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2016-06-12

筏(いかだ)の喩え/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳
『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン

 ・ものごとが見えれば信仰はなくなる
 ・筏(いかだ)の喩え
 ・ドゥッカ(苦)とは

『無(最高の状態)』鈴木祐
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティ、瞑想を語る

ブッダの教えを学ぶ

 かつてブッダは弟子たちに因果の教えを説明し、弟子たちはそれをはっきりとわかり、理解したと答えた。そこでブッダが言った。
「弟子たちよ、この見解は純粋で明晰である。しかしあなたたちがそれに固執し、思い入れ、尊び、拘(こだわ)るならば、教えは流れを渡るために乗る筏(いかだ)に似たものであり、保有するものではない、ということを理解していない」
 教えは流れを渡るために必要な筏のようなものであり、保持して背中に負い運ぶものではない、というこの有名な譬えを、ブッダはいたるところで説明している。
「弟子たちよ、ある人が旅の途中で大きな川に出くわしたとしよう。こちらの岸は危険であり、対岸は安全で危険がない。安全で危険がない対岸に渡る舟もなく、橋もない。そこで彼はこう思った。「この流れは大きく、こちらの岸は危険だ。対岸は安全で危険がない。渡るのに舟はなく、橋も架かっていない。草、木、葉を集めて筏を作り、それに乗って手と足で漕ぎ、安全な対岸に渡ろう」と。
 弟子たちよ、こうして彼は、草、木、枝、葉を集めて筏を作り、それに乗って手と足を使って無事対岸に渡った。そして、こう思った。「この筏は大変役だった。そのおかげで、私は手と足を使って安全にこちらの岸に着いた。だから、これからは頭に載せるか、背負うかしてこの筏を持ち歩くことにしよう」
 弟子たちよ、彼の筏に対する思いは正しいかどうか」
 弟子たちは「正しくありません」と答えた。
「では弟子たちよ、どういう態度がふさわしいであろうか。もし彼が「この筏は大いに役立った。そのおかげで、私は手と足を使って安全にこちらの岸に辿り着けた。筏は浜に揚げるか、つなぎ止めて浮かしておき、私は先に進もう」と言ったらどうだろう。これこそが、正しい行ない、正しい態度である。
 弟子たちよ、私の教えは筏と同じである。それは、流れを渡るためのもので、持ち歩くためのものではない。あなたがたは、私の教えは筏に似たものであると理解したならば、よき教えすら棄てなければならない。ましてや悪しき教えを棄てるのは、言うまでもないことである」
 この譬えから明らかなように、ブッダの教えは人を安全、平安、幸せ、静逸、ニルヴァーナへと導くためのものである。ブッダが説いたすべての教えは、すべてこの目的のためである。

【『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(岩波文庫、2016年/原書1959年)】

筏の喩え
クリシュナムルティ流「筏の喩え」/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』、『クリシュナムルティ・開いた扉』

 有名な経典だが物語の背景をきちんと押さえておく必要がある。パーリ中部(マッジマ・ニカーヤ)では第22経『蛇喩経』(じゃゆきょう)、中阿含経では第200経『阿梨吒経』(ありたきょう)となっている(Wikipedia)。そして「筏の喩え」の部分だけを『筏喩経』(ばつゆきょう)と称する。

 元鷹匠のアリッタという修行僧がブッダの教えを誤解した。「欲は修行の障(さわ)りとならない」と。周囲の修行僧が注意をしてもアリッタは耳を貸さない。弟子たちから相談を受けたブッダは直ちにアリッタを呼び、戒める。

 始めにブッダは「蛇の喩え」を説く。蛇を捕える場合、腹や尻尾をつかめばたちまち噛まれてしまう。傷つき、毒が回り、命を失うこともある。そのように苦しむのは正しく蛇をつかまえなかったためである。人が蛇を捕えようとする時は鉄の杖で首を押さえ、次に手で頭を持つ。このようにすれば蛇に噛まれることはない。我が教えもまた同様である。意義を正しく理解しなければ、逆さまに考えて苦しむ者が出る。続いて「筏の喩え」が説かれる。詳細については以下のページを参照せよ。

筏の譬え
筏の如く
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その1.
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その2.
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その3.
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その4.
Kesamuttisutta (Kālāma sutta) ―カーラーマへの教え
筏喩経(阿梨咤経)

 尚、実際の経文を知りたい人は『パーリ仏典第一期1 中部(マッジマニカーヤ) 根本五十経篇I』片山一良〈かたやま・いちろう〉訳(大蔵出版、1997年)を参照せよ。

 文脈を考慮すれば「悪しき教え」とは誤解であり犯された誤謬(ごびゅう)である。だが元はといえばアリッタとの個人的なやり取りが「蛇の喩え」と「筏の喩え」を通して真理の高みに達する。その深さは居合わせた弟子たちはもとより、2500年後の私にまで響く。

 これがキリスト教であれば「神を捨てよ」と言ったも同然だ。世間では「嘘も方便」というが、ブッダは「真理も方便」「教えも方便」と言い切った。教えの目的は彼(か)の岸(涅槃)に渡ることである。であれば教えは「地図」と考えてよかろう。にもかかわらず仏教の歴史は「地図」の色彩や精密さを競い合う方向へ動いた。あるいは筏を豪華客船に造り変えたようなものだ。仏教は日本に至ると信仰のレベルに堕し、もはや目的地がどこなのかわからぬ地図となってしまった。仏塔信仰がストゥーパに始まり、法華経では宝塔と巨大化していったのも一種の虚仮威(こけおど)しであろう。

 ブッダは執着から離れる道を教えた。その究極として「正しい教えに執着してもならない」と説いた。ありとあらゆる宗教が神への、教義(ドグマ)への、グル(導師)への執着を説いている。ブッダこそは目覚めた人であった。他の宗教は信者の目を閉ざし、眠らせていることが理解できよう。

 ブッダの教えに従えば、我々は「筏の喩え」にも執着してはならないことになる。これぞ完全無執着の道だ。なぜなら教えもまた「空」(くう)であり、自我もまた「空」であるからだ。テキストではなく、ブッダその人でもなく、ただ真っ直ぐに涅槃(悟り)を求めるのが真の仏弟子だ。

ブッダは論争を禁じた/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

2016-05-27

競争と搾取/『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳

 ・競争と搾取
 ・洪水

『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

一 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
ニ ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。
三 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨(うら)みはついに息(や)むことがない。
四 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。
五 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
六 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。――このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

【『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1978年/ワイド版岩波文庫、1991年)以下同】

 心は世界を映す鏡である。汚れた心には汚れた世界が、清らかな心には清らかな世界が映る。つまり心が因で世界が果である。「ものごと」とは多分「諸法」だろう。そして「話したり行なったり」は「諸行」である。華厳経には「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如(ごと)く 種種の五蘊(ごうん)を画(えが)く 一切世間の中に法として造らざること無し」とある。

「私」とは何か? それは五蘊という要素の集合体である。西洋哲学は存在論を志向するが、仏教は感覚・認識・表象に着目する。私はこれを「情報の交換性」と見る。情報にプラスマイナスの価値を付加するところに「物語」が生まれる。つまり「私」とは「情報変換システム」なのだ。

 もう一度華厳経のテキストを見てみよう。我々が世界と認識するものは「心が描いた五蘊」であると説かれている。まず世界があって私の心がそれを認識していると考えがちだが華厳経は逆説的に捉える。「心によって描かれた五蘊が世界だ」というのだ。そうすると客観的な世界は存在しないと考えてよかろう。人の数だけ生物の数だけ「私の世界」があるのだ。

 法制度が保障するのは「心の自由」である。我々は自由にものを考え、行動することができる――と信じている。ハハハ、そんなものは西洋の欺瞞的な概念だよ。大体あいつらには「神を信じない自由」は存在しなかった。そもそも社会(親)から抑圧され、学校で成型された心が自由なはずがない。よく考えてみよう。想念をコントロールすることができるだろうか? 何を思うかは自由であるが、事あるごとに落ち込み、怒り、悲しみ、落胆するのが人の常であろう。心ほど不自由なものはない。餌をちらつかせたところで心はお手ひとつしない。

「かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した」――競争と搾取である。ヒトはコミュニティを形成しながら社会的動物として進化してきた。コミュニティ内部の序列で人生の色彩は変わる。小さなコミュニティで分担された役割は、より大きなコミュニティを形成する中で序列や位階となっていった。社会は国家へと至ったが、これを超えることはないだろう。国家を動かす政治・経済の本質は競争と搾取だ。競争に打ち勝った者が搾取をする。具体的な予算執行は大企業を通して行われる。富の再分配乗数効果という言葉は絵に描いた餅の類いである。

 酒井順子の『負け犬の遠吠え』(講談社、2003年)がベストセラーとなり、続いて格差社会を巡る書籍の出版が相次いだ。やがて「勝ち組・負け組」というキーワードが流布する。日本の格差を生んだのは総合規制改革会議による製造業における労働者派遣事業の解禁(2002年答申、2004年法改正)に始まる(派遣法の概要)。議長の宮内義彦(オリックス株式会社取締役兼代表執行役会長・グループCEO)を始めとする委員(総合規制改革会議委員名簿)については戦犯として長く記憶されるべきである。鈴木良男(株式会社旭リサーチセンター代表取締役社長 委員)、奥谷禮子(株式会社ザ・アール代表取締役社長)、神田秀樹(東京大学大学院法学政治学研究科教授)、河野栄子(株式会社リクルート代表取締役会長兼CEO)、佐々木かをり(株式会社イー・ウーマン代表取締役社長)、清家篤(慶應義塾大学商学部教授)、高原慶一朗(ユニ・チャーム株式会社代表取締役会長)、八田達夫(東京大学空間情報科学研究センター教授)、古河潤之助(古河電気工業株式会社代表取締役会長)、村山利栄(ゴールドマン・サックス証券会社マネージング・ディレクター、経営管理室長)、森稔(森ビル株式会社代表取締役社長)、八代尚宏(社団法人日本経済研究センター理事長)、安居祥策(帝人株式会社代表取締役会長)、米澤明憲(東京大学大学院情報理工学系研究科教授)。ザ・アールとリクルートは早い話が寄せ場手配師である。言ってみればヤクザの胴元にカジノ合法化を依頼するようなものだ。ウハウハ顔が目に浮かぶ。

 高度経済成長から続いていきた一億総中流社会は滅んだ。経営者といえば聞こえはいいが所詮商人である。国家の法を託す相手ではない。もっと高潔な人物を選ぶべきであった。

 資本主義は競争と搾取を正当化する。そして国家には戦争をする権利がある(交戦権)。世界が一つになることは決してないだろう。国家がある限りは。

 ブッダが説くのは「競争からの自由」であろう。平和とは「怨みのない状態」と言ってよい。競争から離脱するには「かれは、われにうち勝った」と思わなければよい。しかし先にも書いた通り「思う、思わない」という心の状態をコントロールするのは難しい。それでも「思い」を手放すことは可能だろう。修行とは「行を修める」との謂いであるが、その目的は「心を修める」ことにある。修めるとは整えることだ。

「比較があるところにはかならず恐怖がある」とクリシュナムルティは説いた(『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ)。競争からの自由は恐怖からの自由でもある。

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

岩波書店
売り上げランキング: 20,805

2016-05-21

怨みと怒り/『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳


『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール

 ・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 ブッダは、耳で聴いてわかる、平易な日常的な言葉で、あらゆる階層、境遇の民衆に親しく語りかけました。かれの言葉は、「目覚めた人」、「努める人」、「まことの人」、「心の汚(けが)れ」、「安らぎ」といった響きの、現代日本人にごく自然に受け止められる言葉であって、けっして「仏陀」(ぶっだ)、「沙門」(しゃもん)、「阿羅漢」(あらかん)、「煩悩」(ぼんのう)、「涅槃」(ねはん)といったとっつきにく難解な用語ではありませんでした。ブッダの言葉が、多くの民衆に広く受け入れられ、やがて仏教という偉大な宗教が誕生することになった要因の一つは、その平易さにあったと思われます。

【『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(トランスビュー、2013年)以下同】

 仏教呼称の問題については「テーラワーダ(長老派)を初期仏教、大衆部と上座部を中期仏教、自称大乗を後期仏教」(『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ)と書いた通りである。初期仏教を南伝仏教、後期仏教を北伝仏教ともいう。


 次に初期仏教の呼称も様々あるのだが私は「パーリ三蔵」と呼ぶ。

 パーリ三蔵は律蔵経蔵論蔵三蔵から成る。

 大蔵出版が刊行している『南伝大蔵経』(全65巻70冊)の構成は、『律蔵』(5巻5冊)、『経蔵』(39巻42冊)、『論蔵』(14巻15冊)、『蔵外』(7巻8冊)となっている。『蔵外』には『ミリンダ王の問い』などが含まれている(パーリ語経典入門)。因みに北伝の漢訳大蔵経は1076部5048巻となっている。

 律は戒律、経はブッダの教え、論は解説である。経蔵は長部(じょうぶ/長編経典集)、中部(ちゅうぶ/中編経典集)、相応部(そうおうぶ/テーマ別短編経典集)、増支部(ぞうしぶ/数字別短編経典集)、小部(しょうぶ/特異な経典)に分かれる。長部の読みが「ぢょうぶ」か「ちょうぶ」かは不明。

 ダンマパダやスッタニパータは小部経典である。

 今枝の指摘は正しいと思う。難解な言葉は思考に衝撃を与えることはあっても生き方を変えるまでに至らない。ブッダが説いたのは法であって論理ではなかった。法とは真理である。誰が聞いても心から「そうだ!」と感じるものが真理だ。西洋哲学は神を目指して形而上に向かい、人々の心から離れていった。そして仏教もまた各部派間の争いや、復興するヒンドゥー教に対抗して絢爛極まりない論理を構築していった。

 初期仏教が日本で本格的に研究されるようになったのはここ数十年のことである。それでも尚、多くの仏教学者は初期仏教のみを真実として後期仏教を排除するべきではないと考えている。こうなるとブッダの教えというよりは、仏教という思想史・文化史となってしまう。ただし初期仏教が「ブッダの言葉」そのものであるかどうかは誰にもわからない。ゆえに初期仏教からブッダの声を探るのが正しいあり方だと私は考える。

 ものごとは心に煽(あお)られ、心に左右され
 心によってつくり出される。
 もし人が、汚(けが)れた心で
 話し、行動するならば
 その人には、苦しみがつき従う。
 車輪が、荷車を牽(ひ)く牛の足跡につき従うように。

 ものごとは心に煽られ、心に左右され
 心によってつくり出される。
 もし人が、清らかな心で
 話し、行動するならば
 その人には、幸せがつき従う。
 影が、からだを離れることがないように。(一・ニ)

 冒頭の一偈である。我々は心に支配されている。心は決して自由になることがない。修行とは心を修めると書くがその目的は心を修めることにある。

 泥のような欲望がある限り幸福は訪れない。そして汚(けが)れた瞳を通せば世界は汚れたものにしか映らない。日常生活においては誰もが自制心を持ち合わせているが、ふとしたきっかけを通して劣情が吹き出す。感情に対して感情で応答するところに諍(いさか)いが生まれ、喧嘩に発展し、人を殺すことさえある。国家の戦争を支えているのはこうした我々の生き方なのだ。

 特に強い者が弱い者に対する暴力性はとどまることを知らない。いじめはもとより大人と子供、上司と部下、売り手と買い手、資本家と労働者に至るまで、ありとあらゆる無作法がまかり通る。暴力がハラスメント(嫌がらせ)という陰湿な形をとるようになったのはバブル景気の頃(1980年代後半)からである。抑圧は精神に長期的なダメージを与える。少子化によって家族が、リストラによって職場が、転勤によって地域がコミュニティの力を失いつつある。一度崩壊したモラルは元に戻れない。決壊したダムのようなものだ。

 果たして「悪人は必ず不幸になる」と言い切れるだろうか? ここが難しいところだ。インディアンを虐殺し、アフリカ人を奴隷にしたアメリカ人は不幸になっただろうか? パレスチナ人を殺戮し続けるイスラエル人、ツチ族を惨殺したフツ族が不幸になっただろうか? 広島と長崎に原爆を落としたルーズヴェルトやトルーマンが不幸になっただろうか? それはわからない。わかるわけがない。なぜなら人生とは「私の人生」しか存在しないのだから。ブッダの言葉を自分の外に置いて読むのは誤りだ。

「あの人はわたしを罵(ののし)った。あの人はわたしを傷つけた。
 あの人はわたしを負かした。あの人はわたしから奪(うば)った」
 そういう思いを抱(いだ)く人には
 怨(うら)みはついに消えることがない。

「あの人はわたしを罵った。あの人はわたしを傷つけた。
 あの人はわたしを負かした。あの人はわたしから奪った」
 そういう思いを抱かない人には
 怨みは完全に消える。(三・四)

 じつにこの世においては
 怨みが、怨みによって消えることは、ついにない。
 怨みは、怨みを捨てることによってこそ消える。
 これは普遍的真理である。(五)

 わたしたちは、死すべきものである。
 人々はこのことを理解していない。
 しかし、人がこのことを意識すれば
 争いはしずまる。(六)

 スッタニパータにおいてブッダは怒りを「蛇の毒」に譬(たと)える(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳)。またスマナサーラによれば怒りを示すパーリ語「ドーサ」には「穢れる」「濁る」「暗い」という意味があるという(『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ)。「怨み」とは「持続した怒り」であろう。

 宗教の歴史は分断の歴史である。仏教も例外ではない。何をどう言い繕おうとも「争い」の事実を隠すことはできない。宗教は民族をも規定した。そして宗教が戦争の原因となった。

 怨みはどこからでも生じる。「私を誤解した」「私を馬鹿にした」「私を傷つけた」「私を殴った」……。更に最悪の場合を考えれば「私の家族を殺した」まで行き着く。チェチェン人は先祖が殺されれば、相手の7代までに渡って必ず復讐する(『国家の崩壊』佐藤優、宮崎学)。やられたらやり返せというのが人類の歴史であった。そしてより戦闘的な民族が栄えた。今、世界を支配するのはアングロ・サクソン人である。

 ブッダは「許せ」とは言っていない。ただ「怨みを捨てよ」と教える。許すことは難しいが捨てることなら何となくできそうな気がする。怨みは自我に基き自我を強化する。「私を――」との思考メカニズムを解体しない限り、怨みを捨てることはできない。怨みや怒りを固く握っている自分自身を理解すれば、手の力は弱まる。あとは放すだけだ。

 怒りや怨みが蛇の毒のように自分を冒す。「自分が正しい」と思い込んでいるうちは怒りを正当化するのが我々の常だ。そこに落とし穴がある。正しい怒りなど存在しない。仏教では最低の境涯を地獄界と名づける。その要因は瞋恚(しんに)すなわち瞋(いか)りである。怒りは地獄の因と心得よ。サッと怒りの感情が湧いたなら、まずは言葉を飲み込み、鼻から大きく息を吸う。そしてゆっくりと口から吐く。これを三度繰り返すとよい。

日常語訳ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉

2020-01-20

一切皆苦/『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ


『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・一切皆苦

『無(最高の状態)』鈴木祐

 では、仏教が生きることを研究して出た答えはなんでしょうか?
 それが「苦」という答えなのです。「生きることはとても苦しい」ということです。
 ヨーロッパ人は、形而上学的な立場で生きることについて、命について、いろいろ考えています。一方、仏教はとても具体的に合理的にこの問題を考えます。どちらかというと、経験論に基づいて生きるとは何かと発見するのです。それで「生きるとは感じることである」と語っています。それは感覚のことです。感覚があることが生きることです。物事を感じたり考えたりすることは生きることです。人は「感じては動く、感じては動く」ということです。
 ではなぜ動くのでしょうか? それは、感じることが苦しいからです。
 ずっと立っていると苦しくなるから歩く。ずっと歩いていると苦しくなるから座る。ずっと座っていると苦しくなるから寝る。ずっと寝ていたら苦しくなるからまた起きる。お腹が空くと苦しくなるから食べる。食べると苦しくなるから止める……。これが生きることなのです。息を吸うだけだと苦しいのです。だから吐くのです。吐いたら苦しいから吸うのです。
 このように感覚はいつでも「苦」なのです。
 だから必死に動いています。生きることは「動き(モーション)」でもあります。こう考えると、我々が思っている「生きる」という単語は曖昧で正しくありませんね。

【『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2007年)】

 スマサーラを初めて読んだのは2012年のこと。私が受けた衝撃は大きい。日本仏教の欺瞞が暴かれたような心地がしたものだ。クリシュナムルティを知ったのが2009年で仏教に対する熱はかなり冷めていた。しかしながら仏教とブッダの教えは違った。南伝仏教(上座部、テーラワーダ)は生き生きとしたブッダの言葉を伝える。

 日本の仏教界が私ほどの衝撃を受けたかどうかは知らぬが、今や仏教系信徒でスマナサーラを読まぬ者は田舎者(←差別用語)と蔑まれても致し方ない。仮にもブッダを師と思うのであれば胸襟を開いて傾聴すべきだ。

 スマナサーラ本を読んで私は初めて四法印の「一切皆苦」(いっさいかいく)がわかった。しかもパーリ語のドゥッカに「不完全」というニュアンスがあるとすれば、それこそ「満たされない」状態を示しているのであろう。苦と苦の合間を我々は快楽と錯覚するのだ。夢や希望が苦からの逃避であるケースがあまりにも多い。

 生の実相が苦であることは病院や老人ホームに行けば誰もが理解できよう。誰の役にも立てなくなった時、人は絶望を生きるしかない。

 現実の苦に対する無自覚こそが現代人の不幸なのだろう。だからこそ病んで死を宣告された時に命の尊さを知り、残された時間を嘆くのだ。我々は漫然と「永久に生きられるかのように生きている」(セネカ)。

 苦は欲望という油を注がれて深刻の度合いを増す。日蓮は「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」(「八風抄」真蹟は断簡のみ)と書いているがそれは自受法楽ではない。わかりやすい教えには落とし穴がある。

 苦しみをなくすためには欲望の火を消す他ない。これを涅槃(ねはん)とは申すなり。(amazonの価格が1880円になっているのはどうしたことか?)

2014-02-23

怒りの終焉/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・怒りの起源
 ・感覚は「苦」
 ・怒りの終焉

『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

「幸福」「幸せ」「楽しみ」というのは妄想観念です。なぜかというと、「生きることは苦」ですから、「幸福」「楽しみ」は、本当は経験したことがないのです。
 われわれはお腹が空くと苦しいから「嫌だ」と思います。そのとき、おいしいものを食べることが幸福だと思って、食べ物に飛びつきます。あるいは、子どもたちは好きなマンガやゲームを買ったりできれば幸せだと思ったりします。大人になっても同じです。お金に幸せあり。名誉に幸せあり。なにかの記録をつくることに幸せあり。人気があること、有名になることに幸せあり。権力に幸せあり。からだを美しく見せることに幸せあり……限りなく挙げることができます。
 このような生き方を、ブッダは、「それは智慧のない世間が探し求める道である」と説きます。「これがあれば幸せ」というのは、ぜんぶ「嫌だ」という気持ちから出発しているのです。

【『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年/だいわ文庫、2021年)以下同】

 さ、書けるうちにどんどん書いてしまおう。ツイッターにうつつを抜かしている場合ではないぞ(笑)。

 現代人は幸福病に冒されている。我々は不幸を実感しやすい環境にあるのだろう。そもそも幸福という言葉は明治期の翻訳語であると思われる。元々「幸せ」は「仕合わせ」と書き「巡り合わせ」を意味した。すると生命の次元においては苦楽が本質なのだろう。たぶん幸福を産んだのは大量生産だ。

「これがあれば幸せ」というのが前々回に書いた「気分が良くなる条件」である。人は特定の条件下で幸福感を覚える。つまり無条件に怒りを抱えているのだ。「幸せになりたい」との願望が現在の不幸を雄弁に語る。幸せを誓った男女が幸せになることも少ない。限りなく少ないな(笑)。ま、幸せをチラつかせるような相手は最初っから信用しないに限る。

「生きることは苦」であり、人は苦から別の苦へ乗り換えているだけ。一度も幸福になったことはありません。経験していない「幸福」をイメージすることはできません。ですから、勘違いの幸福を求めているのです。
「嫌だ」という怒りから、勝手に自分が「幸福」だと思っているものを求めます。その結果どうなるかというと、幸せになるどころか、逆に苦しみ増えるのです。
 本当なら、求めるものを獲得すれば幸せになるはずですが、世間の幸福を求め続けるなら、どんどん苦しみが増えてしまいます。

「苦から別の苦へ乗り換えているだけ」との指摘が鋭い。チビがノッポになり、ハゲ頭がフサフサになり、出っ歯が矯正され、ブスが美女(あるいはブ男がハンサム)になり、病気が治り、老婆(あるいはジジイ)が若返ることが我々の幸福だ(女性差別とならぬよう配慮をした)。だったら後者は元々幸福なはずだろう。しかしそうは問屋が卸さない。皆が皆、それぞれの幸福を追い求めながら不幸をひしひしと感じているのだ。

 苦しみが増えるとは幸福の条件が増えることだ。幼い頃はキャラメル一粒でも幸せになれた。大人の場合そうはいかない。自動車の運転免許が欲しい、自動車が欲しい、もっと大きな自動車が欲しいと際限なく欲望は肥大する。で、ベンツを買った翌日に誰かをひき殺してしまえば、もう何のための人生かわからない。

「このシステムはなんなのだ?」と、とことん現象のあり方を観察してみると、瞬間、瞬間、ものごとが消えていることに気づくのです。滝のように、泡のようにはじけてはじけて、次々に新しい現象が生まれている。「なんだ、そんなものか」とわかるのです。「それならしがみついたって価値がないだろう」と諦めて、無執着の心が生まれるのです。それを仏教は「覚(さと)り」と呼びます。「覚り」にいたる道こそが、聖なる道なのです。「覚り」に至ることで、一切の苦しみがなくなるのです。それが運命的な怒りの終焉でもあります。

 これが諸行無常であり、である。そして諸法無我と悟れば涅槃寂静となる。怒りから希望へ向かう時、欲望が生じる。三悪趣(地獄、餓鬼、畜生)に三毒を対応すれば、瞋(いか)り→地獄、貪り→餓鬼、癡(おろ)か→畜生である。不幸の構図としてこれにまさる生命の実相はあるまい。

 日蓮は「当(まさ)に知るべし、瞋恚(しんに)は善悪に通ずる者也」(『諌暁八幡抄』)と説いた。日本の中世における個人意識の芽生えと受け止めることも可能だが、私はここに日蓮の限界があったと思う。似たようなことは三木清も言っている(『人生論ノート』)。日蓮が比叡山(延暦寺)で学んだのは天台ルールであった。折伏(しゃくぶく)という言論活動はディベートの様相を呈しており、日蓮は火を吐くように言葉を放った。彼は怒れる人であった。そこに弟子たちが分断・分裂を繰り返す要因があったのだろう。日蓮系教団がいつの時代も混乱に陥るのは日蓮の怒りに由来していると思われる。

 怒りは暴力への扉でもある。大虐殺も小さな怒りから始まる。怒りを正当化する思想を恐れ、忌避せよ。正義の名の下で人類が残虐の限りを尽くしてきた歴史を忘れてはなるまい。

2016-06-07

「スッタ」とは「式」(フォーミュラ)/『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳

 ・「スッタ」とは「式」(フォーミュラ)

『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

『スッタ・ニパータ』は、初期経典が結集(けつじゅう)される前、サーリプッタ尊者など偉大なる阿羅漢(あらかん)たちが活躍されていたときから知られていた経典です。もちろん、きちんと編集されたのはブッダが般涅槃(はつねはん)に入られてからですが、ブッダが直々に説法をなさっていた頃から伝えられている詩集なのです。そのゆえに、古い経典として大変重んじられています。
 スッタ(sutta)は「糸」という意味ですが、それよりも英語のフォーミュラ(formula)という言葉の意味のほうがふさわしいかもしれません。フォーミュラは数学でいえば「式」という意味です。哲学や文法を語る場合も、まず「式」を作ってから語ることは、インドではよくあるやり方なのです。

【『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2009年)以下同】

 小部の『スッタ・ニパータ』は最古層の経典として知られる。中でも第4章が最古と目され、ブッダの直説(じきせつ)と見なされている(PDF「最古層の経典の変遷 スッタニパータからサムユッタニカーヤへ」石手寺 加藤俊生)。

 サーリプッタ(舎利弗)は十大弟子の筆頭で智慧第一と称された人物でブッダよりも年上だった。二大弟子の一人モッガラーナ(目連)と共にブッダよりも先に逝去した。小部にはサーリプッタの註釈とされる『義釈』が収められている。

「縦糸」の義から「スッタ」を「経」と訳す。


「式」との表現が絶妙だ。「スッタ」の一語が仏教の公式を宣言しているのだ。小部十八経の中で他に「スッタ」は見当たらない。

 体に入った蛇の毒をすぐに薬で消すように、
 生まれた怒りを速やかに制する修行者は、
 蛇が脱皮するように、
 この世とかの世をともに捨て去る。

 この「蛇」の経典では、ずっと蛇の脱皮を譬(たと)えに使っています。蛇という単語には、「毒」という意味も入ってきますが、蛇の特色といえば「脱皮」という生態です。蛇はデパートに行って服など買わなくとも、古くなったら捨てればいいのです。だから他の動物と比べると、蛇はいつでも体がきれいです。あれほど体がきれいな動物は他にいないと思います。他の動物は臭くて、体が汚くて、ノミやらいっぱいいて大変でしょう。蛇の皮膚はビニール製のようなものですから、体には虫も何も付いていません。蛇の皮が古くなると色が変わってきます。すると、蛇は皮ごと全部捨ててしまう。細い枝の間などに体を入れて進むと、古い皮だけが引っかかり、脱皮してきれいになった蛇だけが出て行ってしまうのです。

 革命というよりは変容が相応(ふさわ)しい。「この世とかの世をともに捨て去る」とは、此岸(しがん)にも彼岸(ひがん)にも執着しない中道の姿勢である。ただし「この世もあの世も捨てろ」とは言っていない。生きることは死ぬことである。我々は死ぬために生きている。生命とは死ぬ存在だ。そう達観できれば、この世とあの世の虚妄(きょもう)が見抜ける。脱皮とは虚妄の皮を捨てることだ。欲望の充足こそ幸福だと錯覚する感覚から抜け出ることだ。諸行無常である。不幸も幸福も長く続かない。不幸な時に幸福を願い、幸福な時に不幸を恐れるのが人の常であろう。人生は瞬間の連続であるが、こうした生き方は瞬間が疎(おろそ)かとなってゆく。

 今さえよければ後はどうなっても構わない(この世)という生き方も、将来のために現在を犠牲にする生き方(あの世)も誤っている。

努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

 怒りは「我」(が)から生まれる。「よくも俺を馬鹿にしたな!」というのが怒りの正体だ。「自分は凄い」と思っているから頭に来るのだ。「私は愚かだ、馬鹿だ」と自覚すれば怒ることもない。我々は自分が平均以上であると思い込むからダメなのだ。思い切って今後はブッダやアインシュタインと比較しようではないか。確かに馬鹿です。100%馬鹿(笑)。

 人間が一般的に、自分には色々なトラブルがある、問題がある、と思ったら、それは99%が怒りによるものなのです。金銭トラブル、社会関係のトラブル、精神的なトラブル、そういったトラブルは、ほとんど「怒り」が原因になっています。

 何ということか。怒(おこ)らなければ幸せになれる――ただそれだけのことだったとは。まずは怒らないこと。次に怒りっぽい人から遠ざかること。そして怒りを喚起する映画や小説に触れないことである。最後のやつはスマナサーラからの受け売りだ。

 ルワンダ、パレスチナ、インディアンといった歴史の悲劇を思うと私の五体は怒りに打ち震える。全神経を殺意が駆け巡り、血が逆流する。私の願いは虐(しいた)げた側の連中を皆殺しにすることだ。それが実現すれば平和になるだろうか? 悲劇を防ぐための殺人は正当化し得るだろうか? どんな理由をつけようとも「殺した」という事実は残る。暴力の結果は次の暴力の原因となり連鎖は果てしなく繰り返されることだろう。

 諸法無我が真理であれば「私」はない。ただ現象だけがある。「私」という中心から感情が生まれ、物語が形成される。「この世」「あの世」という物語が。

原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章

2014-05-30

何も残らない/『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ



『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・何も残らない
 ・生きるとは単純なこと

『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也

1月22日 何も残らない

 人類の文明そのものが、「私は死なない」というウソを前提にしてできています。
「死なない」という思いから、名誉や財産を自分のものにしようとします。他国を征服した指導者は、自分の銅像を建てたりして、永遠に自分が存在し続ける気持ちになるのです。しかし、栄華を極めたローマ帝国と同じで、何ひとつ残りません。
 名誉や財産をたくさんもっていても、みじめに死んでしまう。最期は墓場です。
 事実を認めて、「みんな死ぬ」という前提で生きれば、日々美しく平和に暮らそうということになります。

【『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ(PHPハンドブック、2008年/PHP文庫、2017年)】

 仏教には南伝と北伝がある。日本に伝わったのは北伝ルートで大乗を標榜する(大衆部〈だいしゅぶ〉)。これに対して南伝ルートでスリランカ・タイ・ミャンマーなどの出家教団に受け継がれたパーリ語経典の教えをテーラワーダ仏教(上座部〈じょうざぶ〉)と呼ぶ。

 日本などいわゆる大乗仏教の諸国では、お釈迦様の初期経典に説かれたヴィパッサナーなどの実践方法が伝わってきませんでした。そのために思弁哲学の学問仏教、あるいは現世利益信仰や儀式儀礼の呪術的宗教になってしまった面もあります。テーラワーダ仏教はいわゆる「小乗」とも「大乗」とも無縁です。ただお釈迦様の説かれた教えとその実践方法の一つ一つを、当時のまま、今日まで伝えてきた純粋な体系なのです。

テーラワーダ仏教とは?:日本テーラワーダ仏教協会

 スマナサーラ長老の言葉は平易である。理屈をこね回すような姿勢がどこにもない。大衆部の教義が絢爛(けんらん)を目指して複雑化したのに対して、上座部は初期経典に忠実であることに努め、極めてシンプルな教えだ。日本の仏教界に必要なのは初期経典に照らして大衆部の政治的欺瞞を取り除くことであろう。

 キリスト教には永遠という概念がある。スケールは異なるが日本では「名を残す」という考え方が根強い。「最期は墓場です」とあるが、墓そのものが死後にも名を残そうと企てる人間の哀しい所業だ。我々は誰かに思い出される存在であることを望み、より多くの人々に死を悲しんでもらいたがる。自分はいないのに。

 文明の発達は個々人の欲望を掻き立て、人間の細断化を促した。そして私は死んでも私の所有物は残る。文字の発明によって生前の経験や思考をも記録として残せるようになった。今では音声や映像まで残せる。アメリカの非営利団体アルコー延命財団では遺体の冷凍保存を行っている。子孫を残すのも自分の分身と考えればわかりやすい。文明は不老不死を目指す。死んだ人々を置き去りにしながら。

 多くの人々が望む地位・名誉・財産も一緒であろう。極めるとピラミッドや古墳に落ち着きそうだ。

 スマナサーラは我が身を飾る一切のものを「かぶり物」だと本書で指摘している。何ということか。我々の人生そのものがコスプレと化していたのだ。大事なのは何をやったかよりも、勲章であり賞状でありメダルなのだ。功成り名を遂げて周囲の連中を睥睨(へいげい)しながら黒い満足感に浸っている中で死を見失ってゆく。彼の幸福とおもちゃやお菓子を与えられた子供の幸福に違いはあるだろうか?

 100年後を思え。今生きている人の99%は死んでいることだろう。そう考えると道で擦れ違う見知らぬ人にも親切な気持ちが湧いてくる。争っている時間などないはずだ。

2016-05-22

ただ独り歩め/『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳


『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール
『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・ただ独り歩め

『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿

ブッダの教えを学ぶ

 蛇(へび)の毒が(身体のすみずみに)広がるのを薬で抑えるように
 怒りが起こるのを制する出家修行者(しゅっけしゅぎょうしゃ)は
 迷いの世界を捨て去る。
 蛇が脱皮(だっぴ)して古い皮を捨て去るように。(一)

 池に生(は)える蓮(はす)の花を折り採(と)るように
 貪(むさぼ)りをすっかり摘(つ)み取った出家修行者は
 迷いの世界を捨て去る。
 蛇が脱皮して古い皮を捨て去るように。(ニ)

【『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(トランスビュー、2014年)以下同】

 実はワールポラ・ラーフラ著『ブッダが説いたこと』を紹介しようと思ったのだが、今枝本をまだ書いていないことに気づいた。それどころではない。東亜百年戦争から三島由紀夫につながる一連の流れも中途半端なままで、東京裁判史観と憲法に関する書物もまだ紹介していない。その前には情報とアルゴリズムに着手する予定であった。何ということか。人生は恐ろしいスピードで進み、自分に出来ることは限られている。人は何かを成し遂げる前に死ぬ可能性が高い。

 私にとって本を読むことは人と出会うことである。五十を過ぎてから一気に読書量は加速したが、それは面白い人を見つけるのが巧みになったからだ。やや遅すぎた感はある。だが何も知らないよりはましだ。

 今枝訳は読みやすい。あっさりしている分だけ香りが失われているような気もするが、ブッダの教えを学ぶには格好のテキストといってよいだろう。特に他訳と厳密な比較をすることはしていない。意味のつかみにくい箇所だけ参照する程度だ。言葉や表現の違いを調べるよりも、そのまま読んで何を感じるかの方が大切だろう。

 貪(とん/むさぼり)・瞋(じん/いかり)・癡(ち/おろか)を三毒という。これらが餓鬼・地獄・畜生の三悪趣に対応する。

 世界の混乱と悲劇の原因は三毒にある。つまり「私の中」にある。これがブッダの指摘だ。別の角度から見れば、三毒こそ自我の本質であるといえよう。欲望の焔(ほのお)が燃え盛る生命状態である。我々はともすると時間が経てば薄らぐように考えがちだが実はそうではない。怒りは毒となって生命を冒し、貪りの根はしっかりと心の底に張り巡らされる。

 我々の社会では怒りも貪りも肯定されている。怒りは正義と結びつけられ、貪りは資本主義の原動力となっている。「夢を持て」とは貪りに生きることを意味する。欲望の充足を幸福と錯覚しながら競争に明け暮れるのが我々の人生である。隣人よりも高価な家に住み、高級なクルマに乗るのが我々の幸福だ。綺麗事を言っても無駄だ。アンタもオレもそう思っている。これが事実だ。

 怒りも貪りも関係性の中から生じる。一切は「縁(よ)りて起こる」。瞑想とは怒りを怒りと、貪りを貪りと自覚することだ。怒りを怒りと見、貪りを貪りと見る時、焔は静まる。怒りという感情を観察する時、私は怒りと距離を保つ。なぜなら離れなければ見ることはできないからだ。つまり見ることが離れることなのである。

 交わりから愛着が生じ
 愛着から苦しみが生じる。
 愛着には、この危険があることを知り
 犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩(あゆ)め。(ニ八)

 朋友(ほうゆう)や仲間に憐(あわ)れみをかけると
 心がほだされ、自分の目的を見失う。
 親しみには、この恐れがあることを知り
 犀の角のようにただ独り歩め。(ニ九)

 賢明(けんめい)な同伴者、あるいは
 明敏(めいびん)な仲間が得られなければ
 王が、征服(せいふく)した国を捨てて立ち去るように
 犀の角のようにただ独り歩め。(三〇)

 じつに朋友(ほうゆう)を得るのはよいことである。
 自分よりすぐれ、あるいは自分と同等な朋友に親しむべきである。
 こうした朋友が得られなければ、罪や過(あやま)ちのない生活を楽しみとし
 犀の角のようにただ独り歩め。(三一)

 それほど新味のある訳ではない。荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳はこの箇所を「一角の犀となって」としている。多分どちらも誤訳である。なぜならサイには角が2本あるからだ(笑)。スマナサーラによれば「犀の如く独りで歩め」とのことである(2010/12/28 No.375 ブッダは「単独行動」に自信あり 5)。

 ただし「犀の角」であろうと「一角の犀」であろうとブッダの本意が損なわれることはないだろう。「独り歩め」の意味が変わるわけでもない。

 友情の深さや愛情の細やかさを幸福の源泉と考えがちだが実は違う。四苦八苦の中に愛別離苦がある。人生には必ず愛する人との離別がつきまとう。ストレスの最たるものは家族の死といわれるが、情の深さは幸福にも通じるが不幸にも通じている。

 何にも増して修行の過程であることを思えば、朋友の存在は依存にもつながりかねない。

 アーナンダが尋ねた。「私どもが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、 既にこの聖なる道のなかばを成就したに等しいと思われますが、いかがでしょうか?」と。ブッダは答えた。「アーナンダよ、我らが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、それはこの聖なる道のなかばにあたるのではなく、そのすべてなのである」(サンユッタ・ニカーヤ)。

 有名なエピソードである。だが善き友を得たことは一つの結果であって、修行の目的ではあるまい。悟りは自分自身だけが開く世界である。その意味から申せば、仏道のあり方はやはり「ただ独り歩む」ことが正しい。善友が5人いようと、10人いようとただ独り歩むのである。友がいればそれに越したことはない、という程度のことだ。

 サンガという共同体はブッダのもとで「ただ独り歩む」者の集団であったが、その戒律の多さを思うと、やはり運営には一方ならぬ苦労があったのだろう。印刷や通信のない時代背景も考慮する必要がある。ブッダが現代に生まれれば、クリシュナムルティのように教団を否定した可能性もある。

日常語訳 新編スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉

2014-02-22

感覚は「苦」/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・怒りの起源
 ・感覚は「苦」
 ・怒りの終焉

『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 立っていても苦痛です。座っていても苦痛です。ちょっと走るのも、走り続ければ苦痛になります。「今日は疲れたから」といって寝たとしても、寝過ぎればやはり苦痛です。
 食事も同じです。ちょっとお腹が空いたら、「空腹」という苦痛を感じます。だからといってごはんを食べ過ぎるとこれまたお腹がいっぱいで苦痛です。
 ですからはっきりしています。感覚は「苦」なのです。

 生きることは「感覚があること」、そしてその感覚は「苦」なのです。そして、この「苦」が消える瞬間はありません。ただ変化するだけです。
 たとえば、1時間ぐらい座っていると腰が痛くなってしまいます。そこで立ったら、立った瞬間は「ああ、楽になった」と思うかもしれませんが、実際に起こっていることというのは「座っている苦」から「立っている苦」への変化です。一瞬、それまでの「座っている苦」が消えますから、幸福に感じるかもしれませんが、それは勘違いです。ただ、新しい「苦」に乗り換えただけのことです。
 私達は瞬間、瞬間に、「苦」という感覚を味わっているのです。

 私たちは、いつも「苦」のなかにいます。しかし、ふだんは「苦」を感じていることに気づいていません。「とても苦しい」という感覚が起こって、はじめて苦痛を感じるのです。たとえば、お腹が空いても、ほんのちょっとの空腹だったら気にしないでしょう? ずっと放っておいて今にも倒れそうだったり、飢え死にするかもしれない状態になったりすれば、かなりの苦痛を感じます。
 それは、私たちに訪れる絶え間ない「苦」は、ある程度、大きくならないと気にならないというだけのはなしです。「苦」のレベルを表示するメーターがあって、そこに苦を認識する赤い水準線が付いているようなものです。絶え間ない「苦」がある程度大きくなって、赤いラインより上に振れたときにはじめて気にする、それまでは気にしないというはなしなのです。実際は「苦」のメーターがゼロになることはありません。

【『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年/だいわ文庫、2021年)以下同】

 多少を問わず仏教の知識がある人ならスマナサーラの卓越した説明能力がわかることだろう。しかも一読すればその説明能力が才覚ではなく、初期仏教(=上座部)の教えから導かれたものであることが理解できる。テーラワーダ仏教シャム派)は和製仏教(平安仏教および鎌倉仏教でありその実体は密教)を揺るがす破壊力を秘めている。


 八正道(はっしょうどう)よりも四諦(したい)の重要性を示したのは馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』春秋社、2008年)だ。

・苦諦(くたい):この世界は苦しみに満ちていると明らかにする
・集諦(じったい):苦の原因がなんであるかを明らかにする
・滅諦(めったい):苦の原因を滅すれば苦も滅することを明らかにする
・道諦(どうたい):苦の滅を実現する道を明らかにする

Wikipedia

 三車火宅の譬えで知られる法華七譬(ほっけしちひ)も元来は苦諦を示すものであったと推察される。だが大衆部(だいしゅぶ)は自らを「大きな乗り物」(=大乗)と位置づけるために「希望」を語って(=騙〈かた〉って)しまった。希望というプロパガンダは悟り(=自由)から離れて幸福を目指す。仏道修行は幸福実現のための手段と化した。これが和製仏教の実態であろう。

 仏法は個人(自分)の苦と向き合うところに基本がある。にもかかわらず大衆部は菩薩道などと称して布教を励行した。悟りから離れた人物の騙る希望が誤ったコースに導くことは避けようがない。

 生の本質は「苦に対する反動」である。何と重い指摘か。我々は「生きたい」から生きているのではなくして、「苦しみたくない」から生きているだけなのだ。何だか急に人生がつまらないものに思えてきた(笑)。

 生きるという仕事は、あらゆることすべてが「苦」と「苦は嫌」という働きで成り立っているのです。
 つねに無常で変化し続ける「苦」という感覚があり、その「苦」の感覚が嫌で、「変えなくちゃいけない」という希望があります。その二つの働きが「生きること」になるのです。
 もし、「苦は楽しい」と思ったら、死んでしまいます。ですから、「苦は嫌だ」と思わないと生きていられません。この「嫌だ」という反応が「怒り」です。これがいちばん基本的な怒りのポイントです。
 つまり、「怒りをもたずに生きることはできない」のです。人は、生命は、本来的にずーっと「怒り」をもち続けているのです。生きるとは、そのように基本的に怒ってしまう構造にはめられていることなのです。

「生きることは反応すること」というのが私の持論ではあるが、それが「怒り」に基いている事実にまでは思い至らなかった。生きとし生けるものは皆苦痛を回避する。釣り針を呑み込んだ魚みたいなものだ。そして溺れる者は藁をも掴み、財布の紐を緩め、高価な壷を買ってしまう。他人の苦に付け込むのがあいつらの手口だ。

 人生は思い通りには運ばない。肚(はら)の底に諸行無常を叩き込む。そうすれば上手くゆかなかったとしても「当然のこと」として受容できる。願ったりかなったりとなっても「単なる偶然に過ぎない」と達観することだろう。

 西洋では仏法が人生に消極的な態度を勧めるニヒリズムの教えと長らく誤解されてきた。最大の犯人はショウペンハウアー(1788-1860年)だ。

神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール

 キリスト教を始めとするアブラハムの宗教が天にまします神が軽やかに劇的に言葉を操るのに対し、仏法は生の水底(みなぞこ)に沈潜する。その積極性を見よ。深海のごとき生命の深層にブッダは座る。怒りの波に翻弄される人生を拒むのであれば、我々も海に潜らなければならない。

2014-11-30

欲望と破壊の衝動/『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ


『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・欲望と破壊の衝動

『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 ある人に「この世の中を支配している主人は誰ですか?」と聞かれたとき、お釈迦さまは「神様です」とは言わず、いとも簡単にこう答えました。

(※以下原文略)チッテーナ・ニーヤティ・ローコー

 チッテーナとは「心に」「心によって」という意味です。「心が行っているのだ」ということです。
 ニーヤティとは「導かれる」という意味です。
 ローコーというのは「衆生」、つまり「世界や世の中」「生けるもの」ということで、人々や生命を意味します。
 全体では「心が衆生を導く」「衆生は心に導かれる」という意味になります。
 つまりお釈迦さまは、「生命は心に導かれ、心に管理されている。心に言われるままに生命は生きていて、心という唯一のものに、すべてを握られている」と答えたのです。
 私たちは結局、「心の奴隷」なのです。私にはなんの独立性もないし、自由に生きてもいません。
 ですから、「仏教の神はなんですか?」と聞かれたら、私なら「心です」と答えます。「逆らえない」という点では、心は一神教的な神と同じだからです。

【『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)以下同】

 世の中とは人々の心の反応がうねる大河のようなものなのだろう。心は鏡であり、鏡に映ったものが世界であると考えてよい。各人の鏡は曇り、汚れ、ひん曲がっている。一人ひとりの価値観・執着・個性によって。世界とは目の前に存在するものではなくして世界観なのだ。それゆえ我々には見えていないものがたくさんある。優れた教えに触れると、曇りが除かれ心に光が射(さ)し込む。

 心の特徴を、もうひとつ紹介しましょう。
 心は、思い通りにならないと、反対の行動をします。好きなもの、欲しいものに向かって走ることを邪魔されたら、ものすごく破壊的になって、恐ろしいことをするのです。
 人間はいつも何かしら希望や目的があって、それを目指して生きています。
 でも、突然その目的が達成できなくなることもよくありますね。そうすると心はものすごいショックを受けて、破壊の道に走ってしまうのです。「得られないんだったら、いっそぜんぶ壊してやろう」という気持ちです。

 片思いがストーカー行為に変貌する。紙一重のところで愛憎が入れ替わる。陳列棚の前で駄々をこねる子供だって、欲しい物を買ってもらった途端、親に愛情を示す。人間の心は欲望と破壊の衝動に支配されている。ここをよく考える必要がある。考えるというよりも見つめることが相応(ふさわ)しい。瞑想だ。

 自分の希望や願望をひたと見つめる。なぜそれが必要なのか。それが無理だとわかったら自分はどう変わるのか。我々が求めてやまないのは結局のところ「成功」である。「他人からの評価」と言い換えることも可能だ。

「人間が生きる」ということは、「好きなものを得るために行動する」「得られないものや邪魔するものはぜんぶ壊す」のいずれかです。我々の日常生活は、この二つのエネルギーに支配されているのです。

 ああ、これが欲望の正体なのだな。犯人は「自我」である。グラデーションの濃淡はあれども我々の行動はここに収まる。そして人間の生き方を集約する国家もまた同様のエネルギーに支配されている。戦争こそは欲望の最たるものだろう。

 世にある犯罪のほとんどは、希望がかなわないときに起こる破壊的なエネルギーが原因です。

 絶妙な指摘だ。高齢者の万引きも破壊的な衝動と考えれば腑に落ちる。

 心理学の世界では、破壊的なエネルギーで動くことを「病気」とはいいません。「あの人はいろいろなところで負けたけれど、よく闘って頑張っている。行動的で偉い」と、むしろほめるのです。
 ですが仏教的に見れば、それも結局は危ない病気です。「闘う心」は、「ある意味では勝利への希望に満ちた状態」ともいえるのですが、もし闘えないときはどうなるでしょうか?
 他人を害する破壊的な行為には、力が必要です。力が足りない場合は、力が内向きになって、ひきこもりになったり、自殺願望を引き起こしたりすることになります。「嫌な状況をぶち壊したい。他人を破壊したい。でも、できない」というとき、人間は自分自身を破壊してしまうのです。手榴弾を相手に投げようと安全ピンを外したものの、そのまま持っているようなものです。10秒後くらいには自分が死んでしまいます。
 うつ病とか統合失調症とか、いろいろな言葉で表される精神的な病気も、もとをたどればぜんぶ「怒りのエネルギー」です。自分の心でつくった毒で、自分を殺しているのです。

 資本主義は自由競争を旨(むね)とする。競争とは戦いであり他人を蹴落とすことでもある。この社会では「より多くの他人を蹴落とした人物」が勝利者と見なされる。文武の二道は競争ではない。力や技の優劣よりも心の姿勢が問われる(『一人ならじ』山本周五郎)。これに対してスポーツは完全な競争である。

 会社も学校も人々を競争に駆り立ててやまない。なぜなら、競争すればするほどあいつらは儲かるからだ。今時は文化や宗教だって競争だよ。売れてなんぼの世界だ。

 スマナサーラの言葉は深遠な仏教哲理に貫かれているがこの部分は危うい。特に統合失調症については鵜呑みにしてはならない。かような「軽さ」を見極めた上でスマナサーラ本を読むべきだ。ま、精神科医が信用できるかといえば、決してそうではないわけで、どっちもどっちというレベルと考えればよい。完璧な人間はいない。大目に見てやれ。


統合失調症への思想的アプローチ/『異常の構造』木村敏

2015-01-20

生きるとは単純なこと/『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ


『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・何も残らない
 ・生きるとは単純なこと

『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也

1月1日 生きるとは単純なこと

 生きるとは、複雑なようであって、じつはとても単純です。
 歩いたり座ったり喋(しゃべ)ったり、寝たり起きたり。それ以外、特別なことは何もありません。
 この単純さを認めないことが、苦しみの原因のもとなのです。
 この単純さ以外に、何か人間を背後から支配している「宇宙の神秘」のようなものがあると思うのは、妄想です。
 人生とはいともかんたんに、自分で管理できるものなのです。

【『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ(PHP研究所、2008年/PHP文庫、2017年)】

 本年より書写行を開始。セネカ著『人生の短さについて 他二篇』を終えて、本書と取り組む。新書サイズで上下二段。1ページに2日分の内容となっている。何の解説もないのだが、たぶんスマナサーラ本からの抄録であろう。このエッセンスを理解するには、ある程度スマナサーラ本を読む必要あり。手軽に読んでしまえばかえって理解から遠ざかることだろう。

 業(ごう)とは行為を意味する。日本だと悪業の意味で使われることが多いが善業も含む。その基本は歩く・座る・寝るの三つである。言われてみると確かにそうだ。健康の最低限の定義は「歩ける」ことだろう。身体障害の厳しさは歩くことを阻まれている事実にある。

 悩みがあろうとなかろうと、幸福であろうと不幸であろうと、人間の行為がこの三つに収まることは変わりがない。

 一方には豪華なソファに座る人がいて、他方には擦り切れた畳の上で胡座(あぐら)をかく人がいる。資本主義というマネー教に毒された我々は所有でもって人を測る。だが「座る」ことに変わりはない。つまり「座る」という姿こそが真理なのだろう。

 後期仏教(いわゆる大乗)は絢爛(けんらん)たる理論を張り巡らせ、「宇宙の神秘」を説くことでヒンドゥー教再興に抵抗したというのが私の見立てである。結果的にブラフマンアートマンを採用した(梵我一如)ことからも明らかだろう。

 この神秘主義はなかなか厄介なもので、スピリチュアリズムと言い換えてもよいだろう。後期仏教を密教化と捉えれば神秘主義が浮かび上がってくる。そこには必ずエソテリズム(秘伝・秘儀)の要素が生まれる。

 人間の脳は論理で満足することがない。どこかで不思議を求めている。ミステリーがマジックと結びつくと人は容易に騙される。宗教・占い・通販の仕組みは一緒だ。「物語の書き換え」によって人間を操作する。大衆消費社会を維持するのは広告なのだ。

 歩く、座るといった振る舞いに何かが表れる。颯爽と歩く人には風を感じるし、猫背でとぼとぼと歩く人には暗い影が見える。小学生の歩く姿をよく見てみるといい。悩みがある子は直ぐにわかるものだ。

 これに対して幼児はほぼ全員が歩くこと自体を喜びと感じている節(ふし)がある。だから見ているだけでこちらまで楽しくなってくる。きっと立った瞬間に、また歩いた瞬間に脳は激変している。そりゃそうだ。「見える世界」が変わったのだから。二足歩行を始めた人類の歴史が窺える。

「人生とは単純なものだ」と決めてしまえば、心の複雑性から解き放たれる。怒り、嫉妬、憎悪を生むのは心である。そこに宗教や思想が火をつけ、油を注ぐことも珍しくはない。

 我々は「自分の人生」を失ってしまった。他人に操作された人生を送るがゆえに争いの人生を強いられている。決して心が安らぐことがない。絶えず不安の波が押し寄せる。

 今、大事だと思っていることが、年を重ねるに連れてそうでもないことに気づく。手放せるものはどんどん捨ててしまえ。不要な物を捨て、不要な欲望を捨て、最後は自我まで捨ててしまえというのがブッダの教えである。

【追記】竹内敏晴は「人間が生きている、ということは、基本的には『立って』動いていることである」と指摘している(『ことばが劈(ひら)かれるとき』)。とすれば、人の行為は大別すれば、寝るか・起きるかに分けることができそうだ。

2014-07-19

水野和夫、中原圭介、マックス・ゲルソン、アルボムッレ・スマナサーラ、他


 17冊挫折、2冊読了。

般若心経は間違い?』アルボムッレ・スマナサーラ(宝島社新書、2007年/宝島SUGOI文庫、2009年)/「我こそ正義」という思いがチラチラ透けて見える。著作の多さも仏教者らしくない。解説者としては尊敬できるがつかみどころのない人物でもある。

小さな「悟り」を積み重ねる』アルボムッレ・スマナサーラ(集英社新書、2011年)/これも期待外れ。

老いと死について』アルボムッレ・スマナサーラ(大和書房、2012年)/食傷気味。

生きる勉強 軽くして生きるため上座仏教長老と精神科医が語り合う』アルボムッレ・スマナサーラ、香山リカ(サンガ新書、2010年)/スマナサーラの最大の欠点は声の悪さにある。しかも意図的に飄々と語ることでふざけた印象を与える。これほど多くの著作がありながらも、誰から何を教わったか、修行にまつわる苦労、テーラワーダ仏教の内情については何も書いていない。

イエス復活と東方への旅 誕生から老齢期までのキリストの全生涯』ホルガー・ケルステン:佐藤充良訳(たま出版、2012年)/これは表紙がダメだろうよ(笑)。タイミングが合わなくて中止。世界で400万部のベストセラーらしい。

カリスマ受験講師細野真宏の経済のニュースがよくわかる本 世界経済編』細野真宏(小学館、2003年)/タイトルが醜悪。無駄な改行が多いのも解せない。初心者向けの経済解説で基本的な経済の用語や仕組みについて書かれている。横書き。

円高の正体』安達誠司(光文社新書、2012年)/トンデモ本といってよいと思う。

誰も言わない政党助成金の闇 「政治とカネ」の本質に迫る』上脇博之(日本機関紙出版センター、2014年)/著者は共産党シンパと思われる。文章の独善的なところが赤旗そっくりだ。出版社もサイトを見る限りではそれっぽい。

どっこい大田の工匠たち 町工場の最前線』小関智浩〈こせき・ともひろ〉(現代書館、2013年)/文章を飾りすぎて時々行方がわからなくなる。

鉄を削る 町工場の技術』小関智弘〈こせき・ともひろ〉(太郎次郎社、1985年/ちくま文庫、2000年)/エッセイ風の文章が肌に合わず。

3日食べなきゃ、7割治る!』船瀬俊介(三五館、2013年)/トンデモ本でした。

漢字の字源』阿辻哲次〈あつじ・てつじ〉(講談社現代新書、1994年)/構成にもう一工夫欲しいところ。後半は飛ばし読み。

国家破産 これから世界で起きること、ただちに日本がすべきこと』吉田繁治(PHP研究所、2011年)/ロジックに傾きすぎていて読みにくい。

大恐慌情報の虚(ウソ)と実(マコト)』三橋貴明、渡邉哲也(ビジネス社、2011年)/渡邉哲也の著作を全部読もうと思っていたのだが、これ軽すぎて駄目。砕けた調子が雑談に見えてしまう。編集者に芸が無さすぎる。

ドル・円・ユーロの正体 市場心理と通貨の興亡』坂田豊光(NHKブックス、2012年)/文章が論文のように固くて読めず。

代替医療解剖』サイモン・シン、エツァート・エルンスト:青木薫訳(新潮文庫、2013年/新潮社、2010年『代替医療のトリック』改題)/代替医療を批判することで結果的に西洋医学を礼賛している。発想が逆だ。土俗宗教を嘲笑うことでキリスト教を持ち上げる手法と似ている。西洋医学が効果を発揮しているのは感染症くらいだろう。平均寿命が延びているのは医学の力ではなく衛生によるところが大きい。順序からいえば製薬会社を批判するのが先だ。

ガン食事療法全書』マックス・ゲルソン:今村光一訳(徳間書店、1989年)/残念ながら1/3も読めなかった。関連作品を読む予定だ。マックス・ゲルソンは本書を著した後に不審な死を遂げた。暗殺説が根強い。

 44冊目『インフレどころか世界はこれからデフレで蘇る』中原圭介(PHP新書、2014年)/面白かった。シェール革命によってエネルギー価格が押し下げられ、世界がデフレに向かうという推測。中原によれば、よいインフレ、悪いインフレ、よいデフレ、悪いデフレの4種類があるという。長期的なファンダメンタルズに興味のある人は必読。

 45冊目『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫(集英社新書、2014年)/刮目の一書。資本主義を通した近現代史が俯瞰できる。キリスト教に関する記述もしっかりしていて目配りが行き届いている。やや重複した記述が目立つが、この手の本の中では頭ひとつ抜きん出た傑作だ。必読書入り。

2012-12-31

2012年に読んだ本ランキング


2011年に読んだ本ランキング

『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(下) 1901-2006年』と小室直樹著『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』を書いていなかったので、今年読了した本は72冊である。挫折本が異様に多いのは、いよいよ余生が残り少なくなっており取捨選択を厳しくしているためだ。なお昨年同様クリシュナムルティは入れていない。また小説も除いた。

奇貨居くべし』宮城谷昌光
楽毅』宮城谷昌光

黄金旅風』飯嶋和一
神無き月十番目の夜』飯嶋和一

とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ

 次に小室直樹と苫米地英人も除いた。

悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹
数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹

現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
利権の亡者を黙らせろ 日本連邦誕生論 ポスト3.11世代の新指針』苫米地英人

 更に今年最も大きな収穫ともいえるアルボムッレ・スマナサーラ長老も除いた。

怒らないこと 役立つ初期仏教法話 1』アルボムッレ・スマナサーラ
怒らないこと 2 役立つ初期仏教法話 11』アルボムッレ・スマナサーラ
心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ
苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話 3』アルボムッレ・スマナサーラ

 石原吉郎関連も除いた。

シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代

 ではまず番外から紹介しよう。

拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』関岡英之
地下足袋の詩(うた) 歩く生活相談室18年』入佐明美
ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
ブッダの人と思想』中村元
学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(上) 1492-1901年』ハワード ジン、レベッカ・ステフォフ編
学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(下) 1901-2006年』ハワード ジン、レベッカ・ステフォフ編
魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー
完全なる証明 100万ドルを拒否した天才数学者』マーシャ・ガッセン
複雑で単純な世界 不確実なできごとを複雑系で予測する』ニール・ジョンソン

 次にベスト10。判断が難しいため同立順位が複数あることをご了承願おう。

 10位 『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』安冨歩
 9位 『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ
 8位 『カウンセリングの技法』國分康孝
 7位 『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』デイヴィッド・イーグルマン
 6位 『通貨戦争 影の支配者たちは世界統一通貨をめざす』宋鴻兵〈ソン・ホンビン〉
 6位 『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 影の支配者たちがアジアを狙う』宋鴻兵〈ソン・ホンビン〉
 5位 『放浪の天才数学者エルデシュ』ポール・ホフマン
 5位 『My Brain is Open 20世紀数学界の異才ポール・エルデシュ放浪記』ブルース・シェクター
 4位 『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
 3位 『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
 3位 『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
 2位 『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
 1位 『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー

2013年に読んだ本ランキング

2016-06-08

たとえノコギリで手足を切断されようとも怒ってはならない/『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・たとえノコギリで手足を切断されようとも怒ってはならない

『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 本書で取り上げる『ノコギリのたとえ』というお経は『鋸喩経』とも訳される中部経典のお経ですが、読んでみるとその豊かな物語性とともに、私たちの心に直接訴えかけてくる迫力に驚かされます。

【『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ、日本テーラワーダ仏教協会出版広報部編(日本テーラワーダ仏教協会、2004年)以下同】

 で、長部と中部の違いについては以下の通り。

 長部経典は、哲学的なものもありますが、ほとんどは仏教の一般的な教えです。それに対して中部経典は、哲学的なところを、きめ細かく、項目を厳密に、論理的に話しているお経が集めてあります。

 最初に巻末の経典テキストを読むのがいいだろう。

「比丘たちよ、また、もし、凶悪な盗賊たちが、両側に柄のあるノコギリで手足を切断しようとします。その時でさえも、心を汚す者であるならば、彼は、私の教えの実践者ではありません。
 比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、――私たちの心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私たちは発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私たちは生きるのだ――と。また、その人とその対象に対しても、すべての生命に対しても、増大した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。
 比丘たちよ、そして、あなたたちは、この、ノコギリのたとえの教戒を、つねに思い出すのであれば、比丘たちよ、あなたたちは、耐え忍ぶことのできない、微細もしくは粗大な、言葉を見出だせますか」
「尊師、見出せません」
「比丘たちよ、それ故に、この、ノコギリのたとえの教戒を、つねに思い出しなさい。それは、長きにわたり、あなたたちの利益のため、安楽のためになるでしょう」と。

 ノコギリの歴史は古く紀元前1500年前からあった(エジプト)という。ブッダが喩(たと)えたのは暴力的な極限状況だ。どのような目に遭っても慈しみを持ち、怒りを捨て、恨みから離れなければならない。

「怒りの毒」はかくも恐ろしいのだ。「たとえノコギリで手足を切断されようとも怒ってはならない」との一言は単なる教訓ではない。「絶対に怒らない」という覚悟が問われるのだ。

 弟子の中には私のようにブッダの言葉を軽く考える者もいたに違いない。「なるべく怒らないようにしよう」「少しずつ怒りを克服しよう」などと。だがこの経典を読むと意識が一変する。一瞬でも怒りに汚染されてしまえば自らが不幸になるのだ。

 感情は関係性から生まれる。「私を怒らせたあんたが悪い」というのが我々の言い分だ。つまり「私は悪くない」。私は正しい。だから私は恨みを抱いて仕返しをする。私は罵る。私は殴る。そして私はノコギリであんたの手足を切断する。

 生きることは苦である(四諦苦諦四法印一切皆苦)。苦の原語(パーリ語)「dukkha」(ドゥッカ)には空しいという意味もある。脳は意味(≒物語)を求める。所詮、何をどうしたところで無意味であることを思えば、人生はやはり苦であろう。苦と苦との束(つか)の間に楽を求めてさまよう人生に過ぎない。

 輪廻(りんね)の本質も苦である。ブッダは菩提樹の下で悟った後にそれを十二支縁起(十二因縁)として確認した。要するに輪廻して苦しみ続ける主体(自我)のメカニズムが解き明かされたのだ。

 ま、あまり勉強していないのでここからは適当に書いておく。まず「無明(むみょう)に縁りて行(ぎょう)が起こる」。行の原語はサンカーラ(パーリ語)・サンスカーラ(サンスクリット語)である。行は行為・業(ごう)のこと。無明は「迷い」とされるが、私はむしろ「錯誤」と考える。すなわち我々は世界をありのままに正しく認識することができない。これが無明である。十二支縁起は苦という反応を瞬間に即して解いたものだろう。行は志向性や潜在的形成力などという小難しい言葉で説明されるが、「反応の発動・起動」である。無明を無意識、行を意識としてもいいように思う。意識した瞬間にカルマ(業)が定まるのだ。

 簡単に述べよう。無明によって怒り(感情)が湧く。無明を滅すれば怒りは湧かない。無明を滅し涅槃に達した人はノコギリで手足を切られても怒らない。だからノコギリで手足を切られても怒らないほどの自分自身を築け。きっとそういことなのだろう。怒りという猛毒の恐ろしさが伝わってくるではないか。

 日蓮の遺文(いぶん)に似た文章がある。

 縦(たと)ひ頚(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切りどうをばひしほこを以てつつき足にはほだしを打ってきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死(しぬ)るならば釈迦多宝十方の諸仏霊山会上にして御契約なれば須臾(しゅゆ)の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へはしり給はば二聖二天十羅刹女は受持の者を擁護し諸天善神は天蓋を指し旛(はた)を上げて我等を守護して慥(たし)かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり、あらうれしやあらうれしや。(日蓮『如説修行抄』:真蹟はないが日尊による写本がある)

 手紙の末尾には「此の書御身を離さず常に御覧有る可く候」と添えてある。より一層の残虐性が加えられ、しかも南無妙法蓮華経という題目を唱えよという信仰の次元に内容が変質している。換骨奪胎というよりは改竄というべきか。日蓮は「当(まさ)に知るべし瞋恚(しんに)は善悪に通ずる者なり」(「諌暁八幡抄」真蹟曽存)と怒りを容認していた。政治にコミットしたのも日蓮の怒りの為せる業(わざ)であった。日蓮系教団が分裂に分裂を繰り返してきたのも頷ける話である。

 ノコギリの喩えを思えば、それ以外のことはいくらでも我慢のしようがある。小さないざこざから小さな怒りが生まれ、社会の中で怒りは支流となり、やがて大きな流れを形成する。原発反対デモもナショナリズムも同じ顔をしているのは怒りが原動力となっているためだ。私は生来、物凄く短気なのだが、今日からは頭に来ることがあったら「ノコギリ! ノコギリ! ノコギリ!」と心の中で三度唱えようと思う。

怒りの無条件降伏―中部教典『ノコギリのたとえ』を読む (「パーリ仏典を読む」シリーズ)
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鋸の復原を通して古代人と対話/『森浩一対談集 古代技術の復権 技術から見た古代人の生活と知恵』森浩一

2016-06-13

ブッダは論争を禁じた/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳

 ・犀の角のようにただ独り歩め
 ・蛇の毒
 ・所有と自我
 ・ブッダは論争を禁じた

『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

七八〇 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)以下同】

「筏(いかだ)の喩え」(『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ)でブッダは「正しい教えにも執着してはならない」と教えた。それを更に検証しよう。

 初期仏教の最古層といわれるスッタニパータの第4章(七六六~九七五)では繰り返し同じことが述べられる。ブッダは論争を禁じた。鎌倉時代に生まれた日蓮が知れば、ぶったまげたことだろう。日蓮は法論を好み、幕府に対して繰り返し公場対決を申し入れた。

 悪意から誹る言葉が生まれる。誹る言葉が風となって悪意の火は盛んになる。怒りの車輪は回転を始める。恨みは必ず同調者を求め、敵と味方を形成してゆく。

七九九 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
八〇〇 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分れているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

「偏見」とは偏った見方に執着することだ。ここで驚くべきことにブッダは「比較から離れる」ことを教える。

 比較と順応がないとき、葛藤は姿を消します。

【『キッチン日記 J・クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン:高橋重敏訳(コスモス・ライブラリー、1999年/新装・新訳版、2016年)】

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ

 2500年前に想いを馳せてみよう。権利という意識はまだ芽生えていなかったことだろうし、自由や平等といった概念も稀薄だったことだろう。庶民に至っては自我も確立されておらず、まだ右脳の声が聞こえていたに違いない(統合失調症)。そして夢と現(うつつ)の境も曖昧であったことだろう。「個人」という言葉は近代以降の概念である。

 知識は脳を束縛する。それ以上にコミュニティ(党派)が人々を支配する。出自やカーストから自由になることは想像を絶する。枢軸時代以前の民俗宗教は神の声を代弁するシャーマンチャネラーの言葉に集団が従うシステムであった。人々の脳には検討できるだけの材料(情報)がなかった。たぶん渡り鳥や魚の群れと大差がなかったことだろう。文字がないゆえに知識は神話の形で語り継がれる。神話はただ「受け取る」ものである。それは掟でありルール(法)であり定めであった。

 人々がカーストに執着し、カーストを疑うことすらできなかった時代に、ブッダは執着からの自由を説いた。

八二五 かれらは議論を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。――みずから真理に達した者であると称しながら、自分が称讃されるようにと望んで。
八二六 集会の中で論争に参加した者は、称讃されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論的の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。
八二七 諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣する。
八二八 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称讃を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

 まるで創価学会の折伏(しゃくぶく)や共産党のオルグを予言するかの如き言葉である(笑)。分断された自我は競争の道をひた走り、社会全体が闘争に覆われる。ブッダの指摘は資本主義経済や大衆消費社会にまで当てはまる。「朝まで生テレビ」なんかそのまんまである(笑)。議論の目的は自己主張・自己宣伝・自己宣揚に傾き、自己顕示欲の修羅場と化す。政治もまた同様である。党利党略を優先し、国民は単なる票として換算される。経済政策のミスを犯しても誰一人責任を取ることなく、平然と増税するような恥知らずばかりとなってしまった。

八三九 師は応えた。「マーガンディヤよ、『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安でもある。)」

 これが中道の奥深さである。「それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく」との鮮烈な言葉が「筏の喩え」を彷彿(ほうふつ)とさせる。教義に固執することなく、教義の否定にも固執することなく、教義を筏として扱うことが求められるのだろう。

八六三「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 三悪道・四悪趣は渇愛と欲望から起こる。戦争の原因もここにある。

八八四 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異った真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。

 アルボムッレ・スマナサーラによれば六師外道という言葉は「『仏教以外の教えを説いている6人の先生』という程度の意味」(『沙門果経 仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』)で、ブッダが徹底的に批判したのはマッカリ・ゴーサーラただ一人であった。彼の厳格な決定論・宿命論は社会を無気力にしてしまう。ただしブッダの批判は怒りに基づいたものではない。ただ事実を指摘するだけである。

「その(真理)を知った人は、争うことがない」――つまり争う人は真理を知らないのだ。

八九六(たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。

 毀誉褒貶(きよほうへん)は世間の常である。誰だって褒められれば嬉しいし、貶(けな)されれば落ち込む。しかし社会の評価と人生の幸不幸は別物である。まして悟りとは何の関係もない。論争の勝敗は知的レベルの満足と不満足であり、無明を滅するには至らない。

九〇七(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

 伝えられるものは知識である。悟り(涅槃)は伝えることも教えることもできない。これが「他人に導かれるということがない」の意味であろう。簡単な道理である。「人は自転車に乗れるが、どうやって乗っているのかは説明できない」(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ)。手放し運転はもっと説明できない。野球で打者がヒットを打つことも説明できない。何でも説明できると思ったら大間違いだ。我々はお互いが「できる」という事実に基いてコミュニケーションを図っているだけなのだ。目が見えない人に視覚を伝えることは不可能だ。無明に覆われた者が涅槃(悟り)を知ることはできない。

 ブッダの教えは一切の依存を拒絶する。執着から離れ、論争を超越する。究極的には悟りに至っても悟りに執着しない生き方を示している。

 そして論争から離れる道はただ一つ、傾聴である。

コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ

ブッダのことば―スッタニパータ (ワイド版 岩波文庫)ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)キッチン日記―J.クリシュナムルティとの1001回のランチ

2012-11-16

ロメオ・ダレール、宮城谷昌光、白川静、ダン・S・ケネディ、大野栄一、アルボムッレ・スマナサーラ、安冨歩


 6冊挫折、3冊読了。

なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール:金田耕一訳(風行社、2012年)/ボリュームがあり過ぎる。20代、30代であれば必読のこと。ルワンダの資料としては超一級であることは論を俟(ま)たず。

沈黙の王』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(文藝春秋、1992年/文春文庫、1995年)/冒頭の「沈黙の王」を読むだけでも買い。漢字誕生の瞬間を鮮やかに描く。その他は淡くて私の口には合わなかった。

漢字 生い立ちとその背景』白川静(岩波新書、1970年)/時間のある時に再読する。文体が硬質なため読み進むのに時間を要する。漢字そのものが呪術であることがよくわかる。

ビジネス版 悪魔の法則 ポジティブ思考のウソを斬る』ダン・S・ケネディ:池村千秋訳(阪急コミュニケーションズ、1999年)/実はまだ読んでいるのだが多分挫ける予定だ。文章が洗練されていて心地よいのだが、如何せん私が必要とするジャンルではない。

電卓で遊ぶ数学 これぞ究極の電卓使用術』大野栄一(ブルーバックス、1992年)/50歳近くなって、加減乗除以外の使用法を知らないことに唖然として取り寄せた。これは必要に応じて読む。

自分を変える気づきの瞑想法』アルボムッレ・スマサーラ(サンガ、2004年/増補改訂版、2011年)/参考にならず。形式に傾きすぎ。

 64冊目『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)/これはオススメ。できれば『怒らないこと』を先に読んだ方がよい。

 65冊目『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ(国書刊行会、2005年/角川文庫、2012年)/ふむ、アルムッレ・スマナサーラは死後の生命を信じていることが判明した。やはり部派仏教もダメか。大乗と共に啓典宗教化した事実がよくわかった。でもまあ、その辺の大乗仏教よりもはるかにいいよ。

 66冊目『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』安冨歩〈やすとみ・あゆむ〉(明石書店、2012年)/これは凄い。感嘆した。2日で読了。そのしなやかで強靭な知性が岡真理友岡雅弥と似ている。3人で鼎談(ていだん)をさせたいものだ。本書の普遍性に気づく人がどれほどいるだろうか? 「歴史という物語が改竄(かいざん)される様相」を描いているのだ。私の好みとしては、スタンレー・ミルグラム進化科学認知科学に結びつけて欲しかったが、まあそれは望みすぎというものだ。これほどの内容でありながらブログをまとめたという事実に驚嘆した。あらゆる組織・集団が安冨歩を必要としてる。

2014-10-07

「六師外道」は宗教界の革命家たち/『沙門果経 仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』アルボムッレ・スマナサーラ


『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「六師外道」は宗教界の革命家たち

 これらの先生方は「六師外道」といわれる人たちです。仏教では、六師外道を「仏教以外の教えを説いている6人の先生」という程度の意味で使っています。でもここに登場する人々は、外道という蔑称で簡単に切り捨てられるものではありません。本当は、インドの当時の宗教世界の革命家として、厳密に考えなくてはいけない人々だったのです。
 その先生方の教えは、我々がインドの宗教として知っているヒンドゥー教のような生ぬるい教えではありませんでした。ヒンドゥー教のもとであるバラモン教は、当時の人々の生活に深く浸透していました。土台であって、かなり根深いものだったのです。そんな中で大胆な教えを説いて宗教革命を起こしたのが、これらの人々です。バラモン教の悪弊に縛られて苦しんでいた社会に天才たちが現れ、とてつもないことを言って人々の目を覚ましてしまったのです。

【『沙門果経 仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ、2009年)】

 仏教が内道であるのに対し仏教以外の教えを外道という。これが敷衍(ふえん)して「道に外れた者」を外道と呼ぶに至った。現在ではプロレスラーの名前にまでなっている。私の印象では鎌倉仏教も六師外道を異端として扱っているように思う。

 ヒンドゥー教の六派哲学六師外道が対応しているならば、ヒンドゥー教をテーゼとして正反合が成り立つのだろうか? ブッダの場合は当然、止揚ではなく中道だが。

 もちろん私も本書で初めて六師が宗教的天才であり革命家であったことを知った。ただしスマナサーラの筆は勢いあまって「生ぬるい」とか「とてつもない」などと軽々しく余計な表現を盛り込んでいることに注意する必要がある。大体「人々の目が覚めた」ならばブッダの登場は不要だ

 大いなる懐疑の時代を経てブッダが誕生したと考えればよかろう。諸学説を六十二見にまとめて説いたのが梵網経である。

梵網経の検索結果

 ティク・ナット・ハン著『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』で私は六十二見を知った。近いうちに紹介しよう。

2016-08-24

アルボムッレ・スマナサーラ、他


 2冊挫折、1冊読了。

知らないと損する給与明細』大村大次郎〈おおむら・だいじろう〉(小学館新書、2016年)/過去の著作と重複する内容が目立つが、賢い奥さんを目指すなら必ず読んでおきたい。税金は多めに徴収されている。

バカの理由(わけ) 役立つ初期仏教法話12』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2011年)/無智の解説。無智とは貪瞋癡の「癡」である。散漫な内容だ。

 129冊目『的中する生き方 役立つ初期仏教法話10』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2009年)/道徳について。十悪の解説も。これはオススメ。「役立つ初期仏教法話」はあと13と14があるのだが読むつもりはない。スマナサーラは印税を一切受け取っていないようだ。その辺の新興宗教とは決定的に違う。

2013-12-31

2013年に読んだ本ランキング


2012年に読んだ本ランキング
2013年に読んだ本

 ウーム、こうして一覧表にしておかなければ何ひとつ思い出すことができない。加齢恐るべし。これが50歳の現実だ。ランキングは日記ならぬ年記みたいなものだ。自分の心の変化がまざまざと甦(よみがえ)る。ニコラス・ジャクソン著『タックスヘイブンの闇  世界の富は盗まれている!』を書き忘れていたので、今年読了した本は66冊。

 まずはシングルヒット部門から。

  『人生がときめく片づけの魔法』近藤麻理恵
  『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健
  『日本文化の歴史』尾藤正英
  『本当の戦争 すべての人が戦争について知っておくべき437の事柄』クリス・ヘッジズ
  『心は孤独な数学者』藤原正彦
  『人間の叡智』佐藤優

 再読した作品は順位から外す。

  『なぜ投資のプロはサルに負けるのか? あるいは、お金持ちになれるたったひとつのクールなやり方』藤沢数希
  『金持ち父さん貧乏父さん アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』ロバート・キヨサキ、シャロン・レクター
  『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ

 次に仏教関連。『出家の覚悟』は読了していないが、スマナサーラ長老の正体を暴いてくれたので挙げておく。

  『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉
  『つぎはぎ仏教入門』呉智英
  『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英

 これまた未読本。何とはなしに日蓮と道元の関係性を思った。歯が立たないのは飽くまでも私の脳味噌の問題だ。

  『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』マシュー・スチュアート

 以下、ミステリ。外れなし。

  『寒い国から帰ってきたスパイ』ジョン・ル・カレ
  『催眠』ラーシュ・ケプレル
  『エージェント6』トム・ロブ・スミス

 格闘技ファン必読の評伝。ただし内容はド演歌の世界だ。

  『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也

 宗教全般。

  『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
  『宗教の秘密 世界を意のままに操るカラクリの正体』苫米地英人

 マネー本は良書が多かった。興味のある人は昇順で読めばいい。

  『新・マネー敗戦 ドル暴落後の日本』岩本沙弓
  『為替占領 もうひとつの8.15 変動相場制に仕掛らけれたシステム』岩本沙弓
  『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲
  『タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻
  『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・ジャクソン
  『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康
  『マネーの正体 金融資産を守るためにわれわれが知っておくべきこと』吉田繁治
  『紙の約束 マネー、債務、新世界秩序』フィリップ・コガン
9位『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート

 新しい知識として。

  『アフォーダンス 新しい認知の理論』佐々木正人

 政治関連。増税に向かう今、高橋本は必読のこと。

  『民主主義の未来 リベラリズムか独裁か拝金主義か』ファリード・ザカリア
  『官愚の国 なぜ日本では、政治家が官僚に屈するのか』高橋洋一
  『さらば財務省! 政権交代を嗤う官僚たちとの訣別』高橋洋一
10位『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹

 宮城谷昌光。

  『青雲はるかに』(上下)宮城谷昌光
  『太公望』(全3冊)宮城谷昌光

 ディストピアとオカルト。

  『科学とオカルト』池田清彦
  『われら』ザミャーチン
8位『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー

 科学関連。まあ毎年毎年驚くことばかりである。

3位『そして世界に不確定性がもたらされた ハイゼンベルクの物理学革命』デイヴィッド・リンドリー
  『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
7位『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
2位『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド

 宗教原始と宇宙創世の世界。ブライアン・グリーンの下巻は挫折。必ず再チャレンジする。

5位『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
6位『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体』ブライアン・グリーン

 初期仏教関連。

  『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
  『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
4位『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 やはり同い年ということもあって佐村河内守を1位としておく。

1位『交響曲第一番』佐村河内守