試みはいいのだが、あまりいい本ではない。仏教知識が中途半端な上、巻末にクリシュナムルティの質疑応答を録するコンセプトに疑問が残る。「仏教+クリシュナムルティ」という販売戦略であろうか。
クリシュナムルティの応答を一つ紹介しよう。彼は常に聴衆から質問を募ったが、それは「何かを教えるため」ではなかった。その意味では決して解答ではなく、やはり応答とすべきだ。
クリシュナムルティ●あなたはこうたずねられるかも知れません。「あなたは輪廻転生を信じますか?」と。そういうことですね? 私は何も信じません。私が何も信じないというのは回避ではありません。そしてそれは私が無神論者であるとか、神を冒涜(ぼうとく)するとかいったことを意味するのではないのです。その中に入り込み、それが意味するものを見て下さい。それは精神が信念のあらゆるゴタゴタから自由になることを意味するのです。
【『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ:大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2008年)】
これはクリシュナムルティ流の無記といってよい。
・無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
クリシュナムルティは「輪廻転生がない」とは言っていない。ただ「信じない」と語っているだけだ。ブッダは沈黙をもって答えた。私なら「あると考えるべきではない」と応じる。
日本の仏教は大半が大乗仏教であり、輪廻転生(りんねてんしょう)を説いている。このため輪廻転生が仏教思想だと誤解している人々が多い。しかし元々はバラモン教(古代ヒンドゥー教)の教えである。また世界各地に見られるアニミズムと「生まれ変わり」思想は親和性が高いと思われる。
では一歩譲って「来世がある」と仮定してみよう。果たしてそれは「いつ」なのであろうか? 岡野潔によれば神々が回帰(輪廻)する時間は1劫(いっこう)=43億2000万年(ヒンドゥー教の計算法)となる。
とすると1劫ごとに輪廻が繰り返されたとしても、我々の認識では「繰り返し」と見なすことが不可能だ。
【岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その一】
さすがに輪廻転生を信じる諸君も気長に待つことはできないだろう。人間は一生という時間単位を前提にものを考える傾向が強いので、我々が思い浮かべる来世はせいぜい数十年後といったところだ。そうじゃないと自分の子や孫とも擦れ違ってしまう(笑)。
そもそも鎌倉仏教の開祖が一人も再誕していないのだから、ま、800年は無理ってな話になりますわな。ブッダもお出ましになっていない以上、2500年は生まれてこない計算となる。
鎌倉時代は天災と戦乱の時代であった。人々は飢饉に責められ、疫病(えきびょう)に苦しみ、高騰する物価に苛(さいな)まれた。浄土宗は「死んだら西方極楽浄土に往生できる」と教えた。生きる望みを失った人々が次々と首を括った。
来世は神と似ている。誰一人確認したことがないにも関わらず、誰もが信じている。
すべての人にそれぞれ現在があって、その現在においてのみ、その人の時があり、それが現在であるという。しかも、そこではいつでも現在が中心になっています。ですから、仏教では現在・過去と並称するときには決して「将来」ということばは使わない。「未来」ということばを使う。(三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉)
【仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀】
将来とは「将(まさ)に来る」で、未来とは「未だ来たらざる」である。希望の「望」には本来、野望の意味がある。中国では王や将が奪うべき敵地を視察する目的で高台に望台を築いた。
望む、とは、ただ見ることとはちがう。呪(のろ)いをこめて見ることを望むという。望みとは、それゆえ、攻め取りたい欲望をいう。
【『楽毅(一)』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)】
おわかりだろうか? 来世への「望み」が実は自我に基づく「渇愛」から発せられていることを。すなわち輪廻転生とは自我の延長戦であるといってよい。これ自体が死を忌避する思想であり、死という現実から逃避する行為ではあるまいか。我々は「自分が消失する事実」に耐えることができない。それゆえ多くの人々が認知症となることを恐れるのだろう。記憶の崩壊は自我の死を意味する。つまり自我の正体とは記憶なのだ。
「何かになろう」とする企て自体が現在を否定していることに気づくべきであろう。
・努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ
・理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一
結論――来世を信じる人は今世を軽んじる人である。
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