2012-03-06

南英男


 1冊挫折。

友だちが怖い ドキュメント・ノベル『いじめ』』南英男(集英社文庫コバルトシリーズ、1985年)/大阪産業大学付属高校同級生殺害事件が取り上げられている。それで読んだわけだが、Wikipediaに劣る内容であった。古い本のため、左翼教師が説くような手垢まみれの道徳観が綴られている。現実のいじめを解決し得ない者が、殺害という解決法を実行した彼らを論じることに意味は見出せない。1章と最終章だけ読んだ。

星の教団と鈴木大拙

神智学協会日本支部長だった鈴木大拙も幸徳人脈に属し、もしも海外滞在中でなかったら、大逆事件に連座していたはずだ。イギリスやロシアのスピリチュアリズムと社会主義運動の関係は、もっと研究されていい。
Mar 01 via web Favorite Retweet Reply


神智学内のクリシュナムルティを世界教師と仰ぐ教団としてアニー・ベサントの肝入りで〈星の教団〉が設立されたが、鈴木大拙はこの参加は拒んでいる(今東光は参加)。クリシュナムルティ自身が「自分は世界教師でない」と教祖の座を拒み、アムステルダムでの結成式が解散式になってしまった。
Mar 02 via web Favorite Retweet Reply


 鈴木大拙のことは知らなかった。

神智学協会が日本に与えた影響
安藤礼二氏「明治期の神智学問題におけるチベット・モンゴル学の影響」
星の教団解散宣言~「真理は途なき大地である」/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス
ヘンリー・ミラー「クリシュナムルティは徹底的に断念した人だ」/『ヘンリー・ミラー全集11 わが読書』ヘンリー・ミラー
神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール

石原慎太郎と野口健 遺骨収集活動










 いやあ凄い。あの石原慎太郎が神妙な顔つきで耳を傾けている。生の本質に迫る言葉の数々が襟を正さずにはおかない。

 8000mを超えた世界には匂いや色、音がないとの指摘が興味深い。仏教では物質的存在を「色法」(しきほう)と名づける。野口の言葉に「いろは歌」を思い出した人も多いのではないか。

 色はにほへど 散りぬるを
 我が世たれぞ 常ならむ
 有為の奥山  今日越えて
 浅き夢見じ  酔ひもせず

 諸行無常がこの世の実相であれば、8000mから上は変化をも許さない「死の世界」なのだろう。地獄とは地の底にあると思い込んでいたが、どうやら違ったようだ。

 五感という知覚そのものが、縁起という相関関係を構成していることがわかる。

野口健が聞いた英霊の声なき声―戦没者遺骨収集のいま 自然と国家と人間と (日経プレミアシリーズ)

野口健が戦ってきたもの

2012-03-05

野口健が戦ってきたもの

野口健〈のぐち・けん〉と佐々木かをりの対談を読んだ。

◎佐々木かをり対談 win-win 第59回 野口健さん

 32ページに渡る記事が一冊の読書に等しいほど面白い。まず野口の言葉は率直で嘘や飾りがない。開けっ広げな性格が窺える。twitterで紹介するだけではもったいないので覚え書きを残しておこう。

 まずは、8000m級の山々がアルピニストの内臓にダメージを与えることに驚かされた。心臓の弁が閉まらなくなる、腸に穴が空く、肝機能低下……。

 で、酸欠になると、肝機能が低下するわけです、脳が鈍るんで。だから登山家の人は血が汚いんですよ、みんな。ドロドロしちゃって。で、血が汚いところから病気っていうのは生まれてくるんで、病院に行ったら僕の血は汚すぎてね、人には輸血できないって言うんですよ。見てわかるくらい、他の人と違うんです。

 今日、以下のニュースを偶然見つけた。

雑記帳:植村直己さん「最後の日記」 出身地で展示

 北米マッキンリー山で84年に消息を絶った冒険家、植村直己さん(当時43歳)の「最後の日記」が出身地・兵庫県豊岡市の植村直己冒険館でパネル展示されている。
 捜索隊がマッキンリーの雪洞内で見つけた。84年2月1~6日の日付がある。ノート16ページに、雪をかき分けて登る様子や凍ったトナカイの肉を食べる食事が克明に記されている。展示は13日まで。
「孤独を感じない」「何が何でも登るぞ」とも書いていた。冒険館は「日記は色あせていっても、植村のチャレンジ精神はあれから28年たっても色あせていない」。

毎日jp 2012-03-05

 実はこの日記が気になり検索したところ、「植村直己さんの最後の日記」のページがヒットした。

 私は唸(うな)った。死を目の当たりにしてきた野口の直観にたじろいだ。同じ世界に身を置いた者同士でなければ不可能なコミュニケーションが成立していたからだ。「この『何がなんでも』っていう言葉は素人が使う言葉なんです」と言い切るには一つや二つくらいの修羅場を経たくらいでは無理だ。

 あるテレビ番組で野口は、エベレスト山頂付近では文字通り屍(しかばね)を踏み越えて進んだ経験を語っていた。また石原慎太郎との対談では、エベレスト登頂直後にパートナーの最期を看取ったことを紹介していた。

 8000mという死線を超えた者だけにわかる世界がきっとある。そこは生きること自体が「有り難い」世界なのだ。

 長年ヒマラヤに行っていつも見てるんですが、ゴミを捨てる隊ってあるんです。ゴミを捨てる隊と遭難者を出す隊がね、重なってくるんですよ。

 だから、今、韓国隊、中国隊、ロシア隊がぼろぼろですよ。失敗したらたたかれるから、絶対に帰れないって、危なくても突っ込んで死んでしまう。そういう隊は、ほかに気も回らないから、ゴミも出す。ほかの隊に比べて余裕がないからゴミも多いんです。

 心の余裕とか精神のゆとりと書くと、いかにも陳腐だ。しかし山を思いやれない人々が、他者を思いやれないのは当然だ。漢字では「思い遣り」と書く。「思い」を「遣(つか)わす」ことが本義であろう。周囲からの厳しさがエゴの温床となる場合があるという指摘は頷ける。

 野口は最初のエベレストアタックに失敗。帰国後の記者会見で「いやあ、登頂できなかったのも辛かったけどね、エベレストに日本のゴミがあって、日本は三流とか、日本を否定された。あれも辛かったなあ」と漏らした。これをマスコミが大きく報じた。日本山岳会が野口に猛烈な圧力をかける。尊敬していた登山家の先輩からは「ゴミを見なかったことにしろ」と告げられる。そして日本山岳会の最高責任者であった橋本龍太郎との対決にまで漕ぎ着ける。

 組織の力学はリンチであり、いじめであることが明らかだ。私の場合、暴力性で乗り切ってきたが、野口は強い精神力と果敢な行動力で乗り越えている。中々できることではない。

 富士山のゴミ拾いでは完全な政治問題にコミットしている。そして散々自分を叩いてきたメディアを今度は逆に利用する。

 バラエティに出る時は条件として、「富士山の話ができるなら出ますよ」って言ったら、全部OKだったんですよね。

 やり方が聡明だ。鮮やかである。そんな野口が育った家庭環境についても述べられている。実にユニークな父親だ。日本人外交官とエジプト人女性の間に生まれ、世界を渡り歩いてきた彼ならではの独立した気風から学ぶことは多い。

◎公式サイト
◎石原慎太郎と野口健 遺骨収集活動
◎『僕の名前は。 アルピニスト野口健の青春』一志治夫
◎野口健は日本航空を利用しない


落ちこぼれてエベレスト (集英社文庫) 確かに生きる 落ちこぼれたら這い上がればいい (集英社文庫) 100万回のコンチクショー (集英社文庫) それでも僕は現場に行く








松尾剛次


 1冊挫折。

仏教入門』松尾剛次〈まつお・けんじ〉(岩波ジュニア新書、1999年)/日本仏教的な視点が気に入らず。この手の解説は既に時代遅れだ。