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2022-01-13

構造(身体)と機能(心)は「脳において」分離する/『唯脳論』養老孟司


『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀

 ・唯脳論宣言
 ・脳と心
 ・睡眠は「休み」ではない
 ・構造(身体)と機能(心)は「脳において」分離する
 ・知覚系の原理は「濾過」

『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 心身論を考えるときに、もっと身近で、かつ重要な例がある。それは死体である。なにはともあれ、解剖学者としては、死体はもっとも身近だと言わざるを得ない。死体があるからこそ、ヒトは素朴に、身体と魂の分離を信じたのであろう。これを生物学の文脈で言えば、構造と機能の分離ということになる。死体では、肝、腎、脳といった構造は残存しているが、もはや機能はない。
 このことから、説得力が強く、かつ非常に長期にわたって存在する、大きな誤解が生じた。それは、構造と機能の分離が「対象において存在する」という信念である。すでに述べたように、私の意見では、構造と機能は、われわれの「脳において」分離する。「対象において」その分離が存在するのではない。

【『唯脳論』養老孟司〈ようろう・たけし〉(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】

 やはりこの人は左翼っぽい。出版されている対談の相手を見ると、ほぼ左翼である。また「たかが教育」と言いながら戦後教育を肯定する節も窺える。私が読んできた限りでは皇室への敬意を感じる文章も皆無だ。シンパよりも隠れ左翼に近い印象を受ける。「唯脳論」とのタイトルも「唯物論」へのオマージュなのかもしれない。

 即物的な文章が、どこかニヒルやハードボイルドを思わせるが、結局唯物的なのだろう。昭和12年(1937年)生まれだから少国民世代(『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』小林よしのり)よりは後の生まれだが、子供にとって敗戦の記憶は複雑な憎悪として働くのだろう。個人的には昭和一桁~団塊の世代(昭和21~23年生まれ)が戦後日本の命運を左右したと考えている。戦前生まれは学生運動をどのように眺めていたのかが気になるところだ。

 もう少し深読みをすれば、戦後エリートがマルクス主義に傾斜したのは、戦前エリートの特攻隊と同じ轍を踏まないための知的武装であった可能性もある。仮にそうであったとしても、自らの命と引き換えに米軍の本土上陸を阻止した先人への敬意を失えば、人の道から外れることは当然だろう。

2022-01-12

睡眠は「休み」ではない/『唯脳論』養老孟司


『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ

 ・唯脳論宣言
 ・脳と心
 ・睡眠は「休み」ではない
 ・構造(身体)と機能(心)は「脳において」分離する
 ・知覚系の原理は「濾過」

『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 睡眠が何であるかは、やはり、議論の種である。すでに述べたエネルギー消費の観点からすれば、睡眠は「休み」ではない。さらに神経生理学的には、睡眠がいくつかの神経回路の活動を必要とする「積極的」な過程であることが知られている。しかも、睡眠はどうしても必要な行動であるから、その間になにか重要なことが行なわれていることは間違いない。クリックはそれを、覚醒時に取り込まれた余分かつ偶然の情報を、訂正排除する時期だと言う。そうした活動が夢に反映される。「われわれは忘れるために夢を見る」。そうかれは言うのである。

【『唯脳論』養老孟司〈ようろう・たけし〉(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】

 夢の真相はまだ判明していないが、クリック説がやや有力である(NIKKEI STYLE)。とすれば、「脳は全ての情報を記憶している」との通説は誤りだ。

 一方でHSAMと称される超記憶力を持つ人々が世界に60人ほど存在する。

すべてを覚え、決して忘れることができない記憶「HSAM」を持つ人々 | クーリエ・ジャポン
完全記憶HSAMを持つ60人 ― 世界で最も不幸な能力「決して忘れない」人々の重すぎる言葉とは?
人生のすべての瞬間を記憶している〈超記憶〉の持ち主に10の質問

 ただし自伝的記憶(highly superior autobiographical memory)であることに留意する必要があるだろう。脳の容量に限りがあることを思えば、厖大な記憶情報は他の何かを失わせるのではないか。彼らの睡眠を研究すれば新たな発見がありそうだ。

 私は幼い頃から殆ど夢を見ない。ま、見ているかもしれないが覚えていない。それと関係しているかどうかはわからぬが、理想や希望とも無縁である。野心も持ったことがない。どちらかというとマネジャータイプ(改革者)で、リーダー(創造者)ではない。

「脳が言葉から離れるために睡眠はある」と私は考える。思考を停止させるところに睡眠の目的があるのだろう。きっと無意識領域が活性化しているに違いない。

脳と心/『唯脳論』養老孟司


『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ

 ・唯脳論宣言
 ・脳と心
 ・睡眠は「休み」ではない
 ・構造(身体)と機能(心)は「脳において」分離する
 ・知覚系の原理は「濾過」

『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 脳と心の関係に対する疑問は、たとえば次のように表明されることが多い。
「脳という物質から、なぜ心が発生するのか。脳をバラバラにしていったとする。そのどこに、『心』が含まれていると言うのか。徹頭徹尾物質である脳を分解したところで、そこに心が含まれるわけがない」
 これはよくある型の疑問だが、じつは問題の立て方が誤まっていると思う。誤まった疑問からは、正しい答が出ないのは当然である。次のような例を考えてみればいい。
 循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、「循環」が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない。心臓は解剖できる。循環は解剖できない。循環の解剖とは、要するに比喩にしかならない。なぜなら、心臓は「物」だが、循環は「機能」だからである。

【『唯脳論』養老孟司(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】

 つまり、心は脳機能であるということ。作用としての心。心として働く。養老の考え方は諸法無我と似ている。

 脳の構造からいえば思考(大脳皮質)と感情(辺縁系)と運動(小脳)を司るところに心が位置する。

「心」という漢字が作られたのは後代であること(『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登)や、ジュリアン・レインズの二分心を踏まえると、【言葉の後に】心が発生したことがわかる。

 人間にとって言葉は智慧であり、病でもあるのだろう。

ヒトは「代理」を創案する動物=シンボルの発生/『カミとヒトの解剖学』養老孟司


『唯脳論』養老孟司

 ・霊界は「もちろんある」
 ・夢は脳による創作
 ・神は頭の中にいる
 ・宗教の役割は脳機能の統合
 ・アナロジーは死の象徴化から始まった
 ・ヒトは「代理」を創案する動物=シンボルの発生
 ・自我と反応に関する覚え書き

宗教とは何か?
必読書リスト その三

 抽象とはなにか。それは頭の中の出来事である。頭の中の出来事というのは、感情を別にすれば、つまりはつじつま合わせである。要するに頭の中でどこかつじつまが合わない。そこで頭の外に墓が発生するわけだが、どこのつじつまが合わないかと言えば、それは昨日まで元気で生きていた人間が今日は死んでしまってどこにも居ない、そこであろう。だから墓というものを作って、なんとかつじつまを合わせる。本人は確かに死んでもういないのだが、墓があるではないか、墓が、と。臨終に居あわせ損ねたものの、故人とは縁のあった人が尋ねて来て、尋ねる人はすでに死んだと始めて聞かされた時、物語ではかならず故人の墓を訪れる約束になっている。さもないとどうも話の落ち着きが悪い。その意味では、墓は本人の代理であり、ヒトとはこうした「代理」を創案する動物である。それを私は一般にシンボルと呼ぶ。

【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】

 頭のいい人特有の強引さがある。死者のシンボルが墓なら、真理のシンボルがマンダラ(曼荼羅)というわけだな。墓は死者そのものではない。飽く迄も代用物である。とすれば、マンダラもまた代用物なのだろう。ところが代用品であるはずのマンダラや仏像が真理やブッダよりも重んじられてしまうのである。つまりアイドル(偶像)となるのだ。その意味においてマンダラとアイドルのポスターに差はない。

 もう一つ重要なシンボルに「言葉」がある。言葉を重視すると経典(あるいは教典)になる。ここでも同じ過ちが繰り返される。シンボルが真理と化すのだ。言葉で悟ることはできない。その厳粛なる事実を思えば、経典は悟りを手繰り寄せる手段に過ぎないのだ。

 一流のアスリートはスポーツという限られた世界での悟りに至った人々だ。しかしながらスポーツでは一流でも人間としては二流、三流の人も存在する。生きること、死ぬことを悟るのはまた別次元のことなのだろう。

2021-11-20

人間の心は心像しか扱えない/『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』山鳥重


『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬
『壊れた脳 生存する知』山田規畝子

 ・「わかった」というのは感情
 ・人間の心は心像しか扱えない

・『「気づく」とはどういうことか』山鳥重
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ

 心像もメンタル・イメージの訳語ですが、そこは大目に見てください。現在使われているイメージという言葉は視覚映像のニュアンスが強いので、わざと心像にしました。心像は視覚映像だけではありません。触覚、聴覚、嗅覚、味覚など視覚化出来ない心理現象を含みます。これらをすべて含む用語としては、正確には心理表象という言葉を選ぶべきなのですが、長いし、なじみも薄いのでやめにしました。
 太陽が東から昇り、西へ沈むのは、地球が自転しているせいで、太陽が動いているせいではありません。しかし、われわれには太陽が昇り、太陽が沈むとしか見えません。動いているのは太陽であって、じっとしているのはわれわれです。
 地球の自転は事実で、太陽が動くのは心像です。
 事実は自分という心がなくても生起し、存在し続ける客観的現象です。心像は心がとらえる主観的現象です。
 われわれの心の動きに重要なのは心像であって、客観的事実ではありません。心像を扱うのが普通の心の働きで、客観的事実はこころにとってはあってなきがごときものです。もっと正確にいえば、われわれの心は心像しか扱えないのです。客観的事実を扱うには、普通の心の働きとは別の心の働きが必要です。われわれは地球が自転しているなどということは知らずに何万年も生きてきました。今だって、そんなことを知らずに生きている人はいっぱいいるはずです。われわれは「太陽が昇る」「太陽が沈む」という事柄を心像化して経験出来ますが、「地球が自転している」という事実は経験出来ません。

【『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』山鳥重〈やまどり・あつし〉(ちくま新書、2002年)以下同】

 山鳥重は神経内科が専門で高次脳機能障害のエキスパート。山田規畝子の著書で知った人物である。話し言葉で書かれていて読みやすい。

 脳が病気や怪我でダメージを受け高次脳機能障害になると心像が変容する。主観と客観が乖離(かいり)し、生活の中で困難な場面が増える。あるいは統合失調症の幻聴・幻覚も内部世界と外部世界の隔絶が顕著な状態だ。しかし、である。私は大なり小なり万人が病んでいると考えているので程度問題に過ぎないと思う。脳が左右に分裂しているのだから思考と感情を完全に統合することは不可能だ。むしろ進化の営みからすれば分離になんらかの優位性があるのだろう。

 私が「想念」と書いてきたものと山鳥の「心像」は一緒である。外部世界を我々はありのままに見ることができない。「私」というフィルターを通して見るためだ。そのフィルターの色や歪みが想念・心像である。山鳥の認識は仏教に迫っている。

 最澄(天台)は心像の基本を十法界(じっぽうかい)と説いた。日蓮がこれを次のように敷衍(ふえん)している。

「今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見る也。たとえば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども果報にしたがて見るところ各々別也。此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず。肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。されば経文に云く_若有能持 則持仏身〔若し能く持つことあるは 則ち仏身を持つなり〕等云云。天台云く ̄一帙八軸四七品 六万九千三百八十四 一一文文是真仏 真仏説法利衆生等と書かれて候」(「法蓮鈔」建治元年〈1275年4月〉)

 飢渇(けかつ)に苦しめられた者がガンジス川(恒河)を見れば、「飲みたい」との欲望が火のように起こる。凡夫は生活者の視点から水を捉え、天人(てんにん)は詩を読み、歌い上げる。更に動植物にとって不可欠な物質と見る。あるいは水利や灌漑事業にまで想像が及ぶ。科学者が見れば水素2個と酸素1個の原子である。地球物理学者であれば海水蒸発から降雨を経て川に至るまでのシステムが見える。果報によって見える世界が異なることを説いたものだが、これは心像そのものである。

 心像はこのように経験を通じて形成されます。そして、この心像がわれわれの思考の単位となります。われわれは心像を介して世界に触れ、心像によって自分にも触れるのです。外の世界(客観世界)はそのままではわれわれの手に負えません。われわれは世界を、心像形成というやり方で読み取っているのです。心像という形に再構成しているのです。

 知覚-認識のステップを示したのが五蘊(ごうん)である。一種のフローチャートと考えてよい。これを推し進めると唯識(ゆいしき)に辿り着く。

 知覚心像が意味を持つには、記憶心像という裏付けが必要です。
 脳損傷で、モノはちゃんと見えているが、何なのかわからないという状態が起こることがあります。見えている証拠に、この人たちは見せられたモノをちゃんと写生することが出来ます。でも、写したもの(ママ)が何であるかわからないのです。知覚心像がほかの心像(記憶心像)から切り離されてしまい、ほかの心像と関係づけることが出来なくなってしまっているのです。

 行蘊(ぎょううん)と識蘊(しきうん)の連係が上手くいってないのだろう。 ただし、そう見えているのは外部の人間であって本人ではない。これは我々でも日常的に起こることだ。


 初めて見た物を理解することは難しい。特殊な工具や部品を見て、何に使うかわかるひとは少ない。知識と記憶が結びついた時に初めて「知る」ことができる。

 われわれの祖先がいつごろ言葉を獲得したのかはわかっていません。数十万年前かもしれません。あるいは、わずか数万年前なのかもしれません。いずれにしても、われわれの祖先は言葉を獲得して以来、さまざまなモノやコトに名前をつけ続けてきました。名前をつけるというのは、記憶心像に音声記号を貼り付ける働きです。

 巧みな説明だ。心像は人の数だけ存在する。特に人の名前によって呼び起こされる心像はくっきりと際立つ。例えば安倍晋三とかさ。

2021-10-25

フィードバックとは/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二


『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ
『唯脳論』養老孟司
『海馬 脳は疲れない』池谷裕二、糸井重里

 ・世界よりも眼が先
 ・人間が認識しているのは0.5秒前の世界
 ・フィードバックとは

『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二

必読書リスト その三

 フィードバックというのは、一方通行だった情報の流れが、枝分かれして、前のほうに戻されたり、逆流したりする回路だ。こうなると、単純な一方通行とは違うやり方で情報が処理されるようになるよね。
 一対一じゃない情報の伝達を支える仕組み、そう、脳のような複雑な装置に絶対に必要な条件が「フィードバック」ってわけ。日本語だと「反回性回路」と言うんだけど、こうした情報が「行ったり来たり」する回転が最低限必要なの。それによって情報を分解したり、変調したり、統合したりできるってわけ。情報のループを描かないとブラックボックスはワンパターンの出力しかできない。(脳内の1個の神経は1万個の神経に情報を送っている)

【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二〈いけがや・ゆうじ〉(ブルーバックス、2007年)】

 非公開にしたブログ記事から引っ張り出してきた。やれやれ。

 脳はフィードバックによって軌道修正を可能にしている。ヒトが学習できるのもフィードバックの成せる業(わざ)である。フィードバックの集大成が文明なのだ。人類以外の動物は文明を持たない。

 更にフィードバックを欠けば人は感情やバイアスの奴隷となる。反省、振り返り、やり直し、見つめ直しに脳の本領がある。日常的にフィードバックを行えば後悔することが少なくなる。間違いは気づいた瞬間に修正できる。

 人も組織もフィードバックが途絶えると腐敗する。強力な独裁体制は誰かの話に耳を傾けることがない。ワンマンが通用するのは戦国時代だ。



有害で悪質な数学破壊兵器のフィードバックループ/『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』キャシー・オニール

2021-07-22

運動によって脳は物理的に変えられる/『一流の頭脳』アンダース・ハンセン


『病気の9割は歩くだけで治る! 歩行が人生を変える29の理由 簡単、無料で医者いらず』長尾和宏
『病気の9割は歩くだけで治る!PART2 体と心の病に効く最強の治療法』長尾和宏
『ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方』能勢博
『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
『健康で長生きしたけりゃ、膝は伸ばさず歩きなさい。』木寺英史
『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二
『トップアスリートに伝授した 勝利を呼び込む身体感覚の磨きかた』小山田良治、小田伸午
『間違いだらけのウォーキング 歩き方を変えれば痛みがとれる』木寺英史
『ランニングする前に読む本 最短で結果を出す科学的トレーニング』田中宏暁
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか 生き物の「動き」と「形」の40億年』マット・ウィルキンソン
『アルツハイマー病は治る 早期から始める認知症治療』ミヒャエル・ネールス
・『脳を鍛えるには運動しかない! 最新科学でわかった脳細胞の増やし方』ジョン・J・レイティ、エリック・ヘイガーマン

 ・運動によって脳は物理的に変えられる

『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット
『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』ロバート・ムーア

必読書リスト その二

 だが何より大きな発見は、2つのグループがまったく異なる結果を示したことである。
 ウォーキングを1年間続けた被験者たちは健康になったばかりでなく、脳の働きも改善していた。MRIの画像は、脳葉の連携、とくに側頭葉と前頭葉、また側頭葉と後頭葉の連携が強化されたことを示していた。
 簡単にいえば、脳の各領域が互いにより協調しながら働いていたということだ。脳全体の働きが1年前より向上していたのである。身体を活発に動かしたこと、つまり【ウォーキングが、何らかの作用によって脳内の結合パターンによい影響を与えた】のだ。

【『一流の頭脳』アンダース・ハンセン:御舩由美子〈みふね・ゆみこ〉訳(サンマーク出版、2018年)】

 読みやすい上に一分の隙(すき)もない良書である。説明能力の高さそのものがスタイルを確立している。科学が絶対なのではなく、科学的解釈に説得力があるということがよくわかった。

 記憶力や認知機能に関しては筋トレよりも有酸素運動の方が効果があり、ウォーキングよりもランニングが優(まさ)るとのこと。要は「狩猟採集生活に還れ」ということだ。1万年前と同じ狩猟採集生活を送る東アフリカ・タンザニアのハッザ族は一日に8~10km(1万1000~1万4000歩)歩いている。これが一つの目安となろう。

 収穫はそれだけではなかった。おそらく、こちらのほうが重要である。
 それは定期的なウォーキングが、実生活にもプラスの効果をおよぼす脳の変化をもたらしたことだ。心理テストの結果、「実行制御」と呼ばれる認知機能(自発的に行動する、計画を立てる、注意力を制御するといった重要な機能)が、ウォーキングのグループにおいて向上していたことがわかったのである。
 要するに、【身体を活発に動かした人の脳は機能が向上し、加齢による悪影響が抑制され、むしろ脳が若返る】と判明したのだ。

 ここで一旦、これまで読んだことを振り返り、もう一度じっくり考えてほしい。
 ランニングで体力がつく、あるいはウェイトトレーニングで筋肉が増強できることは知っているはずだ。それと同じく、【運動によって脳は物理的に変えられる】。
 脳の変化は、現代の医療技術で測定することができるので、そのことは確認済みだ。脳を変えれば、認知機能を最大限まで高められることもわかっている。

 まずは買い物を狩猟と捉え直すことを提案したい。一日三食摂っている人であれば三度買い物に行ってはどうだろう? 休日であれば遠くのスーパーに出向くのもいいだろう。勤め人であれば一つ手前の駅やバス停で降りて歩くことを心掛ける。もちろんエスカレーターやエレベーターは利用せず階段を上る。それだけでどんな薬やサプリメントよりも効果がある。

 ではなぜ、そんな素晴らしいことが広まらないのだろうか? もちろんカネだ。製薬会社やメーカーは儲からないため手をつけない。そして驚くべきことに消費者側もまた対価を支払わないものに対して不信感を抱いている側面がある。つまりマネーという手段を経なければコミュニケーションが成立しなくなっているのだろう。消費者はカネを支払うことで満足感を得ているのだ。

 広く知られたプラセーボ効果に「高価な薬は100%効く」というのがある。偽薬であっても高いカネを支払えば、霊験(れいげん)あらたかな妙薬と化すのだ。金銭に対する我々の信頼は既に信仰の高みにまで至っている。

2021-07-20

視界は補正され、編輯を加える/『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』藤田一郎


『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル

 ・視界は補正され、編輯を加える

『世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』ドナルド・ホフマン
『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 ものが目に映り、像が網膜の細胞に捉えられた段階で、何が見えるかが決まり、それが私たちの意識にのぼるのであれば、目に映った像がものの見え方を決めるはずである。ところが、この章のさまざまな例で示してきたように、目に映った像がすべてを決めているのではないのである。
 目に映っているものは同心円なのに見えるものはらせん模様であったり、同じ印刷がなされているものがちがった色や明るさに見えたり、何も描かれていないものが見えたり、目の前にあるものが見えなかったりする。これらのことは、眼底に映った外界像を網膜の細胞がとら(ママ)えて生体電気信号に変換した時点で、「見える」という知覚が生まれているのではないことを示している。網膜から電気信号が脳に送られ、脳の中で再処理され、その結果生成された電気信号が私たちの知覚意識のもとになっている。見ることも、ほかの心のできごとと同様に脳によって担われている。
 見ることは、しばしば、カメラで写真を撮ることに誤ってたとえられている。目で起きていることを、光がカメラのフィルムやデジカメのCCD素子にとらえることにたとえるのは的外れではない。外界世界が網膜に像を結ぶ過程は、純粋な光学過程である。そして投影された光の強度と波長にもとづいて、視細胞にイオンの流れすなわち電気反応を起こす。ここまでは、カメラと本質は変わらない。カメラにおいても、レンズを介してフィルムに像を結び、化学反応により像は焼きつけられるのである。
 しかし、ものを見ることの本質は、そうやって網膜でとらえられた光情報にもとづいて、外界の様子を脳の中で復元することである。その復元されたものを私たちは主観的に感じ、また、復元されたものにもとづいて行動するのである。

【『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』藤田一郎〈ふじた・いちろう〉(化学同人、2007年)】

「DOJIN選書」の一冊。後半が難解で挫けた。それでも前半の内容だけで教科書本としておく。

「同心円が螺旋模様に見える」というのはフレーザー錯視のこと。ま、百聞は一見に如かずだ。ご覧いただこう。


 今まで結構な量の錯視画像を見てきたが最も衝撃を受けた一つである(1位は「妻と義母」)。視界は補正され、編輯(へんしゅう)を加える。我々は五官情報をそのまま受け取ることができないのだ。あらゆる情報は「読み解かれる」。人は想念の中で生きる。

 天台宗では十界(じっかい)を説く。生命の諸相を十種類に分けたものだ。人は外界の縁に触れて様々な生命の状態を表す。因→縁→果→報という推移が瞬間瞬間展開されてゆくのが生活とも人生とも言い得る。その果を法界(≒世界)と捉えたところに天台宗の卓見がある。固定した性格ではなくチャンネルや周波数のように見つめるのだ。

 例えば自分の人生を映画さながらに見つめることは可能だろうか? 自分が怒られたとか、傷ついたとか、落ち込んだとか、嫉妬したとか、マイナス感情の虜(とりこ)になる時、人は我を失う。それどころか卑屈になった心は妄想に取り憑かれ、憎悪や怒りが増幅されてゆく。

 見ることは簡単だ。だが、ありのままに見ることは難しい。

2021-01-05

「自己」という幻想/『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク


『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン
『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ

 ・「自己」という幻想

「自己とは、内側にある安定した核だ」と昔から固く信じられてきたが、それは科学的事実からかけ離れた幻想である。「ここが人格や自己意識を生み出す源だ」と言える特定の脳内領域やニューロンは存在しない。実のところ、やつれ顔のシュールマンは、「自己とは、我が研究チームが自由に造り替えられるものです」と言うこともできたのだ。実験結果を見れば、どの患者にも普遍の核など存在しないことは明らかだ。自己とは、そのときどきの脳の状態のことなのだ。脳の特定の箇所に電気を少々流すだけで、人は別の誰かになってしまう。

【『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク:赤根洋子〈あかね・ようこ〉訳(文藝春秋、2020年)】

 著者が言う「脳の状態」を石川九楊〈いしかわ・きゅうよう〉風に表現すれば「スタイル」となる(『書く 言葉・文字・書』石川九楊)。つまり我々は自分が好む反応を定式化することで「自己」という産物を創造しているのだろう。それは文字通り「型」(スタイル)といってよい。

 人は身口意(しんくい)の三業(さんごう)を繰り返すことで自我を形成する。すなわち自我とはパターンに過ぎない。私は「小野さんらしい」と言われることが多い。特に目上の人物と喧嘩をする際に私の個性は最大限発揮される。そうした行為は私が自ら選んで行われるものだ。時折失敗することもあるが気にしない。じっと黙っているわけにはいかないからだ。

 悪しき性格は劣等感によって作られる。負の感情が正常な判断を失わさせる。その意味で恨みや妬みが一番厄介な感情だと思う。

「自己」が幻想であれば誰かから馬鹿にされても怒る必要はない。たまたまその時の「脳の状態」が馬鹿にされたのだから。

2019-05-13

「わかった」というのは感情/『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』山鳥重


『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬
『壊れた脳 生存する知』山田規畝子

 ・「わかった」というのは感情
 ・人間の心は心像しか扱えない

・『「気づく」とはどういうことか』山鳥重
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ

 わかったというのは感情なのです。
 知らない花を見つけて、名前を教えてもらい、実はそれが前から知っていた花だったりすると、そうかと納得します。わかったと感じるのです。

【『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』山鳥重〈やまどり・あつし〉(ちくま新書、2002年)以下同】

 山鳥重〈やまどり・あつし〉は神経内科医で高次脳機能障害研究の第一人者である。私は山田規畝子〈やまだ・きくこ〉の著書で知った。「わかったというのは感情」という指摘が鋭く胸に突き刺さる。山鳥は臨床で「わからなくなってしまった人々」(高次脳機能障害)を相手にしている。時計の針が読めない、階段は見えているのだが昇りか下りかがわからない、靴の向きを間違えるなどが具体的な症状だ。わからなくなってしまった不思議を思えば、わかることもまた不思議なのである。

「わかった」という体験は経験のひとつの形式であって、事実とか真理を知るということとは必ずしも同じではありません。
 真理を発見して興奮出来る人は古今東西を問わず、わずかな人たちにすぎません。しかし、「わかった!」「わからん!」はすべての人が毎日繰り返し繰り返し経験することです。わかったからといって、その都度、真実に近づいているわけではありません。わからなかったからといって、その都度、真実から遠ざかっているわけでもありません。「わかった!」からと言って、それが事実であるかどうかは、実はわからないのです。わかったと感じるのです。あるいはわからないと感じるのです。

 特定の思想や哲学・宗教を信じる人々は皆が皆、「わかった気に」なっている。彼らは自分こそが正しいと「わかって」いるのだ。しかも閃(ひらめ)きや悟りに近い経験をする人も少なくない(例えばパウロ)。人間が誤謬(ごびゅう)から脱却できないのは「わかった」という実感を合理性と錯覚するためなのだろう。

誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 限られた脳内情報が結び合い、つながった瞬間に「わかった」との自覚が生まれるのだろう。きっとシナプス結合がすっきりしたのだろうが、それが事実かどうかはわからないのだ。家の中の整理整頓をしたところで世界が片づいたわけではない。

 わかるためには「わからない何か」がなくてはなりません。「わからない何か」が自分の中に立ち現れるからこそ、「わかろう」とする心の働きも生まれるのです。

 人生で最も大切な姿勢は「問う」ことである。問いの中身にその人の生き様が表れる。疑問をウヤムヤにしてしまうと眼が曇り、心は鈍くなってしまう。問わずして悩む姿を煩悩と名付ける。

2019-02-17

腸内細菌で自閉症の症状を緩和することができる/『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二


『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二
『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
・『脳はなにげに不公平 パテカトルの万脳薬』池谷裕二

 ・腸内細菌で自閉症の症状を緩和することができる

『脳はバカ、腸はかしこい』藤田紘一郎

 腸内細菌で自閉症の症状を緩和することができる――。そんなネズミの実験データが発表されました。カリフォルニア工科大学のマツマニアン博士らが先々月の「セル」誌に発表した論文です。
 腸と脳は密接に関係しています。腸内細菌も精神状態に影響を与えることはすでに知られています。しかし、自閉スペクトラム症(ASD)はいわゆる発達障害の一種です。つまり生まれつきの症状です。これが腸内細菌で治療できるとはどういうことでしょうか。今回の発見を私なりに消化するまでに時間を要しました。
 発見の端緒は「合併症」の丹念な調査にあります。2年前にハーバード大学のコハネ博士らは1万4000人のASDの方を集め、彼らが他にどんな病気を患っているかを調べたのです。すると炎症性腸疾患という慢性の腸炎を併発している率が高いことがわかりました。腸炎の原因は十分にはわかっていませんが、一因は腸内細菌であろうと考えられています。
 この発見に、近年のミクロビオーム研究が加担します。最新の検査技術を用いると、大量の腸内細菌を一斉に調べ上げることができます。腸内にどんな細菌が住んでいるか(ミクロビオーム)が一網打尽にわかります。その結果、ASDの方のミクロビオームは健常者のものとは異なっていました。
 もちろん、これだけでは、ミクロビオームが原因でASDになったのか、あるいは逆に、ASDの方に偏食があるからミクロビオームが変化しているのかはわかりません。ヒトでこれを確かめるわけにはゆきません。そこでマツマニアン博士らは、ネズミの実験に切り替えることにしました。その結果、ミクロビオームこそがASDの症状の一因だという結論を得たのです。もう少し詳しく説明しましょう。
 ASDの原因の一つは感染です。生まれる前、まだ母親の胎内にいるときに感染すると、ASDの危険率がぐんと上昇します。その証拠に、妊娠中の母ネズミに感染炎症を生じさせると、生まれてきた仔はヒトのASDにそっくりな症状を示します。社交的な行動が減っているだけでなく、なんとミクロビオームまで変化しているのです。
 そこで博士らは、大腸炎を改善することが知られている「バクテロイデスフラジリス」という細菌を、生まれてきたばかりの仔マウスに与えました。するとマクロビオームが改善され、驚くべきことに、成長してもASDの症状を示さなかったのです。
 炎症性腸疾患は、ASDだけでなく、うつ病やある種の知的障害などにも見られる症状です。今回のデータは、これまで対処が難しかった精神疾患や発達障害への治療の糸口になるかもしれません。

【『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二〈いけがや・ゆうじ〉(朝日新聞出版、2017年)】

『週刊朝日』に連載された科学コラム「パテカトルの万脳薬」の2013年9月6日号~2014年12月26日号掲載分で、『脳はなにげに不公平 パテカトルの万脳薬』の続篇。

瓢箪から駒が出る」とはこのことか。「ランプから魔神」でもよい。

 我々の思考はどうしても特定の部位に目を向けてしまう。脳、血管、神経、臓器など。腸内細菌は口から入ったもので作られる。お腹の中の赤ちゃんは無菌状態である。帝王切開の出産が問題なのは産道を通る時に口から入る母体の菌を取り入れることができないためだ。

 私が子供の時分は菌といえばバイ菌を意味したが、ヨーグルトでお馴染みのビフィズス菌が善玉菌として菌のイメージを書き換えた。人体の細胞は60兆個といわれる(最新の説では37兆個→気になる数字をチェック! 第9回 『37,000,000,000,000(37兆)個』|北キャンレポート|R&BPマガジン|北大リサーチ&ビジネスパーク推進協議会/同数説もあり→「体内細菌は細胞数の10倍」はウソだった | ナショナルジオグラフィック日本版サイト)。しかし実はそれを上回る数の細菌が人体を構成している。

「私」という存在を固定化し確定したものと考えるところに思考の過ちがあるのだろう。もっと淡くて曖昧な状態・現象が統合されて「私」という仮想が現実の姿に見えているだけなのだ。これを諸法無我という。

 精神疾患や知的障碍は人体のみならず家族や社会との関係にも大きな影響を及ぼす。悩みや苦しみが関係性から生じ、喜びや楽しみもまた関係性から生じる。今ここにあるのは関係性だけなのかもしれない。

できない脳ほど自信過剰
池谷 裕二
朝日新聞出版 (2017-05-19)
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脳はなにげに不公平 パテカトルの万脳薬
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2016-04-19

「隠れた脳」は阿頼耶識を示唆/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム


『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース

 ・人間の脳はバイアス装置
 ・「隠れた脳」は阿頼耶識を示唆
 ・人種差別というバイアス

『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー
『たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する』レナード・ムロディナウ
『感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性』高橋昌一郎
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

必読書リスト その五

 私は隠れたところで人に影響を与える力を、“隠れた脳”(ヒドゥン・ブレイン)という造語によって表したい。これは頭蓋骨の中にある秘密の物体でもなければ、最近発見された脳の新たな機能でもない。隠れた脳とは要するに、気づかないうちに私たちの行動を操るさまざまな力のことを言う。頭の中で結論への近道を探す作業、あるいはヒューリスティックス(訳注:計算やコンピュータ・プログラムのような決まった手順によらない、直感的な問題解決の方法)と関わる部分もあるし、記憶や認識の錯誤と関わる部分もある。それらすべてに共通しているのは、私たちがその影響力に気づかないということだ。努力によって、ある程度バイアスに気づく側面もあるが、隠れた脳の大半は自覚の及ばないところにある。無意識のバイアスは頭の中にいる秘密の操り人形師が起こすものではない。バイアスの影響によって、そのような人形師がいるように見えるのだ。

【『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム:渡会圭子〈わたらい・けいこ〉訳(インターシフト、2011年)】

 認知科学がバイアス(歪み)を明らかにした功績は大きい。それまでつかみどころのなかった無意識を具体化したからだ。ダニエル・カーネマンは経済学に認知科学を導入し、行動経済学というジャンルを打ち立てた。この分野はまさに百花繚乱の趣がある。

 認知バイアスは我々が歪(いびつ)な世界に生きることを教える。私自身の眼には薄い――あるいは濃い――色のサングラスが掛かっており、心は歪(ゆが)んだ鏡なのだ。世界や社会に蔓延(まんえん)する恐怖・差別・暴力の原因はここにあるのだろう。

 ヒューリスティクスはAI(人工知能)やロボット工学で脚光を浴びた概念だ。正確を期して無数の選択肢を吟味するよりは、大雑把で曖昧ではあるが直感的に判断することが時間的合理性に優れる。もちろん失敗することも多いわけだが、立ち止まって可能性を数え上げるよりは、賭けに近い行動を選ぶ。

「何となく嫌な感じ」というものがある。人の印象や出来事の推移に違和感を覚え、「何だかなあ」という思いを抱えた経験は誰しもあることだろう。嫌悪感はコントロールすることが極めて難しい。嫌な奴はどうしても嫌なのである(笑)。

 反対のケースを考えてみよう。美人を嫌う男性はいないだろうし、ハンサムを嫌う女性もいないだろう。高い身長・グラマーな体型・逞しい筋肉・豊かな黒髪・長い足・つぶらな瞳などなど。身体的特長以外でも数え上げればキリがない。大まかに言ってしまえば、カネ(資産・収入)・頭のよさ(学識・知性・アイディア)・コミュニケーション能力・感情・精神性といったところだ。

 異性に惹(ひ)かれる要素はいずれも進化的優位性にまつわるものと考えてよかろう。つまり相手と自分の間に生まれる子供の生存率が高まるのだ。「恋は盲目」なのは当然である。本能に衝き動かされているわけだから(笑)。草津の湯でも治る見込みのない病気である。また離婚の多さや家庭内別居などの現状が「本能の誤り」を証明している。

「隠れた脳」は阿頼耶識(あらやしき)を示唆する。唯識思想では眼識(げんしき)・耳識(にしき)・鼻識(びしき)・舌識(ぜっしき)・身識(しんしき)・意識(いしき)・末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)の八つが認識機能とされる。末那識は自我やエゴを支える深層部分で、阿頼耶識は更に深く広大な領域となる。阿頼耶識は他の七識を司るゆえに根本識ともいい、かくれて見えないがゆえに蔵識とも名づける。

 唯識思想は存在論ではなく認識論である。つまり目の前に世界が実際に存在するわけではなく、八識の中に認識世界があると考えるのだ。識を情報と訳せば、五蘊(ごうん)に仮託された人間という事象は「情報処理の当体」であり、その行為を計算――あるいは演算――と考えることも可能だ。因みにワールポラ・ラーフラ著『ブッダが説いたこと』(岩波文庫、2016年)で今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉は五蘊を「五集合要素」と訳している。

 認知科学は人が自覚し得ない領域に迫り、嫌悪感・偏見・差別感情の要因をも解明しつつある。認識の歪(ゆが)みを自覚する人々が増えれば、人種差別やいじめをなくすことも可能だろう。阿頼耶識は情動や本能が吹き荒れる世界と考えられるが、集合知もまたここから現れるのだ。すなわち自我よりも深い部分で、我々は憎悪で結びつくこともできるし、英知でつながることもできるのだ。

 ひょっとすると今、人類の業(ごう)を転換する時が到来しているのかもしれない。

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2015-12-28

脳卒中が起こった瞬間/『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー


『壊れた脳 生存する知』山田規畝子
『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん

 ・脳卒中が起こった瞬間

ジル・ボルト・テイラー「脳卒中体験を語る」
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

悟りとは
必読書リスト その五

 集中しようとすればするほど、どんどん考えが逃げて行くかのようです。答えと情報を見つける代わりに、わたしは込み上げる平和の感覚に満たされていました。わたしを人生の細部に結びつけていた、いつものおしゃべりの代わりに、あたり一面の平穏な幸福感に包まれているような感じ。恐怖をつかさどる脳の部位である扁桃体が、こうした異常な環境への懸念にも反応することなく、パニック状態を引き起こさなかったなんて、なんて運がよかったのでしょう。左脳の言語中枢が徐々に静かになるにつれて、わたしは人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心がなごんでいきました。高度な認知能力と過去の人生から切り離されたことによって、意識は悟りの感覚、あるいは宇宙と融合して「ひとつになる」ところまで高まっていきました。むりやりとはいえ、家路をたどるような感じで、心地よいのです。
 この時点で、わたしは自分を囲んでいる三次元の現実感覚を失っていました。からだは浴室の壁で支えられていましたが、、どこで自分が始まって終わっているのか、というからだの境界すらはっきりわからない。なんとも奇妙な感覚。からだが、固体ではなくて液体であるかのような感じ。まわりの空間や空気の流れに溶け込んでしまい、もう、からだと他のものの区別がつかない。認識しようとする頭と、指を思うように動かす力との関係がずれていくのを感じつつ、からだの塊はずっしりと重くなり、まるでエネルギーが切れたかのようでした。

【『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー:竹内薫〈たけうち・かおる〉訳(新潮社、2009年/新潮文庫、2012年)】

2012年に読んだ本ランキング」の第3位である。出版不況のせいで校正をしていないのかもしれない。「なんて、なんて運が」が見過ごされている。

 急激な脳血管障害(脳梗塞、脳出血、くも膜下出血)の総称を脳卒中という。ジル・ボルト・テイラーは浴室で倒れた。フラフラになりながらも何とか電話まで辿り着き、同僚に連絡するも既に呂律(ろれつ)が回らなくなっていた。

 論理や思考から解き放たれた豊かな右脳世界が現れる。それは自他が融(と)け合う世界だった。左脳は分析し序列をつける。

「科学者は、体験談を証拠とはみなさない」(『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー)。しかし脳科学者の体験であれば一般人よりも客観性があり有用だろう。

 神は右脳に棲む(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ)。ただし注意が必要だ。教祖の言葉も、統合失調症患者のネオ・ロゴス(『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫)も右脳から生まれる。右脳にも裏と表があるのだろう。ジル・ボルト・テイラーの体験を普遍の位置に置くのは危険だ。

 それでも傍証はある。

「閉じ込め症候群」患者の72%、「幸せ」と回答 自殺ほう助積極論に「待った」

 文学的表現ではなく、本当にただ「いる」だけ、「ある」だけでも幸せなのだ。「比較と順応がないとき、葛藤は姿を消します」(『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン:高橋重敏訳)。左脳の特徴である論理・分析・体系化が「悟り」を阻んでいるのだろう。我々が願う幸福の姿は左脳的で、社会における位置や他人からの評価に彩られている。

 悟りとは「世界を、生を味わうこと」だ。ジル・ボルト・テイラーの体験は本覚論の正当性(『反密教学』津田真一)を示す。なぜなら悟るべきタイミングは「今、ここ」であり、彼岸は此岸(しがん)の足下(そっか)に存在するからだ。悟りとは山頂に位置するのではない。現在の一歩にこそ求められるべきものである。

 次に戒律というテーマが見えてくるわけだが私の手には余る。




序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集、『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵
病気になると“世界が変わる”/『壊れた脳 生存する知』山田規畝子

2015-01-24

脳神経科学本の傑作/『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン


 長期にわたってものを考えるとき、その考えを維持するために、推論の連鎖から十分な報酬を引き出す必要がある。しかし一方で、柔軟さも維持して、その考えに矛盾する証拠が出てきたら喜んでそれを捨てられるようでなければならない。けれども、長い間考えていて、報酬の感覚が繰り返され、発達してくると、思考と正しいという感覚とを結びつける神経連結がしだいに強化されていく。このような結びつきは、いったん形成されるとなかなか断てない。

【『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン:岩坂彰訳(河出書房新社、2010年)以下同】

 まだ読んでいる最中なのだが覚え書きを残しておく。脳神経科学本の傑作だ。『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース、『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン、『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ、『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ、『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソンなどと、認知科学本を併読すれば理解が深まる。

 脳神経科学は身体反応に拠(よ)っている。つまり「目に見える科学」である。ただし全ての身体反応を科学が掌握しているわけではあるまい。見落としている反応もたくさんあるに違いない。その限界性を弁える必要があろう。

 ロバート・A・バートンは小説を物(もの)する医学博士である。こなれた文章で困難極まりないテーマに果敢なアプローチを試みる。

 急いで書こうとしたのにはもちろん理由がある。以下のテキストと関連が深いためだ。

英雄的人物の共通点/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー

「報酬」とは具体的には中脳辺縁ドーパミン系の活性化である。

 1990年代前半に、エルサレムにあるヘブライ大学の生化学者リチャード・エブスタインらはボランティアを募り、各自が持つ、リスクや新奇なものを求める志向を評価してもらった。その結果、このような行動のレベルが高い人ほど、ある遺伝子(DRD4遺伝子)のレベルが低いことが分かった。この遺伝子は、報酬系の中脳辺縁系の重要な構造においてドーパミンの働きを調整する。そこでエブスタインらが立てた仮説は、ドーパミンによる報酬系の反応性が弱い人ほど、報酬系を刺激するために、よりリスクの高い行動や興奮につながら行動をとりやすい、というものだった。
 その後エブスタインらは、非利己的、あるいは愛他的な行動をとりがちだと自己評価する被験者では、この遺伝子のレベルが高いことも発見した。この遺伝子をたくさん持っている人は、これを持たない人よりも弱い刺激から一定の快感を得ることができるとも考えられる。

 薬物やアルコールなどの依存症、暴走族や犯罪傾向が顕著な人物を思えば理解しやすいだろう。アマンダ・リプリーが「英雄的人物」と評価した人々を支えていたのは遺伝子である可能性が考えられる。「救助者たちは概して民主的で多元的なイデオロギーを支持する傾向があった」(アマンダ・リプリー)事実は、特定の宗教や思想・信条といった狭い世界ではなく、より広い世界から報酬を得られることを示唆している。

 私はよく思うのだが、自分が正しいと主張し続けることは、生理学的に見て依存症と似たところがあるのではないだろうか。遺伝的な素因も含めて。自分が正しいことを何としても証明してみせようと頑張る人を端から見ると、追求している問題よりも最終的な答えから多くの快感を得ているように思える(本人はそう思っていない)。彼らは、複雑な社会問題にも、映画や小説のはっきりしない結末にも、これですべて決まり、という解決策を求める。常に決定的な結論を求めるあまり、最悪の依存症患者にも劣らないほど強迫的に追い立てられているように見えることも少なくない。おそらく、実際そうなのだろう。

 正義を主張する原理主義者は脳内で得ることのできない報酬を、特定の集団内で得ているのだろう。

 やや難しい内容ではあるが、かような傑作を見落としていた自分の迂闊(うかつ)さに驚くばかりである。

2014-10-02

土俗性と普遍性/『涙の理由』重松清、茂木健一郎


【茂木】普遍性が、ある種の土俗性を切り捨てたところに成り立っている。そこに、忸怩(じくじ)たるものを感じるのかもしれない。

【『涙の理由』重松清、茂木健一郎(宝島社、2009年/宝島SUGOI文庫、2014年)】

 茂木健一郎が精力的に対談本を出し、佐藤優がそれに続いたような印象がある。「どれどれ」と思いながら開いたところ、そのまま読み終えてしまった。初対面の中年男二人がちょっとぎこちない挨拶を交わし、茂木がリードしながら会話が進む。この二人、実は少年時代から抱えている影の部分が似ている。

 茂木の指摘は小説に対するものだが、そのまま宗教にも当てはまる。民俗信仰(民俗宗教)が世界宗教に飛躍する時、儀式性よりも理論が優先される。ここで民俗的文化が切り捨てられる。それを個性と言い換えてもよかろう。つまり味を薄めることで人々が受け入れやすい素地ができるのだろう。これが妥協かといえば、そう簡単な話でもない。

 唐突ではあるが結論を述べよう。私はインディアンのスピリチュアリズムは好きなのだが、ニューエイジのスピリチュアリズムは否定する。両者の違いは奈辺にあるのだろうか? それが土俗性であり、もっと踏み込めばアニミズムということになろう。

 一神教や大衆部(大乗仏教)は神仏を設定することで土俗性を破壊する。そして必ず政治的支配(権力)と結びつく。日本が仏教を輸入したのも国家戦略に基づくものであった。

 そう考えるとよくわかるのだが、ブッダやクリシュナムルティの教えは最小公約数的な原理を示しているだけで、特定の神仏への帰依を強要するものではない。手垢まみれになった宗教という言葉よりも、根本の道というイメージに近い。

2014-09-13

脳化社会/『カミとヒトの解剖学』養老孟司


『唯脳論』養老孟司

 ・アナロジーは死の象徴化から始まった
 ・霊界は「もちろんある」
 ・夢は脳による創作
 ・自我と反応に関する覚え書き
 ・脳化社会

『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

 現代人はじつは脳の中に住んでいる。それは東京を歩いてみればすぐわかる。目に入るものといえば、人工物ばかりだ。人工物とはつまり脳の産物である。脳がさまざまなものを作りだし、人間はその中に住む。そこには脳以上のものはないし、脳以下のものもない。これを私は「脳化社会」と呼ぶ。大霊界がはやる根本の理由はそれであろう。大霊界もまた、脳の中にのみ存在するからである。われわれの社会では脳の産物は存在を許される。それを信仰の自由、表現の自由、教育の自由、言論の自由などと呼ぶ。他方、身体は徹底的に統制される。だから、排泄の自由、暴力の自由、性の自由、そういうものはない。許される場合は、仕方がないから許されているだけである。なぜか。脳は統御の器官だからである。脳は身体をその統御下に置く。さらに環境を統御下に置く。そうしてすべてを統御下に置こうとするのである。

【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】

 つまり脳が社会に溢れだしているわけだ。身近な例で考えるとわかりやすい。私の部屋もパソコン内も脳の産物に他ならない。本棚はその筆頭に位置する。

 反対に東京という都市から日本人の脳を探ることは可能だろうか? 迷路のような首都高速道路、人を人とも思わぬ高層ビル、ひしめき合う住宅、広い道路は渋滞し、狭い道路は見通しが悪く危険極まりない。公害こそ少なくなったものの絶えることのない騒音。そして山がない(多摩方面を除く)。

 英雄や大物が出るような脳でないことは確かだろう。落語を聴いてもわかるが、とにかく東京人はせわしない。落語に登場するのも粗忽者(そこつもの)が多い。

 結局、何でも揃っているが歴史を変えるような新しい何かが生まれる場所ではないように思う。敗戦から高度成長にかけて必死で働いてきたわけだが、整然とした住みやすい街並みができることはなかった。

 雑然とした街と脳をすっきりさせるためにも、まず狭い道路をすべて一方通行にすることを提案したい。

カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)
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2014-09-06

知覚系の原理は「濾過」/『唯脳論』養老孟司


『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ

 ・唯脳論宣言
 ・脳と心
 ・睡眠は「休み」ではない
 ・構造(身体)と機能(心)は「脳において」分離する
 ・知覚系の原理は「濾過」

『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 知覚系の原理は、したがって、試行錯誤ではない。それは「濾過」である。現にあるものの中で、どれを取り、どれを捨てるか。目は可視光しか感知しない。同様に耳は可聴域の音しか聞かない。そこではすでに、自然に存在するものは適当に「濾過」されている。
 運動系は別である。間違った行動をして、餌をとりそこなった動物なら、行動を訂正する必要がある。しかし、たとえ行動全体は間違っていても、筋肉は言われたとおり動いている。その点で筋肉を叱るわけにいかないとすれば、運動系はその都度の運動全体の適否の判断を、どこかに預けざるを得ない。そこから目的意識が生じる。目的にとっては、さまざまな手段があり得る、というわけである。しかし、運動全体を基礎づけているのは、そもそも試行錯誤の原則である。

【『唯脳論』養老孟司〈ようろう・たけし〉(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】

 私は幼い頃から「ものが見える」ということが不思議でならなかった。幽霊なんかよりも、幽霊が「見える」ことの方が重要だ。そしてもっと不思議なことは我々の目は何でも見えるわけではないという事実である。見えるものは可視光線に限られるのだ。つまり膨大な情報にさらされていながらも、実際は限定的な情報でそれを「世界」と認識しているわけだ。

 しかも知覚の原理が濾過にあるとすれば、生存に有意な情報をピックアップし、それ以外は捨て去っていることになる(意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ)。「お前の目は節穴か?」「御意」。

 言葉にしても同様だろう。我々は自分の興味がない情報に対しては恐ろしいほど冷酷だ。どうでもよいことは無視するに限る。かつて小泉首相が「ワンフレーズ・ポリティクス」と批難されたが、私を筆頭とする国民の大多数はそのわかりやすさに反応した。考えようによってはマントラだってワンフレーズだ。結局のところ人間は覚えていられる範囲の情報しか受け取ることができないのだろう。

 運動は反復によって洗練されるが、知覚を洗練することは可能だろうか? 世界をまったく新しい目で見つめ直すことができるのだろうか? たぶん瞑想するしかない。そんな気がするよ。

2014-04-08

脳は宇宙であり、宇宙は脳である/『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン


『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・脳は宇宙であり、宇宙は脳である

『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『しらずしらず あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』レナード・ムロディナウ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル

 脳はニューロンとグリアという細胞が何千億個も集まってできている。その細胞の一つひとつが、都市と同じくらい込み入っている。それぞれに全ヒトゲノムが入っていて、複雑な営みのなかで何十億という分子をやり取りする。一つひとつの細胞がほかの細胞に電気パルスを毎秒何百回も送る。脳内で生じる数十兆のパルスそれぞれを1個の光子で表わしたら、目がくらむような光になるだろう。
 その細胞どうしをつなぐネットワークは驚異的に複雑なので、人間の言語では表現できず、新種の数学が必要だ。典型的なニューロン1個は近隣のニューロンと約1万個の結合部をもっている。何十億というニューロンがあることを考えると、脳組織わずか1立方センチに銀河系の星と同じ数の結合部があることになる。
 あなたの頭蓋骨のなかにある1300グラムのピンク色でゼリー状の器官は、異質な、計算する物質だ。小さな自己設定型のパーツで構成され、私たちがつくろうと志したことのあるどんなものもはるかに超えている。だから、自分が怠け者だとか鈍いと思っている人も、安心してほしい。あなたは地球上で最も活発で、最も鋭い生きものなのだ。
 それにしても、うそのような話だ。私たちはおそらく地球上で唯一、向こうみずにも自らのプログラミング言語を解読するゲームに打ち込むほど高度なシステムである。あなたのデスクトップコンピューターが、周辺装置を操作し始め、勝手にカバーをはずし、ウェブカメラを自分の回路に向けるところを想像してみてほしい。それが私たちだ。

【『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン:大田直子訳(早川書房、2012年『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』改題)】

 今気づいたのだが著者は、リチャード・E・サイトウィック(リチャード・E・シトーウィック改め)『脳のなかの万華鏡 「共感覚」のめくるめく世界』の共著者であるデイヴィッド・M・イーグルマンとたぶん同一人物だろう。

 意識三部作としては、『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ→『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ→本書の順番で読むことを勧める。次にアントニオ・R・ダマシオへ進み、更に『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム、『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ、『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロースを読めば理解が深まる。たぶん天才になっていることだろう。

 宇宙に匹敵する広大な領域。それが脳である。脳が宇宙であるならば、宇宙が脳である可能性も高い(『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック/『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル)。


 ニューロン(神経細胞)の数は「大脳で数百億個、小脳で1000億個、脳全体では千数百億個にもなる」(理化学研究所 脳科学総合研究センター)。大脳よりも小脳に多かったとは露知らず。そしてニューロンとニューロンをつなぐシナプスは1個につき1万箇所ある(生理学研究所)。ただし脳の状態をいくら調べたところで意識が解明されるわけではない。

何を意識の発生とするか


 私は意識発生のメカニズムを解く鍵は自己鏡像認知にあると考える。既に何度か書いてきたが、自己鏡像認知とは「相手の瞳に映る自分を理解する能力」と定義したい。「私」だけでは意識たり得ない。「私」を客観的かつ抽象的に捉える視点(メタ認知)こそが意識なのだ。

 しかしながら我々の日常生活は無意識で運転されている。

 車でいえば、教習所にいたときには、クラッチを踏んでギアをローに入れて……、と、順番に逐次的に学びます。
 けれども、実際の運転はこれでは危ないのです。同時に様々なことをしなくてはなりません。あるとき、それができるようになりますが、それは無意識化されるからです。
 意識というのは気がつくことだと書きましたが、今気がついているところはひとつしかフォーカスを持てないのです。無意識にすれば、心臓と肺が勝手に同時に動きます。
 同時に二つのことをするのはすごく大変です。けれどもそれは、車の運転と同じで慣れです。何度もやっていると、いつの間にかその作業が無意識化されるようになってくるのです。
 無意識化された瞬間に、超並列に一気に変わります。

【『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(PHP研究所、2007年/PHP文庫、2009年)】

論理の限界/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 例えば旅行に行くとしよう。行き先は意識的に選択するが、現地で何を見るかは条件反射的に行われる。すなわち何を見るかを我々は意識的に選べないのだ。五感は外界への反応に基いており、五感情報は一方的に受け取る性質を帯びている。

 意識が発生するのは違和感を覚える場合が多い。他者や世界を自分の外側に強く意識した時、自我意識が立ち上がってくるのではあるまいか。その意味で疎外感を知らない幼児が鏡像認知をできないのは当然である。もちろん国家意識も自我意識から芽生えたものだろう。

 瞑想が諸法無我の実践であるならば、シナプスの発火は止(や)み、自我は解体され宇宙に溶け込むのだろう。ジル・ボルト・テイラーがそう語っている。

あなたの知らない脳──意識は傍観者である (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)心の操縦術 (PHP文庫)


死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編

2014-03-11

道教の魂魄思想/『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人


 中国では「魂魄(こんぱく)思想」という考え方があります。これは、道教儒教にも強い影響を与えています。
 魂魄思想によれば、霊魂には「魂」と「魄」の2種類があり、「魂」は体から抜け出して位牌に宿って、やがて天に登り、「魄」は死体に残って土に埋められ、やがて土に還るといいます。日本でもいまだに位牌を大事にしたりするのは、この魂魄思想が定着しているからです。
 これは仏教ではありません。中国の道教と仏教が融合してしまい、それを日本人が中国から輸入したために、日本にも根づいてしまったのです。

【『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(KKベストセラーズ、2010年)以下同】

 日蓮の遺文にも「魂魄」という語が2箇所に出てくる。日本の仏教はキメラの様相を呈している。胴体は密教で頭が仏教。そして手足は儒教と道教で構成されている。幸福の科学は日本仏教の正統かもね。

 誰もが死を恐れる。自分の死を喜ぶ人はいない。自分という存在や自分という価値が消えて無くなる。その事実を人間は直視することができない。だから宗教は「死後の物語」を創作・捏造(ねつぞう)するわけだ。「死んでも大丈夫ですよ」と。しかしその安心代は高くつく。

 宗教が語る死後の世界とか、死についての考え方というのは、すべて妄想であると考えなければいけません。なぜなら、生きている人で死後の世界を見た人は誰もいないからです。
 生死の境をさまよい、九死に一生を得て助かった人が、「臨死体験をした」などと言って、あたかも死後の世界を見てきたかのように語ることがありますが、それも完全に妄想です。生死の境をさまよいながら、あの世の夢を見ていただけです。
 本当に死後の世界を見たのなら、戻って来られるはずがないのです。戻って来られたということは、そこで見たものは死後の世界ではなく、生前の世界に決まっています。
【こうした妄想を、妄想だとわかって受け入れるのはかまいません。それによって、「死」への恐怖が和らぎ、「死」に対する心の整理がつくのであれば有益です。】

「妄想」に一票。「有益」には反対だ。有益を目的とするのであれば、それは宗教ではなくプラグマティズム(効用主義)だ。本人にとっても遺族にとっても何の慰めにもならないと私は考える。極端な例えを示そう。振り込み詐欺の被害者に「『オレ、オレ』と電話をしてきたのは、アストラル界にいるあなたの息子さんなのです」と納得させたら、それが救いになるのだろうか?

 苫米地はこの後、三諦(さんたい)を示し、妄想とわかった上で物語を採用する姿勢を「中観」(ちゅうがん)としている。

「空観」(くうがん)の視点でフィクションだとしっかり認識しつつ、「仮観」(けがん)の視点でその役割を認めて、フィクションの世界に価値を見いだす視点が「中観」(ちゅうがん)なのです。

 ここからは私見である。三諦は無記との関連性で捉える必要がある。

無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
「無記」の教え=十難無記、十四難無記

 ブッダは霊魂や死後の存在に関して「ある」とも「ない」とも説かなかった。説かなかったのだから考えたり、思いあぐねたりする必要はない。すなわち霊魂や死後の存在の有無から離れることが正しいのだ。ここにおいて新しい物語を創作する必要性は認められない。

 3年前の今日、東日本大震災があった。今日現在で行方不明者の数が2633人と報じられている。今もご家族の遺体を探している人々がいるとも聞く。人は情に生きる動物だ。合理性で割り切れるものではない。哀しみの表情は人それぞれに複雑な陰影をなす。

 遺体が見つかれば見つかったで哀しみは倍加することだろう。遺体が見つからなければ見つからなかったで哀しみは膨(ふく)れ上がることだろう。いずれにしても哀しみは深まるばかりで癒されることがない。

 遺体に魂が存在するわけではない。そして遺体は必ず土に還(かえ)る。海にあろうと墓にあろうと土に還るのだ。哀しみは執着である。人間にとって最も深い執着といってよい。遺体から離れ、哀しみから離れる。離れてただ見つめればよい。自分自身もやがて死ぬ。亡くなったことを哀しむよりも、共に生きた時間を喜ぶべきだろう。亡くなったご家族や友人もそう思っているはずだ。死者を胸に抱(いだ)きながら、心の中で生かせばいい。私はそうしている。

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死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘
我が子の死/『思索と体験』西田幾多郎

2014-03-04

ラットにもメタ認知能力が/『人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ


 過去何百年もの間に、数え切れないほど多くの科学者や哲学者がこの私たちのユニークさをあるいは認め、あるいは否定してあらゆる種類の人間らしさの前例をほかの動物に求めてきた。近年、独創的な科学者たちが、純粋に人間だけのものとばかり思われていた多種多様の事例の前例を見つけている。私たちは、自らの思考について考える(これを「メタ認知」という)能力を持つのは人間だけだと思っていた。だが、考え直したほうがよさそうだ。ジョージア大学の二人の神経科学者が、ラットにもその能力があることを立証した。ラットは自分が何を知らないかを知っていることがわかったのだ。

【『人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ:柴田裕之訳(インターシフト、2010年)】

 メタには「高次な」「超」といった意味がある。ヒトは五感情報を統合し、更にもう一段高いレベルで自分の思考や感情を客観的に捉えることができる。これをメタ認知という。脳にダメージを受けると高次脳機能障害となる。メタ認知機能の崩壊といってよい。

病気になると“世界が変わる”/『壊れた脳 生存する知』山田規畝子〈やまだ・きくこ〉

 以下、関連リンク。

脳とネットワーク/The Swingy Brain:「我思う」ラット
どっちにする?考え中!: 感性でつづる日記

 ってことは、マウスに思考があることを示唆する。あいつらにはあいつらの「考え」があるのだ。すると「意志」があっても不思議ではない。ただし言語が発達しているようには見えないから、たぶん視覚情報を言語化しているのだろう(『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン)。

 サルは非辺縁系の感覚を二つ、連合させることができない。人間はそれができる。そしてそれが、ものに名前をつけ、より上位の抽象化のレベルを進んでいく能力の基盤となっているのだ。

【『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック(リチャード・E・サイトウィック):山下篤子訳(草思社、2002年)】

 名前を付け(名詞化)、カテゴライズ(類推→アナロジー〈『カミとヒトの解剖学』養老孟司〉)することができるのは実は凄い能力なのだ。結びつける認知能力といってもよいだろう。

 それにしては人間と人間を結ぶ能力が発達しないのはどういうわけか? 個人的には人間の知性よりもラットの本能の方が優れていると思う(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。