2009年公開。藤原美子〈ふじわら・よしこ〉著『夫の悪夢』(文藝春秋、2010年/文春文庫、2012年)で知った。義父の新田次郎原作なので、軽い調子で監督に「息子を出させてもらえませんか?」と言ったところ、「坊主頭にするならOK」との返事。何と藤原美子まで出演することとなった。尚、試写会には皇太子殿下が訪れ、藤原夫妻と懇談されている。藤原正彦は驚くべきことに皇太子の前でも平然と冗談を放つ。
ま、藤原美子のエッセイに惹かれて、その勢いで観てしまったのだが、やはり感情に任せたのが失敗であった。舞台となるのは北アルプスの
立山連峰である。見たこともないような景色が次から次へと出てくる。特徴を一言でいってしまえば風景映画である。
剱岳(つるぎだけ)の標高が2999メートルで三等三角点が2997メートルに位置する。暴風雨のシーンもあるがとにかく凄まじい。3000メートル級でこれほど苛酷な世界なのだから、エベレスト(8848メートル)を始めとする8000メートルともなれば異次元の世界と言ってよいのだろう。
藤原は役所広司の妻役でワンシーンだけ登場。科白(せりふ)が棒読みのところを見ると、嘘をつくのが下手なタイプのようだ。
山の映画であるにもかかわらずヤマ場がない。ストーリーの起伏を欠くこともさることながら、役所広司以外はミスキャストとしか思えない。仮に芸能プロダクションの意向を呑んだとしても酷すぎる。シナリオもおよそ明治時代に似つかわしくない言葉づかいが目立ち、惨憺たる結果となっている。
ポピュラー音楽とは音楽ではなく子供の口笛とそれに価値の相違を見つけることは出来ないし無意味だ。構造的に天才的なほど工夫、というより創造された音楽のほうがうつくしい。そこらへんの歴史上数え切れないほど作られてきたポピュラー音楽は美であり人を感傷的にする。しかしそれは友達とのお喋りと何も変わらないように自分自身の過去を美化しているだけであることはもはや明白であり、それを認めたときポピュラー音楽は音楽ではなくただの駄文と駄音に満ちたくだらないゴミであることが明白になる。そう考えるときポップディランなぞがノーベル文学賞に値しないことは明白である。(ミュージシャン)と呼ばれるやからたちは価値はあるかもしれないがそれは今日的社会における人間的価値に過ぎない。日本の俳句や短歌のように文化を衰退させる(音楽)。
返信削除ごめんまちがえた。けど映画という映像芸術を批判するな。よねづなんちゃらよりよっぽどいい作品だよ、あいつは整形してるからねたぶん。
まあこのストレスをいつも駅前のストリートミュージシャンにぶちまけてるからいいけど\(^o^)/