2012-01-06
小田嶋隆の底の浅さとオウム真理教
小田嶋をこき下ろす前に一言申し上げておくが、私は熱烈な小田嶋ファンである。一般的にいわれる「頭のよさ」とはプレゼンテーション能力を意味する。要を得た説明、世相の本質に迫る解説、何にも増して絶妙な比喩の数々、そして駄洒落の急降下。さすが小石川高校出身だけのことはある(早稲田大学と書かないところがミソ)。
小田嶋のコラムには読み手の脳内をスッキリさせるほどの合理性が秘められている。なかんずく、街ネタを書かせれば彼の右側に出る者はあるまい。また昔は臆することなく大企業批判も書いていた。アウトローとまではいわないにせよ、小田嶋は確実にアウトサイドに立って冷ややかな視線で世間を眺めていた。
・私鉄不動産複合体財閥企業がつくった東京の山の手/『山手線膝栗毛』小田嶋隆
・カルロス・ゴーン
しかし、である。最新のコラムを読んで彼の底の浅さが見えた。
・ハルマゲドンと「グレートリセット」という願望
小田嶋は無神論者だ。多分。オウム真理教ネタの息の長さはサブカルチャーに支えられているように私は思う。というよりはむしろ、サブカルチャーとしてのオウム真理教といった方が適切かもしれない。当初はニューエイジ的存在として受け容れられたように記憶している。
私は長らく亀戸に住んでいたが、家から歩いて3~4分のところにオウムの道場ができた。元々は私の友人の家があった場所だ。時々若い信者と擦れ違うこともあったが、「ヘー」くらいしか思わなかった。オウムが経営する飲食店もでき、「おい、サットヴァレモンは飲んだか?」というのが我々仲間内の挨拶になっていた。
彼らが選挙に出た時も、みんなで「ショーコー、ショーコー、ショコ、ショコ、ショーコー、あーさーはーらー」と歌っていた。
一部のメンバーは高学歴だったが、若者が衝撃を受けたのは「自分たちと同じようなサブカル好きの普通の若者がテロ組織に取り込まれたこと」であった。
時を同じくしてオタクが胎動し始めた頃だ。彼らは一様に社会への違和感を抱いていた。それゆえ、ある者はアニメに没頭し、ある者は就職を拒絶し(パラサイト・シングル)、またある者は部屋に引きこもった。その背景には小中学校でのいじめ問題も濃い影を落としていたことだろう。
オウムを取り巻く情況は上九一色村の強制捜査前後から加熱し、メディアが煽るだけ煽り劇場化した。そこには松本サリン事件で河野義行さんをメディアリンチにした罪悪感を払拭しようとする力も作用したはずだ。
そして地下鉄サリン事件(1995年)に至る。2年前には亀戸異臭事件が起こっていた。
この事件のインパクトは、それまで左翼の専売特許であったテロを宗教団体が行ったということ(政治目的ではなかった)、そして生物化学兵器が使用されたこと、更にバブル景気が弾けてから経済的にも心理的にも空白状態が続いたことなどが挙げられよう。
国民全員がバブルを懐かしんでいた。つまり全国民が日本社会に違和感を抱いていたといってもよい。だから、「ひょっとすると誰がオウムに入信してもおかしくない」ような時代情況があったのだ。
小田嶋がオウム事件を引き摺っているのは、やはり彼の出自がオタクであるためだろう。小田嶋の違和感とオウム信者の違和感とが共鳴しているのだ。ゆえにどうせ書くのであれば、「内なるオウム」をテーマにすべきであった。
私はオウムについて何かを書くこと自体を否定しているわけではない。ただ、あのコラム程度の結論になってしまうと、「だったらパレスチナや法輪功はどうなるんだ?」と言いたくなってしまうのだ。しかもこれらは現在進行形だ。ルワンダ大虐殺にしても同様である。
無神論者は二つに分かれる。宗教性まで否定する者と宗教性を肯定する者とに。小田嶋の底が浅いのは前者のためだと推察する。
それでも私が小田嶋ファンをやめることはない。新刊ももちろん購入済みだ。
小田嶋は山下京子さんの著作を読んだのだろうか? 気になるところだ。
・絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇/『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
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