「わたし、この病気でよかった。たくさんの人たちのいたみを知って、たくさんの人たちに出あうことができたもの。骨肉種さん、ありがとう、っていいたいくらいよ。みんなが、こんなにわたしをね、思っていてくれる……。だから、わたし……、世界一、しあわせ。ねぇ、ママ、わかってくれる」
【『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳(ハート出版、2005年)】
生あるものはたえず欲望に逐われている。欲望はその満足・達成を求めてやまないけれども、なかなか果たされず、その欲望はますますつのるばかり。幸い、あれこれに恵まれて、欲望はついに満たされた。ゴールに達した。その途端、もはや【その】欲望は【そこ】にはない。だれが滅ぼしたのでもない。欲望みずからが跡かたもなく消え失せてしまっている。それは、あるいは一杯の水にせよ、あるいは最高の栄誉にせよ、あるいは多額の賞金にせよ、文字どおりピンからキリまで、あらゆる欲望が現実にそのようにある。
欲望に惹かれ、欲望の赴く途・指示する方向をひたすらに進み、万難を排して、ようやく行きつくと、そこではもはや消えている。欲望は、そのようないわば自己矛盾・自己否定を、その本質とする〔かえってそのために、つづいて別の欲望が生ずる。しかしもちろんそれも果たされれば滅びる。ここに俗にいう「欲望は無限」の根があるとはいえ、実はこの俗言は正確さを欠いている〕。
【『大乗とは何か』三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉(法蔵館、2001年/ちくま学芸文庫、2016年)以下同】
この新たなる運動は次第に高まり、力を増していって、ついにそのなかに、さとれるもの=ブッダがあらわれる〔以下はこれを仏と記す〕。換言すれば、ゴータマ・ブッダとは別の新たな仏の誕生があり、しかしその名は一切伝わらない。これら無名の仏の教えは、釈尊の場合と同様、やはり経にほかならず、これらの経は、当然のことながら従来の伝統仏教とは異質のものをもはらみ、それらの高唱のうちに、やがてみずからを「大乗」(マハーヤーナ)と称するようになる。
大乗の語を最初に記したのは般若経であり、その原初型はおそらく紀元前後のころの成立とされている。それは短く小さな経であったと推定されるが、次第に増広され、また多様化して、多種の般若経がつぎつぎと生まれてゆき、それは数百年に及ぶ。
法華経に、はじめて「小乗」(ヒーナヤーナ)の語が、従来の仏教に対する貶称としてあらわれ、しかもこの法華経は、大乗・小乗の別なく、ことごとくを一乗(一仏乗)に導くという。ここに方便(ウパーヤ)というありかたが見なおされて、成仏に向かうさまざまな通路を開く。それらを支えるものに、時間・空間その他のすべての限定をこえた仏が立てられて、「久遠(くおん)の本仏(ほんぶつ)」と呼ぶ。なお後述するように、法華経そのものの読誦や書写などがとりわけ強調されるが、それは他の諸経典にはあまり見られない。
中国はもともと仏教伝来以前に独自の高度な精神世界を築きあげており、その民族意識の底流のうえに、漢訳するさい、それらを織りこませている。さらには、インドに欠如して中国には強烈である諸思想、たとえば現世中心(輪廻の無視)、国家意識、祖先崇拝(死者供養)、家の尊重その他によって、中国人に適した新たなる経を、中国人みずから〔体裁はインド原典に似せて〕つくありあげる。仁王(にんのう)〔般若〕経(きょう)、盂蘭盆経(うらぼんきょう)、父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)、四十二章経ほか、多数の経典を、中国人がすでに疑経と自認している。それらは偽経とも評されようが、それでも経である〔経と呼ばれている〕ことにはちがいないところから、一般には、そのすべてがほぼそのまま仏説と信じられて、国家の要請や民衆の渇望に応(こた)えつつ、歴史の年輪を刻んだ。
日本仏教の最も特筆すべき性質は、在家の重視であり、これは当初の聖徳太子以来つづいている。当然、国家や政治とのつながりも密で深い。また日本人の一種のマジカルな霊力への傾向も、日本仏教に色濃く反映している。
マンダラは当初はヒンドゥー教の影響のもとに密教が独自におこなう宗教儀式の場であり、その行事のたびに、諸仏・諸尊の集まるその壇が設けられ、あとは取り払われていた。それがいつか定着して、やがては図像化され、また彫像をも伴うようになり、ここに、大乗仏教に登場した諸仏ほかがことごとく招きいれられて、昔の流行語でいえばオン・パレードの檜舞台にたがいに妍(※けん)を競い合う。
過去と未来にくりひろげられた仏は、ついにはいわば時間を横に倒して、空間的に展開・拡大され、四方に一仏ずつが立って、一時多仏が誕生する。それは大乗仏教運動の所産であり、あるいはこの多仏思想が大乗仏教を引きおこす一翼をになっていた。
ところで、仏教において実体が無いという説明が空に関してなされるのは、実は部派仏教のひとびとが、この実体という概念を重要視して、実体というものに或る意味で取りつかれていたからなのです。そこで、この実体という考えを否定する、あるいは破壊する、実体化することを打ち破るものとして、シューンヤということばが使われました。(中略)
空を説明するのに、実体が無いというのは、一つの論理的な表現であり、とらわれないというのは、実践的な表現です。部派仏教のひとびとが、論理的には実体を考え、あるいは実践においても或る制約にとらわれていたあり方に対する反省を求め、それを排して、釈尊の初期仏教に立ち返れというスローガンとして、大乗仏教の、そして般若経の空が説かれました。
「今日、この手で赤のやつらを300人殺した」暗い窓の外を見つめた。「やったのは昨日だったかもしれない。こうして日々は過ぎていく」また彼女に眼を戻す。「記憶と歴史のなかへ、嘘つきだらけの博物館のなかへと流れていく」
【『荒ぶる血』ジェイムズ・カルロス・ブレイク:加賀山卓朗訳(文春文庫、2006年)以下同】
エル・カルニセロは彼の髪をつかんで持ち上げ、自分のほうを向かせた。血まみれの眼球を手のひらにのせ、ドン・セサーロに見せた。こいつは──眼球の価値を見積もるかのように、手のひらを上下させながら獣はそう言った──ずっと正義を、真実を見ないできた。そしてドン・セサーロの顔を下に向けながら眼球を地面に落とし、ブーツの踵で踏みつけて土にめり込ませた。
闘い方は子供のころから知っていた──ボクシングではなく、文字通りの【闘い】だ。誰かが教えてくれたわけではないが、自然に身についていた。本物の闘いにルールなどないことも学んでいた。止める者もいなかった。本物の闘いは一方が戦えなくなるまで続く。それでも終わらないときもある。ボクシングは本物の闘いではない。技術と忍耐を要し、セルフコントロールを試される運動だ。自分が負けていても、どれほど傷つけられ、腹を立てていても、ルールを守らなければならない。ルールなど無視してしまえば、相手を殺せることがわかっていてもだ。リングの中で闘うことによって、規律が身につく。おれはそこが好きだった。
それまでにも死体は見たことがあった。盲腸が破裂して死んだ男、溺死した男、線路のうえで酔いつぶれ、汽車に轢かれた男。死者のちがいはただ、きれいに死ぬか、汚らしく死ぬかということだけだ。おれは死は死だと思っていた。この泥棒たちに引き金を引くずっとまえから、おれは死は死だと思っていた。汚らしく死んだ人間を見て胸を悪くしても仕方がない。牛肉を見て気分を悪くする理由がないのと同じだ。これは俺の座右の銘と言ってもいい。
バビロニアの天文学とともにバビロニアの数ももたらされた。天文学上の目的でギリシア人は六十進法の数体系を採用し、1時間を60分に、また1分を60秒に分けた。紀元前500年頃、バビロニアの文献に空位を表すものとしてゼロが現れはじめた。当然、ゼロはギリシアの天文学界にも広まった。(中略)ギリシア人はゼロを好まず、使うのをできるだけ避けた。
【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ:林大〈はやし・まさる〉訳(早川書房、2003年/ハヤカワ文庫、2009年)以下同】
無限と空虚には、ギリシアを恐れさせる力があった。無限は、あらゆる運動を不可能にする恐れがあったし、無は、小さな宇宙を1000個もの破片に砕け散らせる恐れがあった。ギリシア哲学は、ゼロを斥けることによって、自らの宇宙観に2000年にわたって生きつづける永続性を与えた。
ピュタゴラスの教義は西洋哲学の中心となった。それは、宇宙全体が比と形に支配されているというものだった。惑星は、回転しながら音楽を奏でる天球の一部として動いているのだった。だが、天球のむこうには何があるのか。さらに大きな天球があり、そのまたむこうにはさらに大きな天球があるのか。いちばん外の天球は宇宙の果てなのか。アリストテレスやその後の哲学者たちは、無限の数の天球が入れ子状になっているはずはないと主張した。この哲学を採用した西洋世界に、無限を受け入れる余地はなかった。西洋人は無限を徹底的に排除した。というのも、無限はすでに西洋思想の根元を蝕みはじめていたからだ。それはゼノンのせいだった。同時代人から西洋世界でもっとも厄介な人物と見なされていた哲学者だ。
ギリシア人はこの問題に悩んだが、その根源を探り当てた。それは無限だった。ゼノンのパラドクスの核心にあるのは無限である。ゼノンは連続的な運動を無限の数の小さなステップに分割したのだ。ステップが無限にあるから、ステップが小さくなっていっても、競争はいつまでもつづくのだとギリシア人は考えた。競争は有限の時間のうちには終わらない――そうギリシア人は考えた。古代人には無限を扱う道具がなかったが、現代の数学者は無限を扱うすべを身につけている。無限は注意深く処理しなければならないが、征服できる。ゼロの助けを借りれば。2400年分の数学で武装した私たちにとって、振り返って、ゼノンのアキレス腱を見つけるのはむずかしくはない。
ギリシア人はこのちょっとした数学上の芸当をやってみせることができなかった。ゼロを受け入れなかったため、極限の概念をもっていなかった。無限数列の項には極限も目的地もなかった。終点もなく小さくなっていくように思われた。その結果、ギリシア人は無限なるものを扱うことができなかった。無の概念について思索はしたが、数としてのゼロは斥けた。そして、無限なるものの概念を弄んだが、数の領域の近辺のどこにも無限――無限に小さい数と無限に大きい数――を受け入れようとしなかった。これはギリシア数学最大の失敗であり、ギリシア人が微積分を発見できなかったただ一つの理由だった。
無限、ゼロ、極限の概念はすべて結びついて一束になっている。ギリシアの哲学者は、その束をほぐすことができなかった。そのため、ゼノンの難問を解くすべがなかった。だが、ゼノンのパラドクスはあまりにも強力だったので、ギリシア人は、ゼノンの無限を説明して片づけてしまおうと繰り返し試みた。しかし、妥当な概念で武装していなかったので、失敗する運命にあった。
5世紀頃、インドの数学者は数体系を変えた。ギリシア式からバビロニア式に切り換えたのだ。新しいインドの数体系とバビロニア式との重要な違いの一つは、インドの数が60ではなく10を底としていたことだ。私たちの数字は、インド人が用いた記号が発展したものだ。だから本来、アラビア数字ではなくインド数字と呼ばれるべきである。
インド人にとっては、負の数は文句なしに意味をなした。負の数がはじめて姿を表したのは、インド(および中国)だ。7世紀のインドの数学者、ブラフマグプタは、数を割る規則を述べ、そこに負の数も含めた。「正の数を正の数で割っても、負の数を負の数で割っても、正である。正の数を負の数で割ると、負である。負の数を正の数で割ると、負である」と書いた。これらは今日認められている規則だ。二つの数の符号が同じなら、一方をもう一方で割ると、答えは正である。
ブラフマグプタは、0÷0は0だと考えた(後で見るように、これは間違っている)。そして、1÷0は……何だと考えたのか、実はわからない。何しろ、ブラフマグプタの言っていることは大した意味がないから。要するに、ブラフマグプタは、手を振って、問題が消え去ってくれるよう願っていたのだ。
ブラフマグプタの誤りは、それほど長続きはしなかった。やがてインド人は、1÷0が無限大であることに気づいた。「ゼロを分母とする分数は、無限量と名づけられる」と、12世紀のインドの数学者、バスカラは書いている。バスカラは1÷0に数を加えると、どうなるかを語っている。「多くを足しても引いても、何の変化もない。無限にして不変の神のなかでは何の変化も起こらない」
神は見いだされた。無限大のなかに。そしてゼロのなかに。
アリストテレスはまだ教会をしっかり支配していて、どんなに優れた思想家も、無限に大きなもの、無限に小さなもの、無を斥けた。13世紀に十字軍が終わっても、聖トマス・アクイナスは、神が無限なるものをつくるなどというのは、学のある馬をつくるようなもので、そんなことはありえないと言い放った。しかし、だからといって、神が全能でないわけではなかった。神が全能でないという考えは、キリスト教神学で御法度だった。
教会はさらに数百年アリストテレスにしがみつきつづけるのだが、アリストテレスの没落と、無と無限の台頭は明らかにはじまっていた。ゼロが西洋世界に到来するのに好都合な時代だった。12世紀半ば、アルフワリズミの Al-jabr の最初の翻訳がスペイン、イングランド、ヨーロッパのその他の地域に入ってきていた。ゼロは迫ってきていたのであり、教会がアリストテレス哲学の足かせを断ち切るとすぐに登場した。