2010-02-28

神は神経経路から現れる/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース


『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 ・脳は神秘を好む
 ・回帰効果と回帰の誤謬
 ・言語概念連合野と宗教体験
 ・神は神経経路から現れる
 ・人工知能がトップダウン方式であるのに対し、動物の神経回路はボトムアップ方式

『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書 その五

 キリスト教の啓示に代表される劇的な宗教体験は、非現実的というよりも超現実的な神秘性を帯びている。当人は雷に打たれたかの如く激しいショックを受けるのだが、果たしてそれがどこで起こっているのか? 第三者が確認できない以上、科学的検証は無理──これだと議論が進まない。本書では信仰者の主観世界が脳内で展開していることを解き明かしている。

アップルパイのリアリティー、神のリアリティー

 まずは、想像してみてほしい。あなたは今、大好物のアップルパイを食べている。あなたの複数の感覚器官に入ったアップルパイの情報は、神経インパルスに変換され、それぞれが脳の特定の領域で処理されて知覚が成立する。視覚中枢は金色がかった茶色をしたパイの像を、嗅覚中枢は食欲をそそるリンゴとシナモンの香りを、触覚中枢はパイの表面のサクサクした歯ごたえと中身のトロリとした舌触りとの複雑なハーモニーを、味覚領域は甘くて濃厚な味をそれぞれ知覚し、これらが統合されたときに、「アップルパイを食べる」というあなたの経験が生じてくる。
 ここで、あなたの脳で起きている神経活動を、SPECTスキャンで測定してみよう。コンピュータ・スクリーン上に表示された明るい色の斑点は、パイを食べるという経験が、文字通りあなたの「心の中にある」ことを示唆している。けれども、だからといって、パイが現実には存在しないとか、パイのおいしさがリアルではないという意味にはならないことは、皆さんもすぐに同意してくださるだろう。同じように、瞑想中の仏教徒や祈りをささげる尼僧たちの宗教的な神秘体験が、観察可能な神経活動と関連づけられることが分かったからといって、その体験がリアルでないことの証拠にはならないのだ。神はたしかに、概念としてもリアリティーとしても、脳の情報処理能力と心の認知能力を通じて経験され、心の中以外の場所に存在することはできない。けれども、アップルパイを食べるような日常的、形而下的な体験についても、それは同じなのだ。
 逆に、皿の上のアップルパイのように、神が実在し、あなたの前に顕現した場合にも、あなたは、「神経活動が作り出したリアリティーの解釈」以外のかたちで神を経験することはできない。神の顔を見るためには視覚情報処理が必要だし、恍惚状態になったり、畏怖の念に満たされたりするためには情動中枢のはたらきが必要だ。神の声を聞くためには聴覚情報処理が必要だし、メッセージを理解するためには認知情報処理が必要だ。神からのメッセージが、言葉ではなく、何らかの神秘的な方法で伝わってきたとしても、その内容を理解するためにはやはり認知情報処理が必要だ。ゆえに、神経学の立場からは、「神があなたを訪れるとき、その通り道は、あなたの神経経路以外にはあり得ない」と断言できる。

【『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎〈もぎ・けんいちろう〉監訳、木村俊雄〈きむら・としお〉訳(PHP研究所、2003年)】

 アップルパイよりは幻肢痛(げんしつう)の方がわかりやすいだろう。手足を切断した患者が「既にない部分」の痛みを訴える症状だ(V・S・ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』が詳しい)。

 我々は普段は意識していないが、五官から入力された情報を知覚しているのは脳である。例えば私があな足の裏をくすぐったとしよう。この場合、足の裏が感じているわけではなく、神経経路を介してきた情報を脳が感じているのである。

 一つテストをしてみよう。今まで食べた梅干しの中で最もしょっぱかったものを思い出してみてほしい。そう。300年経っても腐らないほど塩まみれになったやつだ。どうですか? 口の中に唾(つば)が溜まってきたでしょう(笑)。これ自体、現実にあなたの脳が「しょっぱい」と感じた証拠である。

 更に決定的な証拠を挙げよう。我々は眠っている間に夢を見る。目をつぶっているにもかかわらず。世界の七不思議よりも不思議な話だ。つまり、目で見ていると思いきや実は脳の視覚野が知覚しているのだ。極端な話、生まれつき目が不自由であったとしても、聴覚や触覚で視覚野を働かせることができれば、その人は「見えている」といっていい。

 脳内には松果体(しょうかたい)という内分泌器官があるが、これは「第三の眼」と考えられている。ヒンドゥー教の神シヴァ神には第三の眼が額に描かれている。

 また連合型視覚失認という症状があると、視覚は正常に機能しているが意味を読み取ることができなくなる。生まれつき目の不自由な人が、手術などによって見えるようになると同様の症状が起こることがわかっている。このため手で触って確認した上で見直す作業を繰り返す。

 もう一つ付け加えておくと、あなたが見ている赤と私が見ている赤は多分微妙に異なっている。

 つまり、「見る」という行為は網膜に映った光の点に意味を付与し、物語化することで成り立っているわけだ。

 言ってることわかるかな? 順番が逆だということ。世界があって、それを見るために目を発達させたんじゃなくて、目ができたから世界が世界としてはじめて意味を持った。

【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二(朝日出版社、2004年/講談社ブルーバックス、2007年)】

 当然、目が不自由であれば音の世界や匂いの世界がある。つまり、我々の知覚が世界を形成しているのである。で、繰り返しになるが知覚を司っているのは脳だ。ということは、世界は脳だと言い換えることができる。

 眠っている間にあなたの脳味噌をそっくり取り出したと仮定する。脳は生きたまま培養液に浸(ひた)され、無数の電極を付けてコンピュータから様々な情報を入力できるようにしておく。起床時間になり、あなたは目覚め周囲を見渡す。いつもと変わらぬ自分の寝室だ。だが実はコンピュータによって視覚野に刺激を加えているだけだった。「そんなことはあり得ない」と思った人はいささか考えが浅い。これは「水槽の脳」という奥深いテーマなのだ。映画『マトリックス』のモチーフにもなっている。

 話を本に戻そう。神を見る人がいる一方で、幽霊を見る人もいる。後者の方が多そうですな(笑)。はたまたせん妄や幻覚という症状もある。いずれにせよ、「見えている」のだから脳が知覚していることは事実であろう。

霊界は「もちろんある」/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 では何が違うのか? それは「見えた後の行動」であろう。啓示を受けた人は崇高になり、幽霊を見た人は臆病になる。そんな単純な結果論でいいのか? 別に構いやしないさ。要は「世界が変わった」という事実が重要なのだ。

 我々は「高さ」に憧れる。アメリカの大統領選挙の殆どは背の高い候補が勝利を収めている。また、高い山を登ると高山病になるため、古(いにしえ)の人々は「神が住んでいて人間を近寄らせない」ものと考えていた。西洋文明は高さを支配する競争でもあった。飛行船、飛行機、ロケットと天にまします神に近づいた国家が世界を支配してきた。不況下にあっても尚、高層マンションが飛ぶように売れているのも同じ理由からだろう。我々は見下ろす──あるいは見下す──ことが好きなのだ。きっと本能が空なる世界を求めてやまないのだろう。

 中には守護霊やオーラが見える人もいる。あれはどうなんだろう? チト眉唾物だね。

 まとまらなくなってきたので結論を述べる。「脳は知覚からの刺激によってシステムが変わる」ことがある、という話だ。「見ることで変わる」と言ってもよい。天に瞬く星々や美しい夕焼けを見た瞬間、言葉にならない何かが胸の中を去来することがある。好意を寄せていれば、あばたもエクボに見えるのだ。

 そのように考えると、「何をどう見るか」でその人の世界は決まるといえよう。人は闇の中で光を見出すことも可能なのだ。

 
トーマス・ギロビッチ
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
合理性と再現可能性/『科学の方法』中谷宇吉郎
カーゴカルト=積荷崇拝/『「偶然」の統計学』デイヴィッド・J・ハンド

2010-02-20

光り輝く世界/『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清


 ・光り輝く世界

『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん

悟りとは

 ベストセラーには食指が動かない。所詮、出版社のマーケティングやプロパガンダに乗せられた人々が買ったというだけの話であろう。そんな私が30年前のミリオンセラーを開いたのには理由がある。田坂広志の講演(なぜ、我々は「志」を抱いて生きるのか)で本書が紹介されており、どうしてもその部分を確認したかった。

 2005年に新版が出ていた。夫人の原稿が加えられている。癌のため31歳で絶命した医師が、我が子に宛てて書いた手記である。

 読み物としてどうこうというよりも、一人の青年の死にゆく姿が圧倒的な重量で胸に迫ってくる。井村は元々命のきれいな人物だったようだ。淡々と清水のように綴られた文章から、人柄が浮かび上がってくる。

 様々な患者との出会いがスケッチされていて、人生の深い余韻がこちらにまで伝わってくる――

「ズキン、ズキンとするのは痛いけれど、私にはそれが、建築現場の槌音(つちおと)のように感じるのです。ズキン、ズキンとくるたびに、私の壊(こわ)れた体が健康な体へと生まれかえさせて頂(いただ)いている。そう思うと、勿体(もったい)なくて、手をあわせているのです。ですから、少しも苦しいと思わないのです」
 おだやかに話されるお婆さんの目は優しく、まるで観音(かんのん)さまのようでした。そのお婆さん、今はすっかり元気になられ、またあちこちを飛びまわっておられます。

【『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清(祥伝社ノンブック、1981年/祥伝社黄金文庫、2002年/〈新版〉祥伝社、2005年)以下同】

 病(やまい)によって人生の意味を見つめ直す人は多い。限りある生の現実を思い知らされた時、人は謙虚にならざるを得ない。病気の前では地位も名誉も通用しない。強靭な肉体を誇るプロスポーツ選手ですら病気にはかなわない。病は万人に生が平等であることを教える。

 お婆さんの言葉が胸を打つ。何らかの真理を悟った者に特有の「高貴な香り」が漂う。「少しも苦しいと思わない」という言葉は決して強がりではなかったことだろう。苦(く)から離れ、達観しているのだ。

 病に臥(ふ)すと、どうしようもない孤独感が忍び寄ってくる。何となく、置いてきぼりを食ったような感覚に捉われ、家族や社会の足を引っ張っている事実に苦しむ。「病は気から」なんて言うが、身体が病んでしまえば自動的に気も病んでしまう。病院へ入院すれば、そこは病気であることが普通の場所である。深夜にもなれば廊下をひたひたと音も立てずに死の影がうろついている。

 そんな孤独や申しわけなさを乗り越えると、自分自身と向き合わざるを得なくなる。「生きる自分」と「死ぬ自分」が見えてくるのだ。お婆さんの言葉には生きることへの感謝が溢れている。それこそが死を受け容れた証拠であろう。生に対する執着心が、人を不幸のどん底に追いやることは決して珍しいことではない。

 だが、井村は若かった。そして幼い娘がいた。癌が発病し、片足を切断した。しかし、無情にも肺に転移していた――

 その夕刻、自分のアパートの駐車場に車をとめながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中が輝いてみえるのです。スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわる子供たちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が雑草が、電柱が、小石までが美しく輝いてみえるのです。アパートへ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊(とうと)くみえたのでした。

 講演で引用されたのはこの箇所だ。死を自覚した時、世界は光り輝いていた。日常の風景が荘厳な世界に変わった。死のショックが視覚野か側頭葉を刺激したのだろうか? 私はそうは思わない。それまでは見えなかったものが、見えるようになったのだ。自分が生の当体であり、死の当体であると悟った瞬間に世界は劇的に変化したのだ。井村が見た光景はこの世の現実であり、真実であった。クリシュナムルティが言う「生の全体性」の一部を彼は覚知したのだ。

 私は既に井村よりも15年長く生きている。だが、井村が見た世界を私は知らない。井村は二人目の娘の顔をみることなく逝ってしまった。それでも、彼が生きて生きて生き抜いたことは確かだ。二人の子は井村を上回る年齢になった。亡き父は、沈黙の中から多くのことを娘達に教えているに違いない。

 

小野田寛郎の悟り
本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
被虐少女の自殺未遂/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳

2010-02-07

21世紀になっても存在する奴隷/『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス


『武装解除 紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治

 ・21世紀になっても存在する奴隷

『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

必読書リスト その二

 強い者が弱い者を襲い、殴り、強姦し、喉を掻き切り、火を放ち、奴隷にしている――これが我々の棲む世界の現実であった。アフリカ大陸最大の国スーダンでは21世紀になっても尚、奴隷にされている人々が存在する。2006年の主要援助国は米、英、ノルウェー、オランダ、カナダとなっており、日本も有償・無償の資金協力は1000億円の実績がある(2006年現在)。つまり我々はスーダンと関わりがあるのだ。

 メンデ・ナーゼルが住んでいたヌバ族の村が民兵に襲撃され、彼女は12歳で奴隷にさせられた。まだ初潮も訪れていない少女が当たり前のように強姦される。メンデよりも幼い子供達も犯された。何をされたのかすら理解できていない少女達の股間は血にまみれていた。陰部をナイフで切り裂いてから挿入された少女もいた。

 意外と知られていないが北アフリカはイスラム圏である。同じアッラーの神を信じていながら、相手が黒人という理由だけでアラブ系の連中は平然とナイフで喉笛を切り裂いているのだ。私でなくても、アッラーの無力さを呪いたくなることだろう。

 汚(けが)れを知らないメンデの心が、無惨な情況と鮮やかなコントラストを描いて悲惨の度合いを深める。以下は村が襲撃された直後に、メンデ達がトラックで首都ハルツームに向かっている時の様子である――

 数時間ほど眠っただろうか。車体の大きな揺れで飛び起きると、あたりは薄暗くなっていた。目の覚めるような美しい夜景が見えた。はるか前方に、色とりどりの無数の光がきらめいている。うごめいている光もあれば、またたいている光もある。こんな夜景を見るのは初めてだった。
「ほら! 見て!」わたしはほかの4人を揺り起こした。「月も出ていないのに、どうしてあんなにきらきら光っているのかしら」
 ヌバ山地には電気がなかったので、太陽か月か炎が発する光しか見たことがなかったのだ。

【『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス:真喜志順子〈まきし・よりこ〉訳(ソニー・マガジンズ、2004年/ヴィレッジブックス、2006年)以下同】

「この町は、人間が住むところなのかしら、それとも車が住むところ?」アシュクアナがつぶやいた。あまりにも車が多いので、だれもその問いに答えられなかった。
「車はどこに住んでるの?」わたしは答えた。「車を入れなきゃならないから、あんなに大きいんだわ、きっと」
「小さな車は、大きな車から生まれるんじゃないかしら。だから、車がこんなにたくさんあるのよ」アシュクアナが言った。
 そのとき、若者が乗ったバイクが車列のあいだをすり抜けていった。
「見て! 見て!」わたしはバイクを指差して叫んだ。「あの車は小さいから、きっと今日生まれたばかりよ」
 生まれてからずっとヌバ山地で暮してきたわたしたちにとって、ハルツームはまさに別世界だった。

 奴隷にされつつある中での微笑ましいやり取り。何の罪もない健気(けなげ)少女達が、健気に生きることも許されない世界。アラブ系の金持ちが家事や育児を押しつける目的で、親と離れ離れになることを余儀なくされた子供達は、まだ自分達の運命を知る由もなかった。

 アフリカの豊かな精神性を思う。人類発祥の大地アフリカは、人間が最も長く生きてきた場所である。アフリカの人々が好戦的であったならば、人類はとっくに滅んでいたことだろう。悠久の歴史を支えているのは友好関係に他ならない。そのアフリカを侵略したのは欧米諸国であった。古来、キリスト教世界における人間とは、神を信じる理性を持つ者に限られた。つまり、自分達の神を信じない人々は人間ではないことを意味している。だからヨーロッパの連中は平然と侵略する。神の僕(しもべ)として「神の怒り」を体現するのだ。

 世界を混乱の極みに追い立てているのは、間違いなくユダヤ教から派生したキリスト教とイスラム教である。なかんずくキリスト教の罪は重い。世界に対して物申す識者は、キリスト教を徹底的に批判するべきだ。短気な神に率いられた欧米が、世界を蹂躙(じゅうりん)し続けてきた事実から目を逸(そ)らしてはいけない。

「なかに入りなさい、イエビト」ラハブ(女主人)が言った。“イエビト”というのは、アラビア語で「名前をつける価値もない少女」という意味だ。わたしはショックだった。こんなふうに呼ばれるのは生まれて初めてだった。

 奴隷となったメンデは子供達からも動物扱いされるようになる。そして女主人の暴力はエスカレートしていった――

(※客の子供に縄跳びのロープで転ばされ、ポットのお茶を全身に浴びる。子供達は嘲り笑った)
「おまえの顔には目がついてないの、イエビト! 目がついてないのかって聞いてるの!」なわとびのロープをつかんで、わたしをひっぱたいた。最初のひと振りが頭を直撃し、わたしは両手で顔を覆い隠した。
「ごめんなさい、ごめんなさい」わたしは声を振り絞った。
 一瞬、ラハブが呼吸を整えるために手を休めると、女の客が叫んだ。
「もっとつづけて! 打って打って、打ちまくりなさいよ! この子を懲(こ)らしめるにはそれしかないんだから。痛い目に遭えば、二度とやらないようになるわ」
 わたしは背中を丸めて縮こまった。ラハブはわたしの背後にまわり、さらに力を込めてロープを打ち下ろした。わたしが叩かれるたびに、女の客の歓声に混じって、男たちの笑い声が聞こえた。

 メンデは親からも殴られたことがなかった。怒りのあまり、キーを打つ私の指が止まる。この女主人と客は何度死刑になったとしても罪を償うことはできない。火あぶりにしたところで、こいつらの性根が改まることはないだろう。

 10年後、メンデは女主人の姉の家へ行くよう命じられる。そこはイギリスだった。亭主(マフムード・アル・コロンキ)は何と大使館で働く人物だった。つまり、スーダンにおける奴隷の存在は国家公認も同然ということだ。待遇は格段によくなったものの、奴隷であることには変わりがなかった。

 メンデは意を決して脱出する。様々な人々の応援もあって、遂にメンデ自由を獲得したのは2000年9月11日のことであった。マスコミも援護射撃を惜しまなかった。見知らぬ人が養子を申し入れた。ヨーロッパ各地から激励と称賛の手紙が寄せられた。スペイン人種差別反対連合(CECRA)は国際人権賞を授与した。最後の最後でやっと重い腰を上げたのはイギリス政府だった。

 だが、失った時間は二度と戻らない。そして今も尚、奴隷にされている子供達が存在するのだ。我々の世界は何と無惨なのだろう。いっそのこと人類はさっさと滅んだ方がいいのかもしれない。



カマラリたちの新たな人生(ネパール)/プラン・ジャパン

2010-02-03

目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世


『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹

 ・目指せ“明るい教祖ライフ”!
 ・宗教の硬直化

『死生観を問いなおす』広井良典
『イエス』R・ブルトマン
『大航海時代における異文化理解と他者認識 スペイン語文書を読む』染田秀藤

宗教とは何か?
キリスト教を知るための書籍
ヒップホップで学ぶ日蓮

 サブカル手法でアプローチする世界宗教入門、といった内容。記述が正確で、大変勉強になった。「教祖を目指す」というネタで、実は「教団の力学」を明らかにしているところがお見事。冷徹な眼差しから繰り出されるユーモアといった味つけだ。

 本書の教えを遵守すれば、きっと明るい教祖ライフが開けるでしょう。教祖にさえなれば人生バラ色です!

【『完全教祖マニュアル』架神恭介〈かがみ・きょうすけ〉、辰巳一世〈たつみ・いっせい〉(ちくま新書、2009年)以下同】

 この一言で教祖を目指す人はまずいない。が、しかし、信仰の動機が欲望に支えられていることを巧みに表現している。「幸せになりたい」という願望は、現在が不幸である証なのだ。他人の不幸に付け込むのが、宗教という宗教の常套手段である。言わば「不安産業」。

 では果たして、教祖の機能とは何か?

 では、最初にもっともシンプルな教祖の姿を提示します。教祖の成立要件は以下の二要素です。つまり、「なにか言う人」「それを信じる人」。そう、たったふたつだけなのです。この時、「なにか言う人」が教祖となり、「それを信じる人」が信者となるわけです。

 シンプルにして明快。一瞬、「エ?」と思わされるが、よくよく考えてみると確かにこの通りだ。教義の高低・浅深は関係ない。教祖と信者の関係性は、こうして生まれここに極まるのだ。

 ヒトという動物の特徴は色々あるが、何と言っても際立っているのは「コントロールするのが好き」という点であろう。スポーツは身体のコントロールである。車や機械の運転は、延長された身体性と考えられる。そして極めつけは「他人をコントロールすること」だ。

 小犬を見ては「お手」を無理強いし、子供が生まれると躾(しつけ)や教育と称して、家のしきたりや社会通念を叩き込む。長ずるに連れ、よりよい学歴を目指すことを強制し、社会に出るや否や地位獲得に余念がない。地位とは、「多くの人々をコントロールできる立場」のことである。

 脳や身体がネットワークを形成している以上、社会がネットワーク化(ヒエラルキー化)することは避けられないのだ。そしてコントロールの最終形が宗教と拳銃であると私は考える。生殺与奪を握っているという点において、この両者は顔の異なる双子なのだ。

 ゲラゲラ笑いながら読んでいると見落としがちであるが、そこここに慧眼(けいがん)が窺える――

 さて、ここからは具体的な教義作成について考えていきますが、最初にはっきりと述べておきたいことがあります。皆さんの中に、宗教に関して次のような持論をお持ちの方はいませんか。すなわち、「宗教は社会の安寧秩序を保ち、人々の道徳心を向上させるものであり、社会を乱すものであってはならない」と。残念ながら、これはとんだ見当外れなので直ちに忘れて下さい。宗教の本質というのは、むしろ反社会性にあるのです。特に新興宗教においては、どれだけ社会を混乱させるかが肝(きも)だということを胸に刻んでおいて下さい。
 現に大ブレイクした宗教を見てみると、どれもこれも反社会的な宗教ばかりです。イスラム教しかり、儒教しかり、仏教しかり。どれも最初はやべえカルト宗教でした。しかし、その中でも最もヤバいカルトはキリスト教でしょう。イエスの反社会性は只事ではありません。罪びとである徴税人と平気でメシを食い、売春婦を祝福し、労働を禁じられた安息日に病人を癒し、神聖な神殿で暴れまわったのです。当時の感覚で言えばとんでもないアウトローで、もちろん社会の敵なので捕らえられて死刑にされます。同胞のユダヤ人からも、「強盗殺人犯は許せてもイエスだけは許せねえ」と言われる程の嫌われっぷりでした。しかし、イエスはこれほど反社会的だったからこそ、今の彼の名声があるとも言えるのです。

 これはまさしく、クリシュナムルティが説いている「反逆」である。普通に生きている人々は、普通の状態において既に「社会の奴隷」となっている。つまり、形成された社会を容認してしまえば、信者は二重の意味で奴隷となるのだ。とすると、社会にプロテスト(異議申し立て)することで何らかの自由を目指す必然性が生じる。このようにして社会の奴隷は、奴隷である自分の立場に気づき、自由を求めて今度は教祖の奴隷となるのだ。ま、早い話が「ご主人様」を取り替えただけのことだ。

 人間の価値観というものは、その殆どが作られた幻想に過ぎないが、最も奥深い部分に埋め込まれたソフトウエアが宗教である。本来であれば人間を解放するための宗教が、教義によって人間を束縛するというジレンマを抱え込む。自由になるためには犠牲が伴うのだ。

 だが、真の宗教、あるいは思想、または普遍的な物語はそうではあるまい。既成の価値観に反逆しながらも、教祖や教義、そして自分自身からも自由になる方途があると私は信ずる。なぜなら、それがなければ世界の平和は成立しないことになるからだ。

 今、世界平和を妨げているものは国家、民族、そして宗教である。いっそのこと全部なくすか、新しくするべきだ。

2010-01-07

パニック障害を抱えた主人公/『罪』カーリン・アルヴテーゲン


 ・パニック障害を抱えた主人公

『喪失』カーリン・アルヴテーゲン
『裏切り』カーリン・アルヴテーゲン

ミステリ&SF

 アルヴテーゲンのデビュー作。ペーターは経理の横領によって2000万円もの負債を抱える羽目となった。そんな彼が見知らぬ女から奇妙な依頼を受ける。ある会社の社長にプレゼントを手渡して欲しいというのだ。金に切羽詰っていてペーターは断ることができなかった。社長に渡した小箱の中には人間の足の親指が入っていた。社長はそれまでにも散々嫌がらせを受けていた。仕事を失っていたペーターは探偵役を引き受ける。

 ペーターはパニック障害を抱えていた。そして執筆していた著者も同じ病状にあったという。カーリン・アルヴテーゲンは二人目の子供を妊娠している最中に兄を亡くした。生まれ来る生命と去って行った生命との狭間(はざま)で、アルヴテーゲンの精神はバランスを狂わせた。深刻なうつ状態に陥り、パニック発作に襲われるようになった。無気力になり、何も手につかなくなる中で、彼女は自分自身に向かって物語を書いた――これが本書である。

 多くの精神疾患は「真っ直ぐに育つこと」を許さない環境によってつくり出される。社会は常に適合することを求める。おかしな社会に順応できるおかしな人々であれば問題はないが、何らかの違和感を覚える人々はストレスにさらされてしまう。社会的成功が我が子の幸福と信じてやまない親は、知らず知らずのうちに社会の奴隷となることを子供に強要する。自由とはヒエラルキーの上層に存在するのであって、社会の外側にあるものではないと教育する。このようにして社会からも親(=大人)からも抑圧された子供は、ある日突然攻撃的になる。そうでない子供は精神疾患になるのだ。

 ペーターはオーロフ・ルンドベリと友情を結ぶことで少しずつ自信を取り戻してゆく。だが、事件が解決した後再び孤独感に打ちひしがれる――

 生きて何の役に立つというのか?
 これでは不公平だ。だれかが秩序をもたらすべきだ。いまのままでは、人がどのように生きようと何の意味もないではないか。大量虐殺者でも聖人でも結局最後は同じなのだ。最後の審判というものがあるなどという考えは、とっくの昔に捨てた。どっちみち、はっきりした違いはないのだ。だが、それではだめではないか。すべての人間は、よい行いをすれば死後にそれに見合った褒美が与えられると、生きているうちから認識するべきなのだ。そして、よい行いをすることを選ばなかった人間は、死後になにが待ち受けているかを知るべきなのだ。破壊がおこなわれ、取り返しがつかなくなってから、それをおこなった者を罰したところで、何の意味もないではないか。死後ただちに、その人の生きた人生は評価され、褒美を与えられ、あるいは懲罰を受けるべきなのだ。いや、それよりもいいことがある。よい行いをした人間にはもっと時間が与えられるべきだ。命の砂時計の砂が増されるべきではないか? 正しい行いがおこなわれれば、ただちに命が何時間か延びる。一方悪事をおこなう者はその悪行の度合いに応じて、3月の雪だるまのように命が縮んでしまう。
 それならば、生きていくことも、何とか我慢できるかもしれない。

【『罪』カーリン・アルヴテーゲン:柳沢由美子〈やなぎさわ・ゆみこ〉訳(小学館文庫、2005年)】

 巧い……。人生の不条理を実にわかりやすい言葉で表現している。世界は混乱している。悪が大手を振って歩き回り、善は座り込んだまま小さくなっている。資本主義は弱肉強食の原理であるがゆえに、善悪は不問に付される。どんな種類の力であろうとも、力が支配する世界は暴力的になる。力は必ず暴走する宿命を抱えているのだ。力とは暴力である。

 我々の世界では「強さ」が「自由」を表している。つまりそれは、「相手を攻撃する自由」に他ならない。アメリカが見事に体現しているではないか。「イラクが大量破壊兵器を保有している可能性がある」として戦争を行ったことはまだ記憶に新しい。アメリカが「可能性」を見出せば、いつでも他国の市民を殺害することが可能となったのだ。アメリカの力は戦争への扉を開いた。そして、その力は強迫神経症として作用していることを見逃してはならない。金持ちが泥棒の心配をするのと同じだ。

 ペーターはいつもの日常に戻った。何ひとつ変わることのない凡庸で退屈ですべてが腐敗している日常に。ところが事件は一件落着してはいなかった。ここからペーターは過去の物語と遭遇する羽目になる。それは自分の原点を回帰する心の旅でもあった。

 アルヴテーゲンはあらすじを決めることもなく執筆し、書き終えた頃に心の病を克服していた。まったく見事な蘇生のドラマである。