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2020-01-11

キラキラした、もしくはギラギラした人生/『メッセージ 告白的青春論』丸山健二


『穴と海』丸山健二
『さらば、山のカモメよ』丸山健二

 ・キラキラした、もしくはギラギラした人生

『ミッドナイト・サン 新・北欧紀行』丸山健二
『野に降る星』丸山健二
『千日の瑠璃』丸山健二
『見よ 月が後を追う』 丸山健二
『丸山健二エッセイ集成 第四巻 小説家の覚悟』丸山健二
『虹よ、冒涜の虹よ』丸山健二
『逃げ歌』丸山健二
『鉛のバラ』丸山健二
『荒野の庭』丸山健二

必読書リスト その一

 サラリーマンは上からの命令であまりにも立ち入った重大なことが左右され過ぎる。おれが小学校の6年生になるとき親父は転勤を命じられ、おれもいっしょに引っ越しをしなければならず、だがその新しい土地は実にくだらなかった。子どもながらにもおれはひどく腹を立てたものだ。自分の気に入った土地にも住めないなんて、ひどく屈辱的な立場ではないかと思った。世間にはそれがよくあることでも、おれには許せなかった。「この世にはままならないことがたくさんあるのだ」というような忠告には耳を貸したくなかった。
 おれの胸のうちにポカっと穴があいたのは、おそらく自由な生きざまへの入口の扉が開いた瞬間ではなかっただろうか。その計り知れない空しさの奥へ突っこんで行かなければ、キラキラした、もしくはギラギラした人生を歩むことができなかったのではないだろうか。何度でも繰り返すが、それは誰のためでもなくおれの人生だった。だから当然、時間も空間もすべておれのものでなければならなかった。社会的な、あるいは道義的な制約の存在などおれの知ったことではなかった。

【『メッセージ 告白的青春論』丸山健二(角川書店、1980年/角川文庫、1985年)】

 一部が『丸山健二エッセイ集成 第四巻 小説家の覚悟』に収められている。こうして見るとあまり書評を書いていないことがわかる。『逃げ歌』までの作品は粗方(あらかた)読んだ。

 私が初めてインターネットの回線を引いたのは1998年のことだ。Windows 98が搭載されたデスクトップパソコンは15万円以上した。パソコンに詳しい友人を伴って秋葉原の電気街を歩き回り、店員を騙して値引きさせたことを憶えている。私は既に友人宅でネット上の丸山健二情報を検索していた。「丸山健二ファンのページ」なるサイトがあって、書き込みデビューもそこの掲示板だった。翌年には読書グルームのサイトを自ら立ち上げ、少し経って「雪山堂」(せっせんどう)なる古本屋を開業した。2000年代初期において丸山健二の古書を最も扱ったのは間違いなく私であった。

 読書チームや古本屋の掲示板を通して実に様々な出会いがあった(『臨死体験』をめぐる書き込み)。元はと言えばこれまた丸山健二を通してつながった人脈だった。男臭い人々が多かったのは当然だろう。はみ出し者とまでは言わないが、少しばかりアウトローの雰囲気を漂わせるタイプが目立った。例外は品行方正を絵に描いたような私だけだ。

 私の父も転勤が多かった。旭川~函館~札幌~苫小牧~帯広と私が生まれてから8年間で四度も引っ越している。嫌がらせの意味もあったようだと後年母から聞いた。業を煮やした父は札幌で独立する。単身赴任という言葉を耳にするようになったのは1980年代のこと。幼い子供にとって転校は深刻な問題である。今までの友達全員を失うのだから当然だ。私も三度転校しているが皆の前に立って挨拶をするのも大きなストレスとなる。北海道内の転校だったから差別のようなものはなかったが、訛(なま)りの異なる地方へ行くことともなれば、いじめられることもあり得るだろう。

 会社の都合で家族が振り回されるというのがサラリーマン一家の宿命だ。嫌なら辞めればいい。そもそも人生の有限を思えば通勤に1時間以上かけるのは馬鹿げている。往復で2時間、つまり1週間で10時間、1年で21日間もの時間を移動に費やすこととなる。

 最近聞かれなくなったサラリーマンとは俸給生活者の謂(いい)である。日本企業の70%を占める中小企業も元請けの言いなりにならざるを得ないという点ではサラリーマンと大差がない。最大の問題は喧嘩ができなくなることだ。譲ってはいけない部分や越えてはならない一線で闘うのが普通だが、サラリーマンは賃金と引き替えにこれを手放す。小さな忍耐を繰り返すうちに家畜のような人生の色合いになってゆく。もう一つは会社という狭い世界の出来事ばかりが関心の対象となり、会社員以外の可能性が見えなくなってしまうことだ。一旦社会の規格にはまってしまうとそこから抜け出すことは思いの外難しい。

 バブル景気が絶頂に差し掛かった頃(1990年)、社畜なる言葉が生まれた。その後登場するブラック企業を想起させる言葉だ。ただし当時はそれほど悲惨な印象を受けなかった。給与は上がっていたし使える経費も多かった。東京ではコンビニエンスストアが次々と開店した。カラオケがブームとなり、外食産業は隆盛の一途をたどった。当時と比べると「魂を売り渡す金額」が明らかに下落している。

 キラキラするのは水で、ギラギラするのは油だ。こんな言葉にも丸山の流動性志向が表れている。その対比は「動く者」と「動かざる者」として『見よ 月が後を追う』 で描かれる。一歩間違えればやくざ者になりかねなかった丸山が二十歳(はたち)で芥川賞を受賞した。彼にとっては短刀とペンの違いでしかなかったことだろう。本書を開くと自立の強風が至るところに吹いている。

2019-10-16

国宝「紙本著色日月四季山水図」(作者不詳)


「紙本著色日月四季山水図」(しほんちゃくしょくじつげつしきさんすいず/大阪府河内長野市・天野山金剛寺所蔵)は2018年、重要文化財から国宝になった。左隻の月が隠れてしまっているがデジタル復元するとクッキリと映(は)える(日月山水図屏風 | 小林美術科学)。白洲正子が『かくれ里』(新潮社、1971年/講談社文芸文庫、1991年/新版、2010年)で、丸山健二が『千日の瑠璃』(文藝春秋、1992年/文春文庫、1996年)でカバーに使った。作成年代については室町時代(14-16世紀)と安土桃山時代(16-17世紀)の二説がある。

かくれ里
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千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫)
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作者不明《日月山水図屏風》循環する宇宙のエネルギ 髙岸輝(※画像クリックで拡大)

2012-09-12

「動かざる者」を支配する原子力発電所/『見よ 月が後を追う』 丸山健二


『メッセージ 告白的青春論』丸山健二
『千日の瑠璃』丸山健二

 ・「動かざる者」を支配する原子力発電所

 語り手はオートバイだ。

 そう、私は理知によって世界を知ることができる、誇り高いオートバイなのだ。

【『見よ 月が後を追う』丸山健二(文藝春秋、1993年)以下同】

 色は青。

 私の青は、うねる蒼海の青であり、遠い分水嶺の青であり、亜成層圏辺りに広がる青、
 私の青は、世の風潮にほとんど影響されない青であり、神々の審判をきっぱり拒む青。

野に降る星』の旗、『千日の瑠璃』のオオルリと同じ色だ。青い色は男の心をくすぐる。古来、狩猟は男の仕事であった。それゆえ男性は青空と同じ色に反応する、という説がある。

 十数年前に一度読み、再読した。原子力発電所の記述を紹介しよう。

 本書のテーマは「動く者」と「動かざる者」との対比である。前者を象徴するのがオートバイと乗り手の若者、後者のシンボルが八角形の楼台と田舎町の人々である。そして「動かざる者」を支配する権力の象徴として原子力発電所が描かれている。

「動かざる者」とは何か? それは変化を忌み嫌い、現状維持に安んじ、定住に満足する生き方だ。自分を「世間に合わせる」生き方といってよい。これに対して「動く者」「流れる者」は一切のしがらみを拒絶し、時に無法の一線を飛び越えることもよしとする自由人だ。

 そこかしこに蔓延(はびこ)っている、一生を棒に振り兼ねない、投げ遣りな静観主義。

 原子力発電所がある町にはこのような空気があった。

 深々と更け渡る夜のなかにあって命の振動音を発しているのは、原子力発電所のみだ、
 こんな片田舎でともあれ権勢を誇って生き生きとしているのは、低濃縮ウランだけだ。

 稼働してまもない、とかく風評のある、元凶の典型となったそいつ、
 人命など物の数ではないといわんばかりに、一意専心事に当たるそいつ、
 桁外れの破壊力を秘めながら、普段は目立たない汚染を延々と繰り返すそいつ。

 そいつは暗々のうちに練られた計画に従って、高過ぎる利益を生み出している、
 そいつは進取的な素振りを見せながら、旧弊家どもの手先として働いている、
 そいつは昼夜を問わず制御棒をぶちのめす機会を虎視眈々(たんたん)と狙っている。

 およそ人が造り出した物で自然の摂理に逆らわない物はない、と原子力発電所は嘯(うそぶ)く、
 たしかに……この私にしてからがそうだ。

 鉄やゴム、それに少々のガラスといった材料から成る私も決して例外ではない、
 原子炉の比ではないにしても、私もまた、やはりそれなりの毒を撒き散らす者だ、
 これまで私が受けてきた非難にしても、謂(いわれ)のない非難というわけではない。

 私は気化させたガソリンを連続的に爆発させて、燃えかすと爆音を世間に叩きつける、
 私は前後ふたつの車輪を意のままに回転させて、世に満つくだらない不文律を蹴散らす、
 私は無意味な高速がもたらす【がき】染みた示威行為によって、進退極まった中年男を悲しみのどん底から救い、陶然と酔わせる。

 私にしがみついて疾駆する者は、自ずと他律的に振舞うことをやめるのだ、
 私と共にある者は、何事にも怯(ひる)まず、飯代に事欠く立場さえすっかり忘れてしまう、
 私といっしょに雲を霞(かすみ)と遁走する者は、私がその潜在意識とやらを充分に汲み取って、ひと思いに死なせてやろう、
 むろん独りで死なせはしない。

 この小説は実験的な手法が試されており、段落によっては行末を一字ずつずらしてきれいな斜線となっている。

 動く者はリスクを恐れない。動かざる者は目前のリスクを恐れることで、かえって将来の大きなリスクを背負ってしまう。損得勘定に目が眩んで、好きでもないことに身をやつすのが大人にふさわしい生き方なのだろう。

 私は突っ走ることで主我を確立する。
 私が放つ光芒は皮相的な見解を突き破り、外界のありとあらゆる事物や、有象無象の一時も忽(ゆるが)せにできないめまぐるしい変化に鋭く対応する、
 私が発する感嘆の声は根拠のない推論を押しのけ、魂も消え入るような思いを叩き伏せ、未だに固持されている旧説を素早く追い越して行く。

 動く者はたとえ何歳になろうとも若々しい。過去なんぞ影みたいなものだ。踏みつけて歩けばよい。

 それから彼は、自分の両親と娘の家族が郷里を引き払った理由について説明する、
 つまり、かれらがそうしたのは大半の住民に倣ったまでのことだ、と言い、町の定住人口を却って激減させてしまったのは当の原子力発電所だ、と語る、
 原子力発電所がこの町に居坐るために気前よくばら撒いた金と、いつの日かきっとばら撒くであろう放射能のせいで、多くの人々が一生に一度の決断を下したのだ、と言う。

「気前よくばら撒いた金と、いつの日かきっとばら撒くであろう放射能」との対比が鮮やかだ。札束で頬を叩かれれば、誰だって恵比寿顔になる。

 とにもかくにも完璧に制御されているものと信じるしかない核反応の恐怖に寄り掛かって惰眠を貪るしかない町、
 この町はすでに拒絶する力を失っているのかもしれない、
 もしそうだとすれば、身を潜めなくてはならない者にとっては打ってつけの土地だろう。

 我々は「拒絶する力」を持っているだろうか? 理不尽な仕事を拒んで会社を去ることができるだろうか? 家庭を省みることもなく形骸と化した夫婦関係に終止符を打つことはできるだろうか? はなっから労働基準法など順守するつもりのないパートタイムの仕事をあっさりとやめることはできるだろうか? 結局のところ、徒手空拳で自分だけの力を頼りにして飯を食ってゆける人間しか「拒絶する力」を有していないのだ。資本主義という経済システムに取り込まれた人生からは「拒絶する力」が奪われてゆく。

 思った通りの死せる町、
 際立っているのは原子力発電所のみだ、
 そいつは既知の事実を誣(し)いる輩、
 そいつがせっせと造りつづける電力はあっという間に300キロも遠く懸け隔てた彼方へと、国家の枢機を握っている大都市へと吸い込まれてゆく。

 福島も新潟も東京から300km圏内だ。

 地元の素封家を差しおいてこの町を牛耳っている原子力発電所、
 それは尚も廃家の数を増やしつづけ、生命や文化や尊厳を殺し、ついでに因習や禁忌といったものまでもゆっくりと残害しつづけている。

 地方は中央の権力によって侵(おか)されるのだ。権力者は金と暴力にものを言わせる。

 外洋の彼方で早くも油然と湧く夏雲、
 海水に溶け込んでいる希元素の憂鬱、
 改心の見込みなどまるでない放射能。

 そして遂に2011年3月11日、放射能はばら撒かれた。

 かれらは、安堵の胸を撫でおろしている者ではなく、静座して思索に耽る者でもない、
 かれらは、放射能の源に対して舌尖鋭く詰め寄る者ではなく、安く造った電力に法外な値を吹っかけて売りつける企業に一矢を報いる者でもない。

 かれらは「我々」でもある。ただ雇用が、働き口が欲しかったのだろう。

 郷里にとどまることにした者たちは、常に無能な時の為政者が大仰に述べ立てた言葉を頭から信じたのではないだろう、
 さんざん疑った挙句に、ともあれ成り行きに任せてみることにしたのだろう、
 そうやって居残った人々は、殺気を孕んだ大気や、前途に横たわる暗流を、現実から遊離した不安として無理矢理片づけてしまったのだろう。

 従ってこの地はもはや、汚されたと言い表せるほどの聖域ではなくなっているはずだ、
 よしんばプレアデス星団が見て取れるような澄明な夜が続いたとしてもだ。

 国も東京電力も安全なデータだけを示して地元住民を篭絡(ろうらく)したはずだ。反対したのは多分、左翼の連中だけだったのはあるまいか。彼らにしても、どうせ政治目的で動員されたことだろう。弱り目に祟り目とはこのことだ。国家は弱者に対して情け容赦がない。

 この小説は福島の原発事故が起こる15年前に書かれたものであって、被災者を鞭打つものではない。どうか誤解のなきよう。



逃げない社会=定住革命/『人類史のなかの定住革命』西田正規

2012-06-07

丸山健二、エリック・ホッファー


 1冊挫折、1冊読了。

見よ 月が後を追う』丸山健二(文藝春秋、1993年)/『千日の瑠璃』を飛ばし読みしたついでに再読。出だしは好調だったが100ページで挫ける。原子力発電所の記述が多いのでタイムリーではあるのだが。私の文章に否定形が多いのは丸山からの影響である。古くからのファンは『千日の瑠璃』から離れて行った。その理由が何となくわかるような気がする。丸山は「詩小説」と呼ばれることに気をよくし、文体に集中するあまり物語性を失ったのだ。結果的に物語を私化した私小説と同じ軌跡を描いたのではあるまいか。一つのことを表す際に「ない」という表現は無限に可能だ。例えば人間は猿ではない。彼はカブトムシでもなければホトトギスでもなかった。そして自分の体重以上の重量を軽々と担ぎ上げることもできなければ、心のひだに沁み入るような鳴き声を上げることもできなかった。こんな文章を延々と読ませられている気分になる。一時は入手困難で、私は古本屋として40~50冊を売り上げたものだ。ただし、タイトルとなっているフレーズには絶妙な響きがある。

 31冊目『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー:中本義彦訳(作品社、2003年)/「沖仲仕の哲学者」と呼ばれた人物だ。ホッファーは社会哲学者でありながら、65歳になるまで港湾労働の仕事をやめなかったという。一読して驚嘆した。視線が地べたに据えられている。徹底した相対性がニヒリズムの領域にまで達している。肉体を駆使する者には形而上学の嘘を見抜く智慧がある。冷徹にして冷厳な眼差しが人間と社会をじっと見つめる。その警句は手垢まみれの価値観に唾を吐きかけるような辛辣さに満ちている。何らかの運動や行動に情熱を燃やしている人は必読のこと。頭から冷や水をぶっかけられること間違いなし。エリック・ホッファーの感性はブッダやクリシュナムルティに至る門となり得る。

2012-05-21

孤なる魂をもつ者/『千日の瑠璃』丸山健二


『メッセージ 告白的青春論』丸山健二

 ・20世紀の神話
 ・風は変化の象徴
 ・オオルリと世一
 ・孤なる魂をもつ者

『見よ 月が後を追う』 丸山健二

必読書リスト その一

 私は野良犬だ。
 昼夜の別なくまほろ町をうろつくせいで、少年世一と出くわすことがどこの誰よりも多い野良犬だ。躰は小さく、従って餌代も安くつき、無駄吠えも少ないというのに、結局私は飼い犬になれなかった。つらつら惟るに、白と黒という毛の配色が、どうしても不吉な印象を与えてしまうのだろう。もっともそのおかげで私は、人間に飼われている犬や、犬を飼っている人間の何倍もの自由を手に入れることができたのだ。
 そうはいっても、私の自由の大きさを真底わかってくれているのは、世一ただひとりでしかなかった。少なくとも私のほうは、世一のそれを充分理解しているつもりだった。ほかの人間は皆人間以外の何者でもなかったが、しかし世一だけは違って見えた。彼は人間でありながら、同時に人間以外のすべてでもあった。そして私たちはいつも、互いに意識するあまり、無言ですれ違っていた。たまに眼と眼が合ったりすると、私たちは眩いばかりの自由な身の上にあらためて気づき、大いに照れてしまい、卑下さえもしたくなり、足早に立ち去るのだった。
 ところがきょうの私たちは、葉越しに見える月の力を借りて、声を交した。私は、所詮見限られた者同士ではないかという意味をこめて、「わん」とひと声吠えた。すると世一はぴたっと歩みをとめ、振り向きざまにこう言った。「されど孤にあらず
(11・5・土)

【『千日の瑠璃』丸山健二(文藝春秋、1992年/文春文庫、1996年)】

 数日前から何となく手にとってはパラパラとページをめくっている。初めて読んだのは1998年のこと。丸山のエッセイは数冊読んでいたものの小説は初めてだった。物語性には欠けるが濃密な文体と千の視点に圧倒された。私は仏法で説かれる一念三千の法理が何となくわかったような気になった。智ギ(天台)によれば、己心の一念に三千の諸法が具(そな)わっているという。

 まほろ町という小宇宙を千の視点から物語る。その中心に位置するのは身体の不自由な少年・世一〈よいち〉である。丸山は田舎町を嘲笑し、作家という職業をも愚弄(ぐろう)する。世一の役回りは神ではなく鏡だ。本書で名前を付与されているのは世一ただ一人である。つまり世一以外は類型(モデル)にすぎない。

 知的障害をもつ世一が時折、言葉を放つ。ひょっとしたら我々の周囲にいる障害者や病人はそうした役を演じているだけなのかもしれない。私はいささか介護の経験があるのだが、本当に力がある人間はボディビルダーのような人々ではなく、身体障害者であると思っている。腕や脚、はたまた半身が鉛のような重さとなっているのだ。リハビリの苦しさは筋肉トレーニングの比ではないという話も聞いたことがある。

 仏法では人間が生きる世界を「世間」と名づける。出世とは「出世間」の略である。世間の本質は差別だ。社会は必ずヒエラルキーを形成し、大半の人々は部下・奴隷・兵士の役目を押しつけられる。そして出自・学歴・スキルによって報酬が異なる。

 我々は人間の価値を「いくら稼いでいるか」で判断する。だが野良犬と世一は違う。

【付記】久々に『千日の瑠璃』を調べたところ、何とガジェット通信で全文が配信されることを知った。

ガジェット通信:丸山健二
丸山健二

 
 

2000-08-10

オオルリと世一/『千日の瑠璃』丸山健二


『メッセージ 告白的青春論』丸山健二

 ・20世紀の神話
 ・風は変化の象徴
 ・オオルリと世一
 ・孤なる魂をもつ者

『見よ 月が後を追う』 丸山健二

必読書リスト その一

 こんな商売をするようになり読書量がぐっと減った。それは、読み物から売り物への変遷に伴い「本」を見る目つきが変わってしまった証左なのかも知れない。時間がないのも確かだが、それ以上に「読む」という意欲が湧いて来ない昨今である。

 その点、本書は一日一ページの日記形式なので、如何に時間がなくとも区切りよく読むことが可能だ。寝しなに少しずつ読んでいる。初めて読んだ時ほどの昂奮には欠けるが「読む」に値する一書であることは論を俟(ま)たない。

 私はボールペンだ。
 書くために生きるのか、生きるために書きつづけるのか、その辺のことが未だにわかっていない小説家、そんな男に愛用されている水性のボールペンだ。

【『千日の瑠璃』丸山健二(文藝春秋、1992年/文春文庫、1996年)以下同】

 丸山は率直に「書くスタンス」を表明している。

 彼は今、数々の物象と命ある者とが巧みに構成する山国の町、まほろ町をつぶさに観察し、また、風がそよとも吹かない日でも強風のなかの案山子(かかし)のように全身を震わせ、魂さえも震わせてしまう少年と、彼が飼うことになった野鳥を通して、自己のうちには見出せない精神の軌跡と普遍の答を捜そうともくろんでいる。

 丸山の心象風景から生み出された物語は、目に映る表面的な営為を全く別の視点から描き出し、根源に潜む善悪を暴き出す。

 まほろ町で最も巧みに構成されているのは、万人がその美しさを認めざるを得ない「オオルリ」と、誰もが目を背け、哀れんでしまう「世一」の組み合わせだろう。少年「世一」のキャラクターは秀逸である。想像力の飛翔が斯くの如き主人公を誕生させた。世一はあらゆる人の営みが持つ本質を感知し、調和の方向へ、真実の高みへと誘(いざな)う。一見、トリックスター的な要素を湛えつつ、骨太な物語の柱としてそびえ立っている。

 
 

2000-08-05

風は変化の象徴/『千日の瑠璃』丸山健二


『メッセージ 告白的青春論』丸山健二

 ・20世紀の神話
 ・風は変化の象徴
 ・オオルリと世一
 ・孤なる魂をもつ者

『見よ 月が後を追う』 丸山健二

必読書リスト その一

 千日の物語は「風」から幕を明ける。まほろ町に吹く一陣の風が運んだドラマだったのかも知れない。

 私は風だ。

【『千日の瑠璃』丸山健二(文藝春秋、1992年/文春文庫、1996年)以下同】

 風は自らの意志をもって一人の老人の命を奪い、一羽の鳥の命を救う。変化を象徴する「風」が生と死の一線を画し、新たな世界へと読者を誘(いざな)う。

 天に近い山々の紅葉が燃えに燃える十月の一日の土曜日、静か過ぎる黄昏(たそがれ)時のことだった。

 千の主語の冒頭を飾る「風」は、すんなり決まったに違いない。丸山はオートバイに初めて乗った瞬間に知った風の感動をエッセイに書いている。スロットルを開いてキラキラとした風の中を体験した時から、この作品に向かっていたのではないだろうか。

 風は変化の象徴である。季節の移り変わりを知らせ、塵(ちり)を払いのけ、根を張らぬものをなぎ倒し、吹き飛ばす。向かい風となって前進する者の意志を試し、追い風となって帆に力を与える。

 風──見えないが、確かに感じる。そこに生と死を絡めた手腕に敬服した。

 
 

2000-08-01

20世紀の神話/『千日の瑠璃』丸山健二


『メッセージ 告白的青春論』丸山健二

 ・20世紀の神話
 ・風は変化の象徴
 ・オオルリと世一
 ・孤なる魂をもつ者

『見よ 月が後を追う』 丸山健二

必読書リスト その一

 私はある野望を抱いていた。それは、読んだ作品よりも量の多い書評を物することだった。読者へ訴えようとして著された文字の数々が、必要不可欠なものであれば、これに応える読者の感動も同じ数の文字があってしかるべきではないか、そう考えたのだった。

 7歳で文字を読めるようになり、今日(こんにち)までに数千冊の本を読んできたが、繰り返し読むに値する本の何と少ないことよ──。過ぎ去った30年間を振り返り、そう思わざるを得ない。

 そんな読書歴の中で、一昨年、本書と出会った。十数冊の本を併読するのが常であるこの私が、他の本を手にすることが不可能となった。一ページごとに変わる主語。千の視点から紡ぎ出される物語。まほろ町という架空の土地は、さながら小宇宙と化し、主人公である世一少年を中心に魂の劇が展開する。

 本と巡り会ってから丁度30年──。長年の野望を果たす時が来たようだ。

 物語は10月1日から始まった。千日間の冒頭を飾る主語は「風」だった──。詩情豊かな光景の中で、人間が抱く価値観とは全く相反する世界が展開される。

 風が運んで来たドラマに私は圧倒された。感銘などという生易しいものではない。度肝を抜かれたと言った方が正確だ。多読を得意とするこの私が他の書物を手にすることができなくなってしまったことを鮮明に覚えている。しかし、誰にでも薦められる作品ではない。その独特の個性、アクの強い表現、暴力性を伴う緊張感等々。この本を失敗作と評価する向きもある。が、丸山の革新的な手法は、文学の新たな嶺に到達し、読者に媚びを売るそんじょそこいらの作品群を睥睨(へいげい)する。

 一ページごとに変わる主語が千日の物語を紡ぎ出す。ありとあらゆる事物・事象・性質・現象が主語となって「まほろ町」と主人公である少年「世一」を語る。語彙の持つ業(わざ)が森羅万象をつかまえ、凝視し、一ページ一ページが小宇宙の物語を構成する。

 言葉が、自由に飛び交い、舞い上がり、突き刺さり、根を張り巡らす。

 肯定と否定、善と悪、陰と陽、生と死、相反する価値がクモの巣の如く交錯し世一の宇宙を象(かたど)る。

 それぞれのページが瞬間を切り取り、永遠を俯瞰(ふかん)する。微少なドラマを描き、極大の佇まいを奏でる。

 善意は限りなき優しさを伴った美しさとなり、悪意は極まりない辛辣さを満々と湛えドス黒い光を放つ。

 人間の目以外のあらゆるものから見える世界が表出している。

 丸山は、言葉によって構築される世界の限界に挑んだ。そして、それはものの見事に1000ページの作品となって結実した。大自然との交感から編み出された物語は、飽食に驕(おご)る人間の背筋をシャンと伸ばす効果に満ち満ちている。

 圧倒的なスケール、想像を絶する展開、森羅万象が奏でる「まほろ町」という宇宙、そして、自立せる魂の持ち主・少年世一。『千日の瑠璃』は20世紀の神話だ!