2008-08-08

環境・野生動物保護団体の欺瞞/『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人


『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス

 ・環境・野生動物保護団体の欺瞞
 ・環境ファッショ、環境帝国主義、環境植民地主義
 ・「環境帝国主義」とは?
 ・環境帝国主義の本家アメリカは国内法で外国を制裁する
 ・グリーンピースへの寄付金は動物保護のために使われていない
 ・反捕鯨キャンペーンは日本人へのレイシズムの現れ
 ・有色人捕鯨国だけを攻撃する実態

『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン
『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

必読書リスト その二

 シーシェパードという環境団体が、日本の調査捕鯨船に対して妨害行為を行ったことは記憶に新しい。テロ同様の示威行為がなぜ可能なのか? 本書を一読すれば理解できる。

 1970年代に端を発した環境・野生動物保護運動は、ことごとく成功を収めた。成功者はグリーンピース、WWF(世界自然保護基金)などの巨大環境保護団体である。彼らはマスメディアを利用して、説得力ある訴えと目を引きつける映像を一般大衆に送り、国際世論を創り上げた。だが、その訴えの多くが事実に反していたし、映像も創作されたものがほとんどだった。

【『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人〈うめざき・よしと〉(成山堂書店、1999年)】

 安易な陰謀モノではない。梅崎義人氏は元時事通信の記者である。環境問題や野生動物保護運動の矛先が、常に有色人種国家に向けられている現状を丁寧に描いている。

 既に「環境問題」なるキーワードがグローバルスタンダードとなってしまったが、気候変動(こちらが世界標準の言葉)が環境破壊によるものなのかどうかは確定しているわけではない。名古屋大学大学院教授の武田邦彦氏は、「科学的な視点の欠如」を指摘している。人類の歴史を振り返っても、脅威となるのは寒冷化であって温暖化ではない。

 テーマは環境問題となっているが、書かれているのは「国際社会がどのような力学で動いているか」という実にスリリングな内容である。欧米列強の行為はいじめにも等しいもので、あまりにも稚拙な世界の実態に驚愕せざるを得ない。静かな怒りから生まれた“告発の書”である。

2008-07-27

トイレの中に8人の女性が3ヶ月間も隠れ続けた/『生かされて。』イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン


『ホテル・ルワンダ』監督:テリー・ジョージ

 ・トイレの中に8人の女性が3ヶ月間も隠れ続けた

『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ
『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール
『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク
『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア

必読書リスト その二

 ルワンダもの、2冊目。レヴェリアン・ルラングァが怒りにのた打ち回り、神をも裁いたのに対し、イマキュレー・イリバギザは大虐殺を通して信仰をより深めている。圧倒的な暴力にさらされても、人によって反応はこれほど異なる。どちらが正しくて、どちらが間違っているという類いの違いではなく、人間の奥深さを示すものだ。

 冒頭に掲げられたこの言葉が、イマキュレーの立場を鮮明にしている。

 もはや何一つ変えることが出来ないときには、
 自分たち自身が変わるしかない
   ――ビクトール・E・フランクル

【『生かされて。』イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン:堤江実〈つつみ・えみ〉訳(PHP研究所、2006年/PHP文庫、2009年)以下同】

 幼い頃、彼女はフツ族とツチ族の違いすら知らなかったという。

 フツとツチは同じキニヤルワンダ語を話し、同じ歴史を共有し、同じ文化なのです。同じ歌を歌い、同じ土地を耕し、同じ教会に属し、同じ神様を信じ、同じ村の同じ通りに住み、時には同じ家に住んでいるのです。

 だが、植民地宗主国が既に“人種”という太い線を引いていた。

 ドイツの植民地になった時、また、ベルギーがその後を継いだ時、彼らがルワンダの社会構造をすっかり変えてしまったということも知りませんでした。  それまで、ツチの王が統治していたルワンダは、何世紀ものあいだ平和に仲良く暮らしていたのですが、人種を基礎とした差別的な階級制度に変えられてしまったのです。
 ベルギーは、少数派のツチの貴族たちを重用し、支配階級にしたので、ツチは支配に必要なより良い教育を受けることが出来、ベルギーの要求にこたえてより大きな利益を生み出すようになりました。
 ベルギー人たちが人種証明カードを取り入れたために、二つの部族を差別するのがより簡単になり、フツとツチのあいだの溝はいっそう深くなっていきました。これが、フツの人たちのあいだに絶え間ない恨みとして積み重なり、大虐殺の基盤になったのです。

 大きな出来事が起こる前には必ず予兆があるものだ。しかし、よりよい社会を築く努力をした者ほど、努めて楽観主義であろうとする。イマキュレーの父親もそうだった。

「いいや、お前は大げさすぎるよ。みんな大丈夫さ。前より事態は良くなっているんだ。それにこれは、単に政治のことだからね。子どもたち、心配はいらない。みんなうまくいくさ。大丈夫」と、父は私たちをなだめました。

 この一言が家族を地獄へと導いた。留学中の兄とイマキュレーを除いて全員が殺される羽目になる。

 彼女は教会の狭いトイレの中で、7人の女性たちと共に3ヶ月間も隠れ続けた。凄惨な現場を見てないとはいえ、密閉された空間で同胞の殺戮を知ることは、極度のストレスにさらされる。それでも、彼女はあきらめなかった。満足な食べ物もなく、風呂にも入れない状況下で、彼女は英語を学ぶ。

 私はただちにそれ(2冊の分厚い英語の本と辞書)を開きました。見慣れない言葉にワクワクしながら、まるで金で出来ているかのように扱いました。アメリカの大学から奨学金をもらったような気分でした。
 祈りの時間は少なくなりましたが、でも、勉強しているあいだ、神様は一緒にいて下さるとわかっていました。

 私は、他の女性たちが、眠っているか、ぼんやりしている時に、新しい宇宙を探検し、一日じゅう、祈りを唱え、真夜中過ぎまで窓から漏れるかすかな明かりで、もうこれ以上目を開けていられないというまで本を読み続けました。一瞬一瞬、神様に感謝しながら。

 イマキュレーは希望を捨てなかった。だが、建物を一歩出れば、ツチ族は虫けらよりも酷い殺され方をしていた。

 6月中旬、隠れてから2カ月以上が過ぎた時です。
 私は、牧師の息子のセンベバが窓の下で友達と話しているのを聞きました。
 その近所で最近あった殺戮について、目撃したり、あるいは誰かから聞いたりしたもので、その恐ろしさは今までに聞いた中でも最悪でした。
 私は、少年の一人が、まるでサッカーゲームのことでも話しているような調子で身の毛のよだつような恐ろしい出来事を話すのを聞いて、吐いてしまいそうになりました。
「一人の母親が捕まえられたんだ。彼らは次々にレイプをした。その女は、どうぞ子どもたちを向こうにやって下さいと必死で頼んだ。でも、彼らは、その夫と3人の小さい子どもののどもとに大鉈を突きつけて、8人から9人がレイプするあいだ、彼らに見させたんだと。それで、終わった時に全部殺したんだ」  子どもたちは、より苦しんで死ぬように、足を叩き切った後、生きたままその場に放置され、赤ん坊は、岩にうちつけられ、エイズにかかっている兵士は、病気がうつるように10代の少女をレイプするように命令されたのでした。

 この件(くだり)を読んだ時、私は「フツ族は全員死刑にすべきだ」と思わざるを得なかった。誤った歴史を吹聴され、誤った教育を受け、誤った情報に踊らされた民族は、これほど酷(むご)いことができるのだ。フツ族は隣人のツチ族を笑いながら大鉈で切り刻んだ。

 フツ族の中には、親しいツチ族を匿(かくま)う者もいることはいた。だが、その実態はこうだった――

 僕は、彼を藪に隠れながら引きずって、誰も僕たちを知らない場所の病院に運んだ。そうして、ローレンが僕たちをフランス軍が来るまでかくまってくれたんだ。
 それは恐ろしいことだった。彼は我々をかくまって命を助けてくれた。でも、僕たちは生きていることが苦痛だった。ローレンは、毎朝、我々を起こしてお早うって言うんだ。それから出かける。何時間もツチ狩りをするためにね。僕の家族を殺した奴らと一緒にだ。
 彼が夕方返ってきて夕食を作る時、洗い落とせなかった血が飛び散った跡が、手にも服にもついているのが見えるんだ。僕たちの命は、彼の手の中にあったから、何も言えなかったけれど。どうして、そんなことが同時に出来るのか、僕にはわからないよ」

 こうなると、ツチ族を殺すことはスポーツであり、遊興と変わりがなかったことだろう。人間がここまで残酷になれる事実が恐ろしい。いかなる理由であろうとも、それが正当化されてしまうと、人は人を躊躇(ためら)うことなく殺せるのだ。

 イマキュレーは、無事保護された後、トイレで学んだ英語を武器に国連職員となった。彼女が発する「許す」という言葉には、私の想像も及ばぬ呻吟(しんぎん)が込められているのだろう。だが、私のマチズモが彼女への共感を拒否しているのも確かだ。

 それでも人は生きてゆかねばならない――これほど厳しい現実があるだろうか?

2008-07-26

笑い飛ばす知性/『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ


 ・笑い飛ばす知性
 ・時は金なり

『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』ローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル
『パーキンソンの法則 部下には読ませられぬ本』C・N・パーキンソン
『新版 人生を変える80対20の法則』リチャード・コッチ

必読書リスト その三

 既に10冊ほど読み終えているのだが、如何せん書評にする作業が進まない。その間にも記憶は蜘蛛の糸のように細く、はかなく揺らめいている。あっ、今何本かが消えた(笑)。

 インチキイタリア人と思われるパオロ・マッツァリーノである。インチキというのは「なりすまし」の意。名前からしてこうなんだから、内容は推して知るべし。ブラックジョークを基調にしながらも、「知力」というスパイスを効かせている。常識のデタラメを突く槍の切っ先は鋭い。しかし、傷口から流れ出るのは、血ではなく笑いである。全くもってお見事。中学あたりの教科書に採用して、「笑い飛ばす知性」を身につけさせるべきだと思う。

 昭和50年代の後半には校内暴力の増加が社会問題としてクローズアップされていました。横浜銀蝿が人気を博し、ツッパリがブームになったのも、この頃でした。それまでは、教師が生徒を殴るのが普通だったのが、ここから立場が逆転し始めたのです。
 青少年の反抗がブームや流行というのもおかしな話ですが、60年代の学生運動だって、大部分の若者にとっては一時の熱に浮かされたブームだったのです。その証拠に、学生運動家もツッパリもほとんどが、ブームの終焉とともに平凡なサラリーマンになっているのです。
 不思議なことに、こういった、ファッションで反抗を試みていた人たちというのは、就職すると見事なまでに体制に順応します。企業が社員に課す、人権侵害も甚だしい研修、軍隊式特訓、カルト宗教もどきの苦行を、嬉々としてやるのですから。

【『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ(イースト・プレス、2004年/ちくま文庫、2007年)以下同】

 全学連共闘世代も、卒業すると大手企業に就職した。日本で思想を堅持するのは、かようなほど難しい。ひょっとすると、転向が好きな民族なのかも知れない。

 いまから2000年前ちょっとのこと、ベツレヘムの地に男の子が生まれました。彼は29歳まで両親の家に住み、たまに父親の大工仕事を手伝うくらいで、ぶらぶらしていました。30歳でようやく家を出て本格的な布教活動に精を出しますが、わずか2年ほどで、生涯独身のまま死刑にされてしまいました。
 このように成人後も親と同居する独身者を、近年の日本では「パラサイトシングル」と呼んでいます。ですからイエス・キリストは世界初――かどうかはともかく、世界一有名なパラサイトシングルであることは確かです。なにしろ全世界で20億人の信者から愛されているのですから。
 布教活動で有名になったものの、故郷ではイエスの評判は芳しくなかったと伝わっていますが、それはたぶん、故郷の人たちは彼がパラサイトシングルでフリーターだったことを知っていたからでしょう。

 イエスがフリーターだとは知らなかったよ。この件(くだり)は、フリーターなんぞは昔から存在したことを証明した箇所。この後、文明開化した明治期、米国では既に奴隷が解放されており、これをモデルにした日本が「勤勉さが美徳」であることを国民に叩き込み、富国強兵政策が国民から財産を収奪したことが指摘されている。

 パオロ・マッツァリーノの言葉に対する感覚の鋭さも見逃せない。

「いいかげん」が否定的に使われるようになったのは明治以降、「適当」が否定的な意味を持ったのは戦後になってからです。

 昨今、問題になっている派遣労働者の社会的地位の低さをヨーロッパと比較して炙(あぶ)り出している。

 フランスには、いわゆる日本式のアルバイト・パートという労働形態そのものがありません。JETRO(日本貿易振興会)パリセンターのレポートです。

 仏で「パートタイム労働」と言った場合、純粋に契約労働時間が他の社員より短いというだけの意味で、原則として「正社員(CDI)」は「期間限定社員(CDO)」である……したがって、仏ではマクドナルドにいる労働者もスーパーのレジ打ちも全て正社員なのである……たとえ1日の契約であっても社会保障・労働保険加入は必須であり、社会保障に入らない雇用(すなわち「闇労働」ということになるが)など考えられない。

 日本だって本当は、週五日フルに働いているフリーターやパートなら、社会保険や雇用保険に加入できるはずなんです。加入の基準があいまいなので、ほとんどの会社がしらばっくれているだけです。

 年金問題についても卓見が示されている。

(1億円以上の資産を持っている人に年金は支払わないという著者の私案に対して)また、こういう反論もあるはずです。「真面目に働いて老後の資金を貯めておいた者が年金をもらえず、老後の資金も貯めてないような遊び人がもらえるのは不公平じゃないか」。これは二通りの意味で間違っています。
 まずひとつには、真面目に努力をしたからといって、成功するとはかぎらないということです。中根千枝さんがかの有名な『タテ社会の人間関係』で書いているように、日本には、人の能力は平等で、努力によって結果が決まるという考えが根強く残っています。だから、貧乏なのは努力が足らないからだ、なんて暴論・結果論がまかり通ってしまうのです。
 現実には、どんなに真面目に努力しても、自力で老後の資金を1億円も貯められない人がほとんどであり、だからこそ救済措置として年金制度があるのです。65歳時点で1億円の資産を持っている人は、人生の勝ち組です。勝ち組になった人には、社会に貢献・奉仕する義務があるんです。会社案内のパンフレットに「当社は広く社会に貢献し……」なんて企業理念を書いておきながら、自分だけは勝ち逃げしようなんてのは許されませんよ、社長さん。
 もう一つの理由。現在日本が不景気なのは、個人消費が冷え込んでいるせいだと前回いいました。遊び暮らしていた人は、積極的な消費活動を行って日本経済を破綻から救っていたのです。もちろん、年金保険料だけはきちんと納めることが絶対条件ですが、それ以外の収入はすべて使いきって65歳時点でスッカラカンになっている人にこそ、その功績をたたえて年金をあげるべきなのです。

 近頃はメディアでも、「虐げられた側からの感情論」が目立っているが、経済の基本を押さえた上で、所得の再分配を促している。

 まだ、笑いながらこの本を読めるうちは恵まれた状況といえる。例えば数年後、あるいは数ヶ月後に「笑えない状況」が訪れたとしよう。ストレスまみれとなった一部の国民はあっさりと犯罪に手を染め、テロ行為に及ぶかも知れない。その時、真っ先に犠牲になるのは、社会保険庁の職員や、派遣労働者から利益を搾り取る資本家であろう。メディア関係者も危険でしょーな。政治家もお気をつけあそばせ。

 そうならないためにも、この本から学んでおくことは多い。笑っているだけじゃダメだよ(笑)。

2008-07-24

眼の前で起こった虐殺/『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ


『ホテル・ルワンダ』監督:テリー・ジョージ
『生かされて。』イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン

 ・眼の前で起こった虐殺
 ・ジェノサイドが始まり白人聖職者は真っ先に逃げた
 ・今日、ルワンダの悲劇から20年

『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール
『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク
『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア
『それでも生きる子供たちへ』監督:メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、スパイク・リー、カティア・ルンド、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウー
『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス
『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ
『命がけの証言』清水ともみ

必読書リスト その二

 ルワンダものを読むのは初めてのこと。私の知識は『ホテル・ルワンダ』で得たものしかなかった。『ホテル・ルワンダ』は国連平和維持軍に守られているエリアからの視点であった。一方、レヴェリアン・ルラングァは塀の外の大虐殺を目の前で目撃した。だが、目撃しただけではない。体験させられたのだ。2分とかからぬ間に43人の身内を殺され、彼自身も身体をマチューテ(大鉈)で切り刻まれ、左手を切り落とされ、虐殺を目撃した左眼をえぐり取られた。これが、15歳の少年の身に振りかかった現実であった。

 ジェノサイド(大量虐殺)といえば、ヒトラーによる600万人のユダヤ人殺戮が代名詞となっているが、ルワンダで起こったこととは決定的な違いがある。ルワンダでは、近隣の友人や知人が大鉈を振り回し、赤ん坊を壁に叩きつけたのだ。何と100日間という短期間の間に、100万人のツチ族が殺された。1日1万人、1時間で417人、1分間で7人……。ルワンダの大地は文字通り血まみれになったことだろう。

 錠が飛んだ。扉が半開きになる。小さな弟たちや従兄弟たちが泣き、従姉妹たちが悲鳴を上げる。最初に扉の隙間から顔をのぞかせた男は、私の知っている男だった。シモン・シボマナという、繁華街でキャバレーを経営している無口な男。(中略)
 シボマナは怒鳴った。
「伏せろ、さあ、早く。地面に伏せるんだ!」
 ふと側にいる伯父ジャンの存在に気が付く。伯父は少しだけ左向きに身体を起こし、頭をのけぞらせて彼を見つめている。シボナマは素早い動作で伯父の首を切り落とす。ホースから水が噴き出すように、血しぶきが笛の音のような音を立てて鉄板屋根までほとばしった。
 伯父ががっくりとくずおれた時、一人の子供がとりわけ大きな叫び声を上げた。9歳になる伯父の末子ジャン・ボスコだ。シボマナはマチューテの一撃で子供を黙らせる。キャベツを割るような音と共に、子供の頭蓋骨が割れる。続いて彼は4歳のイグナス・ンセンギマナを襲い、何故だか分からないがマチューテで切り付けた後で死体を外に放り投げた。(中略)
 血が血を呼ぶ。荒れ狂う暴力。シボマナは地面に横になっている祖母を踏んだ。暗くてよく見えなかったのだが、彼が祖母を殺そうとすると、祖母は断固とした口調で言った。
「せめてお祈りだけでもさせておくれ」
「そんなことしても無駄だ! 神様もお前を見捨てたんだ!」
 そして祖母を一蹴りしてから切り裂いた。
 私はその時何も感じていなかった。恐怖、恐怖、恐怖しかなかった。恐怖にとらわれて私の感覚は麻痺し、身動きすることさえできなかった。クモの毒が急に体温を奪うように。心臓がどきどきし、汗が至るところから噴き出す。冷え切った汗。
 シボマナは切って切って切りまくった。他の男たちも同じだ。規則的なリズムで、確かな手つきで。マチューテが振り上げられ、襲いかかり、振り上げられ、振り下ろされる。よく油を差した機械のようだった。農夫の作業みたいに、連接棒の動きのように規則的なのだ。そしていつも、野菜を切るような湿った音がした。

【『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ:山田美明〈やまだ・よしあき〉訳(晋遊舎、2006年)以下同】

 シボマナが大笑いして、私に近付いてきた。
「おやおや、そこで外に鼻を突き出しているのは、ツチの家族の長男じゃないか!」
 そう言うと非常に機敏な動作で、私の顔から鼻を削いだ。
 別の男が鋲(びょう)のついた棍棒で殴りかかってくる。頭をそれた棍棒が私の肩を砕き、私は地面に倒れ伏した。シボマナはマチューテを取替え、私たちが普段バナナの葉を落とすのに使っている、鉤竿(かぎざお)のような形をした刃物をつかんだ。そして再び私の顔めがけて襲いかかり、曲がった刃物で私の左目をえぐり出した。そしてもう一度頭に。別の男がうなじ目掛けて切りかかる。彼らは私を取り囲み、代わる代わる襲ってきた。槍が、胸やももの付け根の辺りを貫く。彼らの顔が私の上で揺れている。大きなアカシアの枝がぐるぐる回る。私は無の中へ沈んでいった……。

 元々、ツチ族とフツ族は遊牧民族と農耕民族の違いしかなかった。そこに勝手な線引きをしたのは植民地宗主国のベルギーだった。1994年の大虐殺もイギリスとフランスがそれぞれの部族にテコ入れしている。挙げ句の果てにはアメリカ(クリントン大統領)が、ルワンダ救援を阻止した。シエラレオネと全く同じ構図で、アメリカ人にとっては、アフリカで行われている殺し合いなど、昆虫の世界と変わりがないのだろう。

 ラジオでは毎日、「ツチ族を殺せ! ゴキブリどもを殺せ!」とディスクジョッキーが扇動する。フツ族の子供はラジオ番組に電話をし、「僕は8歳になったんですが、ツチ族を殺してもいいんですか?」と質問をした。実際にあったエピソードである。そして、フツ族の少女は笑いながら略奪に加わった。

ルワンダ大虐殺を扇動したラジオ放送

 果たして何が人間をここまで変えるのか? 善悪という概念は木っ端微塵となって、フツ族はあたかも狩りやスポーツを楽しむように、ツチ族の身体を切り刻む。しかも、フツ族はただ殺すだけでは飽き足らず、ツチ族が苦しむように一撃では殺さなかった。幼い子供達は足を切断して放置された。

 人は物語に生きる動物である。物語は情報によって変わる。嘘やデマと、誤信・迷信がマッチした瞬間から、憎悪の焔(ほのお)が燃え始める。結局、白人がでっち上げた歴史を鵜呑みにしたフツ族が、殺戮に駆り立てられた側面が強かったと思わざるを得ない。

 本書の後半からレヴェリアン・ルラングァの葛藤が描かれる。深い自省は静かな怒りとなって青白く燃え上がり、神に鉄槌を下す。その烈しさは、ニーチェをも圧倒している。

 母は最期まであなたのことを信じていました。それはよくご存知でしょう。母がいくら祈っても、私がお願いしても、全能の神であるはずのあなたは指一本たりとも動かすことなく、母を守ろうとしませんでした。私はその乳とあなたの言葉で育ててくれた母は、喉の渇きに苦しみながら死んでいきましたが、あなたは自分のしもべの苦痛さえ和らげようとせず、干からびた母の唇に清水の一滴も注ごうとはしませんでした。その唇は最後の最後まであなたの名を唱え、あなたを褒め称えていたというのに。

 伯父ジャンの喉元から血がほとばしり出た瞬間、私の信仰も抜け出ていきました。
 祖母ニィラファリのお腹から生命が逃げ去った瞬間、私の信仰も逃げていきました。
 叔父エマニュエルが串刺しにされた瞬間、私の信仰も串刺しにされました。
 殺戮の場と化した教会の壁にあの子供たちが打ち付けられて、その頭蓋骨が砕かれた姿を見た瞬間、私の信仰も砕かれました。
 私が愛した人々の命が燃え尽きた瞬間、私の信仰は燃え尽きました。
 鋲つきの棍棒で肩を粉々に砕かれた瞬間、私の信仰も粉々に飛び散りました。

 あなたには、無垢な人々を救う手さえないのですか?
 自分の子供の不幸も見えないほど目が悪いのですか?
 彼らの叫び声も、助けを求める声も、悲嘆の声も聞こえないほど耳が悪いのですか?
 彼らをずたずたに切り裂こうと襲ってくる汚らしいやつらを踏み潰す足さえないのですか?
 涙を流す人々と共に、涙を流す心さえ持っていないのですか?
 か弱き者や小さき者を守るはずなのに、ゴキブリたちさえ守ることができないほど無力なのですか?
 つまりあなたは、闇の中にいて盲目の眼差しで私を見つめるだけの無力な神なのですね?
 しかしそんなことはどうでもいいのです。私の心の中では、あなたはもう死んでいるのですから。

 テレビを消して、この本と向き合おう。我々がメディア情報に振り回されている内は、いつでもフツ族になる可能性があるからだ。善と悪との間に一線を画すためには、「嘘を見抜き、嘘を否定する」ことである。



暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ
縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ
ルワンダ大虐殺の爪痕
ラス・カサスの立ち位置/『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
会津戦争の悲劇/『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人

2008-05-23

平和とは究極の妥協/『武装解除 紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治


『9.11 アメリカに報復する資格はない!』ノーム・チョムスキー
『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二
『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア

 ・平和とは究極の妥協

『NHK未来への提言 ロメオ・ダレール 戦禍なき時代を築く』ロメオ・ダレール、伊勢崎賢治
『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール
『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス

 威勢がいい。喧嘩も強そうだ。国際NGOに身を置き、世界各地で紛争処理の指揮を執ってきた人物である。白々しい理想もなければ、七面倒な平和理論もない。伊勢崎氏は素早く現実を受け入れ、具体的に武装解除を行う実務家である。平和は「説くもの」ではない。明治維新において数々の調停をこなしてきた勝海舟を思わせる。

「組織は所属し自分のために利用するが絶対に帰属しない」というスタンスはその後、今の今までずっと続いている。

【『武装解除 紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治(講談社現代新書、2004年)以下同】

 やや日本人離れした印象を受けるのは、徹底して個人であろうとしているためだろう。

 人は、明日の糧を想い、子供たちの明日を想い、たとえ慢性的な飢餓の状態であっても、ぎりぎりの状態まで、来季植えるはずの種に口をつけるのをためらう。この営みを「開発」という。「開発」とは、明日を想う人々の営みである。だからこそ、どんなに貧しい人々であろうとも、それぞれの地にとどまり、なけなしの種を蒔(ま)き、雨を待つ。未来への投資。まことにちっぽけなものであるが、それこそが自らの「開発」に向けての意欲である。僕たち国際協力業界の人間は、その意欲に寄り添い、それが倍倍速で進むよう追加投資をするのだ。しかし、「紛争」は、それを根こそぎ、人々の社会秩序、伝統文化、人間の倫理を含めて、すべて破壊し、人々を地から引き裂く。人々の「開発」の営みが、その積年の集積が、そして僕たち「部外者」が他人の生活のうえに描く理想郷が、一瞬にして廃墟と化す。

 平和活動家にありがちな自己讃美は皆無だ。「開発」という言葉の重みを見事に表現している。

 9.11、世界貿易センターでの犠牲者は3000人余。
 シエラレオネで、殺人より残酷と言われる手足の切断の犠牲者になった子供たちの数は、数千人。10年間の内戦の犠牲者は、5万とも、50万人とも言われる。この内戦の直接的な指導者は、フォディ・サンコゥ。
 過去の虐殺を犠牲者の数だけで比較するのは不謹慎かもしれない。しかし、3000人しか死んでないのに、なぜそんな大騒ぎを、というのが、1000人単位で市民が犠牲になる身近なニュースに馴れたアフリカ人の率直な感想だろう。そして、3000人しか殺していない(それも自爆テロという勇敢な方法で)オサマ・ビンラディンが“世界の敵”になり、量的にその何十倍の残虐行為(それを無知な子供を少年兵として洗脳し、親兄弟を殺させ、生きたまま子供の手足を切断し、妊婦から胎児を取り出し、目をえぐり、焼き殺す)を働いた首謀者フォディ・サンコゥが、どうしてシエラレオネの副大統領になるの? というのが、前述のBBCの番組に生の声の出演をした名もないシエラレオネ人婦人の本音であったろう。

 この鬼畜の如き人物を副大統領にしたのは米国であった。BBCのラジオ国際放送に電話で参加したリスナーの女性は、「オサマ・ビン・ラディン氏を米国の副大統領にすべきだ」と主張した。

 米連合軍の司令官クラスと日常的に接する著者は、日本の資金的貢献が評価されていることを実感する。

 つまり、相手はちゃんと評価しているのに、評価していないと、その相手がいない日本国内で、日本の政治家たちは騒ぎ立ててきたのだ。
 本来、国際協力の世界では、金を出す者が一番偉いのだ。
 それも、「お前の戦争に金だけは恵んでやるから、これだけはするな、それが守れない限り金はやらない」という姿勢を貫く時、金を出す者が一番強いのだ。
 しかし、日本はこれをやらなかった。「血を流さない」ことの引け目を、ことさら国内だけで喧伝し、自衛隊を派兵する口実に使ってきた。
 ここに、純粋な国際貢献とは別の政治的意図が見え隠れするのを感じるのだ。

 議論巧者とは全く異質の説得力がある。さすが、「紛争屋」を名乗るだけのことはある。