2016-06-02

あたかも一角の犀そっくりになって/『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

 ・あたかも一角の犀そっくりになって

『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

一 もし比丘(びく)にして、むらむらとこみ上げてきたいらだちを除去してしまうこと、あたかも全身くまなくひろがった毒蛇の毒を霊薬によって解消してしまうごとくであるならば、そのような比丘は、あちこちへ往還し流転(るてん)しつづけてきた輪廻(りんね)を放棄してしまう。あたかも蛇が古くなったとき、久しく自分のものであった皮を捨てていくように。

【『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳(講談社学術文庫、2015年)以下同】

 とにかく文章が悪い。クリシュナムルティ本でいうと藤仲孝司訳と同じスタイルだ。翻訳ではなく通訳に傾き、むしろ直訳を心掛けているようにさえ見える。テキストの罠に嵌(はま)ったとしか言いようがない。それを恐れてブッダは文章を残さなかったにもかかわらず。

 中村元や今枝由郎が「怒り」としている箇所を「むらむらとこみ上げてきたいらだち」と訳す。たぶん蛇が鎌首をもたげるように怒りの感情がさっと湧き起こった瞬間を表しているのだろう。つまり「瞬間的な怒り」である。ま、「馬鹿」と言われて「何を!」と思うような怒りだ。大事なことは「怨み」ではないということ。

「輪廻を放棄してしまう」との言い回しには、輪廻を自らがつかみ、しがみつくような印象を受ける。煩悩(≒欲望)と混同しているのではあるまいか。

 はっきり言ってしまおう。本書はパーリ語の直訳と考えて参考書として用いるのがよい。悪文は思考を混乱させる。そして低い説明能力がノイズを生む。

三五 あらゆる生き物に対して暴力をふるうことをすっかり放棄してしまい、いかなる生き物にも危害を加えることのないひとが、自分の息子をほしいと思うことすらあってはならぬ。ましていわんや一緒に修行してくれる仲間などいらぬ。ひとり離れて修行し歩くがよい。あたかも一角の犀(さい)そっくりになって。

 中村元が「犀の角」としている章を本書では「一角の犀」と訳す。続けて紹介しよう。

三九 野生の動物であれば、森の中にいて綱につながれることもなく、思うがままに食べ物ある方へと近づいていくように、そのように独立独歩であることの自由を深く熟慮して、叡知あるひとは、ひとり離れて修行し歩くがよい。あたかも一角の犀そっくりになって。

六ニ あたかも水中に生きる魚が網目を突き破って河水の中へ帰っていくように、そのようにさまざまな世間的存在につなぎとめる【きずな】を引き裂いて、そして野火が一たび焼いてしまったところに滞留することがないように、そのようにひとり離れて修行し歩くがよい。あたかも一角の犀そっくりになって。

「一角の犀」も誤訳であることは既に書いた(ただ独り歩め/『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳)。

「暴力放棄と息子」の脈絡のなさ、「綱につながれる」という音の悪さ、「ましていわんや」というリズムの悪さ、「ように、そのように」という重複。キーを叩くだけでも頭がおかしくなりそうだ。書写すればもっと強く感じることだろう。それから正しくは「きづな」(絆)である。

 言葉は脳を縛る。仏教の教義論争は言葉を巡る争いであった。そして「我こそは正義」との錯覚が次々と新たな教団を生んだのだろう。仏教は流転を重ねるごとにブッダの心から遠ざかっていった。目の前の一人に向かって説かれた真理が普遍妥当性を目指してアビダルマという豪華絢爛な理論を構築する。

 仏も悟りも手の届かない高みにまで持ち上げられ、人間から離れていった。やがて悟っていない人々が学識に任せて仏法を説くに至る。仏教は思考対象にまで格下げされた。

 仏教は「悟りの宗教」といわれるが、悟りは何も仏教が独占しているわけではない。ブッダ以前にも目覚めた人(=ブッダ)は存在した。科学の定理や数学の公式を発見する人々がたくさんいるのと同じだろう。現在、ゴータマ・シッダッタ(パーリ語読み)のみがブッダと呼ばれるのは、その悟りの度合いが傑出しているためだが、悟りの違いを分別するよりも悟りという行為を重んじるべきだろう。煩瑣(はんさ)な教義を全て暗記したところで悟りには至らない。

 ジュリアン・ジェインズは人類に意識が芽生えたのは3000年前と推定している(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』原書1976年)。とすると、カール・ヤスパースが示した枢軸時代は人類における「意識開花」の時代であったと考えられよう。ただし民衆は「歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー、原書1961年)ことだろう。綺羅星の如く登場した中国春秋時代諸子百家戦国時代英雄は、発火するシナプスが意識を構築する様相をまざまざと描いているように見える。

 意識は自我を形成し、人類を一人ひとりに分断した。だが「私の悟り」なるものはあり得ない。なぜなら悟りとは「私の解体」であるからだ。思考は「私」を強化する。考えれば考えるほど悟りから遠ざかる。学問と化した仏教に意味はない。

スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳 (講談社学術文庫)

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