2011-07-01

R・ブルトマン


 1冊読了。

 44冊目『イエス』R・ブルトマン:川端純四郎、八木誠一訳(未來社、1963年)/序盤を乗り切れば後は何とかなる。凄まじいロジックだ。純粋教条主義、あるいは疾風怒濤原理主義ともいうべきか。これでルター派というのだから、カルヴァン派との違いが全くわからなくなった。岸田秀がキリスト教のことを「強迫神経症」と指摘しているが、本書を読めば病理を実感できる。啓典宗教はテキスト絶対主義を旨とする。神という存在が人智を超えたところに位置するため、これを信じさせるためには抑圧概念を作成するしかない。すなわち聖書とは服従のルールを絶対化したものである。人間は抑圧されると攻撃的になる。神に従う彼らが有色人種を奴隷にしたのも頷けよう。あいつらは神の代理人なのだ。異民族を殺戮することは神の命令であった。十字軍、魔女狩り、アメリカ先住民殺戮、ベトナム戦争などに共通している。

噴火する言葉/『大野一雄 稽古の言葉』大野一雄著、大野一雄舞踏研究所編


 ・噴火する言葉

『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一

悟りとは

 舞い、踊り、躍る。人は喜怒哀楽を身体で表現せずにはいられない。アルキメデスは入浴中にアルキメデスの原理を発見し、「ユリーカ、ユリーカ!」(わかったぞ、わかったぞ)と裸のまま外へ駆け出した。

 私が大野一雄を知ったのは最近のことだ。舞踏・舞踊は異空間を生むところにその本領がある、というのが私の持論である。大野の舞踏は異様であった。彼は舞台で独り隔絶した世界にいた。観客に理解してもらおうという姿勢は微塵もなかった。それは、「ただ、こうせざるを得ないのだ」という大野の生き方であった。

 本書は稽古の合間に大野が紡(つむ)いだ言葉を編んだものだ。あとがきによれば、話すテーマは数日前から考えているようだが、いざ話すと吹き飛んでしまうという。しかも稽古に参加するメンバーは随時変わる。ここにあるのは噴火する言葉だ。灼熱の感性が言葉を爆発させている。狂気という点で大野は、岡本太郎を超えているかもしれない。

 ほんの一粒の砂のような微細なものでもいいから私は伝えたい、それならできるかもしれない。一粒の砂のようなものを無限にあるうちから取り出して伝えたとしても、それはあなたの命を賭けるに値することがあるだろう。大事にして、ささいな事柄に極まりなくどこまでもどこまでも入り込んでいったほうがいい。今からでも遅くない。

【『大野一雄 稽古の言葉』大野一雄著、大野一雄舞踏研究所編(フィルムアート社、1997年)以下同】

 まず出来ることから始めて一事に徹する。ミクロ世界にも広大な宇宙が存在する。「足下を掘れ、そこに泉あり」(ニーチェ)。悟りは山頂にではなく足下(そっか)にあるのだろう。尋常ならざる集中力が垣間見える。

 感ずるという言葉は人間が作り出したものだ。見上げることもあったでしょう。下を向いたとき、あなたは感じたでしょう。しかし感ずるという言葉ではなかったかもしれない。右を向き、左を向き、あらゆる運動のなかで、やがて人間との関係が成立したときに欠くことができないもの、それは運動だった。下を向くということは自分自身を見つめるということに関係しているか。右を向き、左を向き、それはあなたの喜びや悲しみの分かち合うために必要だったのか。そのようにしてあなたの関節が肉体がだんだん成立したんだ。命には理屈が不必要だった。

 ほとばしる言葉が支離滅裂な勢いとなって論理を打ち砕く。大野は何かを教えようとはしていない。彼は舞踏という世界を分かち合おうと懸命に言葉を手繰る。舞踏は言葉以前に誕生したはずだ。それは情動を司る大脳辺縁系や基本的な運動機能を支える小脳における神経の発火であったに違いない。大野の脳の古皮質が古代人と共鳴しているのだ。これは何もスピリチュアルな意味ではなく、同じ機能があるわけだから使うか使わないかといった次元の話だ。(「人間の脳の構造」を参照せよ)

 舞踏の場というのは、お母さんのおなかの中だ。胎内、宇宙の胎内、私の踊りの場は胎内、おなかの中だ。死と生は分かちがたく一つ。人間が誕生するように死が必ずやってくる。つねに矛盾をはらんでいる。われわれの命が誕生する。さかのぼって天地創造までくる。天地創造からずうっと歴史が通じてわれわれのところまで続いている。これがわれわれの考えになければならないと思う。考えるということは生きるということだ。われわれはあんまり合理的にわかろうわかろうとして、大事なものはみんなぽろぽろぽろぽろ落ちてしまって、残ったものは味もそっけもないものになってしまう。

 胎児は羊水の中で浮いている。重力の影響は極めて少なく、自由に遊ぶことができる。躍動しながら誕生する様を舞踏と捉える視線にたじろぐ。生と死、睡眠と活動、光と闇、陰と陽、阿吽(あうん)――この間にリズムがある。舞踏とは生きることそのものだった。

 そして合理性から離れよと教える。舞踏はスポーツや格闘技と異なる。得点や競争を追い求めない。真の躍動は現実を踏みつけて、自由に舞い上がることだ。大野の言葉は完全に宗教領域へ突入している。

 クレイジーじゃないとだめですよ。忘れたころに、花がここにあった。何か知らないけど、ここに花があった。花と、さて何しているんだ。花と語り合ってるんだ。トーキングですよ、花と。トーキングしようと思って、すっといくと、いつの間にか花がなくなってしまった。とにかくクレイジーですよ、だからフリースタイルで。

 こうなるとクリシュナムルティに近い。大野は脳の新皮質を破壊しようとしている。ルール、常識、合理性を粉砕し、身体を解き放つことを示しているのだろう。

 フリースタイル。何か表現しようというんじゃなくて。いま、トレーニングしたことは全部忘れてね。ただ立っているだけでもいい。

 これはアルハット(阿羅漢)の言葉だ。何かを悟らずしてこんな言葉は生まれ得ない。動は元より、静もまた舞踏であった。

 みんなの目を見た。何かね、考えているような目が非常に多いんだな。こうしよう、ああしようって。目のやり場がなくなってしまう。そういう中でさ、目がね、大事ですよ。宇宙の、宇宙が目のなかにすべて集約されている、要約されている。目がまるで宇宙のような、こういうなかで無心になることができる。目が開いている、目が。遠くを見るようにさ、瞳孔小さくして。見ない目ですよ、目に入っていない。宇宙がすっと入ってくる。そうすると、いつのまにか無心にもなれるんじゃないかと私は思ったわけです。探しているときは考えてるときなんだ。これじゃ無心になんかなれない。ものが生まれてこないんですよ。
 目を開いて、そして見ない。手を出しても反応がない。そういう目のほうがいい。これもある、あれもある、さあどうしたらいいかじゃなくて、見ない目。無心になる。じゃ勉強しなかったのか。勉強して勉強して勉強して全部捨ててしまった。捨ててしまったんではないんだ。それが自分を支えてくれる。私はそういう踊りを見るとね、あんまり派手に動かなくたって、じっと立っているだけでも、ちょっと動いただけでも、ああ、いいなと思う。

 舞踏は遂に瞑想に達する。

瞑想とは何か/『クリシュナムルティの瞑想録 自由への飛翔』J・クリシュナムルティ

 天衣無縫にして無作(むさ)。意図やコントロールとは無縁な言葉が心に染み渡る。遊ぶように舞い、戯(たわむ)れるように踊る。蝶が舞い、鳥が飛ぶように大野は生きた。






暗黒舞踏 土方巽、大野一雄の創造した前衛舞踊の今
大野一雄「美と力」(ラ・アルヘンチーナ頌)
はいから万歳 - 大野慶人

技の優劣は人間の価値を決めるものではない


「兵法は死ぬまでが修行という。技の優劣は修行の励みでこそあれ、人間の価値を決めるものではないぞ。人の師範たる根本は『武士』として生きる覚悟を教えるもので、技は末節にすぎない。貴殿はその本と末とを思い違えておる。さようなことでは、今日までの御扶持(ごふち)に対しても申し訳はござらぬぞ」(『芋粥(いもがゆ)』)

【『一人ならじ』山本周五郎(新潮文庫、1980年)】

一人ならじ (新潮文庫)

2011-06-30

本当の勉強をすることこそ、本当の反抗になる


 現代の若い人の中には、勉強を軽視することも大人の世界への反抗と思って、もっぱら動物系の探求反射だけで、次の時代の道を見出そうとしている人が少なくない。それも当然だろう。ところが、大人の押しつけている勉強は、本当の勉強ではないのだから、本当の勉強をすることこそ、本当の反抗になるのである。

【『脳 行動のメカニズム』千葉康則(知的生き方文庫、1985年)】

脳 行動のメカニズム

2011-06-29

神への信と不信


 祖父母は神以外に自分たちを殺せるものなど何もないと思っており、同時に神を信じていない。

【『卵をめぐる祖父の戦争』デイヴィッド・ベニオフ:田口俊樹訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2010年)】

卵をめぐる祖父の戦争 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ 1838)