2008-05-01

命の灯火(ともしび)で周囲を照らす姿/『がんばれば、幸せになれるよ 小児ガンと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子


 ・命の灯火(ともしび)で周囲を照らす姿

『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子

 行間から祈る声が聞こえてくる――。

 昨年の「24時間テレビ」でドラマ化された作品。ドラマの方は見るに堪(た)えない代物だったが、著作は「2冊買って、1冊誰かにあげあたくなる」ほど素晴らしい内容だ。

 山崎直也君は9歳でこの世を去った。ユーイング肉腫という悪性の癌に侵(おか)されたのが5歳の時。短い人生の約半分を闘病に捧げた。

 平凡な両親の元に生まれた直也君は、“本物の天使”といってよい。どんな痛みにも弱音を吐かず、再発する度に勇んで手術に臨んだ。

 それにしても、直也君の言葉は凄い。まるで、「年老いた賢人」のようだ。

「おかあさん、もしナオが死んでも暗くなっちゃダメだよ。明るく元気に生きなきゃダメだよ。わかった?」

【『がんばれば、幸せになれるよ 小児がんと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子(小学館、2002年/小学館文庫、2007年)以下同】

 直也自身、少しでも体調が悪化すると、
「山崎直也、がんばれ!」
 そう口に出して、自分で自分を励ましていました。16日の呼吸困難の発作のさなかにも、「落ち着くんだ」といっていたような気がします。
 あの日、息苦しさが少し治まってから、直也はこうもいいました。
「おかあさん、さっきナオがあのまま苦しんで死んだら、おかしくなっていたでしょ。だからナオ、がんばったんだよ。それでも苦しかったけど。おかあさんがナオのためにしてくれたこと、ナオはちゃんとわかっていたよ。『先生早く!』って叫んでいたよね。でも安心して。ナオはああいう死に方はしないから。ナオはおじいさんになるまで生きたいんだ。おじいさんになるまで生きるんだ。がんばれば、最後は必ず幸せになれるんだ。苦しいことがあったけど、最後は必ずだいじょうぶ」

 夜10時過ぎ、直也は突然落ち着かない様子で、体を前に泳がせるようなしぐさをしました。
「前へ行くんだ。前へ進むんだ。みんなで前に行こう!」
 びっくりするほど大きな力強い声です。そして、まるで、迫り来る死と闘っているかのように固く歯を食いしばっています。ギーギーという歯ぎしりの音が聞こえるほどです。やせ衰えて、体を動かす元気もなくなっていた直也のどこにこれだけの力があったのかと驚くほど、力強く体を前進させます。

 ある日、私が病院に行くと、主任看護婦さんが、「おかあさん、私、今日、ナオちゃんには感動したというか、本当にすごいなと思ったんだけど」と駆け寄ってきました。直也は、
「この痛みを主任さんにもわかってもらいたいな。わかったら、またナオに返してくれればいいから」
 といったそうです。「えっ、痛みをまたナオちゃんに返していいの?」とびっくりして聞くと、
「いいよ」
 と答えたそうです。
「代われるものなら代わってあげたい」。よく私もそういっていました。でも直也はそのたびに力を込めて「ダメだよ」とかぶりを振り、
「ナオでいいんだよ。ナオじゃなきゃ耐えられない。おかあさんじゃ無理だよ」
 きっぱりとそういうのです。

 何だか自分が、ダラダラと走るマラソンランナーみたいな気になってくる。直也君は、人生を全力疾走で駆け抜けた短距離ランナーだった。「生きて、生きて、生きまくるぞ!」と言った通りに生きた。

 山下彩花ちゃんといい、直也君といい、命の灯火(ともしび)で周囲を照らす姿に圧倒される。



8人の意識の力で病状を癒す/『パワー・オブ・エイト 最新科学でわかった「意識」が起こす奇跡』リン・マクタガート

2006-02-07

これが私のいる世界なのか?/『ホテル・ルワンダ』テリー・ジョージ監督


 ・これが私のいる世界なのか?

『それでも生きる子供たちへ』監督:メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、スパイク・リー、カティア・ルンド、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウー
『生かされて。』イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン
『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ
『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール
『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク
『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア
『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス

『ホテル・ルワンダ』を見てきた。いやはや、立川のシネマシティ/City2は凄い。これほど、スクリーンを大きく感じたのは生まれて初めてのこと。前から4列目に陣取ったのだが、真正面にスクリーンがある。音響もパーフェクト。

 インターネットでの署名活動によって、やっと公開にこぎつけた作品。1994年にアフリカのルワンダで100万人が殺戮された実話に基づいている。

「力」とは一体、何なのか――映画館を出た今も頭の中を去来する。街中で起きているチンピラ同士の喧嘩なんぞとは桁違いの軍隊による暴力。そして、それをコントロールする権力。更に、大量虐殺を放置したり、放置させたりする国際間のパワー・オブ・バランス。

 元々同じ種族でありながら、ベルギー人によって、“鼻の形の違い”でツチ族とフツ族に分けられ、いがみ合い、殺し合うアフリカの民。相手の種(しゅ)を絶つために、子供まで殺す徹底ぶりだ。

 政変が起こるまで、金の力で成り上がった主人公は、家族を守るために必死の行動をとる。それだけの内容で、私は全く感動を覚えなかった。それどころか、「自分の家族さえ助かればいいのか?」と嫌な気持ちにさせられたほどだ。

「これが私のいる世界なのか?」――この一点を思い知るために見るべき作品だ、と私は思う。

 見ている最中から、猛烈な無力感に苛(さいな)まれる。私に何ができるのだ? どうせ、何もできない。否、しようともしないだろう。

 それでも、見るべきなのだ。中国から廉価で輸入された鉈(なた)で殺される人々を。虫けらみたいにビストルで撃たれる人々を。殺される前に陵辱される女性達を……。

 何もしなくていい。ただ、罪もなく殺されていった100万の人々の無念を知れ。

2004-09-28

苦痛を味わう/『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ラース・フォン・トリアー監督


 ・苦痛を味わう

『イノセント・デイズ』早見和真
『ドッグヴィル』ラース・フォン・トリアー監督・脚本

・監督、脚本:ラース・フォン・トリアー
・出演:ビョーク、カトリーヌ・ドヌーヴ

 一度見て度肝を抜かれた。いずれの方向にせよ人の心が動くことを感動というのであれば確かな感動があった。だがその一方で二度と見ることはないだろう、とも思った。この衝撃は一度見れば十分なもので何度も鑑賞する類いの作品ではない。

 所感を記そうとネット上の情報を物色していたところ、阿部和重がパンフレットに書いた一文に遭遇した。予想もつかない視点から物語を解き、映像の奥深くに込められたメッセージを鮮やかに読み取っていた。私は頭を殴られたようなショックを受けた。

 ネットで見つけた阿部のテキストは一部だったので、それからというもの、パンフレットを入手するまでに3ヶ月ほどを要した。

 そして、私はパンフレットを座右に置き、再びビデオを見た。阿部が汲み取ったものを見逃すまい、と。ビデオが終わって、パンフレットを初めて開いた。やっぱり負けた(笑)。

 二度目ではあったが、予想に反して、私は画面に釘づけとなった。カットの一つ一つが、しっかりと物語を構成していた。

 冒頭、シミのようなものが浮かび、図と地の区別がつかなくなる。

 ハンディカメラで撮影されていて、画面が常にブレている。ブレた分だけ見ている側に緊張感を強いる。あたかも人の視線に入り込んだような感覚にとらわれる。ライトも当てられず、極端な効果音やBGMもない。こうして、揺れる画面は自分の眼となり、観客は無理矢理、映画の中に引きずり込まれる。

 40分ほどが経過してリズムが奏でられ、主人公セルマが踊り出す。場面がミュージカルとなると、映像はピタリと揺れなくなる。現実は揺れ動き、空想は完成された世界だ。

 セルマは歌う。「もう見るべきものはない。何もかも見た」と。

 セルマは踊る。「ミュージカルでは恐ろしいことは起こらないわ」と。

 シナリオはメッセージを主張することなく、見る者に思索を強要する。

 空想シーンであるミュージカルと現実がラストで一致する。セルマは獣のような声で叫び歌う。「これは、最後の歌じゃない!」。

 現実の世界でセルマがステップを踏むと、彼女は宙に舞う。真っ直ぐな姿勢で。運命と戦い、病苦(主演女優の名前とダブって仕方がない)と戦い、世の中の矛盾と戦ったセルマは、遂に自由を手に入れた。

【付記】余談になるが、二度目の方が私は泣けた。特に、獄中のセルマと面会するジェフの姿は、私が知る限りでは、究極のラブシーンである。また、セルマの同僚がカトリーヌ・ドヌーヴであることも後から知った。大女優であることを気づかせないほどの抑制された名演である。また、ミュージカルの曲が好評を博しているようだが、私の趣味とは全く合わないものだ。それでも、お釣りがくるほど堪能できた。尚、パンフレットに掲載されている阿部和重の「反転する世界」は類い稀なレビューである。そっくり紹介したい気持ちに駆られるが、やはり、少々苦労はしても、直接、入手された方がよろしい。

 

2003-03-19

物静かな語り口から発せられる警鐘の乱打/『9.11 アメリカに報復する資格はない!』ノーム・チョムスキー


 ・物静かな語り口から発せられる警鐘の乱打

『武装解除 紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治
『メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会』ノーム・チョムスキー
『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス
『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン
『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『アメリカ民主党の崩壊2001-2020』渡辺惣樹
『第三次世界大戦はもう始まっている』エマニュエル・トッド

 読んでから随分と時間が経ってしまったが、今、書かずして後悔することを恐れてキーボードに向かう。

 百数十ページの薄っぺらい文庫本である。だが、その内容の重さは純金にも匹敵するものだ。

 本書は、米国で起きた同時多発テロから1ヶ月後の2001年10月15日にセヴン・ストーリーズ・プレス社という小さな出版社から発行された。日本語版は11月30日に発刊。米国ではテロへの怒りによってもたらされた“国家主義”が大手を振って歩き回っていた頃である。そんな時期に、宣伝もせず、書評欄に取り上げられ ることもなかった本書が、大方の予想を覆して売れ行きを伸ばした。22ヶ国でペーパーバック版となり、その内、5ヶ国ではベストセラーになっている。

 収録されているのは9月19日から10月15日までに行われた各メディアによるチョムスキーへのインタビュー。著名な言語学者であるチョムスキーが淡々とインタビューに答える内容は、米国が世界で行ってきた事実を検証し、テロの根っこをさらけ出し、「目には目を!」と叫ぶ面々の頭に、バケツの水をぶっ掛ける様相を呈している。

 チョムスキーの良心は「エスカレートする暴力の悪循環という世界中でおなじみの力学」を阻止せんとの決意に満ちている。インタビュアーが問い掛ける内容は、マスメディアが世界に発信している情報を拠り所としており、我々が日常、常識と考えているものである。チョムスキーは実に簡潔な言葉で問題の的を射てみせる。彼の言葉によって見つけ出されるのは、己(おの)が思考回路の迷妄に尽きる。以下、引用――

問●アラブ人は、定義上、必然的に原理主義者ですが、西側の新たなる敵でしょうか?

チョムスキー●もちろん違う。まず第一に、ひとかけらでも理性を持った人ならアラブ人を「原理主義者」などとは定義しない。第二に、米国と西側は一般に宗教的な原理主義自体に何ら反対はしていない。事実、米国は世界における、最も過激な宗教的原理主義文化の一つなのだ。国ではなく、大衆文化が。イスラム世界では、タリバンを別にすれば、最も過激な原理主義国家はサウジアラビアである。この国は、建国以来、米国の顧客国家(クライアント)である。タリバンは事実上イスラム教のサウジ版から生まれている。
 よく「原理主義者」と呼ばれる過激なイスラム教徒は、1980年代米国のお気に入りだった。手に入る最高の人殺しだったから。当時、米国の主要な敵はカトリック教会だった。教会は、ラテンアメリカで「貧者の優遇権」(1980年代に中南米で盛んになった解放神学の主張)を採択することによって極悪非道の大罪を犯し、そのおかげでひどい目に遭っていた。西側は敵の選び方において極めて普遍的、世界的である。判定基準は、服従しているか否かであり、権力へ奉仕しているか否かであって、宗教の如何ではない。このことを証明する例はほかにも数多くある。

【『9.11 アメリカに報復する資格はない!』ノーム・チョムスキー:山崎淳訳(文春文庫、2002年)】

「9.11テロに対して、ブッシュ政権は何をすべきか?」との質問にはこう答える――

 もしこの質問について真剣に考えたいのなら、われわれは、世界の大半において米国が、十分な根拠をもって、『テロ国家の親玉』と見なされている事実を認めるべきである。例えば、1986年に米国は国際司法裁判所で『無法な力の使用』(国際テロ)の廉(かど)で有罪を宣告されたうえ、すべての国(すなわち米国)に国際法遵守を求める安全保障理事会の決議に拒否権を発動したことを想起すべきかもしれない。これは無数にある例のうちのたった一つである。

 では以下に本書で取り上げられているいくつかの事実を列挙してみよう――

(1)1980年代のニカラグアは米国による暴力的な攻撃を蒙った。何万という人々が死んだ。国は実質的に破壊され、回復することはもうないかもしれない。この国が受けた被害は、先日ニューヨークで起きた悲劇よりはるかにひどいものだった。彼らはワシントンで爆弾を破裂させることで応えなかった。国際司法裁判所に提訴し、判決は彼らに有利に出た。裁判所は米国に行動を中止し、相当な賠償金を支払うよう命じた。しかし、米国は、判決を侮りとともに斥(しりぞ)け、直ちに攻撃をエスカレートさせることで応じた。そこでニカラグアは安全保障理事会に訴えた。理事会は、すべての国家が国際法を遵守するという決議を検討した。米国一国がそれに拒否権を発動した。ニカラグアは国連総会に訴え、そこでも同様の決議を獲得したが、2年続けて、米国とイスラエルの2国(一度だけエルサルバドルも加わった)が反対した。

(2)1985年、レーガン政権はベイルートで爆弾テロを仕掛けた。イスラム教の聖職者を暗殺することが目的だったが、これに失敗。モスクの外に爆弾トラックを配備し、最大の死傷者が出るようタイミングを計ったため、礼拝を終えて一斉に帰る人々が殺された。死者80名。負傷者250名。(47p)

(3)イスラエルのレバノン侵攻を支持。これが自衛のためでなかったことをイスラエルは直ぐに認めている。レバノンとパレスチナの一般市民18000人が殺される。

(4)1990年代、米国はトルコに対し、南東部に住むクルド人への反乱鎮圧戦争に際し、兵器の80%を供給。何万人も殺し、200〜300万人を家から叩き出し、3500の町や村を破壊し(NATOの爆撃によるコソボの7倍)、想像できる限りの残虐行為を行った。トルコがテロ攻撃を始めた1984年に武器の流れが急に増え、テロがほぼ目標を達成した1999年にやっと元のレベルに戻った。1999年、トルコは米国兵器の主な受取人(イスラエルとエジプトを除く)の地位をコロンビアに譲った。コロンビアは南半球における1990年代の最悪の人権侵害国家であり、一貫したパターンにより、米国の兵器と訓練の主要受取人として群を抜いている。

(5)1998年、ケニアとタンザニアで起こった米大使館爆破事件に関して主犯をオサマ・ビンラディンと特定。スーダンとアフガニスタンを攻撃した。スーダンのアル−シーファ薬品工場を「化学兵器工場」であとして破壊。スーダンは、国連に爆撃の正統性を調査するよう求めたが、それすら米国政府は阻止した。それから1年後の報道によれば、「命を救う薬品(破壊された工場)の生産が途絶え、スーダンの死亡者の数が、静かに上昇を続けている……こうして、何万人もの人々――その多くは子供である――がマラリア、結核、その他の治療可能な病気に罹(かか)り、薬がないため死んだ。[アル−シーファは]人のために、手の届く金額の薬を、家畜のために、スーダンの現地で得られるすべての家畜用の薬を供給していた。スーダンの主要な薬品の90%を生産していた……スーダンに対する制裁措置のため、工場の破壊によって生じた深刻な穴を埋めるのに必要なだけの薬品を輸入することができない……1998年8月20日、米国政府が取った作戦行動はいまだにスーダンの人々から必要な医薬品を奪い続けている」(ジョナサン・ベルケ『ボストン・グローブ』1999年8月22日号)

 イドリス・エルタイエブ博士は、スーダンの一握りの薬学者の一人でアル−シーファの会長だ。「あの犯罪は」と博士は言う。
「ツイン・タワーのテロと等しいテロ行為である――ただ一つ違うのは、やったのは誰かわれわれが知っていることだ。私は[ニューヨークとワシントンで]人命が失われたことをとても悲しく感じる。しかし、数という点で言うなら、また、貧しい国に負わされた相対的なコストの大きさで言うなら、〔スーダンの爆撃の方が〕ひどい」

 ミサイル攻撃の直前に、スーダンは大使館を爆破した容疑者2名を拘束。米国政府に通報したが、米国はこの協力の申し出を拒否。スーダン側はこれに怒って容疑者を釈放。この中には、「オサマ・ビンラディンとそのアル−カイダ・テロリスト・ネットワークの主要メンバー200人以上に関する今日までの大量のデータベースが入っていた。また、「ファイルには、ビンラディンの幹部たち多くの者の写真や詳しい経歴や、地球上の多くの場所にあるアル−カイダの財政的関係機関の重要な情報が入っていた」。

 驚愕の事実が我々に教えてくれるのは、米国が国益という名の下(もと)に多くの罪無き人々を殺戮(さつりく)していることだ。マスメディアによってもたらされる情報は良識ある市民をつんぼ桟敷へ追いやろうとしている。

 事実を淡々と述べるチョムスキーの姿に骨太の知性を垣間見る。感情的な嫌米主義とは全く質を異にしている。もっと言えば、チョムスキーのメッセージを支えているのは純然たる愛国心かも知れない。

 チョムスキーによって、米国が真に自由の国であることを知る。米国によるイラク攻撃の戦端が開かれようとしている今、本書の価値が一層高まることは間違いない。



9.11テロは物質文明の幻想を破壊した/『パレスチナ 新版』広河隆一
『世界反米ジョーク集』早坂隆
『武装解除 紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治

2002-11-25

新しい生き方を切り開いて全てを「価値」に変えていく/『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『淳』土師守

 ・絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇
 ・無限の包容力
 ・新しい生き方を切り開いて全てを「価値」に変えていく

・『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
・『心にナイフをしのばせて』奥野修司
・『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
・『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎

必読書リスト その一

 これほどまでに生きる事の美しさを描いた本を私は知らない。わずか数センチの中に有り余るほどの愛情で紡ぎだされた生命(いのち)の言葉の数々に、幾度も胸を締め付けられ、感動し、涙を流した。

 どのページのどの文字にも生命(いのち)の崇高さを感じた。憎しみを慈愛に変え、絶望を生きる喜びと希望、そして感謝の心に変えていった母の偉大さに胸を打たれた。

 事件を知ったのは何気なくつけたテレビのニュースからだった。我家から程近い町で小学生の二人の女の子が立て続けに何者かに襲われたらしい……。犯人は捕まっていない。

 何か言いようのない怒りと恐怖が町中を覆いはじめたのはその頃からだった。様々な噂が飛び交い犯人像がまことしやかに囁かれはじめた。小学生達は集団登下校となり、保護者達は皆交代で通学路の道々に見張りに立った。下校後、外で遊ぶ子供達は日増しに減っていった。そんな不安が増していく中で、信じられない残忍な凶行が新たに報道された。そして、少女の一人が亡くなった事を知った。

 連日その話題でどこもかしこももちきりであった。あの時ほど人間不信に陥った事はなかった。そう、町中が人間不信の坩堝(るつぼ)の中に入り込んでいった。犯人はまだ見つからない。事件の起こった町では人影をつくる木という木は切り取られ、空にはヘリコプターが飛び交い、町を歩く自衛官や警察官の数は相当なものであった。そんな中でマスコミ人らしい人影が妙に活気を帯びて、なんともいえない違和感を感じていた。

 近くの町に住む私達も、子供を外で遊ばせる事を一切やめてしまった。公園に行っても人っ子一人姿を見せなかった。そして、登下校の見張りは益々熱を帯び、その後、数ヶ月続いた。黒い車、中年男性、がっちりした体型等、犯人像の噂は具体性を増し、またも、まことしやかに流れはじめ、通りすがりの男性にも警戒心を抱くようになっていった。

 そんな中で、やっと犯人が捕まった。それは、日本中を揺るがせる程の衝撃だった。 誰がこんな結末を予想しただろうか。日本中が暗雲立ち込める中、メディアはお祭り騒ぎであった。被害者の方々やそのご家族に思いを馳せたなら、胸が悪くなるような報道の数々。日本のマスコミの悪辣さを思い知ったのだった。

 それにつけても、山下さんの母としての偉大さは、それらとあまりにもかけ離れ、 対照的であった。人間はこれほどまでに美しく気高く、崇高になれるものだろうか。残虐な手によって、幼い命は傷つけられたが、最後の命の炎を燃やしこの世の生を全うした魂。それは春に舞う桜の花吹雪のように、美しく美しく。そして、その生を終える時、まさに漆黒の闇から旭日が昇らんがごとく威厳に満ちた光を帯びて宇宙に帰っていった。

「少年の凶行は彩花の命の力が自ら選択した『きっかけ』にすぎず、彩花は粛々と自分自身の寿命の最終章にすすんでいくのです」

 まさに、突き抜けるような苦しみの中で、どうにもあらがえなかった運命を価値あるものに変えていかれたのだった。それは、想像を絶する苦しみの中で荘厳ともいえる光景であったに違いない。

 私は、何があっても顔を上げて生きるという決意を彩花に伝えようと、集中治療室に戻りました。
 するとどうでしょう、決意した私の心をすでに知っていたように、彩花は今までとは比べものにならないほど、にっこりと微笑んでいるではありませんか。目もとには明らかな笑い皺ができ、口の両脇にも笑った皺が出来ていました。
 それは、
「お母さん、よかったね。大事なものを手に入れることができたね。これで、彩花は安心できた。お父さん、お母さん、本当にありがとう」
 そう語りかけるかのような、信じがたい笑顔でした。
 そして、それから3時間ほど経った午後7時57分、彩花はこぼれるような笑顔のまま、悠然と旅立ったのです。

【『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子(河出書房新社、1997年/河出文庫、2002年)】

 事件直後すぐにでも生きを引き取ってもおかしくない状態からの奇跡ともいえる彩花ちゃんの様子を思い描き、私は感動で体中が身震いするのを感じた。

 その柱にも、畳にも、この道、あの公園、そこかしこに彩花ちゃんの息づかいを感じる。彩花ちゃんは生き生きとした輝きを放って確かに生きていた。それを証明するように、最後に笑顔で旅立った。

 どのような苦痛がこの世にあったとしても、これほどの苦しみはありえないと思った。あまりにも衝撃的な事件であり、それはあの震災に匹敵するものだった。私には到底読めないと思っていた。けれど、それはとんでもない間違いであった。もっと、もっと早くに読むべきだったと心から後悔した。

 私の父の死に思いを巡らせ、それを価値あるものとして受け入れる事を教えて下さった。あの時突然父は居間で倒れた。すぐに救急車で病院に運ばれ、ありとあらゆる手を尽くしていただいた。「生きて、生きて、死なないで」と、ほとんど意識のない父の背中をさすり父の回復を祈った。けれど、程なく父は霊山へと旅立った。確かに父は体調を悪くしていた。けれど、それほどまでに悪化していた事を全く気付いてやれなかった。そんな自分を何年も何年も責め続けていた。そんな苦痛の日々を送ってきた過去を、山下さんは暖かく価値あるものとして教えて下さった。私はこの本のお陰で、乗り越えられなかった過去に決別する事ができた。

 気高く昇華された人の心は何をもってしても決して悪に犯されることはないのだと実証して下さった。

 京子さんは今も彩花ちゃんを思うとき、涙を流しておられるに違いない。けれど、その涙は無数にきらめく星々のごとく、あまねく照らす月の光のように多くの人々の心に染み渡り、暖かく癒す涙となった。

 憎しみとあきらめを乗り越えて、私たちは前に進むしかないのです。新しい生き方を切り開いて、全てを「価値」に変えていくしかないのです。

 いかなる行きづまりをも打ち破る、自分の内なる「生きる力」に目を開き、耳を傾けなければなりません。

 これらの言葉の数々は、今後の私の人生の大いなる目的となるでしょう。

 強く雄々しく生きていくことの素晴らしさを教えて下さった、山下京子さんと、彩花ちゃんに心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

【Ryoko】