2017-05-14

新しい表現/『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ


『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ

 ・新しい表現

『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

悟りとは

 人間が様々な与えられた観念、断片によって支配され、条件付けられていることを知るためには、まず最初に、自我を支配し、まとわりついた様々な観念の断片に気づき、落とすことが必要になります。つまり、自分自身という存在が断片の集合体にすぎないという自覚――これが逆説的に、あなたを様々な断片の支配から解放する手段なのです。
「私」も含めた一切の事物は、独立した存在ではなく、世界の断片の一つにすぎない――この認識を仏教では、悟りと呼び、そのありようを諸法無我と名づけました。しかし、仏教の既成の言葉では、もはや私たちの混沌とした世界、私たちの入り組んだ精神を解きほぐし、新しい道筋を示すことは困難になりつつあります。真実は、常に時代に即した、新しい表現を求めているのです。

【『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ(ナチュラルスピリット、2014年)以下同】

 預流果(よるか)に至った那智タケシが徒然なるままに綴った短文を編んだもの。言わば箴言集(しんげんしゅう)の体裁だが書籍としての出来は悪い。悟りという強烈な体験に脳が激しく揺さぶられ、酔っ払っているような印象を受けた。ま、それも当然だろうと思う。新しい言葉を紡ぎ出そうとする試みから悟り体験の生々しさが伝わってくる。

 宗教者は古人の言葉をなぞるだけで新しい展開を欠く。時にテキストの奴隷と化して争い合う姿も珍しくない。法という真理は見失われ、律という自制心は形式化し、s時も素っ気もない「法律」という言葉だけが生き残っている。

 世界の中心に特別な「私」、特別な「神」という巨大な断片がある限り、断片はばらばらなままであり、新たな世界を生み出すことがない。

 先日、「真実の智慧とは『ありのままに見る』ことなのだ」(ブッダの遺言「自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ」~自灯明・法灯明は誤訳/『ブッダ入門』中村元)と書いた。我々は五官からの情報で世界を認識している。ところが五官には意識(≒自我)というフィルターが掛かっているのだ。そして初めて世界と接触した瞬間のことを完全に忘れ去っている。

視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン

「見る」ことにはこれほどの衝撃と感動がある。とすれば我々は見ているようで見ていないのだろう。

 あなたは、笑う。あなたは、泣く。あなたは、怒る。葛藤多き日常生活の中で、人間の内に、実に様々な感情が隆起する。しかし、その感情もまた、一つの断片である。ゆえにその断片にいつまでも拘泥することは、あなたという存在を卑小なものに貶める。

 分断された世界で人間がアトム化したことは多くの人々が指摘しているところであるが、量子力学によって存在の意味は一変した。マクロの世界を知れば存在という概念はあやふやになってくる。「原子の99.99パーセントが空間」(『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング)というのだから文字通り「空」の存在といえよう。そのスカスカ状態に電気信号が流れ、化学反応が起こり、自我が形成される。これに勝る不思議はない。

 諸法無我が真理であるならば、様々な事象に実体を見出す我々の思考や感情は妄想であるといってよい。つまり自我とは妄想装置なのだ。世界で繰り広げられているのは妄想の正しさを証明する闘争である。

 自らが世界のゆがみの一つであり、断片にすぎないと認識した時、自我の底蓋が開き、一切の葛藤が自身に根付くことなく滑り落ちる。これを身心脱落という。

 蝉の幼虫が脱皮するように自我をふるい落とすことが悟りか。

 真実は、何かを信じることによってではなく、一つ一つの虚偽を落としていくことによってのみ現れる。

 最後に立ちはだかるのは「自分」という虚偽だ。「我悟る、ゆえに我なし」。

 悟りもまた、あなたの人生においては一つの断片である。

 中々言える言葉ではない。

 身心脱落を脱落する――これを脱落身心という。

 捨てて捨てて、落として落として、超えて超え続けるところに人生の真実があるのだろう。

「1+1=2は正しい。絶対に正しい」という発想からは何も生まれない。むしろ1+1=2を疑うことが今必要なのだ。その1が0.6と0.7であれば1+1=1だし、1.3と1.4ならば1+1=3となる。また二進法であれば1+1=10だ。十進法という前提に束縛されているのが信仰者の姿だろう。

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仏教における「信」は共感すること/『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉


『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英
『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑

 ・仏教における「信」は共感すること

『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司
『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

(※上座部仏教に魅惑されながらも)では、なぜ、再出家を実行しなかったのか。
 道元禅師に帰依したが故、と言えば格好がつくのだろうが、実は最大の理由はそれではない。そうではなくて、私自身の仏教に対する身構えの問題である。
 この対談でもふれているが、私は仏教、釈尊や道元禅師の教えが「真理」だと思って出家したのではない。私は、自分自身に抜き差しならぬ問題を抱えていて、これにアプローチする方法を探し求めた果てに、仏教に出合ったのである。つまり、仏教は問題に対する「答え」としての「真理」ではなく、問題解決の「方法」なのだ。

【『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉〈みなみ・じきさい〉(サンガ選書、2011年)以下同】

 言葉に哲学的な明晰さがあるのは南が病弱で幼い頃から死を凝視してきたためだろう。自分がよく見えている文章だ。

 今回のスマナサーラ長老との対談で、話が噛み合わないところが見えるとしたら(見えるはずだが)、その理由は、我々の民族・文化・宗教の違いだけではない。多数派における、ほとんど完璧な論理と実践を体得した指導者と、足もと覚束ないままに開き直った少数派修行僧の間の、懸隔であろう。
 今、私は忍耐強く私との対談に付き合ってくださった長老に深く感謝申し上げたいと思う。
 私たちの間には、今述べたような身構えの違いが厳然とあった。それは、対談開始直前に、
「さあ、何でも質問してください。答えますから」
 と言われた瞬間にわかったことだった。長老は「真理」の教師であり、私は「問題」に迷う生徒だったのだ。

 私はたちどころに卑屈の匂いを嗅ぎ取った。しかも怜悧な卑屈である。だが注目すべきはそこではない。数十年の修行を経ても尚且つ保ち得た「率直さ」が侮れないのだ。南は自分に対して正直に生きてきたのだろう。ここには名の通った僧侶にありがちな見栄や傲岸さは微塵もない。スマナサーラの言葉に悪意はなかったことだろう。そして私は南の率直さを通してスマナサーラの傲慢が見えた。南のことを「先生」とは呼びながらも、養老孟司の対談とは全く違った態度を取っている。仏教に対するアプローチが異なる二人の対談が噛み合うわけもない。

スマナサーラ●「『信じる』とはどういうことですか?」と尋ねられたとき、「共感することです。それしかないのです」と答える。それが、仏教の言う「信」――「信仰」ではなくて「信」なのです。

ブッダは信仰を説かず/『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ

「信仰」とは一神教の神を仰ぐ姿勢である。日本の仏教だと「信心」だ。「信じる」とは何も考えないことである。疑えば信は生じない。鎌倉仏教で信心を説いたのは法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)と日蓮だ。いずれもマントラ仏教といってよい。信じる→呪文を唱える→悟る、との三段論法である。

 法華経に信解品第四があり、涅槃経には「信あって解(げ)なければ無明を増長し、解あって信なければ邪見を増長する。信解円通してまさに行の本(もと)と為る」とある。法華経の成立年代については諸説あるが西暦40~150年である。ブッダ滅後400~550年となる。三乗(声聞・縁覚・菩薩)を否定的に捉え一乗を説いたのは初期仏教(上座部)に対する後期仏教(大乗)の政治的な戦略であろう。そのためにわざわざ「信」を強調したとしか思えない。三乗を悟っていない存在に貶め、人智の及ばぬ高み(一仏乗)を設定した上で「信」を勧めるのである。日蓮は信解(しんげ)・理解(りげ)と分けたがそうではあるまい。信と理の対立よりも「解」に重みがあると私は考える。

 信が共感であれば、クリシュナムルティが説く「理解」と一致する。

南●人間が、何かを考えるときに、必ず言語を使うでしょう? 私が思ったのは、無明というのは、人間が言語を使うときに、必然的に引き起こすある作用だろう、と思ったのです。
スマナサーラ●ああ、なるほど、それもそれで正しいとは思います。しかし、私は認識のほうに行くのです。(中略)そこで、分析してみると、我々の認識全体に、欠陥があることが発見できるのです。
南●私もそう思います。
スマナサーラ●その欠陥が、無明なのです。
南●ああ、わかりました。

 南直哉は僧侶の格好をした哲学者である。彼が仏法に求めたのは『方法叙説』(デカルトの主著。刊行当時の正確なタイトルは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(方法序説)。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』1637年)の「方法」であろう。

 南は最も世間に広く届く言葉を持った宗教者であり、深き思考が世相の思わぬ姿を照射する。私は本書を読んで南を軽んじていたのだが、『プライムニュース』(BSフジ)を見て評価が一変した。

『プライムニュース』動画

 普段は軽薄なフジテレビの女子アナが思わず話に引き込まれ、素の表情をさらけ出している。

 南直哉と友岡雅弥の対談が実現すれば面白い。司会はもちろん宮崎哲弥だ。

2017-05-11

ブッダの遺言「自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ」~自灯明・法灯明は誤訳/『ブッダ入門』中村元


『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
自らを島とし、杭とせよ(自帰依・法帰依)

 ・ブッダの遺言「自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ」~自灯明・法灯明は誤訳
 ・村上専精と宇井伯寿

『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿
『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿

「〈私は修行僧の仲間を導くであろう〉とか、〈修行僧の仲間は私に頼っている〉とか、このように思う者こそ、修行者の集いに関して何ごとかを語るであろう。しかし、向上につとめた人は、〈私は修行僧の仲間を導くであろう〉とか、あるいは〈修行僧の仲間は私に頼っている〉とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧の集いに関して何を語るであろうか」
「向上」という言葉、これは禅の言葉にもなっています。修養、修行につとめるという意味です。釈尊には「おれがこの仲間を導くのだ」という意識はなかった。では何が導くのか。それはダルマ(法)である。人間の真実、それが人を導くのである。
「アーナンダよ。私はもう八十となった。たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、私の身体も革紐の助けによって長らえているのだ。……。
 この世で自らを島とし、自らをよりどころとし、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」
 自分に頼れ。他のものに頼るな。「自分に頼れ」というのはどういうことか。それは、自分を自分たらしめる理法、ダルマに頼るということである。
 この強い確信は、ダルマに基づいているという自覚から現われます。「百万人といえども、われ行かん」という言葉がありますね。百万の人がぜんぶ自分に反対しても、自分はこの道を行く。なぜ「この道を行く」とあえて言い切れるのか。自分の行こうとしているこの道が、人間のあるべき道、あるべきすがたにしたがっているからです。だから他の人がどんなに反対しても、自分はこの道を行くのだといえる。すると、「自分に頼る」ということと「法に頼る」ということは、実は同じことなのです。釈尊の説法に、この点が明快に示されています。
 そして「自らを島とせよ」と説かれました。「島」というよりは「洲(す)」といったほうがいいように思います。漢訳にも「洲」という字が出ています。原語はディーパです。
「自らを洲とする」というのはどうもわかりにくいかもしれません。これはインド人の生活環境を念頭において考えれば、理解しやすいと思います。
 インドの洪水は、日本とはずいぶん様子が違うのです。日本は山国で、川もだいたいが急流でしょう。だから洪水が起こると水がどっと流れてきて、何でもかんでも押し流してしまう。ところがインドの洪水は、押し流すというよりも、いたるところで水が氾濫するのです。だだっぴろいところに水がずうっと及んできて、一面が水浸しになる。ものが押し流されることもあるにはありますが、押し流されないでただ水浸しになってしまうという場合が、非常に多いのです。
 インドでは、土地が平らだから、地面に立って向こうを見渡しても、山なんか見えないところが多いのです。日本で山が見えないところというと、たとえば関東平野ですが、それでもお天気のいい日で空気が澄んでいると、秩父の山が見えますね。ところによっては富士山も見えますね。ところがインドだと、ウッタルプラデーシュ州、ビハール州、オリッサ州などでは、山が見えないのです。ただ一面にずうっと地面が広がっている。
 そういうところが水浸しになると、一面の海のようになる。その中で人間はどうするかというと、土地が平らとはいっても多少の高低はあるから、ちょっと高くなっていて水浸しにならない場所で難を避けるのです。それが「洲」です。
 日本で「洲」というと川中島みたいな場所を考えますが、そうではないのです。あたり一面が水浸しになって、ちょっと高いところだけが水につかっていない。そこへみんな逃げていくのです。だから「洲」というのは、頼りになるところという意味になるのです。
 ときにはそこに木がそびえていたりする。退屈すると彼らは木の上に上(ママ)ったり、親しい友だち同士でチェスなんかして遊んでいる。それがインド人にとっての洪水です。釈尊の言葉も、そういうところから来ているのです。
 ところがこれはやはりシナ人には理解しにくかったのでしょう。「ディーパ」には「洲」という意味の他に、もう一つ「灯明」という意味があります。語源は全然違います。同音異義語ですね。ところが、シナ人が漢訳するときには、「ディーパ」をこの意味に解釈して、「自己を灯明とせよ、法を灯明とせよ」とした。この方がシナ人、日本人にはわかりやすい。とくに日本人は圧倒的にわかりやすいですね。

【『ブッダ入門』中村元〈なかむら・はじめ〉(春秋社、1991年)/新装版、2011年】

 後期仏教(大乗)に法四依(ほうしえ)との教えがある。「法に依りて人に依らざれ。義に依りて語に依らざれ。智に依りて識に依らざれ。了義経に依りて不了義経に依らざれ」(『国訳一切経涅槃経部』)と。

 依法不依人(えほうふえにん):真理(法性)に依拠して、人間の見解に依拠しない
 依義不依語(えぎふえご):意味に依拠して、文辞に依拠しない
 依智不依識(えちふえしき):智慧に依拠して、知識に依拠しない
 依了義経不依不了義経(えりょうぎきょうふえふりょうぎきょう):仏の教えが完全に説かれた経典に依拠して、意味のはっきりしない教説に依拠しない

Wikipedia

「依て」は「よりて」とも「よって」とも読むようだ。問題はこれを思想的発展と受け止めるか、あるいは盛り過ぎた脚色と捉えるかである。ブッダの言葉として残っているのは「法に依りて」だけだ。

「依法不依人」は一般的には「経文によって人師(にんし)の解釈によるべきではない」との意である。にもかかわらず「義に依りて語に依らざれ」と続き見過ごせない矛盾をはらんでいる。了義経に至っては初期仏教軽視の言い掛かりとしか思えない。

 極めて巧妙に後期仏教(大乗)を持ち上げようとするプロパガンダであると私は考える。それが証拠に「智慧に依拠して、知識に依拠しない」と言いながら教義論争に明け暮れてきたのが仏教3000年の歴史ではなかったか。

 長い人生を歩む途上で津波に押し流されるような場面は誰にでもあることだろう。我々はある時は医学を頼み、またある時は軍事力をよりどころとし、更にある時はお金や他人を当てにする。人間最後は必ず死ぬ。この人生で確かなことは死ぬことだけである。その最重要の場面でよりどころとなるのは自分だけだ。残念ながら神はいない。

 悟りとは智慧の異名である。そして智慧は自らの内から湧き出るものだ。誰かから授かるものではない。極論すれば智慧とは「ありのままの現実を悟る」ことだろう。自分が当てにならないのは「自我」というフィルターが邪魔をしているためだ。

 ブッダは最初の説法で正見(しょうけん/八正道の一つ)を説いた。天台智ギは『摩訶止観』を講義し、日蓮は『観心本尊抄』(かんじんのほんぞんしょう)を著した。そしてクリシュナムルティは「虚偽を虚偽と見、虚偽の中に真実を見、そして真実を真実と見よ」と教えた。

 すなわち真実の智慧とは「ありのままに見る」ことなのだ。私が見ているのは「世界」ではない。たぶん鱗(うろこ)の裏側なのだろう(笑)。

ブッダ入門

新しい表現/『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ

2017-05-10

バドミントン~自宅で壁打ちをする方法(スマックボール)


 ・バドミントン~自宅で壁打ちをする方法(スマックボール)
 ・スマックボールの壁打ちに関する覚え書き

 15年振りにバドミントンを始めた。私は53歳だが生まれて初めて運動音痴の気持ちが理解できた。まだ15年前はジャンプスマッシュもフライングレシーブもできた。バドミントンは遊び程度の経験しかなかったが、高校時代はバレーボールをやっていたので勘が働いた。それがどうだ。幾分スマートになった体が全く思うように動かない。基礎打ちも満足にできないレベルなので壁打ちを行う必要性を感じた。

 で、近隣を探し回ったのだが中々いい壁がない。数日前にやっと橋脚を見つけたのだが1kmほどの距離があって少し遠い。そこで何とか自宅で壁打ちをする方法を考えた。持ち家であれば壁に穴が空いても問題ないが借家だとそうはいかない。

 やはり同じことを考える人がいるようで自宅壁打ち用の商品を二つ見つけた。一つは「かべ打ち君」(3万4128円)で、もう一つは「壁打ちマスター スーパーサイレント」(7344円)である。

 壁だけ作るのは簡単だ。





 ホームセンターで確認したところ、いずれも1000円ちょっとの値段である。サイズは3×6(さぶろく)で920×1830mmだ。配達の料金は普通500円程度だと思う。店によっては無料で軽トラックを貸してくれるところもある。問題は音である。ビニールシート、ゴム、あるいは布を貼りつければ何とかなりそうだ。

 だが、やはり音が心配だ。血眼になって探し回ったところ妙案が浮かんだ。網戸である。早速ベランダの網戸でやってみたのだが反発力に欠ける。ベニヤやコンパネをくり抜いて「壁打ちマスター スーパーサイレント」を自作することも考えたが、どうも乗り気になれない。再び検索の鬼と化して調べてみた。あったあった。素晴らしい商品があった。スポンジボールからスマックボールに辿り着くのにさほど時間は掛からなかった。



 何と壁打ち動画まであるではないか。


 迷わず注文し、昨日届いた。いやはやこれは凄い。殆ど音がしないのだ。アパートでも使用できるだろう。窓でもしっかり反発する。動画のやり方はあまり上手くない。もっと壁の近くに立ち、手首の力は使わないでフォア-バックと繰り返し、ラケットを横8の字に回す感覚で行うとよい。私の場合、壁との距離は120cmである。シャトルと比べればスピードは落ちるが微妙に変化するので動体視力も鍛えられる。

 初心者のレシーブはラケットの動かし方が早すぎるところに問題がある。


 スマックボールの壁打ちはシャトルを懐に呼び込む動作が身につく。一石二鳥だ。

 もちろん橋脚での壁打ちも行う予定である。傷んだシャトルも山ほどもらってきた。スマックボールで行う壁打ちの目的はラケットワークにある。8畳くらいの部屋であれば二人で打ち合うことも可能だろう。

 全く関係ないのだが類似商品に「ウィッフルボール」がある。野球用であればこちらもオススメである。



ウィッフルボール2個 セット WIFFLE ball 箱入 米国正規品ウィッフルボール専用バットとボール1個付き WIFFLE ball

2017-05-08

日本の仏教は祖師信仰/『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司


『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉

 ・日本の仏教は祖師信仰

『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

――日本の仏教とテーラワーダがもっとも違うのは、どこでしょうか。
スマナサーラ●違いはたくさんありますが、いちばんはやはり日本の仏教がいわゆる祖師信仰だという点でしょうね。祖師信仰では、その宗派を開いた祖師さんの言うことは何でも、自分ではちょっとどうかなと思っても、信仰しなさいと強要します。つまり、祖師の色に染まるんですね。

【『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司〈ようろう・たけし〉(宝島社、2004年/宝島SUGOI文庫、2014年)以下同】

 スマナサーラ本の書評はページ末尾のラベルをクリックのこと。養老孟司と編集者の鼎談(ていだん)である。誰に対しても媚びることがない養老に、スマナサーラが低姿勢に出ているのが面白かった(笑)。

 端的な日本仏教批判が本質を鋭く衝(つ)いている。「自らをたよりとして、法をよりどころにせよ」(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元訳)というのがブッダの遺言であった。後期仏教(大乗)の思想的な飛翔が無意味なものであるとは思わないが、ブッダの前に立ちはだかる夾雑物と化している側面が確かにある。

 日蓮宗日興門流の一部では日蓮本仏論を唱えており、ブッダよりも日蓮を上位としている。こうした思想の背景には日本特有の本地垂迹(ほんぢすいじゃく)論があり、神を仏の化身と捉えることで神仏習合を可能たらしめた。つまり日本仏教は父がブッダで母が神道という混血なのだ。

 鼎談の続きを紹介しよう。

――日本の仏教は祖師を信仰しますが、テーラワーダはお釈迦さまを信仰するんですね。
スマナサーラ●いえ、そうじゃないんです。むしろ「お釈迦さまの説かれた教えを信じて実践する」と言ったほうが正しいですね。
 それに、そもそもお釈迦さまは、信仰には断固として反対していたんですよ。私を拝んでどうなるのかと。
――どうして信仰に反対なのですか?
スマナサーラ●お釈迦さまが説いたのは、「真理」です。真理は、誰が語っても、いつの時代でも変わらないものです。お釈迦さまは真理を提示して、「自分で調べなさい、確かめなさい、研究しなさい」という態度で教えたんです。「私を信じなさい」とは、まったく言っていません。

ブッダは信仰を説かず/『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ

 西洋で宗教一般を批判する際、仏教を除外するのはこのためである。仏教は宗教というよりも哲学に近いとの見解からだ。その妥当性は不問に付しても仏教の際立った独創性を示す証左にはなるだろう。

 ブッダが悟ったのは「法」である。空海(774-835年)は宗教的天才であったが大日如来を本尊として立てた。やはり異流儀と言わざるを得ない。あれこれ考えると日本仏教で目ぼしいのは道元(1200-1253年)くらいではないだろうか。「ゼン」(禅)が西洋世界に広まったのも思想の普遍性を示しているように思われる。


序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集、『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵
「私」という幻想/『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ