2014-04-19

偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル


『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士

・偶然性
イエスの道徳的性格には重大な欠点がある
残酷極まりないキリスト教
宗教は恐怖に基いている

ラス・カサスの立ち位置/『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?

 とにかく、もうニュートン式の、たれにも理解できないけれども、ある理由で、自然は統一された様式で動作をするといつたたぐい(ママ)の自然の法則は通用しないのです。今では、われわれが自然の法則だと考えていた沢山なことが、実は、人間の習慣でしかないことを発見しているのであります。御承知のように、天体の空間のどんな違いにおいてもなお三呎(※フィート)は1ヤードです。これは、明らかにおどろくべきことではありますが、どうも自然の法則とは言いかねるのであります。そして自然の法則とみなされてきた多くのことはそのたぐいであります。これに反して、原子が実際になすところのことになんらかの知識を得ることができる場合には、ひとびとが考えていたほどには、法則に従つていないことが解るでありましょう。そして到達することのできる法則は、偶然から現れる類のものにそつくりな統計的平均値なのであります。御承知のように、骰子を振つたなら、6の目が二つでるのは大体36回に一度という法則がありますが、われわれは骰子の目がでるのが神の意向によつて規正されている証拠だとはみなしません。反対に、6の目が二ついつもでるならば、神の意向があつたと考えるべきでありましよう。自然の法則というのは、そのうちの沢山なものについての、そのような類のものであります。それは偶然性の法則から出てくる統計学的平均値にすぎず、そのことが自然の法則に関するすべてのことを昔にくらべて、甚だしく影を淡くしているのであります。(「なぜ私はキリスト教徒ではないか」)

【『宗教は必要か』バートランド・ラッセル:大竹勝訳(荒地出版社、1959年)】

 1927年に行われた有名な講演が冒頭に収められている。ラッセルは回りくどいほど丁寧に、そして時々辛辣なユーモアを交えて語る。時代は第一次世界大戦から第二次世界大戦に向かっていた。ヨーロッパで神を否定することは、日本で天皇を否定するよりも困難であったと思われる。それをやってのけたところにラッセルのユニークさ(独自性)がある。アインシュタインも無神論者であったが神の正面に立つことはなかった。

 原子の振る舞いを例に挙げているのはブラウン運動熱力学の法則が念頭にあったのだろう。また量子力学が確立されたのが1927年であるからラッセルは当然知っていたはずだ。特定の素粒子の位置は不確定性原理によって確率でしか捉えることができない。

 人は不幸や不運が続くと「祟(たた)り」に由来すると考えがちである。これがアブラハムの宗教世界では「神が与えた試練」すなわち「運命」と認識される。つまり物語は偶然(あるいは非均衡)から生まれるのだ。ラッセルはサイコロの例えを通して明快に説く。

 脳は時系列に沿って因果関係を構築するため、相関関係を因果関係と錯覚する。

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン
回帰効果と回帰の誤謬/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン

 そして宗教は人々の不幸と不安に付け込んで商売を行う。免罪符(贖宥状)・お守り・お祓いは金額に換算される。罪を軽くするには神様への賄賂が必要なのだ。

 正確に言えばラッセルはキリスト教批判を目的にしたわけではなかった。彼は科学的なものの見方を披瀝しただけであった。ヨーロッパから神を遠ざけた人物としてラッセルはニーチェと双璧を成すと考える。

宗教は必要か (1968年)

宗教と科学の間の溝について
日本に宗教は必要ですか?/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳
無意味と有意味/『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド
バートランド・ラッセル

2014-04-18

呼吸法(ブリージング)/『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英


恐怖心をコントロールする
・呼吸法(ブリージング)

 1.楽な姿勢で座ります。
 2.肩の力を抜いて手の平(ママ)を上向きにして膝に載せ、息が手のひらに伝えるように意識しつつ、普段より強く長めに呼吸をします。
 3.これを繰り返すと、手のひらがぽかぽかして来たり、呼吸による圧力が伝わってくるのがわかるでしょう。
 4.5分ほどかけて続けて終了です。首に力が入っていると、のぼせたり、立ちくらみになったりすることがあります。そういう時はすぐに休み、気分が落ち着いてから首や肩を回したりして、凝りをほぐすようにしましょう。

【『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英(マガジンハウス、2011年)以下同】

 基本的なことだが呼吸とは鼻から吸って口から吐くことをいう。北川は「口をすぼめる」と書いているが、あまり気にすることもあるまい。大口を開ける必要はない。色々な呼吸法が示されているが、一番手っ取り早く効果を感じられるのがこれだ。寒い時にやってみるといい。意識を手のひらに向けることが大事だ。続けて足の裏も同様に行う。

 仏教の瞑想のひとつに数息観(すそくかん)というのがある。これは鼻から吐いても構わない。ただひたすら息を勘定するのだ。焦った場合にやるとわかるが中々効果がある。確か米軍かCIAでも教えているはずだ。

数息法(気功の呼吸法)
数息観について

 病気や怪我などで痛みを感じる場合にも効果があると思われる。

 1.吐きながら1歩歩きます。
 2.止めながら1歩歩きます。
 3.吸いながら1歩歩きます。
 4.止めながら1歩歩きます。
 5.これを1~3分続けたら、同じことを2歩のペースでやります。つまり2歩吐き、2歩止め、2歩吸い、2歩止めるサイクルを繰り返すのです。
 6.1~3分ほど続けたら、3歩、4歩~10歩と徐々に歩数のサイクルを増やし、10歩まで行ったら9歩、8歩と徐々に歩数を戻します。
 7.1歩まで戻ったらおしまいです。

 歩数が増えるほど息を止めるのが苦痛になってきます。吸い過ぎでも吐き過ぎでもない、一番楽に息を止めていられる空気の量を見出しましょう。するとこれまでよりも厳密に自分の呼吸と姿勢をチェックすることができるはずです。息を止めることで緊張が生まれたら、その部位を軽く動かしたりして緊張を分散させるようにしましょう。息を止めるという負荷の中で快適さを保ち、かつ冷静に回復するのがこのエクササイズのポイントです。

 私はこれを実践して瞑想のコツをつかんだ。階段の昇り降りで行ったところ走る姿勢まで変わった。「生きる」とは「息する」ことの謂(いい)である。呼吸を見つめることは生を実感する行為でもある。

 我々は日常生活で身体を意識することが殆どない。意識に上るのは違和感や痛みであって身体そのものではない。明らかに身体を見失っているといってよい。呼吸を意識することは身体を調(ととの)える第一歩なのだ。

ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング

歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

2014-04-17

恐怖心をコントロールする/『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英


・恐怖心をコントロールする
呼吸法(ブリージング)

 日常における不安やストレス、不調、その他のありとあらゆる不快なこと。その根っこを探ってみると、多くは恐怖心に行き当たります。
 恐怖心は天災や自己といった非常事態にだけ伴うものではありません。
 日常生活のいたるところに立ち現れて、私たちの生活に大きな影響を与えているのです。
 例えば「大事な会議に遅刻をしてしまう!」と焦って先を急いでいるとき。学生が道いっぱいに広がっておしゃべりをしながら歩いていてなかなか前に進めなかったりすると、思わずカチンとしてしまったりすることでしょう。そういう「カチン」を感じたら、その奥にある感情を少し意識してみてください。おそらく遅刻によって信頼を損なう恐怖、大きな失敗へとつながる恐怖、メンツを潰す恐怖、仕事を失う恐怖、家族を露頭に迷わせる恐怖といった、実にさまざまな恐怖心を見出すことができるのではないでしょうか。このように恐怖心はさまざまな形で感情をかき乱し、あなたから正常な判断力や行動力を失わせる原因となってしまいます。
 また一見恐怖心とは関係なさそうな行為が、実は恐怖心から逃れようとする懸命な努力の表れであることもあります。夜の盛り場で過剰にはしゃぐ大学生たちは、漠然とした将来への不安を紛らわそうと必死なのかも知れません。仕事熱心と言われるような人も、その根底には他者から認められないことへの恐怖、敗北への恐怖などが原動力となっているかも知れません。メールに依存したりTwitterなどのコミュニケーションサイトにはまったりするのも、やはり他者への恐怖心が一因となっているのではないでしょうか。
 このように恐怖心から逃れるために何かに頼り、いったんその心地良さに慣れてしまうと、それがクセになってそれなしでは生きられないくらい、のめり込んでしまうこともあります。

【『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英(マガジンハウス、2011年)】

 システマは旧ソ連軍で採用された格闘術で長い間、機密扱いをされていたがソ連崩壊後にその内容が公開された。打撃、関節技はもとより、あらゆる武器の使用法・防御法を網羅している。私が知り得る限り、世界最強の総合格闘術といってよい。飽くまでも実戦に即しているため競技としての試合は行われない。このため格闘技とは呼称しない。

 北川はシステマ東京支部の代表を務める公式インストラクターである。文章がこなれていて驚かされた。

 戦場を支配するのは恐怖だ。恐怖心に駆られると視野は狭まり、些細なことに過剰反応を示し、自ら墓穴を掘ることになる。システマは恐怖を呼吸法で制御する。呼吸を意識することは視点をずらすことでもある。瞑想で呼吸を重んじるのはこのためだ。呼吸は自律神経で唯一コントロールできる機能でもある。


 恐怖は呼吸を止める。あるいは極端に浅くする。身体は硬直し動けなくなる。一種の仮死状態といってよいだろう。そこで鼻から息を吸い込むことができれば身体は直ちにリラックスする。こういうことは普段から練習しておかないと出来るものではない。ちょっとびっくりした時や慌てた時に自分の呼吸に意識を向ける。実際にやってみると驚くほど色々なことに気づかされる。身体と脳は背骨でつながっているが、たぶん呼吸でもつながっているような気がする。神経と酸素の違いだろうか。

 親に抑圧されながら育った子供は大抵声が小さい。きっと恐怖心が呼吸を浅くしてしまったためなのだろう。

 思想・哲学や宗教は真正面から恐怖にアプローチすべきだと私は思うが、クリシュナムルティ以外には知らない(『恐怖なしに生きる』)。宗教に至っては恐怖で信者を支配する有り様である。罪と罰のセットメニュー。お持ち帰りに「先祖の祟り」はいかがでしょうか?

 システマが恐怖に着目しているのは、やはりその思想性の高さによるものだろう。具体的な呼吸法については次回記す。

ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング

2014-04-16

カウンセラーのパーソナリティ/『カウンセリングの技法』國分康孝


コミュニケーションの技法
・カウンセラーのパーソナリティ

 カウンセリングの技法というものは、カウンセラーのパーソナリティの表現でなければならない。心の中では人を軽蔑しながらも、口先だけで「うんうん」と受容するのは欺瞞的である。心の中と表現(技法)とが一致するのでなければならない。

【『カウンセリングの技法』國分康孝〈こくぶ・やすたか〉(誠信書房、1979年)以下同】

 國分の動画を見つけた時は昂奮した。線のくっきりした顔つきであるにもかかわらず柔和だ。話し方も頗(すこぶ)る優しい。さすがカウンセラーである。そして何と言っても高名な人物に特有の傲然とした雰囲気がない。ありのままの人柄が伝わってくる。

「カウンセリングの技法で問われるのは、お前さんの性格だよ」と國分は言い切っている。医師と患者は対等な関係ではない。困っているのは患者だ。意識するとしないとにかかわらず上下関係が構築されやすい。同じ言葉であっても人によって響き方がまるで違う。そこに心の不思議な作用がある。國分は技法とパーソナリティが一体化する条件を四つ挙げる。部分的に紹介しよう。

【人好き】人好きの人間とは、自分を好いている人間である。自己嫌悪の強い人は他者嫌悪も強い。人の好き嫌いの激しい人は自分への好き嫌いも激しいはずである。
 カウンセリングは人の面倒をみる仕事であるから、人好きでないと永続きしない。負担になってくるからである。自分を好くとは自己受容のことである。あるがままの自分を受け入れることである。たとえば、ケチな自分をとがめているとケチな相手をもとがめたくなる。ケチな自分を許すとケチな相手をも許せるようになる。(後略)

【共感性】(中略)共感性はクライエントと類似の感情体験があるとき生じてくる。それゆえ、カウンセラーは日常生活でできるだけ多様な感情体験をしておくのがよい。多種多様な人とつきあう、多種多様な状況に身をおいてみる、多種多様な読書をするなどである。苦労は買ってでもせよということになる。実戦を知らない作戦参謀にはなるなということである。共感性なしに面接技法を用いるとき、それは会話術に堕してしまう。

【無構え】カウンセラーが四角四面なパーソナリティでは来談者もリラックスできない。カウンセラーは酒を飲んでいないときでも、酒に酔ったときのような心境でなければならぬ。すなわち、天真爛漫、天衣無縫でなければならぬ。防御がなければないほど好ましい。(後略)

【自分の人生】カウンセラーは自分の人生をもたねばならない。自分の人生をもたないものは、他人の人生を自分の人生のようにみなしてつい深入りしてしまう。自分の人生がない人は、ややもすると人が幸福な人生を築くと嫉妬しがちである。自分の人生が幸福なとき、初めて人の幸福が喜べるのである。(後略)

 実にわかりやすい話である。現場の体験から導き出された智慧といってよい。相談される機会が多い人ならピンとくるはずだ。互いが心を開けばこそ、胸を打つ対話が成り立つのだ。コミュニケイトとは「通じ合う」ことだ。開かなければ通じない。

 行き詰まりとは先に進めない状態を指す。苦しい胸の内を開き、「そうか――」と話を聞いてあげるだけでもパッと光が差すこともある。苦悩には目方がある。その重みにこちらがしっかりと踏みこたえることができないと、単なる苦悩の二重奏で終わる。私はルワンダ本を読んだ時にそうなった。深海に引きずり込まれたような心境であった。その状態が1年以上続いた。

 多くの人が人生で最大のストレスを感じるのは家族や伴侶の死である。この時、物語化に失敗すると立ち直ることが難しくなる。特に不慮の事故や痛ましい事件の巻き添えとなった場合、理屈で乗り越えることは不可能だ。その意味からも山下京子河野義行の著作を読んでおくべきだ。

 人生どんな出会いがあるかわからぬものだ。だからこそ人との出会いを求めて貪欲に行動することが正しい。今はネットもあるのだから、有効な武器として活用すべきだろう。

カウンセリングの技法

國分康孝の談話室


Ph.D國分康孝教授の最終講義
コミュニケーションの技法/『カウンセリングの技法』國分康孝

Ph.D國分康孝教授の最終講義




國分康孝の談話室
コミュニケーションの技法/『カウンセリングの技法』國分康孝

2014-04-15

読書とは手の運動/『本の読み方 墓場の書斎に閉じこもる』草森紳一


 読書といえば、頭のみを使うと思っている人が多い。それは、誤解で、手を使うのである。本をもつのにも、手が必要である。頁をめくるにも、手の指がなければ、かなわない。読書とは、手の運動なのである。
 ためしに他人の読書している姿をこっそり観察してみるがよい。たえず手が、せわしなく動いているのに気づくだろう。手のひらや、5本の指を器用に動かしながら本を読んでいる。読書は、麻雀と同じように、頭の運動なので、老化を防ぐというが、実際は、手の運動だ。

【『本の読み方 墓場の書斎に閉じこもる』草森紳一〈くさもり・しんいち〉(河出書房新社、2009年)以下同】

 ストンと腑に落ちた。ああ、そうか――。それで後半になると読むスピードが速くなるわけだ。私の場合、読書の速度は左手の荷重に関連しているようだ。たぶん横書きの本が苦手なのは左手が混乱するためだろう。

 本を読む手は指揮者のように動いてとどまることを知らない。乗ってくると右手の指は常に左ページの下を摘(つま)んでいる。また重要な内容と思われるページは両手の指がページ上部を抑えていることが多い。紙の手触りだけではなく、ページをめくる音も大きな要素だ。微速度撮影をすれば楽しい映像ができあがることだろう。

 私がタブレット型端末を躊躇するのは、本能的に手の動きが阻害されることの自覚があったためだと思われる。そう考えると本の大きさと読書運動量は比例するわけだから、巨大な本を読めば情報が脳に刻まれる深度も異なってきそうだ。ヘビー級の本があって然るべきだろう。

 またヌードグラビア以外でも袋綴じは恐るべき威力を発揮する可能性がある。小説の山場は袋綴じにした方が盛り上がりそうな気がする。

 結局のところ会話にジェスチャーが不可欠なのと一緒だ。情報の受信は脳だけではなく脊髄も関係しているに違いない。

「本てなあ、それかね。そいつを読むてえのが解らねえ。お前さまの白眼(にら)んでなあ、其の白えところかね? それとも間(あひだ)の黒えところかね」(牧逸馬『紅茶と葉巻』、『現代ユウモア全集 12巻』より)

 アフリカから来たばかりの黒人が、読書している主人の肩越しに言う科白(せりふ)である。牧逸馬〈まき・いつま〉の名前を初めて知った。長谷川海太郎〈はせがわ・かいたろう〉のペンネームのひとつで、他には林不忘〈はやし・ふぼう〉、谷譲次〈たに・じょうじ〉などがある。林不忘といえば丹下左膳で広く知られる。

 この科白を紹介した後、草森はあれこれと深読みを試みているのだが少々強引だ。たとえ文字を知らなくともページの図と地を入れ替えることはあり得ない。ここには反語的メッセージが込められているのだ。つまり読書とは「黒い」部分を読む行為であるが、真の読書は「白い」余白、すなわち行間を読む営みなのだ。

 黒人の言葉が江戸弁になっているのがご愛嬌。

 草森の文章は気取りすぎていて好きになれない。

本の読み方

2014-04-14

修道女のいたずら

コミュニケーションの技法/『カウンセリングの技法』國分康孝


・コミュニケーションの技法
カウンセラーのパーソナリティ

 まず第一に、カウンセリングは「行動の変容」を目標にする。人間が人間を治すとか変えるとかするのは高慢である。われわれにできることは相手に共感し、あるいは理解的態度を示すことであるという人がいるかもしれぬ。しかし、反論したい。何のために共感したり理解的態度を示そうとするのか。それはそのことにより相手を助けることができるからである。助かることができるとは、相手の行動の変容に効果があるということである。「いや、そうではない。効果など計算してはいない。そうせずにおれないからそうするのだ」というならば、それはプロフェッショナルな面接とはいえない。一定時間、一定場所で料金をとって面接するからには何らかの目的がなければならぬ。目的なしに料金をとるわけにはいかない。「治すのではない、非審判的・許容的雰囲気をつくるだけだ。あとは来談者が勝手に自己を変えていくのだ」といったところで、やはり非審判的・許容的な雰囲気をつくる目的を問うならば、それは行動変容の条件として不可欠だからということになろう。それゆえ、カウンセリングは学派の如何を問わず行動の変容を目指すものといえる。では、行動の変容とは何か。反応の仕方に多様性がでてくることである。今まで父にビクビクしていた人が、父に適当に冗談が言えるようになり、上司にビクビクしていた人が、上司に「ハイわかりました」と言うだけでなく、「……ですね」と復唱して確認しておけばよいという具合に、今までとは異なる反応を学習することである。この場合、反応の仕方といっても、たとえば異人種に対する偏見のような心の中の反応と、飲酒・喫煙・麻薬常習・盗みというような外的に観察しうる反応がある。カウンセリングは、この両者の反応の変容を目指すものである。
 では、行動の変容を目指すカウンセリングはいかなる手段をとるのか。それは言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションである。つまり、音声言語のやりとりや身体言語のやりとりを通して行動の変容を促進しようとするのである。

【『カウンセリングの技法』國分康孝〈こくぶ・やすたか〉(誠信書房、1979年)以下同】

 1月にパソコンを新調したのだが、ホームページ作成ソフトのCDが見つからないため更新が滞っている。で、探すのも更新するのも面倒なんで、ブログに「必読書」のカテゴリーを設けた。読書の道標(みちしるべ)になれば幸いである。せっかくなんで心理学の必読書を以下に示しておこう。

精神科医がたじろぐ「心の闇」/『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』M・スコット・ペック
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
唯幻論の衝撃/『ものぐさ精神分析』
現代心理学が垂れ流す害毒/『続 ものぐさ精神分析』
極限状況を観察する視点/『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル
死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル

 岡田尊司〈おかだ・たかし〉著『マインド・コントロール』を加える予定。

 そして本書である。凡百のマネジメント本が100冊束になってもかなわない一書である。「コミュニケーションの技法」として読むことが可能だ。上記テキストからも明らかなように國分は実務家である。たぶんカール・ロジャーズの名を借りて来談者中心療法を悪用するカウンセラーが多かったのだろう。因みに患者をクライアント(来談者)と呼んだのはロジャーズを嚆矢(こうし)とする。

 ロジャーズの手法は高度にシステム化されており、カウンセラーの意志力なくして実践は難しい。悪用するつもりがなくても、結果的に患者を野放しにすることも容易に想定できる。ま、閉ざされたスペースで適当に仕事をしている心療内科が多かったのだろう。國分は同業者に対して「仕事をせよ!」と呼びかけたのだ。

 具体的なやり取りも紹介されていて、これが大変参考になる。とにかく無駄な理論や理屈がない。どこまでも具体性に基づき、効果を検証する。臨床の鑑(かがみ)だ。

 影響を受けた人物として霜田静志〈しもだ・せいし〉を筆頭に挙げている。

 私が20代の頃であった。私より年上のクライエントが私の言うとおりに動いてくれて、私も何かえらくなったような気持だという意味のことを言った。「國分君、それはね、君に頭を下げているのではないよ。君の学問に頭を下げているのだよ。それを忘れちゃだめだよ」と霜田静志は私を諭した。

 こういうエピソードをさらりと書けるところがまた憎いではないか。

 ビジネス、スポーツ、教育で人を育てる機会がある人は必読のこと。テクニックが身につくというよりも、コミュニケーションの幅が広がる。

カウンセリングの技法

 私は、面接のほかに読書をすすめることがよくある。自分の正当性を主張してやまない母親には霜田静志の『叱らぬ教育の実践』(黎明書房)をすすめる。生徒に好かれない教師にはニイル『問題の教師』(黎明書房)をすすめる。自分の問題点に気づきカウンセリングへの意欲を高めるのがねらいである。簡便法の一つの試みである。効果は今のところ半々である。人生計画もなく留年や登校拒否をしている青年には井上富雄『ライフワークの見つけ方』(主婦と生活社)をすすめる。これは一念発起のきっかけになるようである。


 カウンセリングをする場合の著者を支えている本として以下が紹介されている。

新版 ニイル選集〈1〉問題の子ども新版 ニイル選集〈2〉問題の親新版 ニイル選集〈3〉恐るべき学校

新版 ニイル選集〈4〉問題の教師新版 ニイル選集〈5〉自由な子ども五輪書 (岩波文庫)

Ph.D國分康孝教授の最終講義
國分康孝の談話室

全員実名で告発! 袴田巌さんの罪をデッチあげた刑事・検事・裁判官


日米関係の初まりは“強姦”/『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー


岸田●ペリーがきたというのが、アメリカと日本の最初の関係のはじまりなわけですけれども、その最初の事件に関するアメリカ人の見方と日本人の見方に、非常に大きな開きがあって、そこに日米誤解の出発点があるんじゃないかと思います。日本の側から言えば、あれは強姦されたんです。

バトラー●文化に対する強姦ということは言えるんでしょうかねえ。

岸田●その理論的根拠については僕の書いた本のなかに述べておりますが、僕は、個人と個人の関係について言い得ることは集団と集団との関係についても言い得ると考えているわけです。強姦されたと言ったのは、司馬遼太郎さんですがね。僕はどこかで読んだんですけれども、そのとき、まさにそうだと僕は思ったわけです。日本が嫌がるのにむりやり港を開かされたのは、女が嫌がるのにむりやり股を開かされたと同じだと。ところがアメリカのほうは、近代文明をもたらしてあげたんだぐらいに思っている。

バトラー●そのつもりでしたね。

岸田●アメリカのほうは、封建主義の殻に閉じ籠もっていた古い日本を近代文明へと拓いた、むしろ恩恵を与えたぐらいのつもりで、日本のほうは強姦されたと思っているわけですね。同じ事件に関する見方が、かくも違っている。

バトラー●(省略)

岸田●ああいう形で日米が出会ったのは、やはり不幸な出会いだったんじゃないかと思います。いわばある男と女の関係が強姦ではじまったようなものです。そしてその強姦された女は、その男と仲よくしたいと思うんだけれども、いろいろなことから、どうしてもこだわりがあるわけです。

【『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー(トレヴィル、1986年/青土社、1992年/河出文庫、1994年)】

 ケネス・D・バトラーは東洋言語学博士でアメリカ・カナダ大学連合日本研究センターの所長を務めた人物。岸田の対談集はどれも面白いが本書の出来はあまりよくない。

 私はペリー強姦説が岸田のオリジナルだと思い込んでいたので司馬遼太郎の名前を見て驚いた。

 ペリー来航の意義は、圧倒的な武力による開国の強要だけではなく、また交易の開始でもなかった。政治と経済、文化といったあらゆる面において、日本が近代という巨大なシステムに吸収されるということだったのである。

【『近代の拘束、日本の宿命』福田和也(文春文庫、1998年)】

 つまり強姦された挙げ句に、白人の家へ嫁入りさせられてしまったわけだ。そう。先進国一家だ。

 憂鬱になってくる。強姦した相手が金持ちであったために結婚生活が何となく幸福に見えてしまう。日本の経済発展の底流にはそういう心理的な誤魔化しがあったのだろう。で、怒りの矛先はアメリカではなく中国や韓国に向かう。まったく捻(ねじ)れている。

 しかも、黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)。現在、その捕鯨で我が日本は白人どもから叩かれている(有色人捕鯨国だけを攻撃する実態)。

「強姦」は喩えではない。アメリカ人は黒人奴隷やインディアンを実際に強姦しまくっている。ノルマンディー上陸作戦においては白人をも強姦している(「解放者」米兵、ノルマンディー住民にとっては「女性に飢えた荒くれ者」)。奴らのフロンティアスピリットとは強姦を意味するのかもしれない。

「世界の警察」を自認するアメリカは強姦魔であった。民主主義が有効であるならば、アメリカは倒されてしかるべき国家だ。

黒船幻想―精神分析学から見た日米関係 (岸田秀コレクション)


黒船の強味/『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八
泰平のねむりをさますじようきせん たつた四はいで夜るも寝られず/『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』岩下哲典

2014-04-13

無意味と有意味/『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド


 真実は両者の中間にある。つまり、世界は完全な無意味ではないが、意味のわかる部分は限られている。このため、わたしたちはある方向には行動できるが、他の方向にはどうするべきかまったくわからないのである。
 簡単な例を使ってこれを考えてみよう。まず、目や耳、鼻や手を通して脳に送られてくる感覚情報は、つぎのようにビット(0または1)が連なった数列の形にあらわされているとする。

00101000110110……

 こんな仮定は奇妙に思われるかもしれないけれど、わたしたちはこの方法を使ってコンピュータと情報のやりとりをしているのである。たとえば、何かの絵をコンピュータの中に取りこむときに、どんなことがおこなわれるかというと、まず、ちょうど新聞紙に印刷された写真おように、絵を小さな点に分解する。それから、各点における色に2進法で番号を付ける。そうしてコンピュータに0と1のビット列を読みこませて、ディスプレイ上に絵を再現するのだ。
 つぎにマックスウェルから小さな悪魔を借りてきて、0と1からなる感覚情報をわたしたちの脳の代わりに読んでもらおう。この悪魔が受けとる情報はもっぱら感覚毛色から届くものとし、感覚毛色からは刻一刻と新しいビットが送られ、すでにわかっている数列につけ加えるとする。何しろ彼は悪魔なので永遠に生きられる。ということは、この世の終わりには、0と1が無限につづく数列が彼のもとに届くわけで、そうしたらわたしたちはこの世界に意味があるかどうかを彼にたずねることにしよう。

【『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド:南條郁子訳(創元社、2006年)】

 偶然に関する分野はなかなか奥が深い。大雑把にいうと統計学と複雑系科学に分かれるが、本書は北欧神話と数学でアプローチしている。

 偶然と必然はただ単に無意味と有意味につながるものではない。キリスト教世界では自由意志の問題と決定論に関わってくる。

 脳は時系列を因果関係として認識し、ここに意味が生まれる。ただし意味は解釈によって変わるわけだから、「我々が生きるのは現実世界ではなくして解釈世界である」という私の持論が成立する。そして五感情報がバイアス(歪み)を避けられないため解釈された世界は妄想の色を帯びる。ここに宗教発生のメカニズムがある。

宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン

 単なる偶然を必然の物語に変えるのが宗教の仕事だ。偶然とは思えないような出来事は必ず宗教色が滲み出る。

ユングは偶然の一致を「時間の創造行為」と呼んだ/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング

 私はどちらかというと複雑系科学に興味があるため、本書はあまりピンとこなかった。アプローチの仕方はユニークなのだが淡白な文章に馴染めなかった。上記テキストもよく読むとちょっとおかしい。ビット化されたデジタル情報は「世界が0と1で構成されている」ことを意味するのではなく、「殆どの情報を0と1に置き換えられる」ことを示しているだけのこと。

 置き換えとは翻訳であるから、本来であればここから言語の限界に進むべきだと思われる。ビット列で画像が表示できるわけだから、0と1は既に軽々と言語を超えた。

 現実生活の作法としては偶然や必然を思い詰めて考えるべきではない。意味の罠に捕われてしまうと自分で自分を裁く場面が増えるように思う。ブッダが示した因果は必然ではなく、現在性を時間の流れの中で捉え直したものだと思う。必然性というよりは関係性(縁起)に重きを置く。

 我々は不幸な出来事が起こると、「なぜ?」と問わずにはいられない。「なぜ私だけがこんな目に遭わないといけないのか?」と。私がアウシュヴィッツやルワンダ、インディアン、パレスチナに関する書籍を読んできたのもこのテーマを探るためだった。

 神谷美恵子〈かみや・みえこ〉はハンセン病患者と出会い「何故私たちでなくてあなたが?」と問うた(『人間をみつめて』)。

 悲劇には固有の顔がある。人間の残酷さには限りがない。やがて地球は人類の悲しみを支えることができなくなることだろう。

 希望を抱くことは悲哀からの逃避に過ぎない。ゆえに、ただ悲しみを手放すことが正しい生き方だ。

偶然とは何か―北欧神話で読む現代数学理論全6章

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック