鎌倉は風がいい。少し歩いただけで潮の香りと山の匂いを味わえる。
颯々(さっさつ)という言葉がしっくりくる。
ふた月ほど前に再び寿福寺を訪ねた。3年振りのことだ。
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石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
亀ヶ谷坂切通しを歩きたかったので、わざわざ遠回りした。
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の左手を上り、
道元鎌倉御行化顕彰碑をやり過ごし、建長寺を越えた辺りからまざまざと記憶が蘇る。切通しの入り口に迷うことはなかった。
寿福寺に迫ると傍らの線路を電車が通過した。以前、「私は、〈走る留置所〉と呼ばれるストルイピンカを想った」と書いたが、その電車は何と総武線快速であった(※横須賀線も走っている)。私が長らく住んだ亀戸(かめいど)の隣町である錦糸町へ向かう電車だ。思わず「嗚呼(ああ)」という言葉を吐きそうになったが、ぐっと飲み込んだ。ひょっとしてこの線路が私と石原吉郎をつないでいたのかもしれぬ。
寿福寺は木漏れ日を用意して私を迎えてくれた。あちこちにある鎌倉石が色鮮やかな苔(こけ)をまとっていた。私は足早に歩き、北条政子と源実朝の墓を一瞥した。新しい発見は何もなかった。
階段を下りてゆくと私を呼ぶ声がした。振り向くと木漏れ日を揺らすように風が吹き渡った。
鎌倉駅へ向かうと観光客がごった返していた。雑踏を柔らかい夕日が包み始めた。
石原が何度も歩いた北鎌倉の道だったが私は一度で飽きた。それでも尚、いつの日か寿福寺を訪ねることになるだろう。なぜかそんな気がする。
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