2016-01-19

天才戦略家の戦後/『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之


 ・天才戦略家の戦後

日本の近代史を学ぶ

 片倉(衷)は陸大教官石原の教え子で、昭和6年の満州事変の時は見習い参謀だった。ともに満州事変を乗り切った、いわば子弟である。その片倉が、重病の石原に変わって供述書を口述・代筆する。
 石原はむしろ戦犯になり、ペリー来航まで遡って戦う腹だった。しかし4月8日の参与検事会議で戦犯リストから外され、残念がった。それでも彼は、検事たちが新しい証拠を見つけては再び戦犯リストに挙げてくるだろうと、むしろ期待した。

【『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之(双葉新書、2013年)以下同】

 礼賛本である。客観性に乏しいため割り引いて読む必要があろう。にもかかわらず「必読書」としたのは、やはり石原莞爾〈いしわら・かんじ〉という男が規格外の日本人であったためだ。稀代の天才戦略家は合理性の権化(ごんげ)であった。不合理には昂然と異を唱え、たとえ上官であったとしても罵倒した。普通の日本人とは立つ位置が異なっていたのだろう。

 病室にアメリカ軍の法務官と通訳が新聞記者たちと一緒に入ってきて、「これから証人尋問を開始する!」と宣告した。

「オレは戦犯だ。なぜ逮捕しないのだ。裁判になったら何もかもぶちまけてやる。広島と長崎に原爆を落としたのはトルーマンだ。彼こそ第一級の戦犯ではないか。どうした。なぜオレを逮捕しないんだ」

 と、石原は怒鳴りつけた。


 敗戦後、原爆に関する報道はGHQにより規制された。日本国民が初めて原爆の惨禍を知ったのはサンフランシスコ講和条約が発効した(1952年4月28日)独立後のことで、『アサヒグラフ』が1952年8月6日号で報じた。


米軍による原爆投下は人体実験だった/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人

 昭和21年4月29日は月曜日で、戦後初めて迎えた天長節である。キーナン首席検事は起訴状を読み上げ、裁判開始の日どりは5月3日からとした。起訴された名前は荒木貞夫から始まって梅津美治郎までの28名。
 石原は、翌30日の連盟会員が持ってきた新聞でそのことを知ると、
「オレの名前があったらな。この裁判を引っくり返してやるんだが――」
 と残念がった。

 Wikipediaの石原記事は読み物として通用するほど面白い。個人的にはハンガリー人宇宙人説の筆頭ジョン・フォン・ノイマンと双璧をなす記事だと思う。

戦犯自称の真相」という中途半端な記述があるが、酒田臨時法廷における石原の堂々たる態度や、公判終了直後にその場でアメリカ人検事が非礼を詫(わ)びたことなどを併せ鑑み、各人が判断すればいいだろう。

「ときに東京裁判は、日清日露戦争まで遡って戦犯を処罰するべきだ、という者がいる。君はどう思うかね」
 すると法務官は「そうする方針です」と答えた。
 その時だった。石原はニヤリとして、
「これは面白い。大いにやってくれ。それだったら、ペリーこそが戦争犯罪人だ。ペリーを呼んでこい」と言った。

 ペリーを知らないという法務官に石原は歴史を語り、「だからペリーを呼んでこい。彼をあの世から呼んで来(ママ)て、戦犯としてはどうかね」と言いくるめた。返答に窮した法務官が「今度の戦犯の中で、いったい誰が第一級と思われますか」と尋ねると、間髪を入れず「それはトルーマンだよ」と、アメリカ大統領の名前を上げ、具体的な国際法違反を懇々と語り、更にはナポレオンの話までする。法務官は「まるで陸軍大学の講義を聴いているみたいでした」と感激しながら帰っていった。

 石原は国際法の仕組みをきちんと理解していたのだろう。それゆえ欧米の土俵(≒論理)に上がろうとも、「勝てる戦略」が見えていたのではないか。ただし寺内大吉著『化城の昭和史 二・二六事件への道と日蓮主義』(1988年)は石原の日蓮主義を批判的に捉えている。

石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人 (双葉文庫)

2016-01-17

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