2012-04-15

「写真の学校」第二回 写真から人を考える~『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』/竹内万里子&カンベンガ・マリールイズ















ルワンダ ジェノサイドから生まれて

「写真の学校」第二回 写真から人を考える 平成24年2月5日開催記録

主催:Child Pictures Bank

 一冊の写真集『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』をもとにルワンダの人々に想いをはせ人を共に生きることを語り合います。

・竹内万里子 (京都造形芸術大学准教授)
・カンベンガ・マリールイズ(「ルワンダの教育を考える会」理事長)
・村松英俊  (Child Pictures Bank代表)

第一部「写真と言葉がおりなす力」
第二部「写真を通して伝えたいこと」

会 場:大社文化プレイス・うらら館
後 援:BSS山陰放送、山陰中央新報社、島根日日新聞、FMいづも、出雲ケーブルビジョン
出雲市教育委員会、島根県人権推進センター、山陰中央テレビ
協 力:赤々舎、日本ルワンダ学生会議、宿禰餅本舗 坂根屋、大社門前いづも屋、(有)テレビジョンワークス

強姦から生まれた子供たち/『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク

BRICS、世界銀行の資本基盤拡大を支持=インド首相

 インドのシン首相は29日、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカの主要新興5カ国)が世界銀行の資本基盤拡大を支持し、「南南」開発銀行設立案の詳細を詰めることで合意したと述べた。

 首相はBRICS首脳による会議後、記者団に対し、BRICSが世界的なエネルギー市場に激しい変動を引き起こしている政治的な混乱を回避する必要性で合意したことを明らかにした。

 国連安全保障理事会などの国際機関の改革をめぐり、政治的行動が欠けているとの考えも示した。

ロイター 2012-03-29

◎覇権体制になるBRICS
◎BRICsが「世界銀行変革」の用意あり。ユダ金金融詐欺体制崩壊は進みつつあるか。
◎BRICS銀行設立、新金融システム始動へ-先進国(白人クラブ)の支配が終わり、日本が世界を平和に導くだろう

 道は二つに分かれると思う。世界統一通貨を目指すのか、それとも世界大戦規模の戦争となるか。

北朝鮮ミサイル費用 全国民1年分の食糧費に相当





 韓国のデイリーNKによると、北朝鮮当局は徴兵の身長基準を145cmから142cmに引き下げた。成長期に栄養失調だったため、多くの男子の身長が145cmにも満たない。一方、韓国の16歳から17歳の青少年の平均身長は172cm。

距離と方向

any color you like

 実に面白い構図である。脳内でシナプスがバチバチと発火する。中心に据えられたのは「距離」だ。スプレーアートを描く若者とそれを見つめる人々。吸い寄せられた人々の足がバラバラの方向となっているところに卓越したドラマ性が生まれる。黒が強調された画像が表現しているのは、磁石と砂鉄の間に働く磁気のようなものだ。顔を切り捨てることで欲望よりも行動が浮かび上がってくる。中央に目を凝らすと奥行きまでが消失する。

2012-04-14

言葉を紡ぐ力/『石原吉郎詩文集』石原吉郎


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編

 ・究極のペシミスト・鹿野武一
 ・詩は、「書くまい」とする衝動なのだ
 ・ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある
 ・「棒をのんだ話 Vot tak!(そんなことだと思った)」
 ・ナット・ターナーと鹿野武一の共通点
 ・言葉を紡ぐ力
 ・「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

『望郷と海』石原吉郎
『海を流れる河』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代
『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介

必読書リスト その二

 以前から読んでいるブログが中断を経て再開された。

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

 名前は〈やち・しゅうそ〉と読む。息の長いブログである。読むたびに「言葉のマッサージ」を受けているような気分になる。あるいは「言葉のリハビリテーション」と言ってもよい。ヒラリヒラリと舞う言葉が、直情径行型の私に変化を及ぼす。

 ふと詩を読みたくなった。そうだ、石原吉郎に会いにゆこう。

 しずかな肩には
 声だけがならぶのでない
 声よりも近く
 敵がならぶのだ
 勇敢な男たちが目指す位置は
 その右でも おそらく
 そのひだりでもない
 無防備の空がついに撓(たわ)み
 正午の弓となる位置で
 君は呼吸し
 かつ挨拶せよ
 君の位置からの それが
 最もすぐれた姿勢である(「位置」)

【詩集〈サンチョ・パンサの帰郷〉より/『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)以下同】

 はっきり言ってしまえば意味はよくわからない。それでも構わないだろう。人間は外国語の歌にも感動することができる動物なのだから。

 空間の歪みと時間の頂点というコントラストが既成概念を揺さぶる。石原にとってシベリア抑留は歪んだ空間であったことだろう。しかし「歪んだ時間」ではなかったはずだ。なぜなら彼はシベリアで鹿野武一〈かの・ぶいち〉と出会ったからだ。

 石原自身は真面目で平凡な人物であったと思われる。その彼に「言葉を紡(つむ)ぐ力」を与えたのが鹿野であった。

 石原は言葉を失いかけた。否、失ったのかもしれない。

 人は大なり小なり国家に依存している。それは考えるまでもない事実である。国家のために命を賭して戦地へ赴き、挙げ句の果てに国家から見捨てられる。シベリアで抑留された人々はかような状態に置かれた。自分の生死をも不問に付された時、存在は透明化し抹消されたに等しい。

 人間は相手(=観測者)がいなければ言葉を発することすらできないのだ。

 さびしいと いま
 いったろう ひげだらけの
 その土塀にぴったり
 おしつけたその背の
 その すぐうしろで
 さびしいと いま
 いったろう
 そこだけが けものの
 腹のようにあたたかく
 手ばなしの影ばかりが
 せつなくおりかさなって
 いるあたりで
 背なかあわせの 奇妙な
 にくしみのあいだで
 たしかに さびしいと
 いったやつがいて
 たしかに それを
 聞いたやつがいあるのだ
 いった口と
 聞いた耳とのあいだで
 おもいもかけぬ
 蓋がもちあがり
 冗談のように あつい湯が
 ふきこぼれる
 あわててとびのくのは
 土塀や おれの勝手だが
 たしかに さびしいと
 いったやつがいて
 たしかに それを
 聞いたやつがいる以上
 あのしいの木も
 とちの木も
 日ぐれもみずうみも
 そっくりおれのものだ(「さびしいと いま」)

 慎ましい言葉の端々(はしばし)から、存在への憧憬(どうけい)が狂おしいまでに溢(あふ)れ出る。強制された孤独が完膚なきまでに自我を打ちのめす。変わらぬ自然の光景を「おれのものだ」と言わずにはいられない、その「さびしさ」を思う。

 憎むとは 待つことだ
 きりきりと音のするまで
 待ちつくすことだ
 いちにちの霧と
 いちにちの雨ののち
 おれはわらい出す
 たおれる壁のように
 億千のなかの
 ひとつの車輪をひき据えて
 おれはわらい出す
 たおれる馬のように
 ひとつの生涯のように
 ひとりの証人を待ちつくして
 憎むとは
 ついに怒りに到らぬことだ(「待つ」)

 腐敗でも発酵でもない。憎悪の純化だ。石原は憎しみを保ち続けることで、鹿野の死や時の経過と戦ったのだろう。忘却を拒む者の覚悟が屹立(きつりつ)している。

 世界がほろびる日に
 かぜをひくな
 ビールスに気をつけろ
 ベランダに
 ふとんを干しておけ
 ガスの元栓を忘れるな
 電気釜は
 八時に仕掛けておけ(「世界がほろびる日に」)

 ゲオルギウの言葉と一緒だ。

自分は今日リンゴの木を植える

 いつものように、そして今までどおりに生きる。淡々と平凡を貫ける人は偉大だ。

 生の意味を探し回ることは空虚だ。人生を改造するような真似も見苦しい。ただ生きる。川の水が流れるように。そんな生き方を私は望む。


私を変えた本