2015-01-24

脳神経科学本の傑作/『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン


 長期にわたってものを考えるとき、その考えを維持するために、推論の連鎖から十分な報酬を引き出す必要がある。しかし一方で、柔軟さも維持して、その考えに矛盾する証拠が出てきたら喜んでそれを捨てられるようでなければならない。けれども、長い間考えていて、報酬の感覚が繰り返され、発達してくると、思考と正しいという感覚とを結びつける神経連結がしだいに強化されていく。このような結びつきは、いったん形成されるとなかなか断てない。

【『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン:岩坂彰訳(河出書房新社、2010年)以下同】

 まだ読んでいる最中なのだが覚え書きを残しておく。脳神経科学本の傑作だ。『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース、『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン、『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ、『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ、『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソンなどと、認知科学本を併読すれば理解が深まる。

 脳神経科学は身体反応に拠(よ)っている。つまり「目に見える科学」である。ただし全ての身体反応を科学が掌握しているわけではあるまい。見落としている反応もたくさんあるに違いない。その限界性を弁える必要があろう。

 ロバート・A・バートンは小説を物(もの)する医学博士である。こなれた文章で困難極まりないテーマに果敢なアプローチを試みる。

 急いで書こうとしたのにはもちろん理由がある。以下のテキストと関連が深いためだ。

英雄的人物の共通点/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー

「報酬」とは具体的には中脳辺縁ドーパミン系の活性化である。

 1990年代前半に、エルサレムにあるヘブライ大学の生化学者リチャード・エブスタインらはボランティアを募り、各自が持つ、リスクや新奇なものを求める志向を評価してもらった。その結果、このような行動のレベルが高い人ほど、ある遺伝子(DRD4遺伝子)のレベルが低いことが分かった。この遺伝子は、報酬系の中脳辺縁系の重要な構造においてドーパミンの働きを調整する。そこでエブスタインらが立てた仮説は、ドーパミンによる報酬系の反応性が弱い人ほど、報酬系を刺激するために、よりリスクの高い行動や興奮につながら行動をとりやすい、というものだった。
 その後エブスタインらは、非利己的、あるいは愛他的な行動をとりがちだと自己評価する被験者では、この遺伝子のレベルが高いことも発見した。この遺伝子をたくさん持っている人は、これを持たない人よりも弱い刺激から一定の快感を得ることができるとも考えられる。

 薬物やアルコールなどの依存症、暴走族や犯罪傾向が顕著な人物を思えば理解しやすいだろう。アマンダ・リプリーが「英雄的人物」と評価した人々を支えていたのは遺伝子である可能性が考えられる。「救助者たちは概して民主的で多元的なイデオロギーを支持する傾向があった」(アマンダ・リプリー)事実は、特定の宗教や思想・信条といった狭い世界ではなく、より広い世界から報酬を得られることを示唆している。

 私はよく思うのだが、自分が正しいと主張し続けることは、生理学的に見て依存症と似たところがあるのではないだろうか。遺伝的な素因も含めて。自分が正しいことを何としても証明してみせようと頑張る人を端から見ると、追求している問題よりも最終的な答えから多くの快感を得ているように思える(本人はそう思っていない)。彼らは、複雑な社会問題にも、映画や小説のはっきりしない結末にも、これですべて決まり、という解決策を求める。常に決定的な結論を求めるあまり、最悪の依存症患者にも劣らないほど強迫的に追い立てられているように見えることも少なくない。おそらく、実際そうなのだろう。

 正義を主張する原理主義者は脳内で得ることのできない報酬を、特定の集団内で得ているのだろう。

 やや難しい内容ではあるが、かような傑作を見落としていた自分の迂闊(うかつ)さに驚くばかりである。

確信する脳---「知っている」とはどういうことか

秀逸な文体を味わう/『ダニー・ザ・ドッグ』ルイ・レテリエ監督


『名探偵モンク』のような秀作を見ると、他のドラマを見る気が失せる。元々、『ブレイキング・バッド』は数回見て挫け、『パーソン・オブ・インタレスト 犯罪予知ユニット』はシーズン2の途中でやめ、『プリズナーズ・オブ・ウォー』、『Dr. HOUSE』、『メンタリスト』、『チョーズン:選択の行方』、『ALPHAS/アルファズ』と挫折が続いた。

「カネをかけてヒット作を狙う」あざとい精神がリアリティを見失っているのだろう。視聴者をただ驚かせようとしていて、共感を排除する傾向が顕著だ。

 疲れ果てた私が思い出したのは映画『ダニー・ザ・ドッグ』であった。


「超映画批評」の前田有一氏が秀逸なレビューを書いている。

『ダニー・ザ・ドッグ』20点

「我が意を得たり」という批評である。それでも尚、面白いものは面白いのだ。私が映画作品を二度見ることは滅多にない。

『ダニー・ザ・ドッグ』は荒唐無稽なストーリーを秀逸な文体(脚本)で描いた作品だ。しかも場面展開が速いので最後まで飽きることがない。

 はっきりと書いておくが最大の問題は有色人種であるダニー(ジェット・リー)を犬扱いしていることで、拭い難い人種差別意識に蔽(おお)われている。ダニーを救うサム(モーガン・フリーマン)は黒人だが、娘のヴィクトリア(ケリー・コンドン)と血のつながりはない。そしてダニーの首輪を外したのがヴィクトリアである事実を思えば、やはり抑圧された人種を救う白人という構図が浮かんでくる。尚且つ、ダニーは文化と無縁という設定になっている。

 ケリー・コンドンは17歳という設定だが実に可愛い。まるで「赤毛のアン」さながらである。決して美人ではないのだが、髪型やファッション(モーガン・フリーマンもそうだがカーディガンが非常によい)はもとより目尻の皺まで愛らしく見える。

 ジェット・リーのアクションも見もので、『ボーン・アルティメイタム』のトイレでの格闘シーンは明らかに本作品のパクリである。


 尚、ボーン・シリーズのサイドストーリーとして『ボーン・レガシー』という映画があるが、ほぼ『ボーン・アルティメイタム』の焼き直しとなっている。

 そういえば「記憶の欠如」という点でもこれらの映画は似ている。要は自分探しと救いの物語である。

 モーガン・フリーマンとケリー・コンドンという善人に対抗するのが、バート(ボブ・ホスキンス)で、この悪役ぶりが秀逸だ。特に彼の「善意を装った言葉」が悪を際立たせている。

 デタラメなストーリーであるにもかかわらず面白い作品を私は「文体映画」と呼びたい。例えばポール・フェイグ監督の『アイ・アム・デビッド』など。

 ストーリーと文体が一致した稀有な作品には『アメリ』や『ドッグヴィル』、『善き人のためのソナタ』、『灼熱の魂』などがある。

「町山智浩帰国トークイベント」2010年7月28日新宿ロフトプラスワン

2015-01-21

日本人人質動画に合成疑惑

2015-01-20

生きるとは単純なこと/『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ


『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・何も残らない
 ・生きるとは単純なこと

1月1日 生きるとは単純なこと

 生きるとは、複雑なようであって、じつはとても単純です。
 歩いたり座ったり喋(しゃべ)ったり、寝たり置きたり。それ以外、特別なことは何もありません。
 この単純さを認めないことが、苦しみの原因のもとなのです。
 この単純さ以外に、何か人間を背後から支配している「宇宙の神秘」のようなものがあると思うのは、妄想です。
 人生とはいともかんたんに、自分で管理できるものなのです。

【『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ(PHP研究所、2008年)】

 本年より書写行を開始。セネカ著『人生の短さについて 他二篇』を終えて、本書と取り組む。新書サイズで上下二段。1ページに2日分の内容となっている。何の解説もないのだが、たぶんスマナサーラ本からの抄録であろう。このエッセンスを理解するには、ある程度スマナサーラ本を読む必要あり。手軽に読んでしまえばかえって理解から遠ざかることだろう。

 業(ごう)とは行為を意味する。日本だと悪業の意味で使われることが多いが善業も含む。その基本は歩く・座る・寝るの三つである。言われてみると確かにそうだ。健康の最低限の定義は「歩ける」ことだろう。身体障害の厳しさは歩くことを阻まれている事実にある。

 悩みがあろうとなかろうと、幸福であろうと不幸であろうと、人間の行為がこの三つに収まることは変わりがない。

 一方には豪華なソファに座る人がいて、他方には擦り切れた畳の上で胡座(あぐら)をかく人がいる。資本主義というマネー教に毒された我々は所有でもって人を測る。だが「座る」ことに変わりはない。つまり「座る」という姿こそが真理なのだろう。

 後期仏教(いわゆる大乗)は絢爛(けんらん)たる理論を張り巡らせ、「宇宙の神秘」を説くことでヒンドゥー教再興に抵抗したというのが私の見立てである。結果的にブラフマンアートマンを採用した(梵我一如)ことからも明らかだろう。

 この神秘主義はなかなか厄介なもので、スピリチュアリズムと言い換えてもよいだろう。後期仏教を密教化と捉えれば神秘主義が浮かび上がってくる。そこには必ずエソテリズム(秘伝・秘儀)の要素が生まれる。

 人間の脳は論理で満足することがない。どこかで不思議を求めている。ミステリーがマジックと結びつくと人は容易に騙される。宗教・占い・通販の仕組みは一緒だ。「物語の書き換え」によって人間を操作する。大衆消費社会を維持するのは広告なのだ。

 歩く、座るといった振る舞いに何かが表れる。颯爽と歩く人には風を感じるし、猫背でとぼとぼと歩く人には暗い影が見える。小学生の歩く姿をよく見てみるといい。悩みがある子は直ぐにわかるものだ。

 これに対して幼児はほぼ全員が歩くこと自体を喜びと感じている節(ふし)がある。だから見ているだけでこちらまで楽しくなってくる。きっと立った瞬間に、また歩いた瞬間に脳は激変している。そりゃそうだ。「見える世界」が変わったのだから。二足歩行を始めた人類の歴史が窺える。

「人生とは単純なものだ」と決めてしまえば、心の複雑性から解き放たれる。怒り、嫉妬、憎悪を生むのは心である。そこに宗教や思想が火をつけ、油を注ぐことも珍しくはない。

 我々は「自分の人生」を失ってしまった。他人に操作された人生を送るがゆえに争いの人生を強いられている。決して心が安らぐことがない。絶えず不安の波が押し寄せる。

 今、大事だと思っていることが、年を重ねるに連れてそうでもないことに気づく。手放せるものはどんどん捨ててしまえ。不要な物を捨て、不要な欲望を捨て、最後は自我まで捨ててしまえというのがブッダの教えである。

【追記】竹内敏晴は「人間が生きている、ということは、基本的には『立って』動いていることである」と指摘している(『ことばが劈(ひら)かれるとき』)。とすれば、人の行為は大別すれば、寝るか・起きるかに分けることができそうだ。

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)