2016-07-15

ダニエル・チャモヴィッツ、三枝充悳、稲垣栄洋、岡ノ谷一夫、堀栄三、他


 21冊挫折、13冊読了。これ以上のペースで読むと読書日記も書けなくなりそうだ。

生物はなぜ誕生したのか 生命の起源と進化の最新科学』ピーター・ウォード、ジョゼフ・カーシュヴィンク:梶山あゆみ訳(河出書房新社、2016年)/文章が肌に合わず。もったいぶった姿勢を感じる。

森浩一対談集 古代技術の復権』森浩一〈もり・こういち〉(小学館ライブラリー、1994年)/良書。「鋸喩経」(こゆきょう)を調べて辿り着いた一冊。ノコギリの部分はしっかり読んだ。

絶対の真理「天台」 仏教の思想5』田村芳朗〈たむら・よしろう〉、梅原猛(角川書店、1970年/角川文庫ソフィア、1996年)/シリーズの中では一番面白みがない。最後まで目を通したものの半分ほどは飛ばし読み。説明に傾いて閃きを欠く。

日本の分水嶺』堀公俊(ヤマケイ文庫、2011年)/文体が合わず。

ブレンダと呼ばれた少年 性が歪められた時、何が起きたのか』ジョン・コラピント:村井智之訳(扶桑社、2005年/無名舎、2000年、『ブレンダと呼ばれた少年 ジョンズ・ホプキンス病院で何が起きたのか』改題)/武田邦彦が取り上げていた一冊。双子の赤ん坊の一人がペニスの手術に失敗する。性科学の権威ジョン・マネーが現れ、性転換手術を勧める。男の子はブレンダと名づけられ少女として育てられる。ところが思春期になるとブレンダは違和感を覚え始める。後に逆性転換手術をして力強く生きていった。ところが訳者あとがきで驚愕の事実が明らかになる。これは読んでのお楽しみということで。神の位置に立って勝手な創造を行うのが白人の悪癖である。尚、扶桑社版の編集に対する批判があることを付け加えておく。

(日本人)』橘玲〈たちばな・あきら〉(幻冬舎、2012年/幻冬舎文庫、2014年)/文章の目的がつかみにくく行方が知れない。

リベラルの中国認識が日本を滅ぼす 日中関係とプロパガンダ』石平、有本香(産経新聞出版、2015年)/有本香の対談本は出来が悪い。

「朝日新聞」もう一つの読み方』渡辺龍太〈わたなべ・りょうた〉(日新報道、2015年)/これも武田邦彦が紹介していた一冊。文章が軽すぎて読めない。ネット文体といってよし。

紛争輸出国アメリカの大罪』藤井厳喜〈ふじい・げんき〉(祥伝社新書、2015年)/文章に締まりがない。

日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか』小谷賢(講談社選書メチエ、2007年)/とっつきにくい。後回し。

はじめての支那論 中華思想の正体と日本の覚悟』小林よしのり、有本香(幻冬舎新書、2011年)/本書では「小林さん」と呼んでいるが、有本は動画だと「小林先生」と呼ぶ。ある種の芸術家に対する尊称なのか、個人的敬意が込められているのかは判断がつかない。有本同様、小林の対談本も一様に出来が悪い。「わし」という言葉遣いが示すように公(おおやけ)の精神が欠如している。

川はどうしてできるのか』藤岡換太郎〈ふじおか・かんたろう〉(ブルーバックス、2014年)/変わった名前である。まるで北風小僧(笑)。文章がよくない。

カウンセリングの理論』國分康孝〈こくぶ・やすたか〉(誠信書房、1981年)/『カウンセリングの技法』(1979年)、本書、『エンカウンター 心とこころのふれあい』(1981年)、『カウンセリングの原理』(1996年)が誠信書房の4点セット。國分康孝は実務的な文章でぐいぐい読ませる。ただし今の私に本書は必要ないと判断した。

法句経講義』友松圓諦〈ともまつ・えんたい〉(講談社学術文庫、1981年)/初出は『法句経講義 仏教聖典』(第一書房、1934年)か。初心者向きの解説内容である。宗教を道徳次元に貶めているように感じ、読むに堪えず。

これでナットク!植物の謎 植木屋さんも知らないたくましいその生き方』日本植物生理学会編(ブルーバックス、2007年)/ホームページに寄せられた質問に学者が丁寧に答えたコンテンツの総集編である。続篇『これでナットク! 植物の謎 Part2』(2013年)も出ている。

〈税金逃れ〉の衝撃 国家を蝕む脱法者たち』深見浩一郎(講談社現代新書、2015年)/パラパラとめくって食指が動かず。

タックス・イーター 消えていく税金』志賀櫻〈しが・さくら〉(岩波新書、2014年)/「タックス・イーター」をスパっと説明していないのが難点だ。具体的に個人を特定するほどの執念がなければ、ただの解説書である。

パナマ文書 「タックスヘイブン狩り」の衝撃が世界と日本を襲う』渡邉哲也(徳間書店、2016年)/これも渡邉本としては出来が悪い。文章に人をつかむ力が感じられない。

いちばんよくわかる!憲法第9条』西修(海竜社、2015年)/良書。これはおすすめ。歴史的経緯を辿ると自衛隊の役割がくっきりと浮かび上がってくる。しかも西は自ら海外を訪れ、直接資料に当たり、関係者に取材している。半分だけ読んだが、それでもお釣りがくる。

日本人よ!』イビチャ・オシム:長束恭行訳(新潮社、2007年)/話し言葉ほどの切れ味が文章にはない。

怪獣使いと少年ウルトラマンの作家たち』切通理作〈きりどおし・りさく〉(増補新装版、2015年/JICC出版局、1993年宝島社文庫、2000年)/編集した町山智浩からの申し出で復刊した模様。読み手を選ぶ本だ。オタク目線が強く、一般よりは特殊に傾く。切通本人の心情も湿り気が濃い。

 92冊目『日本人だけが知らない戦争論』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(フォレスト出版、2015年)/久し振りの苫米地本である。右傾化への警鐘が巧みで一読の価値あり。サイバー戦争の具体的な解説が圧巻。

 93冊目『重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る』大栗博司〈おおぐり・ひろし〉(幻冬舎新書、2012年)/大栗はカリフォルニア工科大学ウォルター・バーク理論物理学研究所所長を務める人物だ。場の量子論や超弦理論で国際的な評価を得ている大物である。読みやすい教科書本。いくつかの蒙(もう)が啓(ひら)いた。

 94冊目『植物はそこまで知っている 感覚に満ちた世界に生きる植物たち』ダニエル・チャモヴィッツ:矢野真千子訳(河出書房新社、2013年)/良書。200ページ弱の小品。著者はイスラエルの学者。後半にわずかなダレがあるが、しっかりとニューエイジ系の誤謬を撃つ。

 95冊目『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三(文藝春秋、1989年/文春文庫、1996年)/上念司〈じょうねん・つかさ〉が毎年繰り返し読む本である。登場人物に精彩がある。原爆を大本営参謀は知らなかったと書いている。陸軍中野学校と情報が共有されていないことがわかる。「日本の近代史を学ぶ」に追加。

 96冊目『創価学会・公明党スキャンダル・ウォッチング』内藤国夫(日新報道、1989年)/往時、内藤国夫は本多勝一と人気を二分するジャーナリストであったが、その晩節は暗く寂しいものであった。福島源次郎著『蘇生への選択 敬愛した師をなぜ偽物と破折するのか』と本書を併せ読めば、内藤国夫の下劣さが理解できる。基本的にジャーナリストは人間のクズだと考えてよい。

 97冊目『裏切りの民主党』若林亜紀(文藝春秋、2010年)/面白かった。若林は文章はいいのだが性格が暗い。表情や声のトーンからもそれが窺える。たぶん生真面目なのだろう。若林はクズではない稀有なジャーナリストである。事業仕分けの経緯と舞台裏がよくわかった。本書に登場する民主党参議員の尾立源幸〈おだち・もとゆき〉が先日落選した。

 98冊目『言葉の誕生を科学する』小川洋子、岡ノ谷一夫(河出ブックス、2011年/河出文庫、2013年)/小川洋子の前文は読む必要なし。対談は上手いのだが科学的知識の理解に誤謬がある。言葉の発生は歌であったと岡ノ谷は主張する。おお、我が自説と一緒ではないか。岡ノ谷の博識に対して小川の反応がよく一気読み。

 99冊目『言葉はなぜ生まれたのか』岡ノ谷一夫:石森愛彦・絵 (文藝春秋、2010年)/まあまあ。岡ノ谷は手抜き本が多そうだ。これも執筆なのか語り下ろしなのか微妙なところ。

 100冊目『なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか 仏教と植物の切っても切れない66の関係』稲垣栄洋〈いながき・ひでひろ〉(幻冬舎新書、2015年)/見事な教科書本である。稲垣は植物学者でありながら仏教の知識もしっかりしている。これはおすすめ。

 101冊目『結局は自分のことを何もしらない 役立つ初期仏教法話6』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2008年)/このシリーズでは一番よくまとまっていると思う。ただしエントロピーに関する記述は完全に誤っている。社会的信用のためにも削除すべきだろう。スマナサーラは小さな誤謬が多いので要注意。

 102冊目『初期仏教の思想(上)』三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉(レグルス文庫、1995年)/難しかった。三枝ノートといってよい。研究者の凄まじさがよくわかる。

 103冊目『あべこべ感覚 役立つ初期仏教法話7』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2008年)/サンガ新書のスマナサーラ本は慣れてくると1時間ほどで読める。やや牽強付会な印象はあるが、相変わらず読ませる。

 104冊目『ぼくは13歳 職業、兵士。 あなたが戦争のある村で生まれたら』鬼丸昌也、小川真吾(合同出版、2005年)/良書。ただし終わり方がよくないので必読書には入れず。読者を誘導しようとする魂胆が浅ましい。「自分は正しい」という感覚が目を見えなくする。たとえ目的が正しいものであったとしてもプロパガンダはプロパガンダである。コンゴの少年兵の悲惨と彼らが語る夢に心を打たれる。「チャイルド・ソルジャー」だから子供兵・児童兵が正しい訳語か。

2016-07-12

人間の営為が災害を増幅する/『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠


 ・人間の営為が災害を増幅する

『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦
『人が死なない防災』片田敏孝

 より豊かで快適な生活を求める人間の営為が、それまでそこにあった自然を変えていく。このようにして集積された自然に対する人為のインパクトが大きくなっていくと、反作用としての新しいタイプの災害が、次々と現われてくる。私たちは、それらに一つひとつ対応していかなければならないのである。いかに激しく自然が猛威をふるったとしても、そこに人間の営みがなければ災害はない。けれども、そこに人間の営みがあれば、とどまることなく不断に自然に働きかけるその営みそのものが、新たな災害の原因になりうるのである。効率化をはかるために、自然環境を無思慮に改造していくと、緩衝機能をうしなった大自然は、たとえわずかな変動であっても、それを増幅して私たちにかえしてくる。

【『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠(集英社新書、2004年)以下同】

 災害という概念そのものが人間の「勝手な都合」である。大地や海に悪意はないし、火や水に殺意があるわけでもない。人は死ぬ存在である。転んだり、血管が1本切れたり、餅が喉に詰まっただけでも死んでしまう。他人の死を呑気に眺めながら、自分の死を見失うのが我々の常である。

 文明は農耕に始まり、近代に至るまで治水の攻防が続いた。川の氾濫を防ぎ、ダムを造ることで水をコントロールし、居住地域を拡大してきた。経済の発展を支えるのは道路である。私が子供の時分はまだ舗装されていない道路があったが、現在は路地でもない限り、ほぼアスファルトに覆われている。線路や高速道路も日本中に行き渡っている。

 自然は長大な歳月をかけて少しずつ変化してゆくが、人間の営みは環境を一気に変えてしまう。抑えつけたエネルギーは蓄積する。自然を整備するという発想は人類の大いなる錯覚である。エントロピーは増大する。秩序は必ず無秩序へ向かうのだ。

 それだけではない。ライン河を筆頭にヨーロッパの国際河川では、19世紀より水運の便宜と洪水対策のため、河川の蛇行部分を削り、まっすぐにする“整形工事”が行われてきた。流に“遊び”がなくなったため、かつてはゆっくりと流れていた大河の流速が、それまでの2倍にもなってしまったのである。そして川岸を堤防で固めたことによって、流域の氾濫原が洪水時の貯水機能をうしなってしまった。加えて、森林の乱伐と道路のアスファルト舗装によって、大地の保水力に頼ることができなくなってしまった。そのため、降った雨が、猶予なしに河川に流れこむことになったのである。ドイツ、フランス、ベルギー、オランダなどを毎冬のように襲う大洪水には、このような人為的な原因が関わっている。河川の改修や護岸の整備など、本来は防災を目的にした行為自体が、逆に洪水の脅威を増幅してしまったのである。

 人類は平野を好む。土地が肥沃である上に住みやすい。日本の都市はどこも平野部にある。

Googleマップ

 北海道・四国・九州はドラッグせよ。

 人間が造った人工物は自然の循環機能を阻害する。そして時に手痛いしっぺ返しを食らう。

 東日本大震災の後に残ったものは瓦礫(がれき)の山と放射能であった。異変が起こっても自然はわずかな時間で修復する。人間がつくったものはゴミと化し、更なる人為を必要とする。

 防波堤や防潮堤よりも、津波の感知システムにカネを掛けるべきだろう。地震を予知することはできないが、津波は何らかの形で観測可能だと思う。

 後は逃げる能力を磨くだけだ。

人はなぜ逃げおくれるのか―災害の心理学 (集英社新書)

2016-07-10

ブッダ以前に仏教はない/『つぎはぎ仏教入門』呉智英


 ・ブッダ以前に仏教はない

『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英

 ところで、仏教のそもそもの宗祖は釈迦である。釈迦はその弟子や信徒たちと、どんな仏像を拝み、その前でどんなお経を唱えていたのだろうか。
 ちょっと考えてみよう。釈迦以前に仏教はない。覚(さと)りを開いて仏陀(ぶっだ)となった釈迦が仏教の宗祖だからである。イエス・キリスト以前にキリスト教はない。イエスの教えがキリスト教である。キリスト教では神父や牧師が信徒たちと十字架の前に額(ぬか)ずくけれど、イエス自らが使徒たちと十字架に額ずいたことなどありえない。十字架上にあるのはイエスその人だからである。これと全く同じように、仏陀釈迦が弟子や信徒たちと仏像を拝んだことなどありえない。釈迦以前に仏教はなく、仏像はないからである。

【『つぎはぎ仏教入門』呉智英〈くれ・ともふさ〉(筑摩書房、2011年/ちくま文庫、2016年)】

 気づくのは一瞬だ。「あ!」と思った途端に目から鱗が落ちる。少しずつ徐々に気づくということはない。呉智英〈くれ・ともふさ〉は儒者である。外側に立っていたからこそ仏教の本質が見えるのだろう。

 ブッダ以前に仏教はなく、イエス以前にキリスト教はない。言葉の限界性を思えば、悟りから発せられた言葉であったとしても、言葉そのものは悟りではない。

 念仏を発明した人は南無阿弥陀仏と唱えて悟ったわけでもないし、題目を編み出した人が南無妙法蓮華経と念じて悟ったわけでもない。

 ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)であるが、ゴータマ・シッダッタ(パーリ語読み/サンスクリット語読みではガウタマ・シッダールタ)以前にもブッダと呼ばれる人々は存在した。つまり悟りの道は一つではないのである。尚、イエスの実在については多くの疑問があり確かな証拠がない。

 理窟をこねくり回すのは悟っていない人々だろう。論者・学者は覚者ではない。ひとたび論理の網に搦(から)め捕られると、知識の重みに満足してニルヴァーナ(涅槃)から離れてゆく。

 教団が形成されると教義と儀式の構築に傾いてゆく。ブッダの教えはシナを経て日本に至り信仰へと変質した。お経を読み、仏像やマンダラを拝む宗教になってしまった。

 教義は死んだ言葉である。繰り返されるマントラ(真言)も生きた言葉ではない。

 言葉はコミュニケーションの道具である。真のコミュニケーションは自我を打ち消す。そして言葉を超えた地点にまで内省が深まった時、世界を照らす光が現れるのだろう。瞑想とは思考を解体する営みだ。

 教義を説く者を疑え。

つぎはぎ仏教入門 (ちくま文庫)