ラベル 創価学会 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 創価学会 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020-08-23

創価学会の思想は田中智学のパクり/『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』大谷栄一


『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之
『化城の昭和史 二・二六事件への道と日蓮主義者』寺内大吉
・『石原莞爾と昭和の夢 地ひらく』福田和也
・『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』保阪正康
・『血盟団事件 井上日召の生涯』岡村青

 ・創価学会は田中智学のパクり

 その結果、智学は決意する。日輝の教学は時勢の推移のなかでは妥当だと思われることもあったが、万代不易の道理ではない。しかし、日蓮の主張は万古を貫いて動かざるものである。いまこそ、「祖師に還る」「純正に、正しく古に還らなければならぬ」、と。
 日輝は摂受を重視しる「折退(しゃくたい)・摂進(しょうじん)」論を採ったのにたいして、智学は「超悉檀(ちょうしつだん[大谷註:悉檀とはサンスクリットのsiddhāntaの音訳で、教説の立てかたの意]の折伏)」にもとづく「行門の折伏」(実行的折伏)を強調した。折伏が祖師・日蓮の根本的立場であると捉え、それへの復古的な回帰を唱えたのである。この折伏重視の立場性こそが、智学生涯の思想と運動を貫く通奏低音であり、政府にたいする「諌暁(かんぎょう)」(いわゆる国家諌暁)もこの折伏の精神にもとづく。
 明治12年(1879)1月、病気再発の兆しがみえたため、智学は、横浜にいた医師の次兄・椙守普門(すぎもりふもん)の家で療養した。病気は小康を得たが、同年2月、還俗の意思を兄に伝え、病気療養を理由として、17歳で還俗することになる。また、3月には日蓮宗大教院の教導職試補の辞任届も提出している。以後、生涯を通じて、智学は在家仏教者として活動することになる。

【『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』大谷栄一〈おおたに・えいいち〉(講談社、2019年)】

 田中智学・本多日生北一輝〈きた・いっき〉-大川周明〈おおかわ・しゅうめい〉は昭和初期の軍人に多大な影響を及ぼしたが、これを日蓮主義で括ると視野が狭まる。むしろ大正デモクラシーの流れを汲んだ社会民主主義と捉えるのが正当だろう。佐藤優がわざわざ保守論客の関岡英之に近づいて大川周明を持ち上げているのも社会民主主義というタームで考えると腑に落ちる。

 大谷栄一は宗教社会学者である。それゆえ宗教や教団に固執して近代史全体の流れが見えにくくなっている。むしろ話は逆で、時代が揺れ動く波しぶきの一つに日蓮主義があったと私は見る。鎌倉時代にあって日蓮ほど国家意識を持った宗教指導者はいない。出家の身でありながら迫害に迫害を加えられても尚、政治的意見を進言し続けた。昭和初期は内憂外患の時代であり鎌倉の時代相と酷似している。

 日蓮主義は戦後にも継承された、と私は考える。田中智学の国立戒壇論が創価学会に継承されたのである。戦後の一時期まで、智学の国立戒壇論は創価学会の運動の中核部分に保持されていた。創価学会の国立戒壇論は「国柱会譲り」のものだった。

 創価学会は元々日蓮正宗の一信徒団体であったが、戦前より折伏(しゃくぶく)を標榜し原理主義に傾いていた。初代会長の牧口常三郎〈まきぐち・つねさぶろう〉にも田中智学の影響が及んでいた事実が興味深い。戦後、国柱会の勢いは已(や)んだが、創価学会は共産主義的な組織運営で教勢を拡大した。折伏はオルグと化した。公明党が政権与党入りしてからは尖鋭(せんえい)さを失い、与党内野党みたいな中途半端なブレーキ役に甘んじている。創価学会もまた本質的には社会民主主義傾向が顕著なため、外患の多い現代にあって国政をリードすることは不可能だろう。

 尚、大谷栄一には『近代日本の日蓮主義運動』(法蔵館、2001年)との著作もある。

2019-01-16

創価学会の墓地ビジネス/『週刊東洋経済 2018年9/1号 宗教 カネと権力』


『創価学会秘史』高橋篤史
『ジャーナリズムの現場から』大鹿靖明

 ・創価学会の墓地ビジネス

 当初、学会は運動公園なども併設しようと、ゴルフ場全体を買収する方針だった。が、交渉の最終段階で半分に絞り込んだ。それでも買収価格が引き下げられることはなかった。「牧口さんの出身地だからどうしても欲しかったんでしょう」と前出の役員は振り返る。
 もっとも、ここでも地元の反対がネックだった。12年11月、久米地区が住民投票を実施したところ、反対が6割に達したのである。
 それでも利害が一致していた学会側と柏崎黒姫観光は断念しなかった。当初は集落に近い海側のアウトコースを墓地に充てる計画だったが、山側のインコースに変更。さらに地元へのアメも用意した。集会施設の駐車場拡張など4000万円の整備費と、年120万円の町内会費を10年間納め続けることを約束したのだ。関係者は70戸余りの集落を1軒1軒回り同意書を取っていった。
 前出の役員によると、話がほぼまとまると、学会御用達で知られる不動産会社「東京昇栄」が交渉に加わった。学会関係者が初めて顔を見せたのは、市内の学会施設で行われた契約調印の場だった。(高橋篤史)

【『週刊東洋経済 2018年9/1号 宗教 カネと権力』(東洋経済新報社、2018年)】

 2019年11月に完成予定の「牧口記念墓地公園」である。牧口常三郎〈まきぐち・つねさぶろう〉は創価学会の初代会長で柏崎(新潟県)出身だ。ま、カジュアルな聖地主義といってよい。ネット上に東京昇栄の企業情報は見当たらず。隠密企業というわけだ。

 5000万円もの余計なカネを支払うのは先行投資に決まっている。金額に見合うだけのリターンがあるのだ。それを負担するのはもちろん創価学会員である。教団とは信者からカネを毟(むし)り取るシステムのことだ。自ら喜んで騙される人々を信者とは申すなり。

 それに対してつべこべ言うのはお門違いだ。むしろ経済活動に貢献していることを称(たた)えるべきだろう。創価学会以外の新宗教も取り上げられているのだが、書き手に依存した誌面作りとなっていて底が浅い。電車で読むにはうってつけの内容だ。

 宗教ネタを扱う時点で東洋経済新報社に知恵のないことがわかる。他人の財布の中身を心配するのが彼らの仕事なのだろう。


2019-01-09

若き日の感動/『青春の北京 北京留学の十年』西園寺一晃


 ・中国人民の節度
 ・若き日の感動

『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦

「我々は口ではどんな格好のよい事も言える。しかし、問題は実践だ。君達は準備討議の時、たくさん立派な事を言った。でも実際行動はまるで正反対だ。働けば疲れる。コヤシは臭い。臭くないと言ったら嘘だ。しかし、疲れるのを嫌がったり、臭い仕事から逃げるのは思想問題だ。それに、疲れる仕事、臭い作業も誰かがやらねばならない。僕はそういう仕事こそ進んでやるべきだと思う。それを一つの鍛錬の場と思い、喜んでやるべきだ。それでこそ進歩するんだ。口でいくら進歩すると言っても、結局は実践の中で努力して、初めて実現するんだ。口先だけの革命の本質は、不革命か反革命なんだ」

【『青春の北京 北京留学の十年』西園寺一晃〈さいおんじ・かずてる〉(中央公論社、1971年)以下同】

 35年前に読んだ本である。同じ頃に本多勝一著『中国の旅』(朝日新聞社、1972年)も読んでいる。1980年代はまだ進歩的文化人が大手を振って歩いていた。知識がなければ判断力が働かない。直接会えば声や表情から真実を辿ることは可能だが、読書の場合かなり難しい。例えば相対性理論に関する間違いだらけの解説書を読んでも素人には判別しようがない。特に大東亜戦争を巡る歴史認識は専門家たちによって長く目隠しをされてきた。

 若さとは「ものに感じ入る」季節の異名であろう。10代から20代にかけてどれほど心の振幅があったかで人生の豊かさが決まる。西園寺少年が直接見聞した中国の姿に私は甚(いた)く感動した。社会主義国の高い政治意識に度肝を抜かれた。

「あの店はあなた方、外国同志達のためにあるのです。私もあの店の洋菓子がおいしいことを知っています。でも今は食べません。もう少ししたら、我々は今の困難(100年振りの大災害による食糧不足)を克服して6億人民全部がいつでも好きなだけ、おいしい菓子を食べられるようになります。そうしたら食べます。その時は、おいしい菓子が一段とおいしく感じられるでしょうから、その時までとっておきますよ」
 と言って笑った。彼はその日、中国の笑い話やことわざについて色々と話してくれ、僕達を腹の皮がよじれるほど笑わして帰っていった。しかし、彼の前に出されたシュークリームはそのまま残っていた。僕達一家4人は、同じように手をつけなかった菓子を前に、妙に白けた気持ちになった。僕は苦いものを飲み込むようにそれを食べた。少しもおいしくなかった。

 これらのテキストは当時私がノートに書き写したものだ。他にもまだある。

 西園寺一晃〈さいおんじ・かずてる〉の父・公一〈きんかず〉が尾崎秀実〈おざき・ほつみ〉(『大東亜戦争とスターリンの謀略 戦争と共産主義』三田村武夫)の協力者でゾルゲ事件に連座して公爵家廃嫡となったのを知ったのは最近のことだ。公一〈きんかず〉は西園寺公望〈さいおんじ・きんもち〉の孫である。

 公一〈きんかず〉は真正の共産主義者であった。息子の一晃〈かずてる〉が同じ道を歩むのは当然だろう。とすると本書はただのプロパガンダ本ということに落ち着く。著者は嘘つきだったのか? その通り。西園寺は「大災害による食糧不足」としているが、実際は毛沢東が行った大躍進政策が原因であった。中国人が語った「今の困難」とは5000万人の餓死を意味する。まるで秋にやってくる台風のような書きぶりだ。左翼に限らず主義主張に生きる者は都合の悪い事実に目をつぶり、自分たちに都合のよいことは過大に評価する。

 若き日の感動は長く余韻を残しながらも、情報は書き換えられて更新されてゆく。今となっては嘘つきに騙された無念よりも、嘘つきに気づいた満足感の方が大きい。尚、親中派つながりで創価学会が組織を上げて本書を購入した経緯があり、後に西園寺は『「周恩来と池田大作」の一期一会』(潮出版社、2012年)という礼賛本を書いている。

青春の北京―北京留学の十年 (1971年)
西園寺 一晃
中央公論社
売り上げランキング: 1,180,055

2018-04-16

当局の片棒を担いで赤化教員の転向を推進した創価学会/『創価学会秘史』高橋篤史


 ・当局の片棒を担いで赤化教員の転向を推進した創価学会

『ジャーナリズムの現場から』大鹿靖明
『週刊東洋経済 2018年9/1号 宗教 カネと権力』

 まったく感心できないことだが、創価学会は過去の歴史を正しく伝えていない。それは対外的な宣伝だけでなく組織内の学会員各層に向けたものでも同じである。とりわけ1950年代までの歴史に関しては、むしろ隠したがっているようにすら見える。
 創価学会の歴史を知る最も有力な手掛かりは、その当時の機関紙誌を調べることである。創価学会の主な機関紙誌類としては古いものから順に『新教』(のちに『教育改造』と改題)、『価値創造』の戦前版、『大善生活実証録』、『価値創造』の戦後版、『大百蓮華』、そして現在誰もが知るところの『聖教新聞』の六つが挙げられる。(中略)
 では、東京・八王子にある創価大学や創価女子短期大学はどうか。信じがたいことに、1951年4月創刊の『聖教新聞』のうち、付(ママ)属図書館が所蔵・公開しているものは1980年1月以降の分だけである。丸々30年分が所蔵すらされていないのだ。
 さらに首をひねりたくなるのは1949年7月創刊の『大百蓮華』である。創刊号からほとんどを所蔵しているものの、公開しているのは1971年1月以降の分だけなのだ。つまり創価大学の学生・教職員でもそれ以前のもの、丸々20年分は、原則、見ることができないのである。

【『創価学会秘史』高橋篤史(講談社、2018年)】

 秀逸なノンフィクションである。しかも創価学会が発行する昭和期前半の機関紙・誌という第一次資料にこだわっており、学術論文に引用できるレベルの高さとなっている。更に感情の暗い翳(かげ)が微塵もなく公正さに心を砕いた跡が窺える。『小説 人間革命』と『若き日の日記』を資料として採用していないのはさすがである(『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS)。

 本書の目的は創価学会の歴史修正主義を指摘するところにあり、単なる教団批判に陥っていない。誰しも好き嫌いという感情から自由になることは難しいが、公正な視点に立とうと努めるところに理性の本領がある。これをもう一歩進めるとメタ認知となる。

「この歴史修正主義が否定的な意味で使われているのは、それこそ歴史的な経緯があるのです。その大きな理由は、ナチス・ドイツによるホロコースト(大虐殺)の否定論者が自分たちのことを『歴史修正主義者』としたからです」(真屋キヨシ)。徹底したプロパガンダでホロコーストを神話にまで高めたユダヤ人(『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン)がこれを許すはずもない。

 昨今、日本の近代史を見直すムーブメントを歴史修正主義と非難する左巻きが多いが、新たに判明した事実を基(もと)に行うのは「歴史の修正」であり、「主義」や「主義者」とは無縁である。尚、歴史修正主義の意味についてはWikipediaよりもニコニコ大百科の方が優れている。

 創価学会の歴史修正主義は正当を問う西洋的な性質ではなく、第3代会長の正統を巡るシナ文化を踏襲している。ところが高橋はもっと初期の段階から、現在創価学会が唱える平和主義と異なる歩みがあったことを資料によって明かす。

 牧口の論文のなかで特に興味をそそられるのは、長野行きにあたりあらかじめ内務省から長野の警察部に電話をかけてもらっていたという記述だ。牧口の論文タイトルがまさにそうであるように、このことは当時、国がとっていた転向政策と創価教育学会が乗り出した折伏による会員拡大とが軌を一にしており、そのため連絡を密にしていたことを意味する。当局からすれば左翼思想にかぶれた本来優秀な元教員たちを転向させてくれる団体は好ましい存在であり、牧口らからすれば弾圧で心に傷を負ったそうした元教員たちは折伏するのに格好の相手だった。

 当局の片棒を担いで赤化教員の転向を推進した創価学会の歴史は、教団の汚点というよりは黒歴史そのものといってよい。公明党が政権与党入りしたのもむべなるかな。

 ここから底の浅い批判を加えることは避けたい。当時の牧口常三郎(1871-1944年)の立場を思えば、戦争になることも敗戦することも知らないのだから。

 それにしても近現代史におけるマルクス主義の影響は計り知れない。人は【概念の中で生きる】動物である。概念というソフトを上書きしたり、インストールし直したりすることをやめることはできない。

創価学会秘史
創価学会秘史
posted with amazlet at 18.04.06
高橋 篤史
講談社
売り上げランキング: 3,696

2018-01-28

赤い季節/『北朝鮮利権の真相 「コメ支援」「戦後補償」から「媚朝派報道」まで!』野村旗守編


 作家の小田実氏は朝鮮総聯の手引きで訪朝し、77年1月から雑誌『潮』に「『北朝鮮』の人びと」を連載したが、その中で何度も公式視察を離れて、あてずっぽうに「なだれこみ」取材をしたと誇らしげに書いている。しかしこの取材も北朝鮮側が巧妙に仕組んだヤラセである疑いが強い。小田氏は「テレビはどこの家にももっているだろう。冷蔵庫もたいていの家にはあった」と書いているが、小田氏の見た家は特権階級である党幹部などの家ではないのか。亡命者の話では70年代では、平壌を除く地域では一般家庭で冷蔵庫は無論、テレビを持っているのは特権階級の家だけだった。
 小田実氏の北朝鮮ルポは、北朝鮮をいたく満足させたらしい。77年1月、北朝鮮から朝鮮総聯に伝達された「77年度総聯の事業方針」の中に「小田実のような人物を2~3名工作獲得すること」との項目があったという。

【『北朝鮮利権の真相 「コメ支援」「戦後補償」から「媚朝派報道」まで!』野村旗守〈のむら・はたる〉編(宝島社、2003年)】

 目立たぬ情報に真実がある。小田実〈おだ・まこと〉といえば左翼の大物で“北朝鮮を「地上の楽園」と賛美するキャンペーンを行った進歩的文化人を代表する一人でもあった”(Wikipedia)。そのうえ内縁関係にあった水墨画家の玄順恵(ヒョン・スンヒェ)は在日コリアンだった。北朝鮮にとって「これ以上はない」人選であろう。昔はテレビにもよく出ていた。猫背で傲岸不遜を絵に描いたような人物だった。

『潮』は創価学会系の月刊誌である。上記記事からすっぽり抜け落ちているのは「創価学会も赤い季節に染まっていた」事実だ。在日朝鮮人の帰還事業(1950年代~84年)では相当数の創価学会員が北朝鮮に渡っており、昭和40年(1965年)前後の池田会長講演では「南鮮・北鮮にも我が同志がいる」旨が語られている。

 もともと公明党は結党以来、大衆福祉を掲げて登場したわけだから左翼との親和性は十分にあった。1970年代以降に創価学会が推し進めた反戦・平和路線はポリティカル・コレクトネスそのものだ。しかも日中国交回復(1972年)の橋渡しをしたのは公明党の竹入義勝委員長(当時)だった。

 創価学会にとって日中国交回復は最大の成果である。西園寺一晃〈さいおんじ・かずてる〉を始めとする親中左翼の一部は今尚、池田の民間外交を絶賛し続けている。最大の皮肉は言論出版妨害事件の火消し役を務めた田中角栄がキッシンジャーによってロッキード事件(1976年)で葬られたことだ(『この国の不都合な真実 日本はなぜここまで劣化したのか?』菅沼光弘/『日本人が知らないではすまない 金王朝の機密情報』菅沼光弘)。

 また日本に次いで創価学会員が最も多いのは韓国である。創価学会の様々なロビー活動によって1990年代あたりから弾圧の手が緩くなり、社会的にも肯定されるようになった。こうした背景もあり創価学会の親中・親韓路線は徹底している。

 戦後の復興期から高度経済成長において日本共産党と創価学会にはそれぞれ社会的な役割が確かにあった。日本の大衆を糾合し得たのも事実である。だが彼らの思想や運動は日本を変えるまでには至らなかった。そして中国が強大な力を持ち、牙を剥(む)いて日本に襲い掛かろうとする今、左翼と創価学会はとんでもないお荷物となって憲法改正を阻んでいる。さすがにこの状況を予測し得た人物はいなかったことだろう。

 北朝鮮に拉致された市川修一さんと増元るみ子さんは創価学会員だ。家族は公明党の最高幹部に救出を切望したが、その場しのぎの返事しか返ってこなかった。「一人の人を大切に」と教える創価学会が実は拉致被害者を大切にしていないのである。彼らが説く世界平和も同様で、チベット・ウイグル・パレスチナ・台湾などが完全に無視されている。

2017-08-06

創価学会というフィクション/『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS


『カルト村で生まれました。』高田かや
『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』米本和広
『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広
『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『杉田』杉田かおる

 ・創価学会というフィクション

『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也
『創価学会秘史』高橋篤史

 学会本部とともに、この“学会村”の中核をなす聖教ビルの最上階7階が、聖教新聞社社主でもある沼田太作専用の“貴賓室”として生まれ変わったのは、58年8月のことだった。
『本社では、来客用の部屋が古くなったため、改装工事を進めていたが、このほど新装なり、この日、社主である名誉会長も、その模様を視察した』
 当時の聖教新聞紙上には、“貴賓室”についてたったこれだけの記事でしか触れられていない。だからこれを読んだ一般の学会員は、応接間をちょっと改装した、という程度にしか思わなかったことだろう。
 しかし、実際には、ビル中央のエレベーターホールの東側にあった記念館をとりこわし、それまでの沼田の執務室とあわせて、7階の全フロア約300坪を沼田太作専用フロアに改装するための工事に、半年間も費やしたのである。
 わざわざイタリアから取り寄せて、壁一面に張りめぐらした大理石は、重厚な光沢をたたえている。
 欧風の執務室と大会議室には、壮大なシャンデリア。フロア全体には、思わず体が沈みこんでしまうような感触をおぼえる、ぶ厚いペルシャ製のシャギーとジュウタンがしきつめられている。
 特注のテーブル、椅子、サイドボード、記帳台……すべてが“一流”好みの沼田の趣向によるものばかりだ。
 記帳台ひとつとってみても、皇居で天皇がお使いになっているものを「はるかにしのぐもの」というふれこみの、1000万円もしたという高価なものだ。
 それだけではない。南側に面した執務室の隣と北西の角部屋には、白木をふんだんに使った最高級の和室になっていて、大きな掘りごたつも作られ、沼田がゆっくりとくつろぐための部屋になっている。
 空調設備も、7階だけはビル本体と切り離して、沼田の体質にあわせて操作できるように作り変えられていた。
 当初、この改装工事の見積もりは7億1600万円だったが、沼田好みの贅(ぜい)をつくすうちに、追加追加で2億円もオーバーし、たった1フロアを沼田専用に改装するために、総額9億円もの費用が投じられたのである。

【『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS(サンケイ出版、1984年)以下同】

 意外と知られていない書籍である。私も偶然知った。池田大作が沼田太作という仮名になっているが、登場人物の殆どがこんな調子で実名を少し変えただけの名前となっている。

「坊主丸儲け」とはよく言ったもので、税制を優遇されている宗教法人が贅沢(ぜいたく)三昧をするならば国民は課税を望むに違いない。創価学会員は真面目な人が多い。彼らが爪に火を灯すように蓄えてきたお金を喜捨し、教団トップが湯水のように散財する。まるで資本主義を絵に描いたような構図である。


 聖教新聞社に勤務する中堅幹部複数名が内部告発した体裁となっているがもちろん正体は不明だ。ただし詳細に渡る内部情報を鑑みると極めて妥当性が高い。他の関連本に引用されていないのが不思議なほどである。例えば上記テキストでも天皇に「陛下」という敬称を付けていないところがいかにも学会員らしい(笑)。

 沼田の原稿は、ふつう、下書きを専門にしている文書課の者が元になる原稿を書く。それを第一庶務(沼田の秘書室)を通して沼田に提出するのである。
 聖教新聞に随時連載している『忘れ得ぬ同志』をはじめ、月刊誌『潮』などに掲載される沼田の原稿は、その大半が文書課所属の編集メンバーの手によるものだ。
 沼田の原稿を代作する編集メンバーには、聖教新聞社別館の4階にある専用室が与えられている。専用室には、沼田がこれまでに“書いた”著作類がそろえられており、歳時記などの参考文献がズラリとならんでいる。すぐ下の2階、3階は聖教新聞の資料室だ。編集メンバーは必要に応じて、資料室から資料をふんだんに持ち出し、これまでの沼田の著作物との間に、内容や文体上、矛盾や違和感がないように心をくばりながら、執筆に当たるのである。
 こうして元原稿ができあがる。
 原稿の内容が核軍縮問題など、国際政治への提言といったようなものであった場合は、論説委員長の松原正がアンカー役としてチェック、そのうえで第一庶務に渡すのである。日常的な学会内部に関する原稿の場合は、編集局長の佐川祐介がアンカーを務めている。

 ゴーストライターの実態については更に詳しく述べられている。

 沼田の一般的な文章は、聖教新聞の文書課のメンバーがすべて代筆していたが、思想的なものや教学に関するものなどは、彼ら教学畑の人間たちがそのほとんどを代筆していた。
 昭和45年に沼田が出した『私の人生観』は、全文桐谷康夫の書き下ろしだったし、50年発刊の『法華経を語る』は、原山直と野川弘元と沼田の対話集という形になっているが、実際は、そのほとんどを野川が書いたものだ。そのくせ本の著作者は沼田一人だけになっている。
 また、沼田がこれまで自分の勲章のように自慢してきた、トインビー博士との対話集『二十一世紀への対話』も、実は沼田自身はまったくタッチしていないのと同じだった。
 沼田は47年にトインビー博士とたしかに対面はしたのだが、そこで出た話はほんのあいさつ程度。ところが、沼田としてはとにかく実際に合ったという事実をなんとか利用して、自分のステイタスを高めるPRのために使いたいと思い、桐谷に「対話集を作れ」と命じたのだった。
 しかし、トインビー博士と沼田太作の間には、つっこんだ“対話”など実際には行われてはいない。そこで桐谷は、長文の書簡をトインビー博士との間で交わし、それを対談形式にまとめあげたのである。
 もちろん桐谷とて、一人で世界有数の知性であるトインビー博士と“対等”に渡りあえるわけがない。実際には、これもまた野川と現在SGI(創価学会インターナショナル)グラフの編集長をしている麻生孝也、それに聖教新聞社会部長の吉田雄哉らが学会本部3階の一室に1年以上も閉じこもり、ぼう大な数の本や資料を参考にしながら書いたものを、桐谷がまとめて書簡という形にしたのだった。

 実際に池田が書いているのは句歌の類いのみという。こうなると大川隆法の霊言を嘲笑うわけにはいかない。過去にもゴーストライター説はあったが推測や風説でしかなかった。ここまで具体的に言及した例はない。尚、『二十一世紀への対話』は池田の代表的な著作でかつて東北のローカル紙が一面コラムで絶賛したこともある。

 一読して伝わってくる雰囲気は昭和期の創価学会が池田崇拝主義に陥っていない事実である。職員の間では平然と池田批判がまかり通っていた。ところが1979年(昭和54年)に会長を勇退した池田は、平成に入り日蓮正宗との抗争をテコに再び権力を手中にした。

 学会本部の中枢にいる幹部は当然こうした事実を知っていることだろう。とすると偽りの姿に目をつぶってもついてゆきたいほどの人間的な魅力があるか、あるいは何らかの見返りがあるのだろう。かつて諫言したことのある人物は元教学部長の原島嵩〈はらしま・たかし〉ただ一人である。

 創価学会が毎年財務で集める金額は2000~3000億円で総資産は10兆円に上る。学会員の経済的負担は1970年代後半から増大し始めた。書籍の購入や聖教新聞の多部数購読も目に余る。かつて「拝み屋」と呼ばれた学会員は現在、「選挙屋」「新聞屋」に変貌してしまった。

 創価学会というフィクションにはまだ力がある。しかしながらかつて「宗教革命」を標榜して世直しに挑んだ情熱は翳(かげ)りを帯びている。

小説 聖教新聞―内部告発実録ノベル
グループS
サンケイ出版
売り上げランキング: 788,572

2017-08-05

池田大作の実像/『杉田』杉田かおる


『幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった』宏洋
『カルト村で生まれました。』高田かや
『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』米本和広
『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広
『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅

 ・池田大作の実像

『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS
『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也

『月の砂漠』(ママ/正しくは『月の沙漠』)以来、身近で接することはあったが、いつも緊張していて、わたしは一言も話すことができなかった。そもそもこちらから声をかけるなど、とんでもなく畏れ多いこと、彼こそは雲の上の人であった。
 食事が始まった。その席上、最高指導者が、「男はうそつきだから気をつけろ」とか「先々代の最高指導者は金儲けが下手だった」とか、あまりにも俗っぽい話題を出すので、わたしは自分の耳を疑った。何かの間違いだろうとまで思った。
 が、そんな疑問など吹っ飛ぶような出来事が続いて起こった。デザートにメロンが出たのである。一皿に半月形に切ったメロンが載っていた。なんの変哲(へんてつ)もないメロンだと思って見ていた。すると、最高指導者がいった。
「このメロンは天皇陛下と私しか食べられない」
 はあ? という目でわたしはメロンを見た。そんなに貴重なメロンなんだ。と、彼はそのメロンをひとさじすくいとって口に含んだ。そして、「みんなにも食べさせてあげたい」といった。わたしは、同じメロンがみんなの前にも出てくるものと期待し、貴重なメロンをみんなと分かち合おういう彼の思いやりに心が動かされた。
 ところが、彼はその食べかけのメロンを隣の席の人に渡した。うやうやしく受け取った人は、同じスプーンで同じようにすくって口に入れた。そしてまた隣の人へ。スプーンをしゃぶるようにする中年の幹部もいた。
 悪夢のようだった。最高指導者にすれば、善意かもしれないが、わたしにはただ気持ち悪さが背筋を走った。その順番がわたしにも近づいてくる。どうしよう、どうしよう。動揺が顔に出てしまったらしい。隣の女性がわたしを睨(にら)みつけた。そうこうするうちに、ついにわたしのところへ恐怖のメロンが来た。もうほとんど食べつくされて、更には果汁がどろんとよどんでいた。
 わたしは覚悟を決めて、皮に近いところを少しだけすくった。ところが、スプーンがすべって、ほんのすこしのつもりが、結構な量がすくえてしまった。うまくいかないものだ。周囲は注目している。わたしは目をつぶって、味わわないように素早く飲み込んだ。
 お下げ渡しと称して、こんなばかげた不潔なことをさせるのが、最高指導者なのか。わたしの中で少しずつ不信感が芽生えていく。

【『杉田』杉田かおる(小学館、2005年)】

 過去に「『月の砂漠』(ママ)を歌いなさい」「ヘタクソだねえ。もう一度歌いなさい」というやり取りがあった。池田大作に心酔していた杉田は「それでも嬉しかった」と振り返る。

 私の世代だと杉田かおるはチー坊役で知られる。


 その後『3年B組金八先生』、『池中玄太80キロ』とキャリアを積み上げ、歌(「鳥の詩」)もヒットした。ヘアヌード写真集でも話題をさらった。2000年からはバラエティ番組にもよく登場した。傍(はた)から見ると順風満帆の人生だが実生活は異なっていた。

 ネット上では創価学会告発本として取り上げられることが多い著作だが驚くほど面白かった。詐欺を繰り返す父親との愛憎、精神を病んだ母親との確執。創価学会で一級の活動家となったものの、池田大作の実像に幻滅し脱会するに至る。そして24時間100kmマラソンでは奇しくも「自分の過去そのもの」と言ってよいコースを走る。

 誤読しやすいと思われるが創価学会批判に目的があるわけではなく、ただ忠実に自らの体験を書いている。『杉田』とのタイトルは父親の姓で既に戸籍も変えたという。中年に差し掛かった女性が過去への訣別を綴る。あけすけ過ぎてやや病的に思えるほどだが嘘の臭いはない。結婚という幸せに向かって本書は結ばれているがその後破局している。

 日蓮の遺文に「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜といふ」(「崇峻天皇御書」建治3(1277)年9月11日、真蹟曽存)とある。食べかけのメロンを下げ渡す振る舞いに「賢さ」はない。

 佐藤典雅著『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』と併読すれば直ちにわかるが、姿勢としては杉田かおるの方が上だ。佐藤は被害者の立場に甘んじているが、杉田は自分の選択に責任を持っている。

 しかしながら、やはりエホバ信者には佐藤本が受け入れらないだろうし、創価学会員なら杉田本を拒絶することだろう。信仰は事実を歪める。もしも事実を認めれば別のフィクション(物語)が必要となる。

 尚、別の書籍によれば池田は北條浩第四代会長に対し、唐辛子で真っ赤にした蕎麦を「食べよ」と命じたエピソードもある。弟子の忠誠心を試すのは疑心暗鬼によるものか。

 それでも尚、数百万人もの信者が池田を敬愛している事実を軽んじてはならないだろう。創価学会が日本最大のマンモス教団となり得たのは「下位集団の社会化」に成功したためであろう。

2017-05-19

侠気と詭弁/『仮面を剥ぐ 文闘への招待』竹中労


『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし

 ・侠気と詭弁
 ・夢野京太郎とは

『篦棒(ベラボー)な人々 戦後サブカルチャー偉人伝』竹熊健太郎

「自由な言論」はゆきつくところ、もの書く場を失っていく。

【『仮面を剥ぐ 文闘への招待』竹中労〈たけなか・ろう〉(幸洋出版、1983年)】

 コアなファンが多い竹中労だが元新左翼であることが見逃せない。左翼は元々暴力革命を標榜しているが、その既成左翼を批判し急進的な革命を目指すのが新左翼である。21世紀であれば立派なテロリストとして認定できる。その竹中が創価学会にエールを送る。創価学会が言論出版妨害事件(1960年代末-1970年代)や宮本顕治宅盗聴事件(1970年)を起こし、日蓮正宗宗門との紛争によって池田大作が会長辞任(1979年)に追い込まれた後のこと。創共協定(1974年)が事実上頓挫しこととも関係があるのかもしれない。

 竹中はその後『聞書・庶民烈伝 牧口常三郎とその時代』(全4冊、潮出版社、1983〜1987年)を月刊誌『潮』で連載するが、編集部の方針と相容れず中途半端な形で終わってしまった。

 読んでから10年近く経過しているためテキストを見ても文脈が思い出せない。どんどん紹介してしまおう。

 一方的な敵意をエスカレートさせるのみで、問題の本質に迫る論争が不在であるこのような力関係で、“勝敗”をきめるのは結局、物量の差でしかあるまい。
 ――「言論の自由」は、多数派工作で獲得される。それが、民主主義である。世論によって人々は判断し、善と悪とを弁別する。だが、その世論をつくるのはマス・コミュニケーション、大衆操作の力学である。圧殺されるマイノリティ、「自由な言論」は、ついに抵抗の手段を持たないのだ。

 更にこう続ける。

 中立公正を守ろうとすれば、そうした客観主義にジャーナリズムは純化していく。【そこに陥穽がある】。言論・思想の統制は、強権によるものとは限らない。言論と言論・思想と思想とが火花を散らして闘い、黒白を争うことを“表現の自由”というのだ。事実に是(これ)を求めて(実事求是)、主張を読者大衆に問うのが、ジャーナリズムの仕事(使命などとあえて言うまい)である。論理を失った感情のせめぎあい、根拠を持たぬ醜聞の氾【乱】と等しく、死灰のような自主規制は報道の頽廃である。

 旧ブログ(はてなダイアリー)に抜き書きをアップしていたのだが、『折伏 創価学会の思想と行動』との関連を考慮してこちらに移動した次第である。

 今読むともっともらしい詭弁に思える。また当時はインターネットがなかったことを考慮する必要があるだろう。1980年代には週刊誌が執拗に創価学会バッシングを繰り返していた。竹中の侠気(おとこぎ)は称賛に値するが、政党を有する750万世帯のマンモス教団を「マイノリティ」と同列に扱うのは無理がある。

 1980年代から90年代にかけての創価学会を巡る言論については以下のページが詳しい。

創価学会のこと(「創価学会批判」論序章)1

 時折、ジャーナリストが自虐的に売文業と自称することがある。新聞といえども商業ジャーナリズムであり、テキストは広告や金銭と交換される商品となったのが現実である。ゆえにジャーナリストは「書きたいこと」と「売れる商品」の間で揺れ、自分なりの折り合いをつけるしかない。

 ま、「ジャーナリズムは既に死んだ」と言っても差し支えないだろう。小さな範囲で取材をして、でかい顔をするのが連中の生態だ。

2017-05-17

大衆運動という接点/『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし


『巷の神々』(『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)石原慎太郎
『対話 人間の原点』小谷喜美、石原慎太郎

 ・恵まれた地位につく者すべてに定数がある
 ・大衆運動という接点

『仮面を剥ぐ 文闘への招待』竹中労
『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也
『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也
『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也

 学会の用いる折伏は、単なる説得ではない。一個の人格を社会的、経済的、心理的諸要素、それも主として弱点から攻撃し、批判し、いわば逆さにふって血も出ないところまで追いつめる激しさと執拗さをもっている。背後には確固とした対話の技術を準備している。
 このことは、伝統的に対話の習慣に馴れていない、“ものいわぬ”日本の民衆を、驚愕させ、呆れさせ、果ては反発させる。人生の途上に現れた異質の体験なのだ。(柳田邦夫)

【『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし(産報ノンフィクション、1963年4月15日)以下同】

 古い書籍で――因みに私が生まれる3ヶ月前に刊行されている――創価学会員ですら読んでいる者が少ない。少し前まで入手困難であったため地元図書館にリクエストを申請し取り寄せてもらった。

 書き手の中心にいる鶴見俊輔(1922-2015年)は谷沢永一が「『ソ連はすべて善、日本はすべて悪』の扇動者(デマゴーグ)」と批判した(『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』)進歩的文化人の一人だ。

「鶴見氏は一九三七年に、一五歳でアメリカに留学して都留氏に出会って以来、『世界史の中の日本の動きについて、この七○年、時代の区切り目ごとに、私は都留重人から示唆を得てきた』」(季刊誌『考える人』二○○六年夏号)との文章を今見つけた。都留重人(1912-2006年)の妻は木戸幸一(1889-1977年)の姪(めい)で、木戸の戦争責任を回避するために暗躍したマルクス主義者である。

伊原吉之助教授の読書室:木戸幸一の保身

 上記論文で挙げられた書籍を私は一通り読んだ。確証を欠くのは確かだが状況証拠は揃っているように思われる。

 日本の近代史が今尚モヤモヤとしているのは左翼が果たした役割がまだ明らかになっていないためだ。GHQ内部の左翼は大半がニューディーラーであった。そもそもフランクリン・ルーズベルト(1882-1945年)大統領がソ連建国にエールを送り、スターリン(1878-1953年)と親しい間柄であった。ルーズベルトの周辺はコミンテルンのスパイだらけで、日本を戦争に追い込んだハル・ノートを起草したハリー・デクスター・ホワイト(1892-1948年)もその一人である。第二次世界大戦は左翼スパイが世界各国で暗躍した事実を忘れてはならない。

ルーズベルトの周辺には500人に及ぶ共産党員とシンパがいた/『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫

 一方、創価学会は元々保守主義・民族主義的色彩が強かった。


 牧口常三郎(初代会長/1871-1944年)と戸田城聖(二代会長/1900-1958年)は大日本皇道立教会(1911年創立)に参加している。上の画像の後列左端が牧口で、後列の右から二人目が児玉誉士夫(1911-1984年)である。創価学会は戦時中に治安維持法と不敬罪で弾圧されたが、決して反天皇制というわけではなく学会員の行き過ぎた折伏が招いた結果であった。

 ところが池田大作(三代会長/1928-)の時代になると左方向に大きく旋回した。平和主義・国際主義を前面に打ち出し、共産主義と全く同じ手法で組織拡張に成功した。池田は卓越したオルガナイザーであった。

グローバリズムと共産主義は同根/『国難の正体 世界最終戦争へのカウントダウン』馬渕睦夫

 本書刊行が1963年で、松本清張(1909-1992年)の仲介による創共協定(日本共産党と創価学会との合意についての協定)が結ばれるのは1974年のこと。松本清張は偶然の産物としているが、とてもそうは思えない。

 わたしはあるチンドン屋の娘を知っている。チンドン屋夫婦の子として生れ育ったかの女には大きな劣等感が渦巻いていた。頭もいいほうではない。学校にも行けなかった。貧困が家庭を破壊していたのだ。くわえてかの女は弱身で蓄膿症をはじめいくつかの病気をかかえていた。わたしはそんなかの女と、ときおりあう。かの女は女中のごとく家の中のこまごまとした仕事やチンドン屋仲間の飯づくりに多忙であったが、映画や小説が好きで暇さえあれば楽しんでいた。
 わたしがそういう映画の感想をきいても、批評はおろか感想もいえなかった。ただ読み観るというだけの話だった。強い意見があるわけでもないかの女にはそれが、他のふつうのひとたちと同様、とうぜんのことであった。
 しばらくわたしはかの女と会わないでいた。わたしはかの女の存在を忘却していた。ふつうの、平凡な、ありきたりの娘だったので、軽い同情があっても、忘れるのがあたりまえだ。ところがしばらく会わないでいると、かの女のほうから訪ねてきた。顔がいきいきとしている。さては、恋人でもできて劣等感から解放されたのかな、と思った。映画の帰りだという。そうしてペラペラと、その映画の批評をする。わたしはあっけにとられる思いでかの女をみつめた。かの女は、その映画の主人公の生き方を痛罵しているのである。わたしは愉快になって、ひとつふたつ反問すると、まえにはわたしの説明を素直にきいた娘なのにむきになって、反論して、自説を固く守る。それでいて、つっけんどんな調子はまったくなく、柔軟な口調である。わたしはますます驚いた。劣等感で口もきけなかったあの娘が、いま面前で、にこやかに微笑してい、自信をもって、映画批評をしている。ひらかれた瞳は、まっすぐにわたしの眼に注がれ、まばたきもしないのだ。
 かの女は、やがて平和であるとか、ふつうの日本人のまず口にしない言葉を平気で使いだした。使命というようなききなれぬ言葉も使った。そのときはそれでかの女は去っていった。わたしは間もなく、かの女が創価学会にすでに入会している信者であることを知った。入会前のかの女と、入会後のかの女の、その見事な変貌ぶりに、わたしはあらためて創価学会のちからを知った。まさにかの女は、ふつうの人から、信念の人に、かわったのである。
 自殺でもしなければよいが、とわたしは思っていた。そんなかの女が、見事に、自分を回復したのである。あの暗い、蔭のような存在であった日本の娘が、平和を説き、仏法を説くのである。わたしには仏法のことなど、どうでもいい、一人の日本の娘が、自分でちゃんと大地に立った、という事実が感動をあたえるのだ。(森秀人)

 これが「人間革命」の姿である。1960年代という時代背景を思えば左翼のオルグ活動と創価学会の折伏がぶつかることは珍しくなかったに違いない。例えば石牟礼道子のこんな証言がある。

石牟礼●国も行政も地域社会も担いませんから、全部引き受け直して自覚的になって、もうゆるす境地になられました。未曽有な体験をなさいましたが、もう恨まず、ゆるす。ゆるさないとおもうと、きつい。もうきつい。いっそう担い直す。人間の罪をみなすべて引き受ける。こう言われるようになったのです。これは大変なことなのです。今まで水俣にいて考えるかぎり、宗教も力を持ちませんでした。創価学会のほかは、患者さんに係わることができなかった。

【『石牟礼道子対談集 魂の言葉を紡ぐ』石牟礼道子〈いしむれ・みちこ〉(河出書房新社、2000年)】

 水俣病は1952年から1960年代にかけて被害者を出した公害病である。石牟礼は心情左翼あるいは同調者である。デビュー作『苦海浄土 わが水俣病』(講談社、1969年)が傑作であることは確かだが、石牟礼は後にフィクションを盛り込んでいることを白状している。「必読書」に入れてないのもそのためだ。チッソ株式会社が当時の法律を遵守していた事実を見失ってはならない。

 創価学会はその進軍の度合いにおいて既に左翼を凌駕していた。学会員も貧病争を克服するために必死であったのだろう。だが単なるご利益信仰ではなく、教学を通した人材育成が強靭な組織を築き上げた。左翼が親近感を抱いたのは大衆運動という接点によるものだ。

 邪教であろうとなんであろうと、創価学会のいうとおり信心すれば人間とその社会が幸福になるものならば、それはいいことだ。商人の口車にのって買った品物がよいものならばそれはそれでいい。そうして、現実に、創価学会に入って自信をもち、明るく、幸福そうになった多くの人間がいるのである。すくなくとも創価学会は、自殺王国の日本にあって、自殺者の数をできるかぎりすくなくした第一の団体であることに間違いはない。学会がファシズムにおもむくことを恐れるまえに、われわれは、われわれの喪失した人間の原理について、もう一度ふかく反省しなければならない。果してわれわれは、あの信者たち以上に生きているのであろうか。あの信者たちのように自信をもって、感動し、欲求し、行動しているのであろうか。人間としてどちらが、解放されているのであろうか。戸田城聖ではないが、勝負してみなければならぬだろう。そうして負けたと思ったら一度は創価学会に入るべきである。負けぬと思った者は、自分の考える〈創価学会〉を創るべきである。どちらでもない者は、黙って沈黙していればいい。それが自然の掟なのである。(森秀人)

 こういう視点が侮れない。知性とは事実をありのままに見つめることだ。激しい折伏は世間から反発を買い、創価学会は白い目で見られていた。実際の姿を見たとしても簡単に先入観を払拭できるものではない。学生運動は血なまぐさい暴力闘争に向かうが、創価学会には確かな明るさがあった。これほどの理解を示すところに左翼の懐の深さを感じる。

 なぜ日蓮宗(※北一輝、石原莞爾、宮沢賢治、妹尾義郎、立正佼成会、創価学会、日本山妙法寺など)だけが近代日本において、思想としての活力を保ち得たのか。その答えは、ほかの仏教諸流派とちがって、日蓮宗が、外国人であるシャカから日本人である日蓮に、崇拝の対象を移し、日本の問題を宗教的関心の中心にすえたことにある。日本をどうやって救うか、それが宗教としてのもっとも重要な問題とされた。正しい方向から政府がそれた時には、政府をいさめ正さなければならぬ。国家をいさめ正すことを宗教者の任務とし、そのことに命をかけたところに、日蓮の本領があった。そしてこれは、近代の市民の政治的権利の自覚ときわめて近しいものなのだ。(鶴見俊輔)

 私は「市民」という言葉を見掛けたら眉に唾をつけることにしている。鶴見の文章は典型的なプロパガンダで日蓮を左翼的視線で眺めているだけのことだ。森秀人の率直さが鶴見にはない。

 その後、創価学会が作った公明党が先導して日中国交回復(1972年)が実現する。池田大作の民間外交は緊張関係にあったソ連と中国をも融和させた。日本共産党がやりたくても出来なかったことを果たしたのだ。一方的な礼賛でもなく、浅はかな誹謗中傷でもなく、きちんとした評価と批判を行うべきだろう。

折伏―創価学会の思想と行動 (1963年) (産報ノンフィクション)
鶴見 俊輔
産報
売り上げランキング: 1,368,413

レッドからグリーンへ/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

2014-05-25

検察庁と国税庁という二大権力/『徴税権力 国税庁の研究』落合博実


「国税は“経済警察”だ。大蔵省から分離すべきだ」
 金丸事件の忌まわしい記憶から、自民党の政治家は国税を恐れた。自民党からの圧力を弱めるため、新聞を味方につけようと思ったのだろう。大蔵省幹部の一人はわざわざ私を食事に誘い、4時間にわたって分離反対論をぶったあと、こう叫んだ。
「国税庁を切り離せというのは金丸事件の意趣返しなんだ」
 同じ年、事件当時、国税庁次長だった瀧川(哲男)は鈴木宗男から忘れられない一言を浴びせられている。瀧川は国税庁を退任後、沖縄開発庁振興局長に転出していたが、その後、事務次官在任中に鈴木宗男が長官として乗り込んできた。経世会に入り、次第に政治力を増していた鈴木から瀧川はこう声をかけられたという。
「カネさん(金丸)をやったのはお前だろう」
 鈴木は金丸子飼いの政治家の一人だった。

【『徴税権力 国税庁の研究』落合博実(文藝春秋、2006年/文春文庫、2009年)】

乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』(矢野絢也)で引用されていた一冊。第一章の「金丸信摘発の舞台裏」が出色。その後明らかにトーンダウン。最終章の「国税対創価学会」も尻すぼみの感が拭えない。

 政治とカネの問題はロッキード事件(1976年)に始まり、リクルート事件(1988年)で検察は正義の味方というポジションを確立した。その後、皇民党事件(1987年)~東京佐川急便事件(1992年)、KSD事件(1996年)と続く。

 いずれも疑獄の要素が濃厚で特定の政治家を狙い撃ちにしているのは明らかだろう。どう考えてもすべての事件が検察の発意でなされたものとは考えにくい。何らかの形で米国の意志が関与していると見れば筋が通る。

 東京地検特捜部の前身は検察庁に設けられた「隠匿退蔵物資事件捜査部」である。「隠匿退蔵物資事件捜査部は、戦後隠された旧日本軍の軍需物資をGHQ(米国)が収奪するために作られた組織である」(犯罪の歴史-東京地検特捜部の犯罪)。


 検察は数々の横暴を犯してきた。袴田事件(1966年)、村木事件(障害者郵便制度悪用事件/2009年)、そして今なお有罪とされている高知白バイ事件(2007年)などが広く知られる。検察が数々の冤罪をでっち上げても取り調べ可視化の議論が本格化する様子はない。きっと政治家にとっても都合がいいのだろう。

 検察と双璧をなす権力が国税庁である。


 税の世界は我々素人が考えるほど厳密なものではない。そもそも法自体が解釈される以上、人によって判断が異なるのは当然だ。

 政治とは利益調整の技術を意味する。ある利益と別の利益がぶつかるところに疑獄が生まれるのだろう。すべての情報が開示されることはあり得ない。これが民主主義の機能を阻害する最大の要因だ。この国で叫ばれる国益とは米国の利益であることが多い。

2014-03-29

教団内部の政争/『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也


『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし
『杉田』杉田かおる
『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS
『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也
『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也

 ・教団内部の政争

 創価学会にまつわる数々の事件で汚れ仕事をやらされてきた著者が赤裸々に舞台裏を綴った手記である。矢野絢也のネゴシエーター振りは国税庁との攻防で見事に発揮されており、政治家としての力量が窺える。

 教団内部の政争が醜悪極まりない。それでも優れた読み物になっているのは著者の筆致が抑制されているからだ。声高に創価学会を糾弾することもなく、事実を淡々と綴っている印象が強い。

 創価学会の体質は巨大企業というよりは暴力団に近い。さしずめ創価一家といったところだろう。組長である池田大作を守るためなら、どの幹部であろうとも鉄砲玉のように扱われるのだ。矢野絢也も結果的にその一人となった。

 マンモス教団の乱脈経理にメスを入れるべく国税庁は池田大作の公私混同を問題視していた。全国の創価学会会館に設置されている池田のプライベートルームや、実質的に池田の別荘と化している各地の研修道場、そして海外要人への高価なプレゼントや公明党議員への報奨金および創価学会員への小遣いなど。


 国税庁との窓口は矢野が担当し、矢野はあらかじめ竹下元首相などに国税庁への働きかけを依頼していた。

 その5日後の4月18日、竹下元首相からの一本の電話は私を狂喜させた。竹下氏のちからをまざまざと見せつけるものだった。竹下氏は、事実上、(※第二次税務調査の)税金をゼロにするよう国税庁首脳部を説き伏せていたのだ。
「国税庁には“心にまで課税できない”と言っておいた。源泉徴収義務を怠った程度の扱いで収める。学会の山崎尚見〈やまざき・ひさみ〉副会長には“矢野さんの力でできたことだ”と話しておく。だが、山崎には、今後も注意するようにと言っておく」
 山崎氏は学会の政治担当で、公明党だけでなく、自民党首脳らとも接触していた。山崎氏は、竹下氏に以前から米などを付け届けしていた。このときはおそらく池田氏と秋谷氏の指示で、私とは別に念押しのために竹下氏と接触していたようだ。
 私は竹下氏に「ありがとうございました。ご恩は忘れません」と繰り返しお礼を言い、電話機に向かって何度も頭を下げた。

【『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也〈やの・じゅんや〉(講談社、2011年)】

 元々創価学会は困ったことがあると自民党代議士に泣きついてきた。言論出版妨害事件の際は田中角栄に仲裁を依頼している。

 ところがあろうことか公明党と創価学会はあっさりと竹下を裏切る。

 世論の激しい批判にさらされた金丸氏は10月14日、遂に議員辞職に追い込まれ、竹下派会長も辞任。竹下派では後任の会長を巡り、会長代行の小沢氏のグループと反小沢の小渕副会長のグループが激しく対立し、年末の竹下派分裂に突き進む。
 一方、皇民党事件に関連して、金丸、竹下両氏の国会証人喚問を求める声が高まり、竹下氏に対して議員辞職を求める声が政界から沸き起こった。
 竹下氏の議員辞職要求の先頭に立ったのは、こともあろうに学会への第二次税務調査潰しを竹下氏に頼んだ公明党の石田委員長だった。
 石田氏は14日の記者会見で「総裁選への暴力団関与は、民主政治の根幹に関わる問題だ」として、竹下、金丸両氏の証人喚問による真相解明に全力を上げることを表明、あわせて竹下氏の進退に言及し「議員辞職に値する」と言い切った。野党党首が竹下氏に議員辞職を求めたのは初めてで、これをきっかけに他の野党や自民党内からも竹下氏の議員辞職を求める声が相次いだ。
「公明党は竹下にきつい」という宮沢首相側近の指摘どおりの展開になったわけで、竹下氏の側近からさっそく私に抗議が来た。
「お宅の石田委員長がいちばん先に竹下辞任の口火を切ったが、どういうつもりか。恩知らずとはこのことを言うんだ」
 私は「マスコミに聞かれて、つい言ってしまったようだ」と苦しい弁明をしたが、私自身も石田氏の発言に腹を立てていた。私はすぐ竹下氏に連絡して謝罪した。石田発言によって追い詰められた竹下氏は不機嫌で「なぜ、よりによって石田に言われなければならないのか」と憮然としていた。(中略)
 しばらくすると竹下氏から電話があった。竹下氏は、懸命に心を静めようとしているらしく、いつもの淡々とした口調に戻っていた。竹下氏は私と話す前に学会の山崎副会長と話したという。
「山崎に私のほうから電話をして、自分の心境を話した。山崎は、石田に事情を聞いて連絡をすると話していた。学会との関係は変えたくないと思っている」
 だが翌日になっても山崎副会長は竹下氏に電話一本かけなかったという。
 山崎氏は、学会の政治担当として、第二次税務調査をはじめ問題があるたびに竹下氏にすがっていた。池田名誉会長個人の脱税問題では、竹下氏の力添えで脱税をもみ消してもらい、山崎氏も竹下氏に感謝していた。
 ところが竹下氏が政治的に追い込まれるや態度を一変させ、助け舟を出すどころか逆に追い落としにかかった。学会・公明党の首脳たちは冷酷、非情と言われても仕方がなかろう。

 創価学会は下衆の勘繰りをし「国税は竹下がけしかけたのではないか」と考えたのが真相のようだ。平然と恩を仇で返すところに創価学会の政治性があり、その後公明党が与党入りをしたことも納得がゆく。

 学会の裏切りを目のあたりして、さすがの竹下氏も「学会もわからないところだ」と憮然たる様子で私に愚痴を言った。
「山崎から連絡が来ない。私は文句を言った訳ではなく心境を話しただけなのになあ」
 私が言葉に窮していると、竹下氏は、国税庁の坂本前本部長が竹下氏のところに押しかけてきたことを明かした。
「坂本が私のところに来た。“我慢して便宜を図ってやったのに学会は許せない”といきりたっていた。私は“宗教は心の問題だから課税しないでいい”となだめておいた」
 それでも坂本氏は収まらず「ルノワール事件は今後、問題になる」と仕返しをほのめかすなど、怒り心頭だったそうだ。

「マムシの坂本」の異名を持つ坂本導聡〈さかもと・みちさと〉国税庁直税部長は竹下の側近であった。

 創価学会内部から国税庁に投書が寄せられているというのだから教団の腐敗ぶりが目に浮かぶ。日本一のマンモス教団が凋落するのも時間の問題だろう。私は戦後から高度経済成長期にかけて創価学会と日本共産党には一定の役割があったと考えているが、既に双方とも役割は果たし終えたものと見ている。

 公明党は大衆福祉を掲げて設立されたわけだが、国民の見えないところで消費税導入にも賛成していた事実が書かれている。政界で魑魅魍魎(ちみもうりょう)に魂を売ってしまった宗教者の成れの果てが哀れだ。権力が腐敗するように、巨大化する組織も腐敗を免れないのだろう。

乱脈経理 創価学会VS.国税庁の暗闘ドキュメント
矢野 絢也
講談社
売り上げランキング: 142,334

検察庁と国税庁という二大権力/『徴税権力 国税庁の研究』落合博実

2014-02-06

数億円単位の寄付を強要する創価学会/『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也


『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし
『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也

 ・数億円単位の寄付を強要する創価学会

『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也

 2009年の控訴審判決で矢野側(矢野絢也と講談社)が逆転勝訴した。敗訴したのは公明党OBの大川清幸〈おおかわ・きよゆき〉元参議院議員、伏木和雄〈ふしき・かずお〉元衆議院議員、黒柳明参議院議員の3名である。裁判では彼らの脅迫行為が認定された。

 矢野は2008年に創価学会を退会している。まあ、とにかく酷い話だ。公明党の代議士を務めた連中が裁判の証拠改竄(かいざん)までやってのけるのだから。彼らはただ創価学会の指示通りに動いているだけなのだろう。訴訟費用も創価学会の本部が捻出しているのではあるまいか。

 創価学会が行っていることは魔女狩りに等しい。疑心暗鬼に駆られて誰かが「あいつは魔女だ!」と言えば魔女と認定されてしまう構造だ。同じ教団に所属する信者を目の敵(かたき)にすることが教団内部の功績となるのだ。左翼のリンチと同じメカニズムといってよい。

 手口としてはこうだ。まず青年部首脳を使って矢野に政治評論家を辞めさせることを強要。そして翌日にはかつて公明党の同僚議員であった3名が自宅に押し寄せ、矢野の手帖100冊以上を押収した。

 それまで創価学会の汚れ仕事をやらしてきた矢野の手帖は一歩間違えれば池田大作の命取りになりかねない。そんな不安が透けて見える。青年部幹部にしても公明党OBにしても創価学会の手駒に過ぎない。仮に法を犯して表沙汰となっても切り捨てればいいだけのことだ。

 創価学会はかつて言論出版妨害事件(1969年)を起こしているが、その体質はまったく変わっていない事実が浮かび上がる。きっと創価学会にとって「都合の悪いこと」が山ほどあるのだろう。

 公明党OBは一旦は矢野宅を去り、1時間後に再び訪問する。

 驚いてわけを聞くと、3人はあれから公明党本部へ行ったが、そこで藤井富雄元公明党代表(元都議)と大久保直彦元公明党書記長(元衆議院議員)の二人に叱責されたらしい。

【『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也〈やの・じゅんや〉(講談社、2009年)】

 藤井も専ら創価学会の汚れ仕事専門で山口組幹部とも親交があった事実を後藤忠政が『憚(はばか)りながら』(宝島社、2010年/宝島社文庫、2011年)で明らかにした。

 要は藤井と大久保に手帖強奪を指示されて公明党OBの3名は再度矢野宅を訪れたのだ。組長とチンピラの関係を彷彿(ほうふつ)とさせる。そして伏木が創価学会への多額の寄付を強く促した。

 寄付についてはこれだけではなかった。矢野は既に詫びを入れさせられるたびに寄付を強要されていた。

 私が海外出張へ行く時、文春の手記の県で戸田記念国際会館で西口良三〈にしぐち・りょうぞう〉副会長らに脅しと泣き落としで謝罪文を書かされたとき、100万円の寄付を求められている。「それが矢野さんのためです」と言われ、数日後、創価学会本部第一庶務室長で池田名誉会長側近の長谷川重夫氏(現副理事長)に100万円を渡した。そのとき長谷川氏から「罪滅ぼしには財務寄付しかない。寄付をすれば青年部の怒りもおさまるから」と言われた。
 その後、海外出張をへて青年部による吊るし上げ、OB3人の手帖奪取と家探し、寄付の強要という流れである。そして寄付については、この後長谷川氏から「罪滅ぼしのために2億~3億円の寄付をすべきだ」などと繰り返し求められることになるが、それについては後述しよう。

 正義と世界平和を声高に叫ぶ彼らも一皮めくればただの宗教屋であった。

 創価学会は矢野をみくびっていた。ちょっと脅せば組織の言いなりになって寄付も差し出すことだろうと踏んでいたはずだ。実は矢野絢也は創価学会の敵ではなかった。彼らは枯れすすきを幽霊に見立てるように判断を誤った。そして正真正銘の敵を彼ら自身の手で作り上げてしまったのだ。矢野の著作が創価学会の衰亡を決定的なものとしたように思えてならない。

 尚、本書は前著との重複が多く、どうせ読むなら『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』の方がお薦めできる。

「黒い手帖」裁判全記録
矢野 絢也
講談社
売り上げランキング: 50,934

2014-01-16

飼い犬だとみくびっていたら実は眠れる獅子であった/『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也


『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし

 ・飼い犬だとみくびっていたら実は眠れる獅子であった

『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也
『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也

 矢野絢也は元公明党委員長である。1989年、明電工事件への関与が取り沙汰されて委員長を辞任。1993年には政界から引退し政治評論家に。テレビ番組にもよく登場していた。

 悪い言い方をすれば「創価学会の飼い犬」だ。ただし本書を読むと「番犬」であったことが窺える。創価学会は何を血迷ったか突然番犬を叩いた。飼い主は手を噛(か)まれて「眠れる獅子」であったことに気づいた。ま、そんなところだ。

 私は2008(平成20)年5月12日、半世紀以上にわたり所属してきた創価学会ならびに同会の幹部7名を、東京地方裁判所に民事提訴した。それに先立つ5月1日に私と家内、息子夫妻とその娘3人は創価学会を退会した。
 提訴内容は以下の三つである。
(1)2005(平成17)年5月14日、学会青年部幹部5名が私を威迫して、政治評論家としての活動を中止させた。これは憲法で保障された表現の自由ならびに職業選択の自由を侵す違法な行為である。
(2)同年6月15日、学会幹部3名が私との会談の際、私に自宅を売却して2億円、3億円という莫大な金額の寄付をするよう執拗(しつよう)に強要した。
(3)創価学会は機関紙『聖教新聞』などで、私への誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)記事を継続して掲載した。これは名誉毀損にあたる。
 こうした一連の人権侵害行為を行ったことについて、創価学会および同会の幹部に5500万円の賠償を求めている。

【『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也〈やの・じゅんや〉(講談社、2009年)以下同】

 教団の体質を象徴する内容と見てよい。そもそも宗教自体が束縛の道具であるゆえ、縛(いまし)めを解いて自由になろうとする者を教団が許すはずもない。これは何も宗教に限った話ではあるまい。濃密な人間関係を基(もと)にしたムラ的コミュニティすべてに共通している。いかがわしい商売でなくとも、ある種の宗教と化している企業やサークルも存在する。

 見逃せないのは多額の寄付を強要している点である。しかも「自宅を売れ」と命じているのだ。

 矢野本人に黒い噂が絶えなかったこととこれとは別問題だ。

 創価学会は日蓮正宗総本山大石寺と二度目の紛争以降、聖教新聞を使って猛烈なキャンペーンを張ってきた。教団がターゲットとして選んだ人物の個人情報をさらし、徹底的な攻撃を加えてきた。そのたびに裁判沙汰を起こしている。創価学会寄りの識者からも問題視された(渡辺武達〈わたなべ・たけさと〉著『聖教新聞の読み方 創価学会・機関紙のエネルギー源を探る』)。

 私は学会が巻き込まれた厄介事(やっかいごと)の処理を、学会首脳から、ほぼすべて依頼され、各方面に対応してきた。それらの多くは、およそ口にできないような内容だったが、「学会を守る」「池田先生を守る」という、当時の生きる目的ともいえる思いが私を動かしていた。
 たとえば、私が関わった代表的な出来事を挙げると、学会による言論出版妨害事件創価学会と共産党との協定、池田大作名誉会長の女性問題を記事にした『月刊ペン』との裁判本山大石寺(たいせきじ)との二度にわたる紛争ルノアール絵画疑惑捨て金庫事件、国税庁による学会への税務調査などである。
 それ以外にも諸々の事件の顛末(てんまつ)が手帖には記載されている。そのような極秘資料が外部に流出すれば、学会のみならず、政界など多方面に多大な迷惑をかけるだろう。
 多くの事件は既に時効を迎えている。今さら、それを蒸(む)し返し、真相を暴露したところで、多くの人が傷つくだけである。私の心積もりとしては、世間に口外せずに、墓場まで持っていこうと思っていた。ところが、学会はそうは考えず、このような物騒(ぶっそう)な極秘メモを持つ私を危険人物とみなしたようである。

 散々汚れ仕事をやらされた結果がこのザマだった。矢野が告訴に踏み切るのも当然だろう。

 創価学会は青年部幹部を使って矢野を脅迫し、公明党OBを使って矢野から100冊を超える「黒い手帖」を取り上げた。まるで暴力団のような手口である。本丸には傷つかないよう細心の注意を払っている。使い走りにするのは「いつでも切って捨てる」ことのできる連中だ。

 創価学会の会長にさしたる権限はない。とすればやはり池田大作の意向で矢野を封じ込めようとしたのだろう。

 自分自身の神格化のために邪魔者は葬る――そんな魂胆が見えてくる。先日、北朝鮮で処刑された張成沢〈チャン・ソンテク〉の姿が矢野と重なる。

 尚、矢野絢也はその後も立て続けに書籍を上梓しているが、『乱脈経理 創価学会vs.国税庁の暗闘ドキュメント』が一番お薦めできる。

黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録闇の流れ 矢野絢也メモ (講談社プラスアルファ文庫)私が愛した池田大作 「虚飾の王」との五〇年乱脈経理 創価学会VS.国税庁の暗闘ドキュメント

矢野絢也

2011-11-22

「名を正す」/『思想革命 儒学・道学・ゲーテ・天台・日蓮』湯浅勲


 湛然〈たんねん=妙楽大師〉が「礼楽(れいがく)前(さ)きに駆(は)せて真道(しんどう)後(のち)に啓(ひら)く」と『止観輔行伝弘決』(しかんぶぎょうでんぐけつ)に書いている。

 簡単にいえば、礼節や音楽が先に広まってから後に正しい哲学が花開くといった意味だ。礼楽を重んじるのは儒家の教えである。仏教はインドから中国に広まった。人や物の交流から文化も伝わったことだろう。武ではなく文をもって化するのは、今風の言葉でいえばソフトパワーということになろう。

孔子
(孔子)

 中国には「名を正す」という思想があった。

 管子は「名を正す」と言い、孔子は「名を正す」と言った。また、『荀子』やわが国の山県大弐の『柳子新論』には正名篇がある。
 古来、中国においては修身・治国・平天下の根本思想として、この「名を正す」という考えがあった。「名を正す」ということは、君子たるものが必ず先ずやらなければならない最重要課題であったのである。このことをよく表わしている孔子と子路の有名な会話が『論語』にある。知っている人も多いと思うが、確認の意味でその会話を引用してみたい。

 子路(しろ)曰(いわ)く、衛君(えいくん)、子(し)を待ちて政(まつりごと)を為(な)さば、子(し)将(まさ)に奚(なに)をか先にせんとすと。子(し)曰(いわ)く、必ずや名を正さんかと。子路曰く、是れ有るかな、子(し)の迂(う)なるや。奚(なん)ぞ其(そ)れ正さんと。子曰く、野(や)なるかな由(いう)や。君子は其の知らざる所に於て、蓋(けだ)し闕如(けつじょ)す。名正しからざれば、則(すなわ)ち言(げん)順(したが)はず。言順はざれば、則ち事(こと)成らず。事成らざれば、則ち礼楽(れいがく)興(おこ)らず。礼楽興らざれば、則ち刑罰中(あた)らず。刑罰中らざれば、則ち民手足(しゅそく)を措(お)く所無し。故に君子之を名づくれば、必ず言ふ可(べ)くす。之を言へば必ず行ふ可くす。君子其の言に於て、苟(いやし)くもする所無きのみと。

【現代語訳】子路がたずねた。「今もし衛の君が先生をお招きして国政をまかされることでもありましたならば、先生は何から先に手をつけられますか」と。孔子が答えた。「必ずや名を正そう」と。子路が言った、「なんとまあ先生は悠長なことをおっしゃるのでしょう。この戦乱の世の中でそんなまだるっこいことをやっておられましょうか」。孔子が言った、「何というがさつ者だ、由よ。君子というものは、自分の知らないことについては黙っておくものだ。名を正すということの真義をお前は知っているのか。そもそも、名称が正しくなければ、名称とそれがさし示す実物とが一致しないから、人の言葉が順当に理解されることも行われることもない。言葉が順当に理解されることがなければ、何事においても成就しない。物事が混乱し何事においても成就されることがなければ、人々の間に秩序と調和を致すところの礼楽は盛んになることがない。礼楽が行われなければ刑罰が中正に行われることがない。刑罰が中正を欠くと、人々は安心して手足を措くところもなくなってしまう。社会の混乱はこの名称と実物とが一致しないことに起因するのである。ゆえに、君子たるものは物事に対して名づけたからには必ず言葉をもって言うようにし、言葉をもって言うからいは、必ずそれを実行するようにしなくてはならない。君子たるものはものを言うに当たっては軽々しくしてはならない」と。
【『思想革命 儒学・道学・ゲーテ・天台・日蓮』湯浅勲(海鳥社、2003年)以下同】

 社会が混乱する様相を「風が吹けば桶屋が儲かる」式に説明している。その原因が「名と実との不一致にある」という指摘が鋭く突き刺さる。

 専門用語、業界用語、カタカナ語、流行り言葉、若者言葉、ネット用語などが社会の断絶を生んでいると考えてよさそうだ。

 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)なんてえのあ、どう考えても陰謀の臭いがするよ。本来であれば「関税撤廃協定」で構わないはずだ。

孔子
(孔子)

 国会中継を見るがいい。何を言っているのか、さっぱりわからない(笑)。「善処します」「前向きに検討します」あたりから言葉は煙幕と化した。政治的な思惑で言葉を糊塗しているだけの世界だ。「自衛隊は軍隊に非ず」なんてのも同様だ。

(※『荀子』を引用し)すなわち、実物(実際の対象)に従って名称を制定する、これが基準であるというのである。簡単に言うならば、名実を一致させること、これが名称を制定するに際しての基準であるということであろう。

 バブルが崩壊してから、国民の利益と政治家&官僚の利益が目立って一致しなくなったように思う。失われた10年を経た後は企業の利益すら一致しなくなった。企業はひたすら安い労働力を求めた。アメリカからの指示で省庁を再編し(大蔵省解体が目的だった)、規制緩和をした成果は終身雇用が破壊されただけという有り様だった。

 教育においても名実は不一致だ。小田嶋隆がよくいう「個性重視の教育」がその典型だろう。

「個性重視の教育」に対する異議

孔子诞生二千五百四十周年小型张#EYT84190180

 しかしながら、なぜ、名を「正す」必要があるのであろうか。それは名が乱れているがゆえである。つまり、名称とそれが指し示す実物との間に差異が生じ、混乱が起きてくるがゆえに、名を正す必要が生じてくるのである。

 一つ疑問がある。「子路」〈しろ〉の文脈では「名称」と読めるが、これが「顔淵」〈がんえん〉では「名分」となっている。

顔淵第十二 299:論語に学ぶ会

 厳密にいえば孔子の教えは倫理や道徳であって宗教ではない。政治と治世が根本となっているため、官僚制度を大前提とした論理であることは否めない。ただし国家の枠組みが定かでない時代において、孔子の果たした役割は大きい。孔子なくして日本の律令制も存在し得ない。

律令官制の沿革

 孔子が目指したのは社会秩序であった。国家といっても一人ひとりの集まったものである。であるならば、人と人との関係性が重要になる。身長216cm(チェ・ホンマンとほぼ同じ)の天才が説いたのは社会哲学であった。

孔子像
(孔子)

 振り出しに戻ろう。孔子は作詞家でもあった。もちろん自ら楽器の演奏も行った。現代においては一見すると「楽」が盛んな印象もあるが、多くの人々は「聴く側」へと追いやられ、消費としての「楽」しか見当たらない。歌ですらそうだ。カラオケなしで友人同士や近隣の人たちが歌を歌うことはまずない。

 色々考えると、文明の発達にあぐらをかいて調子に乗ってきたけど、案外「貧しい生活」をさせられていることに気づく。

 礼節においては何をか言わんやである。アメリカが世界中で礼節を踏みつけている。

 今日からは世界を少しでもよくするために、正しい言葉遣いを心掛けてゆきたい。

 宮城谷昌光の作品を読むと、「名を正す」意味が何となく理解できる。

 読書日記にも書いたが、最終章で日蓮と創価学会のプロパガンダ本であることが判明する。個人的には5250円(定価)の詐欺だと思う。著者と出版社の見識を大いに疑う。



世界の楽器
製薬会社による病気喧伝(疾患喧伝)/『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
名づけることから幻想が始まる/『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル