2009-10-23

日本は「最悪の借金を持つ国」であり、「世界で一番の大金持ちの国」/『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』廣宮孝信


 ・日本は「最悪の借金を持つ国」であり、「世界で一番の大金持ちの国」

『消費税は0%にできる 負担を減らして社会保障を充実させる経済学』菊池英博
『騙されないための世界経済入門』中原圭介
『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート

 これは勉強になった。しかも、わかりやすい。ネット情報が多いのが気になった程度だ。著作における引用文献は、やはり書籍からにした方が紙価を高からしめる。

 不況対策は大雑把にいえば三つしかない。公共事業、利下げ、そしてバラマキである。利下げは資金需要が高ければ効果はあるものの、銀行が貸し出し基準を緩めなければ意味がない。公共事業とバラマキは何をどうやったところで批判を浴びる。結局のところ、糞づまりだ。進むも地獄、退くも地獄、止まっていても地獄……。

 大体、国家予算が富の再分配を目的としていれば二極化が進むはずがない。つまり、徴収・簒奪(さんだつ)された税金は勝ち組に流れていることになる。

「国債の30兆円枠」は小泉政権が掲げた公約であった。2002年度の予算が既にオーバーした際、「首相としては、もっと大きなことを考えなければならない。大きな問題を処理するにはこの程度の約束を守れなかったのは大したことではない」と開き直って見せた姿は今でも記憶に新しい。

 今尚、国債の30兆円枠に固執する与党の政治家は多いが、こんな連中が言うことを鵜呑みにしてはならない。そもそも、これは一般会計の話である。30兆円枠などと健全な姿勢を見せながら、もっと不透明な特別会計を不問に付そうとする目的があるに違いない。

 余談が過ぎた。本書が明かしているのは、マスコミの経済記事の欺瞞ぶりと、国家と会社は違うんだよ、ってな話だ。

 まず、日本の借金について多くの人々は甚だしい誤解をしている。

財部誠一:日本の借金時計

 初めて見た時は私も驚嘆した。特に「あなたの家庭の負債額」である。しかしながら、これは完全な大嘘。まず、日本の借金=私の負債額ではない。ちょっと考えてみればわかることだ。国家は誰から借金しているのか? 国民である。つまり、借金時計の正しい表示は「あなたの家庭の貸付額」となるのだ。そして二つ目の嘘は、国家の資産がここには計上されていない。部分的な情報をもって危機感を煽る典型的な事例といってよい。実は「日本は17年連続世界最大の債権国」なのだよ。

 そして、マクロ経済から見た場合に国の借金はいかなる意味を持つのか? 「民間企業の黒字」に決まっている。こんな基本的な事実すらマスコミは報じていない。世界経済を支えているのはアメリカの貿易赤字である。アメリカが黒字になれば世界が赤字となり、国家が黒字になれば民間が赤字となる。

 政府の借金(負債)は確かに大きい。しかし、政府の資産も巨額である。
 そして、借金というものを考えるときには、「誰かの借金は必ず誰かの資産」という原理原則を忘れてはならない。政府の借金のほとんどは民間の資産である。

【『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』廣宮孝信〈ひろみや・たかのぶ〉(彩図社、2009年)以下同】

 世界全体で「連結」してしまえば、全ての資産と全ての負債は一致するはずである。つまり純資産(=資産から負債を差引いた残額)は全世界で合計すればゼロとなる。

 一方、日本経済全体を俯瞰するとどうか――

 非金融法人企業の金融純負債はピーク時には700兆円近くに達しているのだが、こんなことになってもマスコミは「普通の家庭に例えれば破産寸前」などと騒ぎ立てたりすることはない。
 最新(2008年3月)の政府の金融純負債はいまだ450兆円程度である。しかも、民間の純資産の伸びが政府の純負債の伸びを上回っているし、国全体で連結すれば世界最大かつ過去最高の対外純資産250兆円(資金循環統計では282兆円)があるのだ。
 本来ならマスコミ各社は「普通の家庭に例えれば、日本はビル・ゲイツやウォーレン・バフェット並みの億万長者」とでもいって騒ぎ立てるべきなのである。

 では何が問題なのか――

 問題は国の借金が大きいことではない。
 GDPが伸びないこと、資産効率が落ちていることが問題なのだ。

 サブプライムローン問題が発覚するまで、世界の先進国はバブルに沸いていた。その中にあって日本は「空白の10年」を経て、やっとこれからという時期だった。これほどの貧乏くじはない。

 世界各国を見ても借金は一貫して増えている。日本だけが特別な財務状況となっているわけではない。では、どうすればGDPを伸ばすことができるのか――

 ちなみに、詳しい計算過程は〔図表35〕に示すとおりで、数学的には「無限等比級数の和」の公式から求められる。
 つまり、政府が100万円支出を増やせば、GDPが233万円増えるということになるのだ。このような効果を「乗数効果」という。
 政府の支出は、それ以上のGDPを生み出す。政府が支出を増やせば、GDPはそれ以上に増える。これが、アメリカのGDPが借金以上に伸びていることの原理である。

 これが答えである。政府支出を増やすことで、民間企業に活力を与えれば当然のごとく税収は増える。政府与党の無策ぶりを見ていると、意図的に不況を維持しているようにすら感じてしまう。

 空白の10年のツケは大きい。終身雇用がことごとく破壊され、将来不安を招いてしまった。未来に不安を抱えたままで消費が上向きになることは考えにくい。とすると、「いつでも安心して転職できる」社会基盤が求められる。

 最後にもう一つ。資本主義経済の本質は、効率ではなく無駄(=余剰)にあると私は考える。景気対策には無駄づかいが一番。

2009-10-10

世界銀行の副総裁を務めた日本人女性/『国をつくるという仕事』西水美恵子


田坂広志『なぜ、我々は「志」を抱いて生きるのか』

 ・世界銀行の副総裁を務めた日本人女性

『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス

 面白かった。国際社会が政治力学のみで動いているわけではないことがわかる。西水美恵子はサザエさんそっくりだ。性格はもとより顔つきまで似ている。ただし、この人は良家の出。これが読み始めた際の印象を悪くした。途中で一度挫けそうになったことを白状しておこう。本書のタイトルも同様で、「フン、金貸し風情が随分と大きく出たもんだ」と思わざるを得ない。

 ただ、こうした違和感は上流階級の文化に基くものであり、所詮は庶民のひがみなのだろう。鼻につく表現が時折見られるが、それは西水が育ってきた環境を形成している文化であって、私は彼女の人間性を批判するつもりはない。

 西水はイギリス人男性と結婚。夫はIMF(国際通貨基金)に勤務し、本人はプリンストン大学の助教授をしていた。

 チェネリー副総裁は、そんな不真面目な私を笑いながら、契約にひとつの条件を出した。
「一国でもいい。発展途上国の民の貧しさを、自分の目で見てくるように……」
 プリンストンの修士課程を終えて世銀で活躍していた教え子が、それならエジプトがいいと誘ってくれた。彼が率いる開発5カ年計画調査団に同行して、首都カイロへ飛んだ。
 週末のある日、ふと思いついて、カイロ郊外にある「死人の町」に足を運んだ。邸宅を模す大理石造りの霊廟がずらりと並ぶイスラムの墓地に、行きどころのない人々が住み着いた貧民街だった。
 その街の路地で、ひとりの病む幼女に出会った。ナディアという名のその子を、看護に疲れきった母親から抱きとったとたん、羽毛のような軽さにどきっとした。緊急手配をした医者は間にあわず、ナディアは、私に抱かれたまま、静かに息をひきとった。
 ナディアの病気は、下痢からくる脱水症状だった。安全な飲み水の供給と衛生教育さえしっかりしていれば、防げる下痢……。糖分と塩分を溶かすだけの誰でも簡単に作れる飲料水で、応急手当ができる脱水症状……。
 誰の神様でもいいから、ぶん殴りたかった。天を仰いで、まわりを見回した途端、ナディアを殺した化け物を見た。きらびやかな都会がそこにある。最先端をいく技術と、優秀な才能と、膨大な富が溢れる都会がある。でも私の腕には、命尽きたナディアが眠る。悪統治。民の苦しみなど気にもかけない為政者の仕業と、直感した。
 脊髄に火がついたような気がした。

【『国をつくるという仕事』西水美恵子〈にしみず・みえこ〉(英治出版、2009年)】

 ナディアの死が西水の人生を変えた。不正が罪なき人を殺す現場に遭遇した瞬間、それまでは自分のものであった人生を、彼女は貧しい人々に捧げることを決意した。

 本をどう読むかは、「人をどう見るか」、「人生をどう生きるか」といった次元に連なっている。そこに如何なる価値を見出し、反価値(マイナス価値)を見定めるか――物語を読み解く営みの本質はこの一点にある。手放しの称賛は目を曇らせる。頭ごなしの批判は目を閉じさせる。仏像が半眼(はんがん)であるのは、あの世とこの世を見つめているとされているが、結局のところは“正視眼”(せいしがん)の肝要さを示しているのだろう。

 本書は西水の経験に即して書かれており、世界銀行という存在の正当性については全く触れられていない。例えば、ブッシュ政権で国防副長官を務めたポール・ウォルフォウィッツが、その後世界銀行の総裁に就任している。彼は「米国で最も強硬なタカ派政治家」だよ。タカ派というのは、舌禍(ぜっか)でもって世論に波風を立て、センセーショナルな言動をぶちまけて世論を誘導しようと目論む。石原慎太郎のように。エゴが国家の名をまとうと、何となく説得力を持ってしまう。さしたる考えもなしで、「やっぱり、俺も日本人だからなあ」と頷いてしまう。ここが恐ろしい。

愛国心への疑問/『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆

 チト、余談が過ぎた。ま、そんなわけで物足りなさを感じはするものの、西水というサザエさんは本気で仕事をした。副総裁となった彼女が接する相手は国家元首クラスの連中だ。彼等の前で常識を説くことが、どれほど勇気を要することか。だが、胸にナディアを抱く西水は、真っ直ぐな言葉を浴びせる。

 決して一筋縄ではいかない国際舞台で、一人の日本人女性が必死で貧しい人々の側に立って、与えられたポジションを最大限に利用し、奮闘した足跡が綴られている。悪しき権力者に対して、西水の筆鋒は鋭さを増す。遠慮するところが全くない。その意味で本書は、「権力の正しい使い方」を描いた作品といってよい。

 民主党政権は西水を閣僚に起用すべきだった。

 尚、余談となるが田坂広志の「解説」が薄気味悪い。まるで新興宗教の教祖みたいだ。



モンサント社が開発するターミネーター技術/『自殺する種子 アグロバイオ企業が食を支配する』安田節子
ソフィアバンク
ガバナンス・リーダーシップ考:西水美恵子

2009-10-04

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル:高橋和久訳


『われら』ザミャーチン
『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳

 ・現在をコントロールするものは過去をコントロールする
 ・修正し、改竄を施し、捏造を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆく

『華氏451度』レイ・ブラッドベリ
SNSと心理戦争 今さら聞けない“世論操作”
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー
『AI監獄ウイグル』ジェフリー・ケイジ
ドキュメンタリー映画『プランデミック 3 ザ・グレート・アウェイクニング』〜PLANDEMIC 3: THE GREAT AWAKENING〜

必読書リスト その五

 ディストピア小説の傑作が新訳で蘇った。信じ難いほど読みやすくなっている。高橋和久が救世主に思えるほどだ。世界を読み解く上で不可欠の一書である。舞台設定を未来にすることで、権力の本質が管理・監視・暴力にあることを描き切っている。一見、戯画化しているように思われるが、むしろ細密なデフォルメというべき作品だ。

 それにしてもこんなに面白かったとは! 私は舌なめずりしながらページをめくった。権力は、それを受け容れる人々を無気力にし、自由を求める者には容赦なく暴力を振るう。暴力を振るわなければ維持できない性質が権力にはある。

 優れた小説は人間精神の深奥に迫る。そして精神の力は、肉体に加えられる暴力によって試される。アラブ小説が凄いのは、「想像力としての暴力」ではなく、「現実の暴力」に立脚しているためだ。

 もう一つの太いテーマは、「歴史と記憶」である。権力者は歴史を修正し改竄(かいざん)する。なぜなら、権力の正当性は常に過去に存在するからだ。過去は現在という一点に凝縮され、その現在は未来をも包摂している。つまり、過去と未来は現在を通してつながっているのだ。このため、過去に異なる情報が上書きされると、現在の意味が変質し、未来までもが権力者にとって都合のいいように書き換えることが可能となる――

 党は、オセアニアは過去一度としてユーラシアと同盟を結んでいないと言っている。しかし彼、ウィンストン・スミスは知っている、オセアニアはわずか4年前にはユーラシアと同盟関係にあったのだ。だが、その知識はどこに存在するというのか。彼の意識の中にだけ存在するのであって、それもじきに抹消されてしまうに違いない。そして他の誰もが党の押し付ける嘘を受け入れることになれば――すべての記録が同じ作り話を記すことになれば――その嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう。党のスローガンは言う、“過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする”と。それなのに、過去は、変更可能な性質を帯びているにもかかわらず、これまで変更されたことなどない、というわけだ。現在真実であるものは永遠の昔から真実である、というわけだ。実に単純なこと。必要なのは自分の記憶を打ち負かし、その勝利を際限(さいげん)なく続けることだ。それが〈現実コントロール〉と呼ばれているものであり、ニュースピークで言う〈二重思考〉なのだ。

【『一九八四年』ジョージ・オーウェル:高橋和久訳(ハヤカワepi文庫、2009年/吉田健一・龍口直太郎訳、文藝春秋新社、1950年/『世界SF全集10 ハックスリイ オーウェル』村松達雄・新庄哲夫訳、早川書房、1968年新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫、1972年)】

 恐ろしいことに記憶よりも記録が歴史を司る。そして、記録が抹消されれば過去の改竄はたやすく行われる。移ろいやすく変質しやすい記憶は、記録によって塗り替えられる。

「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」という党のスローガンはこの上なく正しい。民衆をコントロールできる権力者は、歴史をもコントロールできるのだ。

 仏教では権力者の本質を「他化自在天」(たけじざいてん)と説いた。「他を化(け)すること自在」というのだ。しかも、人界の上の天界が住処となっているから、上層で君臨している。本書に照らせば、「他」というのは「他人の記憶」までもが含まれることになる。

 二重思考(ダブルシンク)は人間の業(ごう)ともいうべき性質である。例えば理性と感情、分析と直観、意識と無意識など我々はいつでもどこでも二重性に取り憑かれている。なぜなら、人間の脳が二つ(右脳と左脳)に分かれているからだ。そう考えると、人間は元々分裂した状態にあると考えることも可能だ。

 そして権力者は人々を分断する。自他の間に懸隔をつくり出す。悪の本質はデバイド(割り→分断)にある。

 オーウェルが象徴的に描き出したビッグ・ブラザーは社会のそこここに存在する。それにしてもオーウェルはとんでもない宿題を残してくれたもんだ。

【問い】ビッグ・ブラザーのような権力者とあなたはどのように戦えるかを答えなさい。制限時間は死ぬまで。



岡田英弘
岡崎勝世
野家啓一
『死生観を問いなおす』広井良典
寿命は違っても心臓の鼓動数は同じ/『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』本川達雄
将来は過去の繰り返しにすぎない/『先物市場のテクニカル分析』ジョン・J・マーフィー
読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー
ナット・ターナーと鹿野武一の共通点/『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
人間と経済の漂白/『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン
集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
忠誠心がもたらす宗教の暗い側面/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
新世界秩序とグローバリゼーションは単一国を目指す/『われら』ザミャーチン:川端香男里訳
邪悪な秘密結社/『休戦』プリーモ・レーヴィ
過去の歴史を支配する者は、未来を支配することもできる/『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』加瀬英明
コミンテルンの物語/『幽霊人命救助隊』高野和明
『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』輪島裕介
パーソナルデータは新しい石油である/『パーソナルデータの衝撃 一生を丸裸にされる「情報経済」が始まった』城田真琴
アルゴリズムという名の数学破壊兵器/『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』キャシー・オニール
1948年、『共産党宣言』と『一九八四年』/『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠

2009-09-14

「存在」という訳語/『翻訳語成立事情』柳父章


 ・明治以前、日本に「社会」は存在しなかった
 ・社会を構成しているのは「神と向き合う個人」
 ・「存在」という訳語
 ・翻訳語「恋愛」以前に恋愛はなかった

・『「ゴッド」は神か上帝か』柳父章
・『翻訳とはなにか 日本語と翻訳文化』柳父章

 この手の本はもっと軽い内容で書いてもらいたい、というのが私からのお願いだ。簡潔な文章だと尚いい。本書は言葉の文化的背景に迫っているため、やや重厚な雰囲気が漂い、読者を選ぶ格好になってしまっている。

 こうして考えると、私たちが西欧哲学の翻訳を、「存在」のような漢字二字の表現を中心に行なってきたのには、まことにもっともなわけがあった、と言わなければならない。
 この翻訳用日本語は、確かに便利であった。が、それを十分認めたうえで、この利点の反面を見逃してはならない、と私は考えるのである。つまり、翻訳に適した漢字中心の表現は、他方、学問・思想などの分野で、翻訳に適さないやまとことば伝来の日常語表現を置き去りにし、切り捨ててきた、ということである。そのために、たとえば日本の哲学は、私たちの日常に生きている意味を置き去りにし、切り捨ててきた。日常ふつうに生きている意味から、哲学などの学問を組み立ててこなかった、ということである。それは、まさしく、今から350年ほど前、ラテン語ではなくあえてフランス語で『方法序説』を書いたデカルトの試みの基本的態度と相反するのであり、さらに言えば、ソクラテス以来の西欧哲学の基本的態度と相反するのである。

【『翻訳語成立事情』柳父章〈やなぶ・あきら〉(岩波新書、1982年)】

 この辺りについては、石川九楊著『二重言語国家・日本』(NHKブックス、1999年)が詳しい。

 ここで柳父章は、「やまとことばを切り捨ててきたこと」と「西洋哲学の姿勢と相反すること」の是非は述べていない。ま、後から述べているかも知れないが、私はもう覚えていないのだ(笑)。

 漢語はまず表意文字であり、部首からもイメージを引き出す。このような派生的なイメージの喚起力によって、つかみどころを失ってしまう。意味が拡散するのだ。つまり、全体像の雰囲気をつかむのには適しているが、言葉に核がないわけである。

 西洋における「存在」とは、まず第一に「神の存在」が問われたことだろう。ニーチェが「死んだ」というまでは、きっと生きていたはずである。で、いるのかいないのかわからない神の存在を固く信じることによって、自分の存在があやふやになってしまうわけだ。ここにおいて、「いないはずの神」と「存在する自分」とが反転するのだ。

 神様なんかいないよ。もし、いたとしてもほとんど留守にしている。かつてルワンダやシエラレオネにはいなかった。アフガニスタンにもいなかったし、もちろんパレスチナにもいない。神は不在だ。それとも、居留守だったとでもいうのか? あるいは長期出張、はたまた逃避行……。

 日本人にとって「存在」は自明のことだった。日本人が思い描く神は森羅万象に宿っていた。そう、アニミズム(精霊信仰)だ。つまり、「存在」するもの全てに神が宿り、神と存在とは一体化していたのだ。我々にとって「存在」とは「ただ在る」ことであって、思索の対象とはなり得ない。原始仏教においてもテーマとなっていたのは、「どう在るべきか」「いかに在るべきか」といった人生の振る舞いについてであった。

 ラテン語のアニマには「気息」という意味がある。多分、「生きる」とは「息する」が変化した語彙なのだろう。現在でも「生息」という言葉がある。

 結論――「存在」は息に現れる。今時と来たら、大きなため息や青息吐息ってのが多いね。



・虫けらみたいに殺されるパレスチナの人々/『「パレスチナが見たい」』森沢典子

2009-08-27

不可触民の少女になされた仕打ち/『不可触民 もうひとつのインド』山際素男


 ・豊かな生命力は深い矛盾から生まれる
 ・家族の目の前で首を斬り落とされる不可触民
 ・不可触民の少女になされた仕打ち
 ・ガンジーはヒンズー教徒としてカースト制度を肯定

『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ
『アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール
『ガンジーの実像』ロベール・ドリエージュ
『中国はいかにチベットを侵略したか』マイケル・ダナム

 私はタゴールの言葉を想った。「人間の歴史は、侮辱された人間が勝利する日を、辛抱づよく待っている」――。

 で、「侮辱された人」って誰のことなんだろうね? タゴールはマハトマ・ガンディーらのインド独立運動を支持していた。とすると、イギリス支配下のインドにいた上流カーストあたりを意味しているのかもしれない。

 ガンディーの尊称である「マハトマ(偉大なる魂)」は、タゴールが付けたという説がある。ガンディーは確かにインド独立を勝ち取ったが、カースト制度を終生にわたって支持した。彼は偉大なる魂ではなく、“偉大なる下半身”の持ち主だろう。ガンディーは晩年、若い女性を同衾(どうきん)させることを常としていた(※自分が性欲に打ち克つことを証明するために)。

 では、ガンディーが死守しようとしたカースト制度は、不可触民に対してどのような仕打ちをしてきたのか――

「わしの姪っ子二人は、この近くの村にいます。
 上は16、下は14です。二人ともまだ嫁入り前の生娘(きむすめ)だった。
 地主のところで畑仕事をさせてもらっていました。気立てのええ働きもんでの、地主も重宝がってくれとった。
 あれらの日当は、よそより低かったのが不満での。1日、3ルピーさ。いまどきよそはどこでも4ルピーは払うとるよ。
 上の娘は負けん気だったでの、地主に半ルピー(15円)でええから、日当を増やしてもらえんかって頼んだのじゃ。
 地主はまるっきり取り合ってくれなんだ。
 それで娘は、4ルピーで他に働くところはいくらもある、というたそうな。
 その一言が、地主の癇(かん)にさわったのじゃ。
 いきなり、もっとった杖で娘をひどく殴ったら、その娘が怒って、もうあんたんところでは働かん、いうたんだじゃよ(ママ)。
 他に人がいる前じゃったのが悪かったのよ。
 地主は、生意気な小娘じゃ、いうて、手下に命じて、上の娘を素裸にむいて、木にくくりつけた。そして木の枝で散々ぶったんじゃ。
 見物人が集まっての、面白そうに笑って見ておったそうな。だれも助けてくれるもんはおらん。みんな地主を怖れておるし、不可触民の娘なぞいい慰めにしか思うておらんでの。
 地主の家の若いもんが興がって、くくりつけられとるその娘の股倉に棒を押しこんだりはじめた。周りがもっとやれとけしかけ、娘のアソコに棒をムリヤリ突っこもうとしたんだ。
 娘は厭(いや)がってあらがったよ、当たり前じゃ。嫁入り前の小娘に、そんなむごい悪戯(いたずら)をしてええもんかの。娘があんまり暴れるんでロープがゆるんで、娘の足が運悪く、その若いもんの顔に当ってしもうた。
 男は大声で“不可触民がオレの顔を足げにした”とわめきおった。
 周囲は益々面白がって、懲(こ)らしめろ、見せしめにしろ、と騒いだ」
 老農夫は、そこでつばをぐっと呑みこみ、眼を光らせた。
「そいつはあんた、家の鍛冶場(かじば)から真赤な鉄火箸を持ってきて――。
 娘の、アソコにぐいと突っこんだのじゃ。怖ろしい悲鳴を上げて娘は気を失ってしまった。下の娘も気が違うなってその場に倒れてしもったのです。
 可哀そうに、上の娘は家でも病人ですじゃ。人相もなにも変ってしもうた。一生、嫁にもいけん体にされてしもうて――。
 あんた、たったの半ルピーで、どうしてあのような目にあわされんねば ならんのです」
「カーストヒンズーたちは、わしらを慰みもんにして楽しんどるだ」
 その言葉にホールの中の顔が一斉に頷いた。目の前の“母親”も、何度も深く頷いた。
「あいつらの一番の楽しみは、弱いもん苛(いじ)めなんじゃ」別の声がいった。

【『不可触民 もうひとつのインド』山際素男〈やまぎわ・もとお〉(三一書房、1981年/知恵の森文庫、2000年)】

 私の中に怒りは湧いてこない。ただ、静かなる殺意が確固たる形を成すだけだ。法で裁くなどと悠長なことを言っている場合ではない。「速やかに殺害せよ」と私のDNAが命令を下す。宗教だとか文化だとか言語の違いは全く関係ない。罪もない少女にこんな仕打ちをするような手合いは人類の敵なのだ。

 この文章が恐ろしいのは、まず娘の惨状を傍観している親がいて、それを傍観している著者がいて、更に傍観する読者が存在するという点に尽きる。何層にもわたる傍観が、ともすると無力感へと導こうとしている。「どうせ、お前は何もできないだろう?」という問いかけが、「何もできなかった」という事実と相俟(ま)って私から力を奪おうとする。

 結局、ガンディーが守ろうとしたのは、上流カーストが不可触民を虐待する権利だったってわけだ。結果的にそう言われてもガンディーは反論のしようがあるまい。

 人類が犯してきた数多くの虐殺の歴史が教えているのは、「沈黙していれば殺される」という事実である。だから私は、殺される前に殺すことは罪にならないと考える。これは正当防衛なのだ。

 極論かもしれないが、私は人種差別者は死刑に処すべきだと本気で思っている。なぜなら、明日以降「殺されるために生まれてくる人々」による正当防衛であると信ずるからだ。差別とは「相手を殺す」思想に他ならない。

 私は歯ぎしりしながら、自分にできることを淡々と行う。そして、自分にできる範囲を少しでも広げてゆく。そうでなければ、生きている甲斐がないから。

2009-08-21

愛国心への疑問/『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆


『我が心はICにあらず』小田嶋隆
『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆
『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆

 ・愛国心への疑問
 ・ギネス認定はインチキ
 ・個性は伸ばすものではなく、勝手に伸びるものだ
 ・無投票の権利
 ・勝ち上がってくる力士
 ・長時間睡眠自慢

『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

 かつて掲示板上で愛国心についてやり取りしたことがある。随分前の話だ。愛国心について否定的な論調を私が書いたところ、「あなたに愛国心はないのか?」と質(ただ)された。すかさず「ないね」と応じた。この時、本当に愛国心がないことを自覚した。

 これは、私が道産子であることも関係していると思う。北海道では学校行事において「君が代」を歌う場面がほぼ完全にない。私の場合だと、中学の音楽の授業で歌ったことが一度あるだけだ。だから今でも「君が代」を歌えない。ちなみに「蛍の光」を歌うことも殆どない。私が通った中学の卒業式では、原語で「ハレルヤ・コーラス」を卒業生が歌うのが伝統となっていた。合唱の盛んな学校だったのだ。

 愛国心――ないね。どこを探しても爪の垢ほどもないよ。愛郷心はある。愛町内会心もある。愛国心を売り物にしている連中を見ると、私はどうしようもない嫌悪感を覚える。「だったら、自衛隊に入れよ」と言いたくなる。

 更に二つばかり理由がある。一つは私が海外へ行ったことがないため、日本と外国を比較しにくいこと。つまり、日本人であることを強く自覚する経験が乏しいのだ。

 もう一つは、国から何かをしてもらった記憶がない。「お前な、道路や空港を作ったのは誰だと思ってるんだ?」と言われればそれまでなんだが、如何せん日本国に対して「ありがとう」と思ったことがないのだから仕方がない。例えば、ヨーロッパの一部の国のように無料で高校や大学に行けたり、他国からの侵略行為を防いでもらったりしていれば、愛国心が芽生える可能性もあったことだろう。でも、どちらかといえばやっぱり「税金ばっかり取りやがって」という不満の方が多い。

 小田嶋隆が愛国心をバッサリと斬り捨てている――

 S誌に目を通す。巻頭のコラム子は「日本人には、国のために死ぬ覚悟があるんだろうか」と言っている。ふむ。君たちの言う「国」というのは、具体的には何を指しているんだ? 「国土」「国民」あるいは「国家体制」か? それとも「国家」という概念か? でないとすると、もしかしてまさかとは思うが「国体」か? はっきりさせてくれ。なにしろ命がかかってるんだから。
 もうひとつ。
「死ぬ」というのはどういうことだ? 私の死が、どういうふうに私の国のためになるんだ? そのへんのところをもう少し詳しく説明してくれるとありがたい。
 もうひとつある。「国のため」と言う時の「ため」とは、実質的にはどういうことなんだ? 防衛? それとも版図の拡大? 経済的繁栄? あるいは「国際社会における誇りある地位」とか、そういったたぐいのお話か? いずれにしろ、「これも国のためだ」式の通り一遍な説明で「ああそうですか」と無邪気に鉄砲を担ぐわけにはいかないな、オレは。
 国家権力を掌握している人間の利益を守るために、国民が命を捨てねばならないような国があるんだとしたら、先に死ぬべきなのは国民より国家の方だということになるが、君たちはこの答えで満足してくれるだろうか?

【『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆(朝日新聞社、2005年)以下同】

 こんなコラムを巻頭に掲載するのは『諸君!』(文藝春秋)か『正論』(産経新聞社)しかないわな。右寄りの論調というのは愛国心を当然の前提とし、そこに思い切り寄り掛かっている。愛国心を疑ったり、まして愛国心のない野郎は国賊と評価される。

 しかしながら、愛を強制することはできない。街で擦れ違った見目麗しき女性に対して、「あなたは私を愛すのが当然だ」と言っても通用しないのと同じだろう。その昔、『愛される理由』というタイトルの本があったが、確かに愛されるには何がしかの理由や根拠が必要だ。

「国」というのは何だ?
 君たちの想定する「国」と革命分子の想定する「国」が違うものなのだとしたら、そりゃ単に内乱ってことにならないか? 逆に訊ねるが、君たちは、国民に死を要求するような国に対して忠誠を尽くすことができるのか? ついでに言えば、君たちが二言目には口にする「愛する者や家族が目の前で殺されているのを黙って座視するのか」式の設問は、無効だよ。覚えておくといい。質問は、答えを限定する。より詳しく言うなら、質問というのは、時に、回答の思考形式を限定するための手段として用いられるということだ。

 この指摘は実に鋭い。例えば、生まれたばかりの赤ん坊がパレスチナ人であるという理由だけでイスラエル人の手で殺されている。そして、まだお腹の中にいる胎児まで殺されている。殺された赤ん坊に国家という意識があるはずもないし、人種すら自覚していない。結局、国家意識というのは後天的に教育されるものだ。言語を始めとする文化や風習に馴染み、自分がコミュニティの一員であるという自覚が生まれた後に、「異質な別世界」を実感できるようになる。

 戦争が国家単位で行われている事実を踏まえると、国家という単位はない方がいいかもしれぬ。

 枠組みは常に悪用される。「国を守る」ということと「家族を守る」ということが無批判に同一視されているような質問は、発せられた時点で既に罠だってことだ。家族が暴漢に襲われている状況と国が戦争をしている状況は同じものではない。それどこから、逆かもしれない。だって、相手の国にとっては、暴漢はこちらということになるからね。つまり、君たちの質問の意図は、仮想敵国を強盗殺人犯に仕立て上げるところにあるわけで、国防とはまったく関係がないのだよ。
 兵隊が何を守るか知っているか? 国土?
 ははは。幸運な場合、結果として兵隊が国土を守ることもあるだろう。
 しかし、たいていの場合、兵隊が守るのはなによりもまず、軍隊の秩序であり、上官の命令だ。
 そして軍隊の機能はなによりもまず殺人であって防衛ではない。殺人が防衛の手段になるということが事実であるにしろ、軍隊の本意は防衛にはない。あくまでも殺人ということが彼らの動機であり目的であり存在意義です。さらに言うなら、その軍隊が命にかえて防衛するのは、国民の安全ではなくて、権力者の意志だよ。権力者の意志が国防にあればそれでいいじゃないかって?
 そうかもしれない。しかし、その権力者と対立する陣営の権力者の意志もまた国防にある。そして、国防という概念は敵の側から見れば侵略と区別がつきにくいものだ。ってことは、忠良な国民をかかえた2人の権力者は、自分の国防のために互いに侵略をし合うことにならないか?
 国のために命を捨てるのはけっこうだ。が、それが相互侵略のためだとしたら、犬死にどころか無理心中じゃないか。

 戦争の欺瞞を見事に暴き出している。俗に愛憎は紙一重と言う。であれば、愛国心とは他国を敵国と仮想することで成り立っているのかもしれない。とすると、権力者にとっては近隣諸国に敵国が存在した方が都合がいいとも考えられる。

 確かにそうだ。北朝鮮がテポドンを北海道に落としたら、私はたちどころに愛国者となるだろう。北朝鮮に対する憎悪を燃やした瞬間に、私の中の日本人が目を覚ますのだ。単純なもんだね。いや、ホントの話。恐ろしくなってくるよ。

 それでも人類が戦争をやめることはないだろう。戦争こそは人類の業(ごう)なのだ。だから、いっそのこと大掛かりな「戦争シミュレーションゲーム」を開発すればいいと思う。実際の戦争と同じように国会を召集し文民統制の下、自衛隊が戦略を練る。保有する武器や兵力もそのまま反映させて、ネット上のゲームで勝敗を決する。コントローラーを握るのはもちろん首相や大統領だ。

 これが実現すると選挙運動も大きく変わってゆくことだろう。ま、首相はアキバ系で間違いなし。指にはタコができている。また、数ヶ月前まで引きこもりだった青年が突如、首相になることも考えられる。

 皆が手を取り合う平和よりも、犠牲者の少ない戦争のあり方を模索した方が実行可能な気がしてくる。



小田嶋隆『イン・ヒズ・オウン・サイト』│mm(ミリメートル)
民族という概念は「創られた伝統」に過ぎない/『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優
民族という概念は18世紀に発明された
ポピュリズムによるナショナリズムの昂揚
戦争は「質の悪いゲーム」だ/『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
戦争で異形にされた人々/『戦争に反対する戦争』エルンスト・フリードリッヒ編

2009-08-17

石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治


『石原吉郎詩文集』石原吉郎
『望郷と海』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代

 ・石原吉郎と寿福寺
  ・寿福寺再訪
 ・常識を疑え
 ・「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた

『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆

 石原吉郎〈いしはら・よしろう〉、鹿野武一〈かの・ぶいち〉、菅季治〈かん・すえはる〉の三人はシベリアの同じ収容所で過ごした時期がある。終戦のどさくさに紛れてソ連は、60万人もの日本人を抑留し奴隷同然に扱った。日本政府はこれを黙認した。

 菅季治は二人に先んじて帰国していたが、徳田要請問題で政治家に利用された挙げ句、中央線の鉄路に身を投げた。シベリア抑留から解放されてわずか5ヶ月後のことだった。

“究極のペシミスト”鹿野武一は、勤務先の病院の宿直室で心臓麻痺を起こして死んだ。帰国してから一年半後のこと。石原吉郎は詩人として名を残し、62歳(1977年)まで生きたが晩年は狂気の中を彷徨(さまよ)った。

 不幸と悲劇は一度つかまえた人間を離すことがないのであろうか。シベリアでは目の前に悪が対峙していた。向こう側に存在する悪に自分が犯されないようにすることが彼等の戦いであった。ところが帰国した日本では、そこここに悪が蔓延していた。善と悪に対して鋭く研ぎ澄まされた彼等の感覚は、小さな悪の後ろに広がる巨大な闇を捉えていた。

 夏が終わりを告げそうな今日、石原が足を運んだ鎌倉の寿福寺へ行ってきた。石原と会うために――

 この頃、石原吉郎はよくひとりで鎌倉へ出かけて歩きまわっていた。特に好んだのは、昔の面影が色濃く残る北鎌倉で、なかでもよく訪れたのが、鎌倉五山の中でも最古を誇る寺で、苔むしたやぐら(洞窟)に、北条政子、源実朝の墓がある寿福寺だった。
 寿福寺との出会いを、石原は「生きることの重さ」(74年6月、朝日新聞)にこう書いている。

 少し前に、雨の北鎌倉を一日歩きまわったことがある。たまたま立ち寄った寺に、北条政子と源実朝の墓があった。いずれも洞窟の暗がりに凝然と立ちすくんでおり、その荒涼とした気配が気に入ってしばらくたたずんでいたのをおぼえている。
 たぶんその時私が立っていたのは他界への入口のような所であったろう。しばらく生きるために、私はそこを立ち去った

【『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治〈ただ・しげはる〉(社会思想社、1994年/文元社、2004年)※社会思想社版は「シベリヤ」となっている】

 妻の夏休みが今日しかなかったので海水浴のついでに足を延ばした。



 地図を持って行かなかったため、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の左側から建長寺に辿り着き、そこの案内板を見て、長寿寺の手前の道を左に曲がった。入った瞬間、石原もここ(亀ヶ谷坂切通し)を歩いたことだろうと密かに確信した。影の濃い道だった。



 私の眼が石原の視線を探した。探し回った。そして、やっと目的の場所を見つけた。





 上が北条政子の墓で、下が源実朝の墓である。実際に足を運べばわかるが、写真からは窺い知ることのできない異様な雰囲気がある。確かに冥界といえる。夏の日差しの中で、そこだけぽっかりと別世界が口を開けていた。大の大人を恐れさせる何かがあった。暗がりや湿度では説明のつかない異質さが佇(たたず)んでいた。


【実朝の右隣の墓の内側から撮影】


 石原はここで何を見たのか。沈黙の中で闇を睨(にら)んでいたその時、潮風の向こうから電車の走る音が聴こえた。私は、〈走る留置所〉と呼ばれるストルイピンカを想った。そして、微(かす)かな潮の香りを嗅ぎながら、シベリアの地で望郷の思いを海に託した石原の心に触れたような気がした――

 海が見たい、と私は切実に思った。私には、わたるべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、3000キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、風ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際(きわ)までであった。海をわたるには、なによりも海を見なければならなかったのである。
 すべての距離は、それをこえる時間に換算される。しかし海と私をへだてる距離は、換算を禁じられた距離であった。それが禁じられたとき、海は水滴の集合から、石のような物質へと変貌した。海の変貌には、いうまでもなく私自身の変貌が対応している。

【「望郷と海」(『展望』1971年8月)/『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫、2005年)】

 源実朝は和歌を嗜(たしな)んだ。詩人の石原も和歌を詠んだ。実朝は甥(おい)の手で殺された。石原は祖国から見捨てられた。

 岩穴の闇を正視する時、石原の心はシベリアに引き戻されたに違いない。そして、生きるためにそこを立ち去った瞬間、今度は闇を背負い込んでしまうのだ。そのまま別の闇に向かって彼は歩き続けた。

 石原の孤独にはブラックホールの如き重量があった。その重みに耐えられなくなった時、精神は狂気へと避難した。石原は独居の浴槽の中で心臓麻痺死した。酷寒のシベリアを生き延びた者に対する神の祝福と思えてならない。


寿福寺
寿福寺
・「岸壁の母」菊池章子