・自分は今日リンゴの木を植える
・『ルターのりんごの木 格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ』M・シュレーマン
「どんな時でも人間のなさねばならないことは、
たとえ世界の終末が明日であっても、
自分は今日リンゴの木を植える……」
【『第二のチャンス』ゲオルギウ:谷長茂〈たになが・しげる〉訳(筑摩書房、1953年)】
・訳書にある 「明白」は単なる誤植/梶山健編『新版 世界名言事典』(1988年)の出典は誤り
・ボレアース リンゴの木
・言葉を紡ぐ力/『石原吉郎詩文集』石原吉郎
「どんな時でも人間のなさねばならないことは、
たとえ世界の終末が明日であっても、
自分は今日リンゴの木を植える……」
【『第二のチャンス』ゲオルギウ:谷長茂〈たになが・しげる〉訳(筑摩書房、1953年)】
私たちはけっして木を見つめません。あるいは見つめるとしても、それはその木陰に坐るとか、あるいはそれを切り倒して木材にするといった利用のためです。言い換えれば、私たちは功利的な目的のために木を見つめるということです。私たちは、自分自身を投影せずに、あるいは自分に都合のいいように利用しようとする気持ちなしに木を見つめることがけっしてないのです。まさにそのように、私たちは大地とその産物を扱うのです。大地への何の愛もなく、あるのはただその利用だけです。もし人が本当に大地を愛していたら、大地の恵みを節約して使うよう心がけることでしょう。つまり、もし私たちが自分と大地との関係を理解するつもりなら、大地の恵みを自分がどう使っているか、充分気をつけて見てみるべきなのです。自然との関係を理解することは、自分と隣人、妻、子供たちとの関係を理解することと同じくらい困難なことなのです。が、私たちはそれを一考してみようとしません。坐って星や月や木々を見つめようとしません。私たちは、社会的、政治的活動であまりにも忙しいのです。明らかに、これらの活動は自分自身からの逃避であり、そして自然を崇めることもまた自分自身からの逃避なのです。私たちは常に自然を、逃避の場として、あるいは功利的目的のために利用しており、けっして立ち止まって、大地あるいはその事物を愛することがありません。自分たちの衣食住のために利用しようとするだけで、けっして色鮮やかな田野をを見て楽しむことがないのです。私たちは、自分の手で土地を耕すことを嫌がります──自分の手で働くことを恥じるのです。しかし、自分の手で大地を扱うとき、何かとてつもないことが起こります。が、この仕事は下層階級(カースト)によってのみおこなわれます。われわれ上流階級は、自分自身の手を使うには偉すぎるというわけです! それゆえ私たちは自然との関係を喪失したのです。(プーナ、1948年10月17日)
【『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1993年)】
エコノミック・ヒットマン(EHM)とは、世界中の国々を騙して莫大な金をかすめとる、きわめて高収入の職業だ。彼らは世界銀行や米国国際開発庁(USAID)など国際「援助」組織の資金を、巨大企業の金庫や、天然資源の利権を牛耳っている富裕な一族の懐(ふところ)へと注ぎこむ。その道具に使われるのは、不正な財務収支報告書や、選挙の裏工作、賄賂、脅し、女、そして殺人だ。彼らは帝国の成立とともに古代から暗躍していたが、グローバル化が進む現代では、その存在は質量ともに驚くべき次元に達している。
かつて私は、そうしたEHMのひとりだった。
1982年、私は当時執筆していた『エコノミック・ヒットマンの良心』(Conscience of an Economic Hit Man)と題した本の冒頭に書いた。その本は、エクアドルの大統領だったハイメ・ロルドスと、パナマの指導者だったオマール・トリホスに捧げるつもりだった。コンサルティング会社のエコノミストだった私は、顧客である二人を尊敬していたし、同じ精神を持つ人間だと感じてもいた。二人は1981年にあいついで飛行機の墜落で死亡した。彼らの死は事故ではない。世界帝国建設を目標とする大企業や、政府、金融機関上層部と手を組むことを拒んだがために暗殺されたのだ。私たちEHMがロルドスやトリホスのとりこみに失敗したために、つねに背後に控えている別種のヒットマン、つまりCIA御用達のジャッカルたちが介入したのだ。
【『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス:古草秀子〈ふるくさ・ひでこ〉訳(東洋経済新報社、2007年/『エコノミック・ヒットマンの世界侵略 米中の覇権が交錯するグローバル経済のダークサイド』権田敦司〈ごんだ・あつし〉訳、二見書房、2023年)】
地震の代わりにジャガイモの破片を使うと、グーテンベルク=リヒターの法則と同様の、特徴のない曲線が得られる。ブドウの種くらいの微小な破片は膨大な数あり(ママ)、破片が大きくなっていくにつれて、その数は徐々に少なくなっていく。実際注意深く調べていくと、破片の数は、大きさに応じてきわめて規則正しく減少していくことが分かる。重さが2倍になるごとに、破片の数は約6分の1になるのだ。グーテンベルクとリヒターが発見したべき乗則と同様のパターンである。一つ違うのは、重さが2倍になるごとに、この場合には6分の1になるが、地震の場合には4分の1になるという点である。
【『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン:水谷淳〈みずたに・じゅん〉訳(ハヤカワ文庫、2009年/早川書房、2003年『歴史の方程式 科学は大事件を予知できるか』改題)以下同】
あなたがナシの大きさだったときには、自分と同じ重さの破片一つに対して、その半分の重さの破片は約6個あった。ところが自分が縮んだ後でも、まったく同じ規則を発見する。再び、自分と同じ重さの破片一つあたり、その半分の重さの破片が約6個あるのだ。どんな大きさでもまわりの景色はまったく同じに見えるので、もし自分を何回縮めたか忘れてしまうと、まわりを見ただけでは自分の大きさがまったく分からなくなってしまう。
これがべき乗則の【意味】するところである。
人は自転車に乗れるが、どうやって乗っているのかは説明できない。書くことはできるが、どうやって書いているのかを書きながら解説することはできない。楽器は演奏できても、うまくなればなるほど、いったい何をどうしているのか説明するのが困難になる。
【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(紀伊國屋書店、2002年)】
5年生の冬──中学最後の寒稽古のとき、私は古梅(こばい)に言った。
「このまま、お前に負けっぱなしで卒業したんじゃ、俺の立つ瀬がない。すまんが、もう一度、立ち合ってくれ」
「よし、なんべんでも相手になってやるぞ」
防具をしっかりつけ直して、二人は対峙(じ)した。剣道部の全員がかたずをのんで私たちの決戦を見守った。きょうばかりは断じて負けられなかった。古梅が面をとりにきた一瞬、私はななめ右前へ飛んだ。古梅の胴が鳴り、確かな手ごたえが竹刀の先から伝わった。
「小野田、すごい抜き胴だったぞ」
あとで古梅が恬淡(てんたん)と言った。それを聞いたとたん、私は全身が赧(あか)くなった。技の優劣にこだわっていた自分が、たまらなくはずかしかった。
【『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉(講談社、1974年/日本図書センター、1999年)以下同】
「バカ野郎とは何だ、俺の言うことがきけない奴は、もはや味方じゃねえ、敵だ、日本人じゃねえ、殺してやるッ」
「殺す!? よし、殺したいなら殺してみろ。だが、その前にひとこと、言うことがある。それを聞いてから、それでも殺したかったら殺せ」
私は再び荷物を置き、小塚の目をにらみながら言った。
「俺は命令とはいえ、きさまと長い年月、国のため、民族のために何とかお役に立ちたいと努力してきた。俺は同志であるきさまを、自分の感情だけで傷つけないよう、ずいぶん心をくだいてきたつもりだ。それなのにきさまは、俺の指導がよくないから、多数の投降者を出し、赤津を裏切らせ、島田を殺すはめになったと、これまでに何度も同じことを言った。
だが、お前がそういうことを言いだすときはきまっている。敵の勢力が強いとき、天候が悪いとき、計画どおりにことが運ばず、心身ともに疲れているとき、食事の時間が遅れて空腹になったとき──きさまはこの四つのうち、何か一つにぶつかると必ず俺を批判し、怒りっぽくなる。きょうの場合は三番目だ。なぜ、もっと冷静になれないんだ。俺たちは二人だけなんだぞ」
「うるせえッ、いまさら、説教なんてたくさんだ」
「そうか、これだけ言ってもきさまは、同志の俺を殺さなければ気がすまないのか。よし、命をくれてやる。俺を殺して、あとはきさま一人で生きぬけ。そして、俺のぶんも戦え!!」
すぐ眼下には荒波が打ち寄せていたが、私の耳には何も聞こえなかった。小塚も聞こえなかったろう。二人を包むいっさいの物音が絶え、静寂の中で私たちは対峙した。
何十秒か過ぎた。
「隊長どの」
目をそらした小塚が言った。
「先に歩いてくれ」
そのひとことが、私たちを前よりも強い同志にした。
私は黙ってうなずき、陽に灼(や)けた海岸の小石を踏んで歩きだした。
君たちは、私がこれまでに見てきたうちでもっとも美しい渓谷のひとつに暮らしている。そこには、特別な雰囲気がある。ことに、夕方や朝とても早くに、ある種の沈黙が渓谷に行き渡り、浸み透っていくのに気づいたことはないだろうか。このあたりには、おそらく世界でももっとも古い丘があって、まだ人間に汚されていない。外では、都会だけではなくそこら中で、人間が自然を破壊し、もっとたくさん家を建てようと木を切り倒し、車や工業で大気を汚染している。人間が動物を滅ぼそうとしているのだ。虎はほとんど残っていない。人間があらゆるものを滅ぼそうとしている。なぜなら、次々と人間が生まれ、より多くの住むところが必要になっているからだ。しだいしだいに、人間は世界中に破壊の手を広げつつある。そして人は、こうした谷──人はわずかしかおらず、自然はまだ汚されておらず、いまなお沈黙と静謐(せいひつ)と美のある谷にやって来ると、ほんとうに驚いてしまうのだ。ここに来るたびに、人はこの土地の不思議さを感じるけれども、たぶん君たちはそれに慣れてしまったのだろう。君たちは、もう丘を見ようとはしないし、もう鳥の声や葉群(はむれ)を吹き抜ける風の音を聞こうとはしない。そんなふうに、君たちは、しだいに無関心になってしまったのだ。
教育とは、ただ本から学び、何かのことを暗記するというだけのことではなく、それがほんとうのことやあるいはうそを言っているかを、見、聞きする術(すべ)を学ぶことである。そういうことすべてが、教育の一部なのだ。試験に合格し、学位を取り、就職し、結婚して定住するだけが教育ではない。それは、鳥の鳴き声を聞き、大空を見、えもいわれぬ樹木の美しさや丘の姿に眺めいり、それらと共に感じ、ほんとうに、じかにそれらに触れることでもある。だが、年を取るにつれて、そんなふうに見、聞きしようとする気持ちが、不幸なことに消え去ってしまう。なぜなら、心配事は増えるし、もっとたくさんのお金、もっといい車、もっと多くの、または少しの子供を持ちたいと思うようになるからなのだ。嫉妬ぶかくなり、野心的で欲ばりで、妬(ねた)みぶかくなり、その結果、大地の美しさへの感受性をなくしてしまうのだ。世界で、何が起こっているか知っているだろうか。現在のいろいろな出来事を、気をつけて調べてみなさい。戦争や反乱が次次に起こり、国と国とがお互いに対立しあっている。この国にも、差別や分裂があり、人口は増加の一途をたどり、貧しさ、不潔さ、そして完全な無感覚と冷淡さがはびこっている。自分が安全ならば、ひとに何が起ころうといっこうに気にしない。そして、君たちは、こういうことすべてに合わせていけるよう教育されているのだ。世界が狂っているということ──お互いに争い、けんかし、いじめ、おどし、苦しめ、攻撃しあうということすべては、狂気なのだということが、わかっているだろうか。で、君たちは、それに合わせていけるように成長するというわけだ。それは、正しいことなのだろうか。社会と呼ばれるこの狂った仕組みに、君たちが進んで、あるいはいやいやでも適応するようにすること、それが教育の目標なのだろうか。それから、世界中の宗教に何が起こっているか、知っているだろうか。この分野でも、人間は腐っていこうとしているし、誰も何一つ信じてはいないのだ。人間は、何の信仰も持ってはいないし、宗教とは単なる大がかりな宣伝の成果にすぎなくなっている。
君たちは、若く、生き生きとしており、そして純粋だから、大地の美しさを見つめ、愛情豊かな心を持つことができるのではないか。そして、持ち続けることができるのではないだろうか。もしそうしなければ、成長するにつれて、君たちは適応してしまうだろう。なぜなら、それがいちばん安易な生き方だからである。成長するにつれて、君たちのうちごく少数しか反抗しなくなり、その反抗も、問題の解決にはならないだろう。君たちのうちには、社会から逃避しようとする者も出るだろう。しかし、そうした逃避には、何の意味もありはしない。必要なことは、社会を、人々を殺すことによってではなく、変えることなのだ。社会は、君たちでもあり、私たちでもある。君たちや私が、この社会を作り上げたのだ。だから、君たちが変わらなければならない。この異様な社会に適応してはいけない。とすれば、どうすればいいだろう。
君たちは、このすばらしい谷で暮らした後は、争いと混乱と戦争と憎しみの世界へ送り出されようとしている。君たちは、こういう古い価値に従い、適応し、それらを受け容れるつもりなのか。古い価値とは、お金、地位、威信、権威のことである。それが、人間の望みのすべてであり、社会は君たちがそういう価値のシステムに適応することを望んでいる。だが、もし君たちが今、考え、観察し、そして本からではなく、自分のまわりでいま起こっていることをみな自分自身で見守り、耳傾けることによって、学びはじめたならば、今の人間とは違った種類の人間──思いやりがあって、愛情深く、人々を愛する人間──に成長するだろう。もしそういうふうに生きるならば、たぶん君たちはほんとうに宗教的な人生を発見するだろう。
だから、自然を、タマリンドの木、咲きほこるマンゴーの木を見つめ、それから、朝早くと夕方とに、鳥たちの声に聞き入りなさい。木の葉の上のとりどりの色や光、大地の美しさ、豊かな土地を見てごらん。そういったものみなを見、また世界のありさまを、そのすべての残酷さ、暴力、醜さといっしょに見た今、これから何をすべきなのだろう。
【『英知の教育』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1988年)以下同】
注意をする、注意を払うとは、どういう意味かわかっているだろうか。注意を払うと、ものごとがもっとはっきり見えてくるのだ。鳥たちの鳴き声がもっとはっきり聞こえてくる。さまざまな音の違いがわかるようになる。十分に注意深く木を見つめれば、木の美しさ全部が見えてくる。木の葉や小枝が見え、それらに風が戯(たわむ)れているのが見える。こんなふうに、注意を払えば、ものごとがとてつもなくはっきりと見えるようになるのだ。そういうふうに、注意を払ったことがあるだろうか。注意は、精神集中とは違う。集中しているときには何も見えていないのだ。だが、注意を払っているときには、実に多くのことが見えてくる。さあ、注意を払ってごらん。あの木を見つめ、影を、そして風にそよぐ葉を見つめなさい。あの木の姿を見つめなさい。木の全体性を見つめなさい。このように見るようにと言うのは、これから私が話そうとしていることは君たちが注意を払わなければならないことがらだからである。教室にいるときも、戸外にいるときも、食事をしているときも、散歩をしているときも、注意はきわめて重要である。注意はとてつもなく大切なことがらなのだ。
これから君たちに質問してみたい。君たちはなぜ教育されているのだろう? 私の質問がわかるだろうか? 君たちの両親が君たちを学校に送る。君たちは授業を受け、数学を学び、地理や歴史を学ぶ。なぜだろう? 自分が教育を望んでいるのか、何が教育の目的なのか自問したことがあるだろうか? 何のために試験に合格して学位を取るのだろう? 何百、何千万もの人人がしているように、結婚し、就職し、そして身を固めるためだろうか? それが君たちのやろうとしていることであり、それが教育の意味なのだろうか? 私の言っていることがわかるだろうか? これはほんとうにとても大事な質問なのである。全世界が教育の基盤に疑問を投げかけている。われわれには教育がこれまで何のために使われてきたかわかっている。ロシアであれ、中国であれ、アメリカであれ、ヨーロッパであれ、あるいはこの国であれ、世界中の人間は、所属する社会や文化に順応・適合し、社会・経済活動の流れに従い、何千年もの間流れ続けてきた巨大な流れに引き込まれるよう教育されている。それが教育だろうか、それとも教育というのは、何かそれとまったく別のものだろうか? 教育は、人間の精神がその巨大な流れに巻き込まれ、それによってそこなわれないように面倒を見、精神がけっしてその流れに引きずり込まれないように責任を持ち、かくしてそのような精神によって君たちが、生に異なった性質をもたらす、これまでとはまったく違う人間になれるように面倒を見ることができるだろうか? 君たちは、そんなふうに教育されているだろうか? それとも両親や社会に命令されるままに、社会の流れの一部になることに甘んじているのだろうか? 人間の精神、君たちの精神が、ただ単に数学や地理や歴史で優秀であることができるだけでなく、どんなことがあってもけっして社会の流れにおぼれずにいられるようにすること──これが真の教育である。なぜなら、人生と呼ばれているその流れは、はなはだしく腐敗しており、不道徳で、暴力的で、貪欲(どんよく)だからである。その流れが私たちの文化をなしているのだ。それゆえ問題は、現代文明・文化のあらゆる誘惑、あらゆる影響、獣性(じゅうせい)に抗しうる精神を生み出すための正しい教育を、いかにしてもたらすかにある。私たち人間は、消費主義や工業化にもとづいたものではない新たな文化、まったく別種の生き方、真の宗教性にもとづいた文化を創造しなければならない歴史上の地点に来ている。ではどのようにして、これまでとはまったく異質の、貪欲でも嫉妬深くもない精神を、教育を通して、生み出すのか? 野心のないとてつもなく能動的で有能な精神、日常生活において何が真実かをほんとうに知覚できる──結局これが宗教なのだが──精神をいかにして生み出すのか?
そこで、何が教育の真の意味、目的なのかを見出してみよう。自分の住んでいる社会や文化によって条件づけられた君たちの精神が、教育によって変容を遂げ、どんなことがあってもけっして社会の流れに入りこんでしまわないようにできるだろうか? 君たちを違ったふうに教育することができるかどうか。つまり「教育する(エデュケイト)」という言葉の真の意味において──数学や地理や歴史についての情報を教師から生徒に伝達するという意味でではなく、まさにこれらの科目を教える過程で君たちの精神に変化を起こすという意味で、このことは、君たちがとてつもなく批判的でなければならないことを意味している。自分自身がはっきりわからないことをけっして認めないよう、他人が言ったことをけっしておうむ返しに言わないようにしなければならない。 これらの質問を、ときどきではなく毎日、自分に向けてみなさい。見出しなさい。あらゆるもの、鳥や雌牛の鳴き声に耳を傾けなさい。自分自身のなかのあらゆるものについて学びなさい。なぜなら、もし自分自身から自分自身のことを学べば、君たちは中古品(セコハン)人間になったりはしないのだから。だから、これからはこれまでとはまったく違う生き方を発見するようにしてほしい。ただし、これはしだいにむずかしくなるだろう。なぜなら、私たちのほとんどは安易な生き方を見つけたがるからである。私たちは、他人が言うこと、他人がすることを繰り返し、それらに倣(なら)いたがる。なぜなら、古いパターンまたは新しいパターンに適合することが、もっとも安易な生き方だからである。けっして適合しないとはどういう意味か、恐怖なしに生きるとはどういう意味かを見出さなければならない。これは君たちの人生であって、他の誰も、どんな本も、どんな導師(グル)も君たちに教えることはできない。本からではなく、自分自身から学ばなければならない。自分自身について学ぶべき、実に多くのことがあるのだ。それは果てしないこと、興味尽きせぬことであり、そして自分自身から自分自身のことを学ぶとき、その学びから英知が生まれ出る。そのとき君たちは、並はずれた、幸福で美しい人生を生きることができる。わかるだろうか? では、何か質問は?