもう、この人生の一部になってしまっています。私はあなたに釈明を求めてはいません。むそろあなたのほうが、いつの日か私たちに釈明を求められることでしょう。そしてほとんど心臓が鼓動するたびに、私にはますますはっきりとしてくるのです。あなたは私たちを助けることができないのだということが。むしろ私たちこそがあなたをお助けしなければならず、私たちの内なるあなたの住まいを最後の最後まで守りぬかねばならないのだということが。

 何と美しい心根であろうか。彼女が「神様」と呼びかけたのは、喪われた人間性すなわち良心そのものであった。彼女は全人類に良心を喚起すべく、まず自らの良心を掘り起こす必要があった。エティ・ヒレスムは良心を助け、そして守る。死が迫り来る中でこれほどの勇気を示した女性がいたのだ。ナチスを声高に糾弾することもなく、彼女は静かに自分の内面世界を押し広げた。

「エティ・ヒレスムの神」を否定する者はあるまい。彼女の神は神々の党派性を超越してすべての神を従わせる。ナチスはエティ・ヒレスムを殺した。しかし彼女の神が死ぬことはなかった。現に今こうして私の胸を打っているではないか。

〈私〉だけの神――平和と暴力のはざまにある宗教エロスと神と収容所―エティの日記 (朝日選書)

宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
『原発事故の正体』 by ウルリッヒ・ベック:Goeche's Blog

2014-03-30

神経質なキリスト教批判/『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス


宗教の語源/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

 ・神経質なキリスト教批判

ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
キリスト教を知るための書籍

 この時点で、アメリカの読者に対してとくに一言述べておく必要がある。なぜなら、現在のアメリカ人の信心深さは目を見張るものだからである。弁護士のウェンディ・カミナーはかつて、宗教をからかうのは、米国在郷軍人会館のなかで国旗を燃やすのと同じほど危険であると述べたが、この言葉は現実をほんのわずかに誇張しているにすぎない。今日(こんにち)のアメリカにおける無神論者の社会的地位は、50年前の同性愛者の立場とほとんど同じである。ゲイ・プライド運動のあと、いまでは、同性愛者が公職に選ばれることは、けっして簡単というわけではまだないが、可能である。1999年におこなわれたギャラップ調査では、アメリカ人に対して、その他の点では十分な資格をもつ次のような人物に投票するかどうかが質問された。女性(95%は投票する)、ローマ・カトリック教徒(94%)、ユダヤ人(92%)、黒人(92%)、モルモン教徒(79%)、同性愛者(79%)、無神論者(49%)という結果だった。明らかに道ははるかに遠い。しかし無神論者の数は、多くの人が気づいているよりも、もっとはるかに多く、とくに高い教育を受けたエリートのあいだに多い。この点については、すでに19世紀からそうだったのであり、だからこそジョン・スチュワート・ミルが実際、こう述べているのだ。「世界にもっとも輝かしい光彩を添えている人々のうちの、英知と徳という通俗的な評価においてさえももっとも傑出した人々のうちの、どれほど大きな比率が、宗教への完璧な懐疑論者であるかを知れば、世界は驚愕するだろう」。

【『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス:垂水雄二〈たるみ・ゆうじ〉訳(早川書房、2007年)】

 リチャード・ドーキンスが苦手な上に垂水雄二の訳文が苦手だ。ドーキンスの文章はワンセンテンスが長すぎる。垂水は文体が悪い。

「信心深さは目を見張るものだからである」→信心深さには目を見張るものがある。
「現実をほんのわずかに」→「に」は不要
「けっして簡単というわけではまだないが」→けっして容易ではないが
「その他の点では十分な資格をもつ次のような人物」→政治家としての資質を十分に備えた次の人物
「はるかに」が重複。「に」が多すぎる。ジョン・スチュアート・ミル(本文ではスチュワート)の言葉も実にわかりにくい。はっきりいって悪文だ。


 私は本書を三度読み、三度とも挫けている。ドーキンスの神経質な性格に耐えられないためだ。言いたいことはわかるし、彼の役割が重要だとも思う。だが、どうしてもキリスト教に対する反射的な言動が目立ち、否定の度合いが浅く感じる。

 たとえ本人が「自分は無神論者」であると言っていても、無神論者であるということ自体、宗教の影響を受けているのです。無神論ということの前提には、まず神があるかないかという問いがあるからです。

〈決定版〉 世界の〔宗教と戦争〕講座 生き方の原理が異なると、なぜ争いを生むのか』井沢元彦(徳間書店、2001年/徳間文庫、2011年)

 この指摘がドーキンスに当てはまる。しかもピッタリと。彼はたぶん意図的に騒ぎ立てることでアメリカを中心とするキリスト社会に風穴を空けようと目論んでいるのだろう。それが上手くいって欲しいとは思う。彼はかつて日本の新聞社によるインタビューで「仏教は宗教ではない」と答えた。もちろんそれは「彼が否定する宗教」との意味合いであろう。ここらあたりが実は難しいところで、無神論=宗教の否定ではないし、無神論が正義だと叫んでしまえばキリスト教と同じ穴に落ちてしまう。私は人類における宗教性は誰も否定することができないと考える。

「神は妄想である」――これはいい。だが「宗教との決別」がまずい。「真の宗教性の追求」にすれば論旨も大きく変わったことだろう。批判や否定は簡単だが、その言葉が信者に届くことは稀だ。相手の心を開かなければ胸を打つこともない。魔女狩り、黒人奴隷、インディアン虐殺という歴史を経ても目を覚ますことがないのがキリスト者なのだ。頭ごなしに否定したところで何かが変わるわけではあるまい。

 尚、併読書籍については「キリスト教を知るための書籍」「宗教とは何か?」に示してある。

神は妄想である―宗教との決別

リチャード・ドーキンスが語る「奇妙な」宇宙
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
宗教学者の不勉強/『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道

宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静


新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン

 ・宗教は人を殺す教え

『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士
キリスト教を知るための書籍

 本書は次のような素朴な問いに答えることを目的としている。
〈宗教は人を幸せにするためにあるはずなのに、なにゆえその同じ宗教が宗教の名のもとに平然と人を殺してしまうのか?〉
「幸せ」という曖昧な言葉を用いた。人によって何を幸せと感じるかはさまざまであろうが、宗教が提供しようとする幸せとは、人の〈いのち〉にかかわるようなものである。〈いのち〉とは生物学的な生命を意味するだけでなく、その人の人格、生全体、その人らしく生きること、そういった〈生、生きること〉にかかわる総体を〈いのち〉と呼びたい。宗教は、人が充実した生、安心した、落ちついた生、社会的な地位や身分や役割とは無関係に根元(ママ)的に存在する自立した生の在り方を示し、人がその人らしく、その人自身として〈いのち〉を生きることを可能にする。しかしながら、歴史を少しでも振り返ってみるならば、嫌というほど多くの〈いのち〉が宗教ゆえに殺されている。宗教戦争は歴史年表を埋め尽くしている。文字通り「殺される」ということだけではない。宗教の名のもとに人間としての尊厳を否定されている人は、今も後を絶たない。自らの人生すべてを宗教に献げることは、表面的には信仰深く幸せそうに見えるかもしれないが、実際には自分の生の有り様を他人に依存し、自立した人間として生きることから逃げているに過ぎないという場合も少なくない。信仰熱心な者となることを自らに課す人は、宗教指導者や組織の言いなりになってしまいがちである。それは決してその人に与えられた〈いのち〉を生きているとはいえず、むしろそれを失っているのである。自らの〈いのち〉を生きられない人が、他者の〈いのち〉を奪うことに無頓着になってしまうのは、ある意味当然のことである。自らの〈いのち〉を喪失し、他者の〈いのち〉を殺すことが信仰熱心の証となってしまうという悲劇は、いつの時代にも繰り返されている。しかも、宗教指導者こそが先頭に立って〈いのち〉を奪っているという事態は、決して稀なことではない。一般信徒の方がはるかにまっとうな感覚を具(そな)えているということはよくあることだ。

【『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静〈うえむら・しずか〉(岩波書店、2008年)】

 本書刊行時は東京大学や東海大学で非常勤講師をしていたが現在は著作に専念しているようだ。あっさり味だが出汁(だし)がしっかり出ている塩ラーメンの趣がある。文章にスピード感がないのはそのため。出汁を取るには時間がかかる。ましてキリスト者に対するメッセージであれば慎重に話を進めないと拒否反応を招く。

 冒頭で一般論を掲げてからキリスト世界に入ってゆくわけだが、外野から見るとキリスト教の内部世界を描いているため、そこかしこに「甘さ」を感じる。だが上村の抑制された筆致は清々しく、陰険な性質が見られない。宗教を巡る議論は正義の奪い合いに終始して、主張が誘導の臭いを放つことが多い。上村は自分の足でイエスに接近する。

「宗教は人を幸せにするためにある」というのは一般論としては正しいかもしれないが、科学的に見れば誤っていると思う。宗教は本来、コミュニティ維持のために発生したと考えられる。

進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

「幸せ」は元々「仕合わせ」と書いたが、たぶん鎌倉時代にはなかった言葉だと思われる。とすれば概念そのものが中世以降のものだ。まして、「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー)ことを踏まえると、「幸せ」は更に遠のく。

 それゆえ宗教は「死を巡る物語」であり、コミュニティを維持する目的で「死を命じる」ことも当然含まれていたことだろう。その意味でコミュニティとは悲しみと怒りを共有する舞台装置といえそうだ。

 一般論としての「幸せ」は人権概念から生まれたものではあるまいか。もちろんそのためには自我の形成が不可欠だ。西洋では「神と相対する自分」から個人が立ち現れる。

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章

 発想を引っくり返してみよう。宗教は人を殺す教えなのだ。そして人間は自分が束縛されることを望む動物なのだ。おお、実にスッキリするではないか(笑)。これが掛け値なしの事実である。積極果敢に幸福を説く宗教の欺瞞を見抜け。彼らが幸せそうな素振りをしてみせるのは布教の時だけだ。胸の内では布教の成果を求めて煩悩の炎が燃え盛っている。布教とはプロパガンダの異名である。声高な主張には必ず嘘がある。真実は黙っていても伝わる。

 私の見地からすれば「宗教の倒錯」ではなくして「宗教は倒錯」ということになる。

宗教の倒錯―ユダヤ教・イエス・キリスト教タルムードの中のイエス旧約聖書と新約聖書 (シリーズ神学への船出)キリスト教の自己批判: 明日の福音のために


エティ・ヒレスムの神/『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック