2015-04-16

女子高生の清冽な言葉/『適切な世界の適切ならざる私』文月悠光


(にらみつけた先は、けして暮れることのない夕空。“夜闇が口を開く間際”、そんな張り詰めた一瞬を焼きつけたまま、時間を止めているこの“世界”。
今こそ疾駆せよ!
夕日を踏みつけ、
夜をむかえに走ろう。
オレンジ色に染まりながら、爪を立てて生きてみたい。〈後略〉

【『適切な世界の適切ならざる私』文月悠光〈ふづき・ゆみ〉(思潮社、2009年)】

 行頭もママ。文月は17歳で現代詩手帖賞を、本書で18歳の時に中原中也賞を受賞した。いずれも最年少記録である。女子高生の小気味いい言葉が水鉄砲のように私を撃つ。そして意外な温度の低さに冷やりとさせられる。

 ただし中年オヤジからすれば、やはり「けして」などという言葉づかいに眉をひそめてしまうし、ペンネームも仰々しさが目立つ。

生きる意味は
どこに落ちているんだろう。
きれいに死ねる自信を
誰が持っているんだろう。
自分は風にのって流れていく木の葉か、
でなければ、あんたが今
くつの裏でかわいがった吸い殻ではないのか。
存在なんてものにこだわっていたら、
落ちていくよ。
『どこへ?』
橋の下さ。

 社会に染まってしまえば言葉は死ぬ。反骨精神を欠いた若者は生ける屍(しかばね)も同然だ。文月は札幌出身である。同郷の誼(よしみ)で応援せざるを得ない(笑)。

 尚、本書についてはブログ「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」に秀逸なレビューがあるのでそちらを参照せよ。

文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』

適切な世界の適切ならざる私

極太の文体/『内なる辺境』安部公房


 べつに、すべての軍服が、ファシズムに結びつくなどと思っているわけではない。
 しかし、あらゆる軍服の歴史を通じて、やはりナチス・ドイツの制服くらい、軍服というものの神髄にせまった傑作も珍しいようだ。あの不気味に硬質なシルエット。韻を踏んでいるような、死と威嚇の詩句のリフレイン。実戦用の機能を、いささかも損なうことなく、しかも完全に美学的要求を満足させている。

【『内なる辺境』安部公房〈あべ・こうぼう〉(中央公論社、1971年/中公文庫、1975年)以下同】

 実は安部公房の小説を読み終えたことがない。丸山健二が評価していることを知ってから何冊か開いたがダメだった。本書もエッセイだからといって全部に目を通すつもりはなかった。ただ、熊田一雄〈くまた・かずお〉氏のブログで見つけた文章を探すためだけに読んだ。私は胸倉をつかまえられた。そのままの状態で結局読み終えてしまった。

 極太の文体である。太い油性ペンで書かれた角張った文字のような印象を受けた。目的の言葉は冒頭の「ミリタリィ・ルック」(1971年)にあった。


 と言うことは、同時に、ナチスの制服が、いかに完璧に彼等の素顔を消し去り、日常を拭い去っていたかの、証拠にもなるだろう。敗北が彼等から奪ったのは、単なる闘志や戦意だけではなかったのだ。彼等が奪われたのは、まさに制服の意味であり、制服の思想であり、制服を制服たらしめていた、国家そのものだったのである。
 この2枚の写真は、ある軍服の死についての、貴重な記録というべきだろう。それはまた、一つの国家の死の記録でもある。動物の死の兆候が、まず心臓にあらわれるように、国家の死の兆候は、こんなふうにして軍服の上にあらわれるのかもしれない。

 2枚の写真から制服のシンボル性を著者は探る。1枚はドイツ兵が戦闘に向かう場面で、もう1枚は白旗を掲げる写真であった。

 制服は秩序を象徴する。我々は無意識のうちに行動や思考を制服に【合わせる】。というよりはむしろ、TPOに応じた服装そのものによって自分の型(スタイル)を表現していると考えられる。軍服が示すのは他人を殺す意志と、他人に殺される覚悟であろう。意識が尖鋭化するという点では勝負服やコスチュームプレイも軍服に近いと思われる。それを着用する時、人は衣服に同化する。

 ともかく、どうやら、悲痛な異端の時代はすでに過ぎ去ったらしい。本物の異端は、たぶん、道化の衣裳でやってくる。

 学生運動が翳(かげ)りを帯びた頃、ミリタリィ・ルックが流行った。そして2~3年前から迷彩柄が流行している。ファッションとしてのアーミーは異端ではなく迎合である。「道化の衣裳」と聞いて私の貧しい想像力で思い浮かぶのは、花森安治のオカッパ頭とスカート、楳図かずおの紅白ボーダーライン、志茂田景樹のタイツなど。

「道化」という言葉に託されたのは具体性よりも、時代を嘲笑する精神性なのだろう。

内なる辺境 (中公文庫)

2015-04-14

優れたセルフコーチング術/『悩めるトレーダーのためのメンタルコーチ術』ブレット・N・スティーンバーガー


 自分の理想を表現できる役者などほとんどいない。われわれには長所もあるし才能もある。夢も野心もある。しかし、長い間見ていても、そうした理想が具体的に表現されている例は少ない。数日が数カ月になり、数年になり、ようやく(残念ながら決定的になった時点で)人生を振り返り、今まで何をやってきたのかと頭をひねるのが普通である。
 皆さんもそうだろう。「どうして闘う人間になれなかったんだろう。もしかしたら違う人生を生きていたかもしれないし、自分の理想を表現する役者になって、その実現を謳歌していたかもしれないのに」と、中高年者は過去を振り返る。

【『悩めるトレーダーのためのメンタルコーチ術 自分で不安や迷いを解決するための101のレッスン』ブレット・N・スティーンバーガー:塩野未佳〈しおの・みか〉訳(パンローリング、2010年)以下同】

 巧妙な詐欺師を思わせる文章だ。アメリカ人はプレゼンテーション能力が優れている。しかもブレット・スティーンバーガーは医科大学で精神医学と行動科学を教える准教授で臨床心理学博士という人物。ま、他人を操るのが仕事といってよい。タイトルに「メンタルコーチ術」とあるが正確にはセルフコーチング術である。動機の分析・修正・方向付けによって行動を変えるところに目的がある。

 良書だが乗せられてはいけない。著者は実社会で実現し得なかった自己実現が、あたかもマーケットでは可能であると読者に思わせたいのだろう。甘い、まったく甘いよ。マーケットの勝者は15%とされる。殆どの人々が苦渋を味わい、辛酸を嘗(な)め、敗れ去るといった点で実社会と何ら変わらない。ただしマーケットでは自由と平等が保証されている。買うのも売るのも自由だし、するしないも自由だ。

 自由競争が資本主義の原理である。だが実態は異なる。倒れかかったメガバンクや大企業には税金が投入され、会社内では同族が優遇され、学歴・資格・試験によって走るコースが変わる。スポーツの世界ですら自由競争が行われているかどうか怪しい。才能や技術よりも、カネやチームの都合が優先する。芸術の世界は多分スポーツよりも劣る。パトロンやコネ、賞などに支配されていることだろう。

 それでも義務教育を振り返ればわかるが、やはりスポーツ・芸術・学問は自由な競争が行われていると考えてよい。もちろん生まれ持った才能や素質はあるものの、周囲の評価は共通している。そして努力が報われる世界でもある。

 社会全般における競争はカネに換算される。資本主義はカネ(≒資本)の奪い合いをする世界の異名だ。学校法人や宗教法人までもが広告を打つのはそのためだ。あらゆる言葉がマーケティングを志向し、結果的にプロパガンダと化す。大衆消費社会は広告という嘘によって扇動される。

 そして自己を実現するのもまたカネである――と思い込まされるのが資本主義の罠だ。っていうか、「実現されるべき自己がある」と思っている時点で既にやられている。そんなものはない。今の自分が全てだ。他人と比較して自分に欠けたものを見出すことに意味はない。できないことは、できる人にやってもらえばいいのだ。

 日本人の大半は投資をしていない。でも、実は本人に代わって銀行や保険会社が運用している。自分で運転できないから、タクシーやバスを利用しているようなものだ。

 投資やマーケティングに関する書籍は生々しい言葉で競争の本質を描くところに魅力がある。

 頭脳には手とまったく同じパワーがある。世界を支配するだけでなく、それを変革するパワーが。
     ――コリン・ウィルソン

 こんな言葉が出てくるのだから、やはり侮れない。

悩めるトレーダーのためのメンタルコーチ術 (ウィザードブックシリーズ)