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2014-07-01

大望をもつ者/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 名君とはそういうものだ、といわれれば、そうかもしれない。しかしながら楽毅のおもう名君に武霊王はあてはまらない。なぜなら武霊王は自信過剰のためか、辞儀が高すぎる。
湯王(とうおう)や武王(ぶおう)を鑑(み)よ」
 ほんとうに大望をもつ者は、野人(やじん)にさえ頭をさげ、辞を低くする謙虚さがなくてはならぬ。武霊王にはその種の逸話がまったくない。だから武霊王にはかならず弱点があるはずだと楽毅はおもう。

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)以下同】

 大事業は人を得て成る。一人で築いたものは一代で終わる。精神の広がりは必ず人に伝わる。狭量な人物が大事業を成すことはない。

 精神と精神が打ち合い、魂と魂が通う中に音楽(リズムやメロディ)が生まれる。これがコミュニケーションの本質であろう。打たなければ音は出ない。そうでありながらも大太鼓と撥(ばち)は依存する関係ではない。息を吹き込まれて発する笛の音は息だけでも笛だけでも生まれないのだ。

 常に心を開いていれば必ず人は見つかる。自分の物差しに固執すれば規格外の人を見失う。盛衰興亡の差もここにあるのだろう。

 ――頭の高い者は、足もとが見えない。

 ゆえに躓(つまづ)き、そして転ぶ。時に足をすくわれ、払われる。

 人生(じんせい)の大病(たいびょう)は
 ただこれ一(いち)の傲(ごう)の字(じ)なり

【『伝習録』下巻】

 傲(おご)りが視野を狭め、盲点をつくる。心と目は同時に開く。

   

2012-08-28

宮城谷昌光


 1冊読了。

 43冊目『楽毅(一)』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)/諸葛亮(孔明)が敬慕した名将が楽毅〈がっき〉その人である。紀元前3世紀頃の戦国時代に活躍した武将だ。敵国である斉へ留学し、孟嘗君〈もうしょうくん〉との出会いが楽毅の運命を決したといってよい。それにしても戦闘の駆け引きが知力の限りを尽くして凄まじい。楽毅は孫子の兵法を体得していた。

2014-06-17

第一巻のメモ/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 英雄不在、というのが戦国の裏面である。

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)以下同】



「商の湯王は伊尹(いいん)を、周の武王は太公望(たいこうぼう)をしたがえただけで、天下をとったのです。すなわち天下は、野(や)のどこかにころがっている、とおもわれます」



 龍元の目のかがやきもよい。
 志望が穢(けが)れていない目である。山も川も人も国も、そういう目でみなければ、真のかたちをとらえることはできぬ。



 目にみえぬ力に意味をみいだせない民族に文化はない。



 成功する者は、平穏なときに、危機を予想してそなえをはじめるものである。



 人のうえに立つ者がおのれに熱中すれば、したにいる者は冷(ひ)えるものなのである。



「驕る者は人が小さくみえるようになる」



 自分の近いところにおよぼす愛が仁であれば、遠いところにおよぼす愛が義である。



 軽蔑のなかには発見はない



 ――わしがこの者たちを護(まも)り、この者たちによってわしは衛(まも)られる。



「目くばりをするということは、実際にそこに目を■(とど)めなければならぬ。目には呪力(じゅりょく)がある。防禦(ぼうぎょ)の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている」



 ――君命に受けざるところあり。
 受けてはならない君命のあることを孫子の兵法はおしえている。とくに戦場における将は、たとえ王の命令でも、したがえないときがある。



 楽毅は儒教についてくわしくないが、教祖である孔子は、
 ――道おこなわれず。桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。
 と、いったそうである。国家に正しい道がないとき、流亡の旅もやむをえない。



 よくよく考えてみれば、この世で、自分が自分でわかっている人はほとんどおらず、自分がいったい何であるのか、わからせてくれる人にめぐりあい、その人とともに生きたいと希(ねが)っているのかもしれない。



 将の気が塞をささえているといっても過言ではない。将の表情に射したわずかな翳(かげ)でも、兵の戦意を殺(そ)ぐのである。



 戦場の露(つゆ)をおのれの涙にかえる王にこそ、人は喜んで命をささげるものである。



 かつて周(しゅう)の武王(ぶおう)が商(殷)王朝を倒したあと、難攻不落の険峻(けんしゅん)の地に首都をおこうとした。そのとき武王の弟の周公旦(しゅうこうたん)が諫止(かんし)した。
「このようなけわしいところに王都を定めれば、諸侯が入朝(にゅうちょう)するにも、諸方が入貢するにも、難儀をいたします。まして周王朝が悪政をおこなって万民を苦しめたとき、諸侯によって匡(ただ)されにくくなります」
 王朝が天下の民にとって元凶にかわったとき、滅亡しやすいところに王都を定めるべきである、と周公旦はいったらしい。
 ――周公旦とは、何という男か。
 と、楽毅は腹の底から感動したおぼえがある。また、周公旦の諫言を容(い)れて、あっさり山をおりた武王の寛容力の大きさにも驚嘆した。

   

2011-08-20

占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光

 ・占いこそ物語の原型
 ・占いは神の言葉
 ・未来を明るく照らす言葉

『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

 元々文章が得意ではないので暑さや寒さを理由にして書かなくなることが多い。頑張ったところで書ける内容は知れているから、今後はあまり気負うことなく感じたことや考えが変わったことをメモ書き程度に綴ってゆこう。

 タイトルは「ちょうじ」と読む。主人公の名である。生まれが紀元前697年というのだからブッダ(紀元前463年/中村元の説)より少し前の時代である。枢軸時代の綺羅星の一人と考えてよかろう。重耳とは春秋五覇の一人、晋(しん)の文公(ぶんこう)である。

 読み物としては『孟嘗君』に軍配が上がるものの、物語の本質が占いにあることを示した点において忘れ得ぬ一書となった。重耳は43歳で放浪を余儀なくされ、実に19年もの艱難辛苦に耐えた。「大器は晩成す」とは老子の言。

 おどろいた成王(せいおう)は、
「わたしは、あれとふざけていただけだ」
 と、弁解した。ところが尹佚(いんいつ)は表情をゆるめるどころか、厳粛さをまして、
「天子に戯言(ぎげん)があってはならないのです。たとえどんなご発言でも、史官というものは、それを書き、宮廷の礼儀によって、その発言を完成させ、音楽とともに歌って、公表するものです」
 と、さとした。

【『重耳』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1993年/講談社文庫、1996年)以下同】

 成王が遊び半分で弟の唐叔虞(とうしゅくぐ/晋国の祖)を「封じる」と言った時のエピソード。歴史が記録によって形成されることを鮮やかに表現している。歴史とは記録であり、記録されたものだけが歴史なのだ。

 狐氏(こし)が晋に交誼(こうぎ)を求めてきた。この使者が狐突(ことつ)であった。

 若いが、その容貌には山巒(さんらん)の風気に鍛えぬかれたような精悍(せいかん)さと重みとがあり、それでいて目もとはすずやかさをたもって、山岳民族のえたいのしれぬ蒙(くら)さから、すっきりとぬけでている。
 狐突(ことつ)は馬上だけで見聞をひろめた男ではなく、かれの目は書物の上を通ってきたということである。

 書物は蒙(もう/道理に暗いこと)を啓(ひら)き、世界を明るく照らす。学問とは眼(まなこ)を開く営みに他ならない。後に狐突(ことつ)の子である狐毛(こもう)と狐偃(こえん)が重耳を支える。

 狐氏から詭諸(きしょ/重耳の父)のもとに二人の娘が送られることとなった。直ちに吉兆が占われる。

「山岳の神霊は、この婚姻を祝慶(しゅくけい)なさいました。なんと、曲沃(きょくよく)に嫁入(かにゅう)する娘の一人は、天下に号令する子を生むであろうということです」
 と、からだが張り裂けるほどの声でしらせた。

 私の心にフックが掛かった。そして下巻で悟った。占いこそ物語の原型であることを。占いとは未来の絵を描くことだ。卜(ぼく)の字は亀甲占いの割れの形に由来がある。

 不思議なもので占いは偶然から必然をまさぐる行為である。筮竹(ぜいちく)やサイコロ、あるいはコインといった道具を用いて偶然を必然と読み換えるのだ。

 キリスト教の運命や仏教の宿命が不幸の原因を求めて過去をさかのぼるのに対して、占いは未来に向かって道を開く。まったく根拠の薄弱な血液型占いや星座占いの類いが好まれるのも故なきことではないと思われる。

 現状は皆が知っている。責任に応じて視点の高さは変わってくるが、現状から見える未来図は予想範囲が限定される。現実の重さに縛られるためだ。起承転結の起承止まりだ。ここに転結の勢いを与えるのが占いである。

 つまり人々の思考回路に新しい道筋をつけ、更に道理を深く打ち込むことで思考のネットワークと人間のネットワークをも一変させるわけだ。皆の予測を超えた地点に旗を立てることができるかどうかが問われる。その旗が鮮やかな目印となって運命の進路を決定づけてゆく。韓万(かんまん)の言葉が如実にそれを示す。

「ことばと申すものは、外にあらわれますと、ありえぬことを、ありうることに変える、不可思議な働きをすることがあるものです」

 春秋戦国時代において狐氏は不安を抱えていたことだろう。であればこそ、晋に対して合従連衡(がっしょうれんこう)を求めたわけである。占いは人々の「淡い期待」を「絶対的な確信」に変えた。その瞬間に脳内で新たなシナプス経路が構築される。それまでの過去・現在と未来は「天下に号令する子」に捧げられることとなる。狐氏の運命が決まった瞬間であった。そして重耳が誕生する。

 いつもながら宮城谷のペンは冴え冴えとした光を放ちながら人間を描写する。

「狐突(ことつ)の体内のどこかに感動の灯がともった」、「かけひきのない人柄」、「眉やひたいの形のよさは、心の美質をもっとも素直にあらわしているといってよい」、「口調はおだやかだが、遁辞(とんじ)をゆるさぬというきびしさを目容(もくよう)にみせた」、「壮意を腹に溜(た)めなおして」、「胆知のさわやかさ」、「恐れがないから、やさしさがないのだ」、「声の質の良さは、その人の心術の良さでもある」――。

 宮城谷作品の魅力は人間の道と振る舞いを丹念に捉えているところにある。

重耳(上) (講談社文庫)重耳(中) (講談社文庫)重耳(下) (講談社文庫)

マントラと漢字/『楽毅』宮城谷昌光
先ず隗より始めよ/『楽毅』宮城谷昌光
占いは未来への展望/『香乱記』宮城谷昌光

2014-10-31

孟嘗君の境地/『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 唐挙〈とうきょ〉は貴族相手の人相見で大金を稼いでいた。呂不韋〈りょふい〉は慈光苑(じこうえん)の伯紲〈はくせつ〉という人物の元へ遣(つか)わされる。慈光苑は戦乱の中で独りでは生きてゆくことが難しい孤児や寡婦(かふ)のための施設であった。唐挙が呂不韋に託したのは寄付金であった。慈光苑に着くと伯紲〈はくせつ〉は留守であった。そこに異彩を放つ老人がいた。思わず目を瞠(みは)った呂不韋はその老人が孟嘗君であることを後に知る。宮城谷ファンはここでエクスタシーに達する。やはりリンクで示したように『孟嘗君』、『楽毅』、本書と読み進むことが望ましい。

「わしは老いた」
 食事の席で孟嘗君〈もうしょうくん〉はいった。
 ――何が老いたのか。
 呂不韋〈りょふい〉はそう反発したくなった。慈光苑(じこうえん)で、孟嘗君は田圃(でんぽ)にはいって農作業をしていたではないか。そこには老懶(ろうらん)のきざしさえなかった。が、みずから老いたという。
「老いると、人事がうとましくなる」
 まるで孟嘗君は呂不韋の胸裡に浮きあがった疑問にこたえるようにいった。
 太古、人は小集団をなして天地のあいだをさまよっていた。天地のあいだというのは山岳のことである。地におりれば、人は死ぬ。平原などというものは、太古の人々にとって死地以外のなにものでもない。やがて人は農耕をおぼえ、その死地を生地に変えようとした。が、そのことによって、おそらくなにかが歪みはじめた。たとえば、いままでたれのものでもなかった平原が、人によって占有化されるようになった。鳥獣と共存していた人が、人だけの住居区をつくった。そのため人は人とはべつな生物や現象に語りかけていたことばをうしなったといえる。ことばは、人境のためだけにある、と人は錯覚した。

【『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1998年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)以下同】

「政治」ではなく「人事」としたところに言葉の重みが増す。むろん人事異動の意味ではなく、「人間に関する事柄」全般を指した言葉であろう。孟嘗君の「出家」を思わせる境地である。この文章は次のように続く。

「わしは往時にうしなわれたであろうことばに、あこがれるようになった。人が好きでたまらなかったわしが、そういう憧憬(しょうけい)をもつ。これがすなわち老いたあかしである」
 孟嘗君がそういいきった瞬間、呂不韋は胸中に火を投げ込まれたように赫(かつ)とからだが熱くなった。
 ――この人は、老いたのではない。
 真の君主になったのだ、と呂不韋は痛感した。君主は自分のことを寡(か)とか孤(こ)というではないか。君主は生まれながらに孤児なのである。それゆえに人のことばに偏曲(へんきょく)を求めず、この世に公平をさずけることができる。が、君主は真に孤独でないために、偏失(へんしつ)をくりかえし、世の人々の尊敬を受けることができない。しかしながら孟嘗君は古代の聖王たちの心境に達したのではないか。呂不韋はそう思った。おもっただけではなく、恐れながら、と口をひらき、自分の想念を述べた。
 孟嘗君は目もとを明るくして、いちど口をすぼめ、それから、
「呂氏とは、こういう人です。魯(ろ)先生、おわかりいただけましたかな」

 孟嘗君の悟りといってよい。そこに想いが届くのは、やはり呂不韋が「学ぶ人」であったためだろう。魯先生とは魯仲連〈ろちゅうれん〉である。

 こうして呂不韋は孟嘗君の賓客(ひんきゃく)となる。呂不韋に従う雉〈ち〉も大きく成長してゆく。

 多くの言葉を弄(ろう)するよりも、沈黙の中でひたすら味わうべき魂の邂逅(かいこう)である。

    

2014-05-08

君子は豹変し、小人は面を革む/『中国古典 リーダーの心得帖 名著から選んだ一〇〇の至言』守屋洋


 ・君子は豹変し、小人は面を革む

『中国古典名言事典』諸橋轍次

桃や李(すもも)は何も言わないけれども、美しい花やおいしい実をつけるので、その下に人が集まってきて、自然に道ができる。それと同じように、徳のある人物のもとには、その徳を慕っておのずと人が集まってくる

桃李言(ものい)わずして
下(した)自(おのず)から蹊(みち)を成(な)す

     『史記』李将軍列伝

【『中国古典 リーダーの心得帖 名著から選んだ一〇〇の至言』守屋洋〈もりや・ひろし〉(角川SSC新書、2010年)以下同】

 久し振りに守屋の著作を開いた。構成の悪いスカスカ本であった。粗製乱造の極みか。中高生向けの代物。何を血迷ったのか翻訳文が最初に大きく書かれている。順序が逆であろう。原文への敬意を欠いているようにすら見えて仕方がなかった。

 いくつか原文を調べたくて読んだのだが目ぼしいものを紹介しよう。最初に紹介したものは知っている人も多いだろう。成蹊大学の由来でもある。「蹊」は「けい」と読む文献もある。小道の意である。私は李広将軍にまつわる文章であることを知らなかった。「一念岩をも通す」で知られる人物だ。母を殺した人喰い虎を見つけた李広はすかさず弓を引いた。深々と刺さった獲物を見たところ虎の姿に見えたのは岩であった。矢羽まで突き刺さったと伝えられる。「虎と見て石に立つ矢のためしあり」とも。

君子は、つねに自己革新をはかって成長を遂げていく。小人は、表面だけは改めるが、本質にはなんの変化もない

君子(くんし)は豹変(ひょうへん)し、小人(しょうじん)は面(おもて)を革(あらた)む

     『易経』革卦(かくか)

 これこれ。これを探していたのだ。私のモットーだ。気づけば変わる。見えれば変わると言い換えてもよい。君子豹変という言葉だけで朝令暮改と似た意味だと勘違いしている人が多い。田原総一朗もその一人だ。君子は果断に富むゆえ、さっと身を翻(ひるがえ)すことがあるのだ。愚かで無責任な連中はそれを「信念がない」とか「転向」などと受け止める。かような風評を君子は恐れることがない。

毎日、「今日もやるぞ」と、覚悟を新たにしてチャレンジする

苟(まこと)に日(ひ)に新(あら)たに、
日日(ひび)に新(あら)たに、
又(ま)た日(ひ)に新(あら)たなり

     『大学』伝二章

 筍(たけのこ)と似た字だが日ではなく口。訓読みだと「苟(いやしく)も」。名文の香りを台無しにする翻訳だ。本物の価値創造とは日々新しい自分と出会うことだ。生に感激を失った途端、人は老いる。

人生における最大の病(やまい)は、「傲」(ごう)の一字である

人生(じんせい)の大病(たいびょう)は
ただこれ一(いち)の傲(ごう)の字(じ)なり

     『伝習録』下巻

 傲(おご)りが瞳を曇らせる。自戒を込めて。この言葉は知らなかった。

自分が正しいと確信が持てるなら、阻む者がどれほど多かろうと、信じた道を私は進む

自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、
千万人(せんまんにん)と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん

     『孟子』公孫丑(こうそんちゅう)篇

「縮」には正しい、真っ直ぐとの意があるようだ(ニコニコ大百科)。これも君子豹変に通ずる。要は深く自らに問うことが正しい答えにつながるのである。周りは関係ない。行列の後に続くような生き方は感動と無縁であろう。

 中国の偉大な歴史は文化大革命を経て漂白されてしまったのだろうか? 中国人民の間にこれらの言葉はまだ生きているのだろうか? 気になるところである。


先ず隗より始めよ/『楽毅』宮城谷昌光
大望をもつ者/『楽毅』宮城谷昌光

2014-06-13

マントラと漢字/『楽毅』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

「孟(もう)さま、趙王(ちょうおう)は去年、中山(ちゅうざん)を望見(ぼうけん)したそうです」
 と、丹冬(たんとう)は容易ならぬことをいった。
 望む、とは、ただ見ることとはちがう。呪(のろ)いをこめて見ることを望むという。望みとは、それゆえ、攻め取りたい欲望をいう。

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)】

 心の蒙(くら)い部分が啓(ひら)いた。希望や願望の危うさがここにあるのだ。一身の上であれ、権力の上であれ志向を支えるのは欲望だ。欲と望の字は横に位置するのだろう。

 40代になってからマントラの意味を思索してきた。真言とも呪文とも訳されるが、祈りにこめられた望みを思えば呪文に重みが増す。

 古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった。文字は、ことだまの呪能をそこに含め、持続させるものとして生まれた。

【『漢字 生い立ちとその背景』白川静(岩波新書、1970年)】

 何と文字そのものが呪能をシンボライズしたというのだ。「呪」の旁(つくり)である兄は人を象(かたど)り、口偏は祈りを示す。呪の訓読みは「まじない」である。「まじないは、人間がある特定の願望を実現するために直接的または間接的に自然に働きかけることをいうが、その願望を実現するために事物に内在する神秘的な力、霊力を利用するのである」(世界大百科事典 第2版)。

 後の世に「祝」という字が作られるが意味は同じである。すなわち言葉で霊力を縛りつけるのだ。武田信玄が掲げた軍旗「風林火山」を思えばわかりやすい。何にも増して呪能が発揮されるのは自分の名前であろう。それは単なる記号ではなくして自我の根幹をなすものだ。

 漢字そのものにマントラ性が潜む。更に思考を推し進めれば漢字だけではないことに気づく。シンボルというシンボルには何らかの呪能がこめられている。

 芸術家が絵画や工芸品の中に潜ませたシンボルを探しだし、それらのつながりを解読することができたとき、その作品の背後に隠されている意味と寓意の豊かな世界が眼前に開けてくる。なぜなら、シンボリズムの普遍的な力に導かれ、芸術家も鑑賞者も、創造媒体の物質的制約や文化的境界線を踏み越え、深く人間精神の根源に辿り着くことができるからである。

【『シンボルの謎を解く』クレア・ギブソン:乙須敏紀〈おとす・としのり〉訳(産調出版、2011年)】

 すべてのエネルギーを1ヶ所に集めたところに西洋の神は生まれたのだろう。

 呪を儀礼と考えよう。

 あらゆる未開社会には儀礼があるという単純な事実から出発しよう。もっと正確に言うならば、すべての人間社会、少なくとも、科学的認識の発達と、抽象的哲学の成果とによって、伝統的慣習の効果が疑われるに至っていない社会には、儀礼が存在すると言えるだろう。したがって、儀礼が儀礼である限りにおいて、それはひとつの機能を持つと考えうことができる。

【『儀礼 タブー・呪術・聖なるもの』J・カズヌーヴ:宇波彰〈うなみ・あきら〉訳(三一書房、1973年)】

 儀礼については以下も参照せよ。

進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
情動的シナリオ/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー

 古代中国において儀礼は占いと結びつく。

占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光

 物語とは思考を言葉で縛る行為に他ならない。望と呪、呪とシンボル、呪と儀礼、儀礼と占い、そして占いと物語がつながった。欲望が作動する物語のメカニズムを解いたのがブッダであった。

   
  

理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一

2014-06-28

先ず隗より始めよ/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 即位した昭王が考えたことは、
 ――父と国の仇を討つ。
 ということであり、に勝つにはどうするか、ということであった。一貫して自分を援けてくれた郭隗(かくかい)にその問いをぶつけた。
「斉はわが国の乱れに乗じて襲ってきて、わが国を破った。わが国は小さく国力もとぼしい。斉に報復するには力不足であることを重々承知している。それでも真の賢士を得て、国事をともにし、先王の恥を雪(すす)ぐのが、わしの願いである。先生、それができる者をみつけてくれまいか。身をもってその者に仕えるであろう」
 それに対する郭隗の答えが、不朽の名言になった。

 王必ず士を致(いた)さんと欲せば、先(ま)ず隗(かい)より始めよ。

 王が賢士をどうしても招きたいと欲しておられるなら、この郭隗にまずお仕えなさい、といったのである。そういった郭隗自身、
「先従隗始」(せんしょうかいし)
 が、人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)し、東海中の島の民にも親しまれる語句になろうとはおもわなかったであろう。それはそれとして郭隗のことばにはつづきがある。
「そうすれば、隗より賢い者が、千里を通しとせずに燕(えん)にやってきましょう」
 ふしぎないいかたである。昭王は眉(まゆ)をひそめた。郭隗はたしかに賢者であるが、国政をあずけてもよいほどの大才ではない。他国にその賢名がきこえているとはおもわれない男である。その郭隗に仕えると、諸国より賢士がやってくるとは、どういうことであろう。
 それについて郭隗は懇々と述べた。(第二巻終了)

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)以下同】

 対話の妙味が問答にあることと、答えには物語が不可欠であることを教える故事だ。歴史を学ぶ目的は温故知新にある。「子曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし」(『論語』)。物語は未来を志向する。占いがその典型だ(占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光)。現状打開の智慧に物語の本質がある。郭隗の提言は「まず出来ることから始めよ」と受け止めることができよう。このエピソードは第三巻の冒頭で詳細が展開される。

 郭隗は昭王に問われて、つぎのように答えた。
「帝者は師とともに処(お)り、王者は友とともに処り、覇者は臣とともに処り、亡国の主は役(えき)とともに処ります」
 人君として至上の帝者には師があり、その下の王者には友があり、その下の覇者には臣があり、国を滅亡させる者には僕隷(ぼくれい)があるだけである。まずそういった郭隗は、つづいて、
「指を屈して師に仕え、北面して学を受ければ、自分より百倍も才能の豊かな者がやってきます。それより劣る礼ですが、敬意をあらわすために、その人のまえを趨(はし)り、その人よりおくれて息(いこ)い、はじめに問うてのちに黙ってその人の教えをきくようにすれば、自分より十倍もまさる人がやってきます。そうではなく、たがいに趨って礼をやりとりするのでは、自分にひとしい才徳の者しかきません。まして几(き)や杖(つえ)によりかかって、人を眄視指使(べんししし)するようであったら、不浄の者である厠役(しえき)の人しかこないでしょう。もっとも悪いのは、わがままに相手を睨(にら)み、打ちすえ、大声で叱(しか)ることで、それでくるのは奴隷ばかりでしょう」
 と、いい、人君を五種類にわけた。
 もっともすぐれた人君とは、自分が人君であることを忘れるほどの謙虚をしめす人である。これはまさに逆説といえる。王侯は自分の存在がその国でもっとも重く大きなものでなくてはならない。人は自分が存在していることをさまざまな手段をもちいて表現する。さらに、その表現の受け手である相手の反応をみて、異聞の存在を計算する。はやい話が、自分にたいして頭をさげる者が多ければ多いほど尊貴もますのである。だが郭隗の考えでは、自分の存在を無に近づける者のほうが偉いということになる。すなわち人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる。ことばをかえていえば、ひとりの師を得ることは百万の奴隷を得ることにまさる。いま全盛を誇っている斉に勝つほどの富国強兵をなしとげるためには、王としての誇りをなげすてて、賢人に指を屈し身を屈して教えを仰がねばならない。
「いま申し上げたことが、古来賢人を招致するやりかたです。王がほんとうに広く国中の賢人を求めて、その門をたずねたら、天下に評判が立ち、天下の賢人はかならず燕に馳(は)せてきましょう」
「なるほど。では、わしはいったいたれをたずねたらよいのか」
 この昭王の問いにたいして郭隗は逸話をもって答えた。
 こういう話である。
 むかし、ある君主が千金をだしてでも千里の馬を手にいれようとしていた。千里の馬とは、むろん、一日に千里(約400キロメートル)も走ることのできる馬をいう。
 が、3年たっても入手できなかった。宦官(かんがん)のなかでも宮中の掃除をおこなう者を涓人(けんじん)というが、その涓人が君主に、
「どうかその役目をわたしにお命じください。かならず千里の馬をさがしあててまいります」
 と、自信ありげにいった。
「かならずだぞ」
 念を押した君主は涓人に任務をさずけた。涓人は各地を歩き、3か月後に、ついに千里の馬をみつけた。が、不運なことに、その名馬は死んでいた。
「死んでいようが千里の馬は千里の馬だ。その首をわたしに売ってくれ」
 涓人はなんと五百金という大金をだして、馬の首を買いとると、帰国し、復命した。君主が激怒したことはいうまでもない。
「わしが欲しいのは生きている馬だ。どうして死んだ馬を大事にして五百金を捐(す)ててきたのか」
 そうなじられても涓人はいささかも萎縮(いしゅく)せず、
「君は千里の馬であれば死馬でさえ五百金でお買いになったわけです。生馬では、どうか、と世間でとりざたしている者たちは、君が馬の値うちのよくわかるかたであるとおもっておりましょう。まもなく千里の馬を売りにくる者があらわれるでしょう」
 と、いった。はたして1年もたたぬうちに、千里の馬が3頭もやってきたという。
 どこの国の逸話であるかはわからない。話のなかにあった千里の馬が、昭王の求める賢人にあたることはあきらかである。すなわち昭王が賢人を求めるために国中をさがしまわっても、おそらくむだであり、それより身近な者をつかって賢人をさがさせたほうがよいということであろう。郭隗は容(かたち)を端(ただ)して、
「いま王がほんとうに賢人を招きたいとおもっておられるなら、まず隗より始めるべきです。隗のような者でも王に仕えてもらえる。隗よりすぐれている者ならなおさらです。その者にとって千里の道など遠いことがありましょうか」
 と、強い語気でいった。
 遠くにいる賢人をさがすまえに、まぢかにいる賢人に師事しなさい。
 自薦である。
 が、これほどみごとな自薦はほかにない。
 昭王は器量の大きな人である。
 ――いままでの話は、自分を売りこむためのものであったのか。
 とは、おもわなかった。
 郭隗の説述に理を認めた。なるほどむかしから聖王や名君にはみな師がいた。湯王(とうおう)の師である伊尹(いいん)、武王(ぶおう)の師である太公望(たいこうぼう)は在野の賢人である。君主が君主として威張っていては、けっしてみつけることのできない大才である。そのひとりをみつけたことにより、天下がころがりこんできた。とkろが伊尹や太公望は民間人なので、諸侯のたれもがかれらを招く機会を平等にあたえられていたのである。歴史のおもしろさであり、恐ろしさでもある。
 ――頭をさげ、腰をかがめ、指を屈し、辞を低くする者が勝つのか。
 いや、勝利の条件とは、それだけではあるまい。大才をみつめるための姿勢、目の位置、志の高さが問題となろう。とにかく昭王にわかったことは、
 ――おのれを棄てなければ、人はみえぬ。
 ということである。
「郭隗先生」
 昭王は晴れやかな声を発し、郭隗にむかって拝手した。これから自分は郭隗を師と仰ぎ、北面して仕えるであろう、と昭王はいい、実際、郭隗のために黄金台という宮殿を建てた。燕人(えんひと)ばかりでなく、燕をおとずれた他国の者の目をおどろかすに充分な輝きをもった高■(木偏+射/こうしゃ)であり、そのまばゆい光が千里の馬を招きつづけているといえた。

 郭隗はすかさず根拠となる例を示した。これに対する昭王の振る舞いはまさしく「君子豹変」(『中国古典 リーダーの心得帖 名著から選んだ一〇〇の至言』守屋洋)に相応しいものだ。人を求める心の本気が窺える。

 国家や組織の行き詰まりはリーダーに起因する場合が多い。意のままになる者を好み、自分の物差しに合わない人を遠ざけるところから組織は澱(よど)み停滞を始める。巨大組織は腐敗することを避けられない。同族、閨閥(けいばつ)、学閥などが流動化を阻み、社会をタコツボ化する。

 企業が真剣に人材を求めているかどうかは面接態度を見ればわかる。求職者に対して値踏みするような視線を送る企業が大半だろう。圧迫面接というカルト的手法もあるようだが、かような企業が淘汰される運命にあることは間違いない。

 そもそもこの国のエリート選抜システムは受験制度においてペーパーテストを採用している時点で誤っている。教育は私塾レベルの単位で行い、もっと自由な競争をするべきだろう。広く門戸を開けば必ず人材は訪れる。

   


先づ隗より始めよ 十八史略 漢文 i think; therefore i am!
「牛首を懸けて馬肉を売る」(羊頭狗肉)の故事/『晏子』宮城谷昌光