2016-04-03

少女監禁事件に思う/『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎

 ・日常生活における武士道的リスク管理
 ・少女監禁事件に思う
 ・高いブロック塀は危険

『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎
『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

 災いを招くような行動をしないように気をつけていても、災いはいつどこでふりかかってくるか分かりません。しかし、常に心を引き締めて、覚悟していれば、より冷静に対応できると、父は言います。
「辻斬りは必ず後ろから、自転車で来るぞ」(中略)
「自転車辻斬り」(父はひったくりのことをそう呼んでいました)に、ハンドバッグをひったくられそうになっている時、ただ「きゃあ!」と叫んでも、無駄なことです。
「そんな暇があったら、相手の自転車を蹴れ!」
 反撃に驚いた相手が手を緩めたら、すかさずバッグを取り返し、逆方向に走れというのです。(中略)
 もし「辻斬り」と格闘になってしまったら?
 肥後守も懐剣も、持ち歩く時はバッグの底にあって、とっさには手に取れません。そういう場合は、ペンでも鍵でもハイヒールでも、手近のとがった備品で応戦できるように心の準備をしておくのが、父に言わせれば、サムライの娘のたしなみです。
「指輪もいいぞ!」
 そして後は、気迫です。
「殺されても、相手を無傷で帰すな。相手の首も取る気合で戦え」
 そのためにも、「手の爪は伸ばしておけ」と言われました。いざとなれば、それで相手をバリバリひっかくのです。その逆襲で相手を一瞬でもひるませたら、それこそバッグの底の懐剣や手近なとんがり備品でもって、首を取る気迫で応戦しろということです。
 父から見れば、この10本の爪は、いつも身につけていられる格好の武器なのです。

【『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子(産経新聞出版、2012年/光人社NF文庫、2019年)以下同】

 坂井は娘の道子が小学校に上がるとナイフで鉛筆を削ることを教えた。長じてからは「護身用にもなる」と肥後守(ひごのかみ/折りたたみ式の片刃のナイフ)を渡した。学校もまだそれほどうるさくなかった時代の話である。それから刃渡り7cmほどの懐剣を持たせた。道子は現在でもベッド脇に置き、父からもらった砥石(といし)で手入れを行っているという。

 窃盗犯は音を立てるバイクを使わないと坂井は言ったが、バブル崩壊以降はバイクによる窃盗の方が目立つようになった。外国人の犯罪集団や窃盗団が日本に侵入してくることまでは予想できなかったことだろう。

「相手の首も取る気合で戦え」との一言に娘を持つ父親の杞憂(きゆう)が窺える。女性は性犯罪の対象となる。人類が行ってきた戦争の歴史は強姦の歴史でもあった。

 先日、大学生による少女監禁事件の被害者が2年振りに保護された。

 娘を持つ父親は必ず本書を読むべきだ。

(2階から)駆け下りてきた父は、古くなって色焼けした新聞紙を食卓に広げます。一面に、大きく一枚の写真が載っていました。(中略)
「これは、社会党委員長の浅沼稲次郎を、17歳の山口二矢(おとや)が壇上で刺殺せんとするところの図だ」(中略)
 なぜ時代劇から山口二矢の事件が飛び出してきたのか、父は熱心にその説明を始めました。山口が浅沼委員長を刺殺した動機について、世間では右翼思想にかぶれたためだと言われているが、そうではなくて、実のところは親の仇討ちだというのです。
 山口の父親は自衛官でした。そして当時の社会党は、自衛隊廃止論を盛んに展開していました。自衛隊を廃止するということは、山口にとっては自分の父親が職を失うということです。

Assassination of Asanuma


 ここで父は改めて、写真の中の山口の姿を私に示しました。
「この足のふんばりを見てみろ」
 父によれば、興奮して包丁を振り回すような人は全く腰が入っていませんが、山口は外足を直角にふんばり内足は相手に向け、短刀の束を腰骨にあてがい、戦闘の構えが理屈にかなっていると言うのです。武道の訓練を受けていたのかもしれませんが、それにしてもこの若さでこの構えはなかなかできない。山口の構えには覚悟が見えると。
 父はこの写真を通じて、本当の覚悟というものを私に教えたかったのではないかと思います。(中略)
 さて、このお説教の後、父は不意に「お前も練習だ」と言い出しました。「七つ道具」から出した竹の定規を私に握らせ、山口を同じ構えをせよ、と言います。
 もう難しい話は終わったようだと見計らって戻ってきた母が、「まあ、そんなことまで娘にさせるなんて」と眉をひそめますが、父は耳を貸しません。
「士族の娘なら、十三を過ぎれば敵と刺し違える技や覚悟、乱れない死に方ぐらいは心得ているものだ」
 その練習がしばらく続き、戸惑う自分と妙に興奮する自分に、不思議な感覚が走ったのを覚えています。嫌ではなかったのです。最後には、二人とも笑ったりしたものですが、山口二矢をお手本に「ふんばり」と「腰の突っ込み」を手ほどきしてくれた父の真剣な眼差しが忘れられません。

「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」(『葉隠』)。死ぬ覚悟は殺す覚悟とセットであろう。我々は微温的な生活の中で「殺される可能性」を見抜く力を失いつつある。DVやいじめなどで殺されるケースや自殺に追い込まれるのもそのためだ。

 少女をさらった時点で相手は一線を踏み越えている。次の一線はもっと容易に踏み越えることだろう。この段階で「命に関わる問題」として受け止める必要がある。パワハラやいじめもそうだが、単に面子を潰されたとか、プライドを傷つけられたという次元を超える瞬間がある。そこを見極めることができないと殺される可能性が高まる。

 オウム真理教などの宗教犯罪にも同じメカニズムが働いている。逆らうことのできない人々が犯罪に加担してしまうのだ。彼らの顔つきはいじめを傍観する者と変わりがないことだろう。

 誘拐された場合、とにかく直ぐに逃げ出す機会を伺うことだ。自動車であれば運転を邪魔したり、いっそのこと飛び降りる。次に軟禁されたとしても相手が単独犯であれば恐れる必要はない。寝込みを襲えばいいのだ。鈍器で思い切り頭部を殴るか、包丁で頸動脈を切るのが手っ取り早いだろう。これを躊躇(ちゅうちょ)すれば殺される。殺されてしまえば相手はまんまと逃げおおせるかもしれない。そして次の被害者が生まれる。閉ざされた環境に身を置くと判断力がどんどん低下してゆく。ゆえに最初の果断が大事なのだ。私に娘がいれば、「殺される可能性を感じたら、迷うことなく殺せ」と教える。また、「仮に強姦されたとしても生きる支障とはならない。ただし相手が罪の発覚を恐れて殺す可能性があるのだ」とも教える。

 ジョナサン・トーゴヴニク著『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』には強姦された後、便器のように扱われた女性の声が紹介されている。プーラン・デヴィ著『女盗賊プーラン』やジェーン・エリオット著『囚われの少女ジェーン ドアに閉ざされた17年の叫び』も参考図書として挙げておく。

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