2010-02-07

21世紀になっても存在する奴隷/『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス


『武装解除 紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治

 ・21世紀になっても存在する奴隷

『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

必読書リスト その二

 強い者が弱い者を襲い、殴り、強姦し、喉を掻き切り、火を放ち、奴隷にしている――これが我々の棲む世界の現実であった。アフリカ大陸最大の国スーダンでは21世紀になっても尚、奴隷にされている人々が存在する。2006年の主要援助国は米、英、ノルウェー、オランダ、カナダとなっており、日本も有償・無償の資金協力は1000億円の実績がある(2006年現在)。つまり我々はスーダンと関わりがあるのだ。

 メンデ・ナーゼルが住んでいたヌバ族の村が民兵に襲撃され、彼女は12歳で奴隷にさせられた。まだ初潮も訪れていない少女が当たり前のように強姦される。メンデよりも幼い子供達も犯された。何をされたのかすら理解できていない少女達の股間は血にまみれていた。陰部をナイフで切り裂いてから挿入された少女もいた。

 意外と知られていないが北アフリカはイスラム圏である。同じアッラーの神を信じていながら、相手が黒人という理由だけでアラブ系の連中は平然とナイフで喉笛を切り裂いているのだ。私でなくても、アッラーの無力さを呪いたくなることだろう。

 汚(けが)れを知らないメンデの心が、無惨な情況と鮮やかなコントラストを描いて悲惨の度合いを深める。以下は村が襲撃された直後に、メンデ達がトラックで首都ハルツームに向かっている時の様子である――

 数時間ほど眠っただろうか。車体の大きな揺れで飛び起きると、あたりは薄暗くなっていた。目の覚めるような美しい夜景が見えた。はるか前方に、色とりどりの無数の光がきらめいている。うごめいている光もあれば、またたいている光もある。こんな夜景を見るのは初めてだった。
「ほら! 見て!」わたしはほかの4人を揺り起こした。「月も出ていないのに、どうしてあんなにきらきら光っているのかしら」
 ヌバ山地には電気がなかったので、太陽か月か炎が発する光しか見たことがなかったのだ。

【『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス:真喜志順子〈まきし・よりこ〉訳(ソニー・マガジンズ、2004年/ヴィレッジブックス、2006年)以下同】

「この町は、人間が住むところなのかしら、それとも車が住むところ?」アシュクアナがつぶやいた。あまりにも車が多いので、だれもその問いに答えられなかった。
「車はどこに住んでるの?」わたしは答えた。「車を入れなきゃならないから、あんなに大きいんだわ、きっと」
「小さな車は、大きな車から生まれるんじゃないかしら。だから、車がこんなにたくさんあるのよ」アシュクアナが言った。
 そのとき、若者が乗ったバイクが車列のあいだをすり抜けていった。
「見て! 見て!」わたしはバイクを指差して叫んだ。「あの車は小さいから、きっと今日生まれたばかりよ」
 生まれてからずっとヌバ山地で暮してきたわたしたちにとって、ハルツームはまさに別世界だった。

 奴隷にされつつある中での微笑ましいやり取り。何の罪もない健気(けなげ)少女達が、健気に生きることも許されない世界。アラブ系の金持ちが家事や育児を押しつける目的で、親と離れ離れになることを余儀なくされた子供達は、まだ自分達の運命を知る由もなかった。

 アフリカの豊かな精神性を思う。人類発祥の大地アフリカは、人間が最も長く生きてきた場所である。アフリカの人々が好戦的であったならば、人類はとっくに滅んでいたことだろう。悠久の歴史を支えているのは友好関係に他ならない。そのアフリカを侵略したのは欧米諸国であった。古来、キリスト教世界における人間とは、神を信じる理性を持つ者に限られた。つまり、自分達の神を信じない人々は人間ではないことを意味している。だからヨーロッパの連中は平然と侵略する。神の僕(しもべ)として「神の怒り」を体現するのだ。

 世界を混乱の極みに追い立てているのは、間違いなくユダヤ教から派生したキリスト教とイスラム教である。なかんずくキリスト教の罪は重い。世界に対して物申す識者は、キリスト教を徹底的に批判するべきだ。短気な神に率いられた欧米が、世界を蹂躙(じゅうりん)し続けてきた事実から目を逸(そ)らしてはいけない。

「なかに入りなさい、イエビト」ラハブ(女主人)が言った。“イエビト”というのは、アラビア語で「名前をつける価値もない少女」という意味だ。わたしはショックだった。こんなふうに呼ばれるのは生まれて初めてだった。

 奴隷となったメンデは子供達からも動物扱いされるようになる。そして女主人の暴力はエスカレートしていった――

(※客の子供に縄跳びのロープで転ばされ、ポットのお茶を全身に浴びる。子供達は嘲り笑った)
「おまえの顔には目がついてないの、イエビト! 目がついてないのかって聞いてるの!」なわとびのロープをつかんで、わたしをひっぱたいた。最初のひと振りが頭を直撃し、わたしは両手で顔を覆い隠した。
「ごめんなさい、ごめんなさい」わたしは声を振り絞った。
 一瞬、ラハブが呼吸を整えるために手を休めると、女の客が叫んだ。
「もっとつづけて! 打って打って、打ちまくりなさいよ! この子を懲(こ)らしめるにはそれしかないんだから。痛い目に遭えば、二度とやらないようになるわ」
 わたしは背中を丸めて縮こまった。ラハブはわたしの背後にまわり、さらに力を込めてロープを打ち下ろした。わたしが叩かれるたびに、女の客の歓声に混じって、男たちの笑い声が聞こえた。

 メンデは親からも殴られたことがなかった。怒りのあまり、キーを打つ私の指が止まる。この女主人と客は何度死刑になったとしても罪を償うことはできない。火あぶりにしたところで、こいつらの性根が改まることはないだろう。

 10年後、メンデは女主人の姉の家へ行くよう命じられる。そこはイギリスだった。亭主(マフムード・アル・コロンキ)は何と大使館で働く人物だった。つまり、スーダンにおける奴隷の存在は国家公認も同然ということだ。待遇は格段によくなったものの、奴隷であることには変わりがなかった。

 メンデは意を決して脱出する。様々な人々の応援もあって、遂にメンデ自由を獲得したのは2000年9月11日のことであった。マスコミも援護射撃を惜しまなかった。見知らぬ人が養子を申し入れた。ヨーロッパ各地から激励と称賛の手紙が寄せられた。スペイン人種差別反対連合(CECRA)は国際人権賞を授与した。最後の最後でやっと重い腰を上げたのはイギリス政府だった。

 だが、失った時間は二度と戻らない。そして今も尚、奴隷にされている子供達が存在するのだ。我々の世界は何と無惨なのだろう。いっそのこと人類はさっさと滅んだ方がいいのかもしれない。



カマラリたちの新たな人生(ネパール)/プラン・ジャパン

2010-02-03

目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世


『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹

 ・目指せ“明るい教祖ライフ”!
 ・宗教の硬直化

『死生観を問いなおす』広井良典
『イエス』R・ブルトマン
『大航海時代における異文化理解と他者認識 スペイン語文書を読む』染田秀藤

宗教とは何か?
キリスト教を知るための書籍
ヒップホップで学ぶ日蓮

 サブカル手法でアプローチする世界宗教入門、といった内容。記述が正確で、大変勉強になった。「教祖を目指す」というネタで、実は「教団の力学」を明らかにしているところがお見事。冷徹な眼差しから繰り出されるユーモアといった味つけだ。

 本書の教えを遵守すれば、きっと明るい教祖ライフが開けるでしょう。教祖にさえなれば人生バラ色です!

【『完全教祖マニュアル』架神恭介〈かがみ・きょうすけ〉、辰巳一世〈たつみ・いっせい〉(ちくま新書、2009年)以下同】

 この一言で教祖を目指す人はまずいない。が、しかし、信仰の動機が欲望に支えられていることを巧みに表現している。「幸せになりたい」という願望は、現在が不幸である証なのだ。他人の不幸に付け込むのが、宗教という宗教の常套手段である。言わば「不安産業」。

 では果たして、教祖の機能とは何か?

 では、最初にもっともシンプルな教祖の姿を提示します。教祖の成立要件は以下の二要素です。つまり、「なにか言う人」「それを信じる人」。そう、たったふたつだけなのです。この時、「なにか言う人」が教祖となり、「それを信じる人」が信者となるわけです。

 シンプルにして明快。一瞬、「エ?」と思わされるが、よくよく考えてみると確かにこの通りだ。教義の高低・浅深は関係ない。教祖と信者の関係性は、こうして生まれここに極まるのだ。

 ヒトという動物の特徴は色々あるが、何と言っても際立っているのは「コントロールするのが好き」という点であろう。スポーツは身体のコントロールである。車や機械の運転は、延長された身体性と考えられる。そして極めつけは「他人をコントロールすること」だ。

 小犬を見ては「お手」を無理強いし、子供が生まれると躾(しつけ)や教育と称して、家のしきたりや社会通念を叩き込む。長ずるに連れ、よりよい学歴を目指すことを強制し、社会に出るや否や地位獲得に余念がない。地位とは、「多くの人々をコントロールできる立場」のことである。

 脳や身体がネットワークを形成している以上、社会がネットワーク化(ヒエラルキー化)することは避けられないのだ。そしてコントロールの最終形が宗教と拳銃であると私は考える。生殺与奪を握っているという点において、この両者は顔の異なる双子なのだ。

 ゲラゲラ笑いながら読んでいると見落としがちであるが、そこここに慧眼(けいがん)が窺える――

 さて、ここからは具体的な教義作成について考えていきますが、最初にはっきりと述べておきたいことがあります。皆さんの中に、宗教に関して次のような持論をお持ちの方はいませんか。すなわち、「宗教は社会の安寧秩序を保ち、人々の道徳心を向上させるものであり、社会を乱すものであってはならない」と。残念ながら、これはとんだ見当外れなので直ちに忘れて下さい。宗教の本質というのは、むしろ反社会性にあるのです。特に新興宗教においては、どれだけ社会を混乱させるかが肝(きも)だということを胸に刻んでおいて下さい。
 現に大ブレイクした宗教を見てみると、どれもこれも反社会的な宗教ばかりです。イスラム教しかり、儒教しかり、仏教しかり。どれも最初はやべえカルト宗教でした。しかし、その中でも最もヤバいカルトはキリスト教でしょう。イエスの反社会性は只事ではありません。罪びとである徴税人と平気でメシを食い、売春婦を祝福し、労働を禁じられた安息日に病人を癒し、神聖な神殿で暴れまわったのです。当時の感覚で言えばとんでもないアウトローで、もちろん社会の敵なので捕らえられて死刑にされます。同胞のユダヤ人からも、「強盗殺人犯は許せてもイエスだけは許せねえ」と言われる程の嫌われっぷりでした。しかし、イエスはこれほど反社会的だったからこそ、今の彼の名声があるとも言えるのです。

 これはまさしく、クリシュナムルティが説いている「反逆」である。普通に生きている人々は、普通の状態において既に「社会の奴隷」となっている。つまり、形成された社会を容認してしまえば、信者は二重の意味で奴隷となるのだ。とすると、社会にプロテスト(異議申し立て)することで何らかの自由を目指す必然性が生じる。このようにして社会の奴隷は、奴隷である自分の立場に気づき、自由を求めて今度は教祖の奴隷となるのだ。ま、早い話が「ご主人様」を取り替えただけのことだ。

 人間の価値観というものは、その殆どが作られた幻想に過ぎないが、最も奥深い部分に埋め込まれたソフトウエアが宗教である。本来であれば人間を解放するための宗教が、教義によって人間を束縛するというジレンマを抱え込む。自由になるためには犠牲が伴うのだ。

 だが、真の宗教、あるいは思想、または普遍的な物語はそうではあるまい。既成の価値観に反逆しながらも、教祖や教義、そして自分自身からも自由になる方途があると私は信ずる。なぜなら、それがなければ世界の平和は成立しないことになるからだ。

 今、世界平和を妨げているものは国家、民族、そして宗教である。いっそのこと全部なくすか、新しくするべきだ。

2010-01-07

パニック障害を抱えた主人公/『罪』カーリン・アルヴテーゲン


 ・パニック障害を抱えた主人公

『喪失』カーリン・アルヴテーゲン
『裏切り』カーリン・アルヴテーゲン

ミステリ&SF

 アルヴテーゲンのデビュー作。ペーターは経理の横領によって2000万円もの負債を抱える羽目となった。そんな彼が見知らぬ女から奇妙な依頼を受ける。ある会社の社長にプレゼントを手渡して欲しいというのだ。金に切羽詰っていてペーターは断ることができなかった。社長に渡した小箱の中には人間の足の親指が入っていた。社長はそれまでにも散々嫌がらせを受けていた。仕事を失っていたペーターは探偵役を引き受ける。

 ペーターはパニック障害を抱えていた。そして執筆していた著者も同じ病状にあったという。カーリン・アルヴテーゲンは二人目の子供を妊娠している最中に兄を亡くした。生まれ来る生命と去って行った生命との狭間(はざま)で、アルヴテーゲンの精神はバランスを狂わせた。深刻なうつ状態に陥り、パニック発作に襲われるようになった。無気力になり、何も手につかなくなる中で、彼女は自分自身に向かって物語を書いた――これが本書である。

 多くの精神疾患は「真っ直ぐに育つこと」を許さない環境によってつくり出される。社会は常に適合することを求める。おかしな社会に順応できるおかしな人々であれば問題はないが、何らかの違和感を覚える人々はストレスにさらされてしまう。社会的成功が我が子の幸福と信じてやまない親は、知らず知らずのうちに社会の奴隷となることを子供に強要する。自由とはヒエラルキーの上層に存在するのであって、社会の外側にあるものではないと教育する。このようにして社会からも親(=大人)からも抑圧された子供は、ある日突然攻撃的になる。そうでない子供は精神疾患になるのだ。

 ペーターはオーロフ・ルンドベリと友情を結ぶことで少しずつ自信を取り戻してゆく。だが、事件が解決した後再び孤独感に打ちひしがれる――

 生きて何の役に立つというのか?
 これでは不公平だ。だれかが秩序をもたらすべきだ。いまのままでは、人がどのように生きようと何の意味もないではないか。大量虐殺者でも聖人でも結局最後は同じなのだ。最後の審判というものがあるなどという考えは、とっくの昔に捨てた。どっちみち、はっきりした違いはないのだ。だが、それではだめではないか。すべての人間は、よい行いをすれば死後にそれに見合った褒美が与えられると、生きているうちから認識するべきなのだ。そして、よい行いをすることを選ばなかった人間は、死後になにが待ち受けているかを知るべきなのだ。破壊がおこなわれ、取り返しがつかなくなってから、それをおこなった者を罰したところで、何の意味もないではないか。死後ただちに、その人の生きた人生は評価され、褒美を与えられ、あるいは懲罰を受けるべきなのだ。いや、それよりもいいことがある。よい行いをした人間にはもっと時間が与えられるべきだ。命の砂時計の砂が増されるべきではないか? 正しい行いがおこなわれれば、ただちに命が何時間か延びる。一方悪事をおこなう者はその悪行の度合いに応じて、3月の雪だるまのように命が縮んでしまう。
 それならば、生きていくことも、何とか我慢できるかもしれない。

【『罪』カーリン・アルヴテーゲン:柳沢由美子〈やなぎさわ・ゆみこ〉訳(小学館文庫、2005年)】

 巧い……。人生の不条理を実にわかりやすい言葉で表現している。世界は混乱している。悪が大手を振って歩き回り、善は座り込んだまま小さくなっている。資本主義は弱肉強食の原理であるがゆえに、善悪は不問に付される。どんな種類の力であろうとも、力が支配する世界は暴力的になる。力は必ず暴走する宿命を抱えているのだ。力とは暴力である。

 我々の世界では「強さ」が「自由」を表している。つまりそれは、「相手を攻撃する自由」に他ならない。アメリカが見事に体現しているではないか。「イラクが大量破壊兵器を保有している可能性がある」として戦争を行ったことはまだ記憶に新しい。アメリカが「可能性」を見出せば、いつでも他国の市民を殺害することが可能となったのだ。アメリカの力は戦争への扉を開いた。そして、その力は強迫神経症として作用していることを見逃してはならない。金持ちが泥棒の心配をするのと同じだ。

 ペーターはいつもの日常に戻った。何ひとつ変わることのない凡庸で退屈ですべてが腐敗している日常に。ところが事件は一件落着してはいなかった。ここからペーターは過去の物語と遭遇する羽目になる。それは自分の原点を回帰する心の旅でもあった。

 アルヴテーゲンはあらすじを決めることもなく執筆し、書き終えた頃に心の病を克服していた。まったく見事な蘇生のドラマである。



2009-12-22

主人公は傷ついたホームレス女性/『喪失』カーリン・アルヴテーゲン


『罪』カーリン・アルヴテーゲン

 ・主人公は傷ついたホームレス女性

『裏切り』カーリン・アルヴテーゲン

ミステリ&SF

 今、北欧ミステリが熱い。世界中で翻訳されているようだ。カーリン・アルヴテーゲンはスウェーデンの作家で1965年生まれ。アストリッド・リンドグレーンが大叔母に当たるそうだ。なるほど、と頷けるところが大。ストーリーテラーとしての腕前もさることながら、独特の薫りが漂う文章に魅了される。

 主人公はシビラという32歳のホームレス女性である。人生の疲労を隠し切れないものの、彼女はまだ美しい顔立ちを保っていた。ホテルのラウンジでそれとなく金持ちの男を物色し、相手が食事に誘うよう演出を施し、「財布がなくなった」と言って相手にホテル代を立て替えさせる。そんな手口で彼女は生活していた。ホテル代を払ってくれた男が何者かに惨殺される。警察の姿を見るや否やシビラは逃げ出す。寸借詐欺紛いの行為が露見したと錯覚したのだ。新聞はシビラを容疑者として報道し続けた。

 あの味が口中に広がった。それは彼女の頭が拒絶したものを受け入れてきた腹の一部から、じわっと滲み出てくる、馴染みの味だった。
 人々が彼女を支配しようとしている。
 またもや。
 過去に味わったことのある、恐ろしい息詰まるような感じがよみがえってくる。それはどこかの隅に隠れてじっと待機していたのだ。それがいままた暴れ出そうとしている。すべてが戻ってくる。彼女が必死で忘れようとしてきたことが。彼女が忘れることに成功したと思っていたすべてのことが。

【『喪失』カーリン・アルヴテーゲン:柳沢由美子〈やなぎさわ・ゆみこ〉訳(小学館文庫、2005年)】

 で、シビラがホームレスという立場で犯罪解決に挑むというのが大筋。そして彼女がホームレスとなるまでの人生がカットバックで挿入されている。シビラは資産家の娘で、幼い頃から心理的虐待を受けていた。

 原題には「失踪」という意味もあるようだが、訳者の柳沢はアルヴテーゲンに取材をした上で邦題を「喪失」にしたという。確かにこの方がいい。シビラは容疑者となることで真実を喪失し、虐待されたことで幼少期を喪失し、ホームレスとなることで自分自身を喪失していた。

 真犯人を見つけ出すことは、シビラにとって過去の自分を取り戻す行為でもあった。彼女は一人の少年と出会う。この少年がたった一人の味方となる。やや都合のいい展開とはなっているが、それでも最後のどんでん返しは手に汗握る。

 家族と社会の残酷さを炙(あぶ)り出した会心作だ。

2009-12-19

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・身体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 11月の課題図書。面白い本は何度読んでも新しい発見があるものだ。意外かもしれないが、本書を読むと仏教の五蘊仮和合(ごうんけわごう)がよく理解できる。

〈私〉と世界の境界はどこにあるのだろうか? そんなのはわかりきった話だ。もちろん身体である。冒頭で少年や少女が身体に負荷をかけている現実が指摘されている。例えばピアス穴、リストカット、タトゥー(刺青)、ボディをデザインするシェイプアップ、反動としての摂食障害……。ここにおいて身体は自分自身が所有する「物」と化している。

 そういや臓器移植も似てますな。切ったり貼ったりできるのは「物」である。彼等の論理は単純である。「自分の身体なんだから、私の好きにさせてくれ」というものだ。自分の身体=自分の物、となっている。

 そもそも所有できるのは「物」である。そして処分できるのも「物」である。

 ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く浸蝕される。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである。そこで人びとは、所有物によって逆既定されることを拒絶しようとして、もはやイニシアティヴの反転が起こらないような所有関係、つまりは「絶対的な所有」を夢みる。あるいは逆に、反転を必然的にともなう所有への憎しみに駆られて、あるいは所有への絶望のなかで、所有関係から全面的に下りること、つまりは「絶対的な非所有」を夢みる。専制君主のすさまじい濫費から、アッシジのフランチェスコや世捨て人まで、歴史をたどってもそのような夢が何度も何度も回帰してくる。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】

 人間の欲望は具体的には「飽くなき所有」を目指す。国家という国家は版図(はんと)の拡大を目指す。所有物が豊かであるほど自我は大きくなる。否、所有物こそは自我であるといってもよいだろう。

 走行する自動車を比べてみれば一目瞭然だ。大型トラックの運転手の自我は肥大し、軽自動車あるいは原付バイクに乗っていると自我は卑小なものになる。自転車はもっと小さいかもしれないが、値段の高価なものになると自我は拡大する。「私は物である」――。

 意図的に「持たざる者」を演じている連中は、所有への対抗意識を持っている以上、所有に依存していると考えられる。つまり、マイナスの所有である。彼等の念頭にあって離れることのないテーマは所有なのだ。そこには欲望を解放するか抑圧するかというベクトルの違いしかない。

 さて、所有関係の反転が、所有関係から存在関係への変換となって現象するような後者のケースについては、マルセルはそのもっとも極限のかたちを殉教という行為のうちに見いだしている。殉教という行為のなかでひとはじぶんの存在を他者の所有物として差しだす。じぶんの存在を〈意のままにならないもの〉とする。そのことではじめてじぶんの存在を手に入れる。じぶんという存在をみずからの意志で消去する、そういう身体の自己所有権(=可処分権)の行使は、その極限で、存在へと反転する。そういう所有のパラドックスが、ここでもっとも法外なかたちであらわれる。

 人は思想のために死ぬことができる動物だ。信念に殉ずることはあっても、欲望に殉ずることはまずない。せいぜい身を任せる程度である。殉教は完結の美学であろう。己(おの)が人生に自らが満足の内にピリオドを打つ営みだ。それは酔生夢死を断固として拒絶し、人々の記憶の中に生きることを選ぶ行為である。人は捨て身となった時、紛(まが)うことなき「物」と化すのだ。自爆テロを見てみるがいい。彼等は殉教というデコレーションを施された爆弾へと変わり果てている。

 信念に生きる人は信念のために死ぬ人である。だが多くの場合、信念を吟味することもなく、ある場合は権力の犠牲となり、別の場合には教団の犠牲になっている側面がある。静かに考えてみよう。正義のために死ぬ人と、正義のために殺す人にはどの程度の相違があるだろうか? 天と地ほど違うようにも思えるし、紙一重のような気もする。ただ、いずれにしても暴力という力が作用していることは確実だろう。

 所有が奪い合いを意味するなら、それは暴力であろう。お金も暴力的だ。今や人間の命は保険金で換算されるようになってしまった。幸福とはお金である。その時、我々は所有物であるお金と化しているのだ。暴力の連鎖が人類の宿命となっているのは所有に起因している。





あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
所有と自我/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳