2015-11-02

自殺は悪ではない/『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑


 たとえば、「自殺は決して罪悪ではない」(本書第40話)ということを書いたところ、それに対しては、何通かの批判の投書と、多くの方からの丁寧なお礼状を頂戴した。礼状はもちろん、身近な人を自殺で亡くされた方々からの封書である。
 1通読むたびに涙があふれた。そして、私の発する言葉が、良し悪しはともかく、こうして大勢の人たちの心に様々な思いを呼び起こすのだと知って、襟を正したのである。メディア上で発言するということは、その言葉に対して無条件に責任を負うということだ。まして人の生き方にかかわる言葉なら、なおさらである。

【『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑〈ささき・しずか〉(ちくま新書、2009年)以下同】

 朝日新聞に連載された仏教エッセイ。佐々木は仏教史と戒律の研究で知られる。

 そのような人が、もし仮に、自分で自分の命を絶ったとしたら、それは悪事であろうか。一部のキリスト教やイスラム教では、せっかく神が与えてくださった命を勝手に断ち切るのだから、それは神への裏切り行為として罪悪視される。自殺者は犯罪者である。
 では仏教ならどうか。仏教は本来、我々をコントロールする超越者を認めないから、自殺を誰かに詫びる必要などない。確かに寂しくて悲しい行為ではあるが、それが罪悪視されることはない。仏教では煩悩と結びつくものを「悪」と言うのだが、自殺は煩悩と無関係なので悪ではないのである。ただそれは、せっかく人として生まれて自分を向上させるチャンスがあるのに、それをみすみす逃すという点で、「もったいない行為」なのだ。
 人は自殺などすべきではないし、他者の自殺を見過ごしにすべきでもない。この世から自殺の悲しみがなくなることを、常に願い続けなければならない。しかしながら、その一方で、自分の命を絶つという行為が誇りある一つの決断だということも、理解しなければならない。人が強い苦悩の中、最後に意を決して一歩を踏み出した、その時の心を、生き残った者が、勝手に貶(おとし)めたり軽んじたりすることなどできないのだ。
 自殺は、本人にとっても、残された者にとっても、つらくて悲しくて残酷でやるせないものだが、そこには、罪悪も過失もない。弱さや愚かさもない。あるのは、一人の人の、やむにやまれぬ決断と、胸詰まる永遠の別れだけなのである。

「一部」ではなく「全部」である。アブラハムの宗教において自殺は罪と認識されている。「自殺は煩悩と無関係」との根拠も不明で、全体的には腰砕けの印象を拭えない。それでも救われた人々が多いという事実が重い。

「自殺は煩悩と無関係」よりも「自殺は不殺生とは無関係」(仏教は自殺を本当に禁じているのか?)の方がすっきりしてわかりやすい。とすると、やはり「自殺」という言葉よりも、「自死」「自裁」が相応(ふさわ)しいのだろう。


 かつてこう書いた。

 事実を見つめてみよう。「自殺した人がいる」「自殺という選択をした人がいる」――それだけの話だ。そこに「余計な物語」を付与してはいけない。

無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元

 身近な人々が「なぜ自殺をしたのか?」と問うことは「毒矢の喩え」と似た陥穽(かんせい)におちいる。


 9.11テロの直後、カリフォルニアでは流産件数が跳ね上がったという。しかも増加分はすべてが男児であった(『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス、2007年)。胎児が五感情報を通して生まれ来る世界が戦争状態であると認知すれば、男であることは生存率の低さを意味する。その瞬間、遺伝子は死のスイッチを押すのではあるまいか。

 少子化も無関係ではないだろう。「この世は生きるに値しない世界だ」と認識すれば、自分の遺伝子を残そうとは思わない。病んだ社会は人々を緩慢な自殺へといざなうことだろう。飽食や運動不足を始めとする不健康さが、我々の人生そのものにべったりと貼り付いている。

「なぜ自殺したのか?」と問うなかれ。ただ「その人と出会えたこと」を喜べるかどうかを問うべきだ。

日々是修行 現代人のための仏教100話 (ちくま新書)

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