2012-10-13

原田芳雄「only my song」


 イントロを聴いてSIONの「薄紫」かと思った。原田芳雄は類稀なブルース・ミュージシャンの一人であった。「薄紫」に匹敵する名曲だ。東京の風景が見事に曲を引き立てている。尚、収録されているCDを見つけることができなかった。テガン氏に教えていただいた。



天然色

等身大のブッダ/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 私は懐疑心に富む男だ。加齢とともに猜疑心(さいぎしん)まで増量されている。元々幼い頃から「他人と違う」ことに価値を置くようなところがあった。だからいまだに付き合いのある古い友人は似た連中が多い。嘘や偽りに対して鈍感な人物はどこか心に濁りがある。曖昧さは果断と無縁な人生を歩んできた証拠であろうか。

 クリシュナムルティと出会ってから宗教の欺瞞が見えるようになった。暗い世界にあって宗教は人々を更なる闇へといざなう。クリシュナムルティの言葉は暗い世界を照らす月光のようだ。無知に対する「本物の英知」が躍動している。

 そんな私が本書を読んで驚嘆した。人の形をもった等身大のブッダと遭遇したからだ。「ああ世尊よ……」と思わず口にしそうになったほどだ。「小説」とは冠しているが、記述は正確で出典も網羅している。あの中村元訳のブッダが「ドラマ化された」と考えてもらってよい。

 もう一つ付言しておくと、私はティク・ナット・ハンやアルボムッレ・スマナサーラ声聞(しょうもん)だと考えている。決して軽んじるわけではないが、やはりクリシュナムルティのような悟性はあまり感じられない。その意味では「現代の十大弟子」といってよかろう。我々一般人は彼らから学んでブッダに近づくしかない。

 本書については書評というよりも、研鑚メモとして書き綴ってゆく予定である。また中村訳岩波文庫に取り掛かった後で再読を試みる。

 どこかに到着するのではなく、ただひたすら歩くことを楽しむ。ブッダはそのように歩いた。比丘たちの歩みもみなおなじように見えた。目的地への到着をいそぐ者はだれもいない。ひとりひとりの歩みはゆっくりとととのって平和だ。まるで一緒にひとときの散歩を楽しんでいるようだった。疲れを知らないもののように、歩みは日々着実につづいていった。

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

「歩く瞑想」である。

歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
「100%今を味わう生き方」~歩く瞑想:ティク・ナット・ハン

 偉大な思想家や学者は皆散歩を楽しむ。特に「カントの散歩」は広く知られた話だ。晩年のアインシュタインはゲーデルとの散歩を殊の外、楽しみにしていた。

 散歩は「脳と身体の交流」であり、「大地との対話」でもある。我々は病床に伏して初めて「歩ける喜び」に気づく。失って知るのが幸福であるならば、我々は永久に不幸のままだ。

 幸福とは手に入れるものではないのだろう。「味わい」「楽しむ」ことが真の幸福なのだ。すなわち彼方の長寿を目指すよりも、現在の生を楽しむ中に正しい瞑想がある。

 まずは「歩くことを楽しむ」と決める。そうすれば通勤の風景も一変するはずだ。



ブッダが解決しようとした根本問題は「相互不信」/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

ジョージ・ソロス


 2冊挫折。

ソロスは警告する 超(スーパー)バブル崩壊=悪夢のシナリオ』ジョージ・ソロス:徳川家広訳、松藤民輔解説(講談社、2008年)/期待はずれ。松藤のポジショントークにも辟易させられた。ソロスが「哲学者になり損ねた男」であることだけはよく理解できた。数十年前であれば再帰性と可謬主義は卓見だと思うが、今となっては複雑系科学と認知科学の焼き直しにしか過ぎないと思われる。自説の解説もあまり上手くなく、かえって混乱するような中途半端さがある。明快ではないものを理論とは呼ばない。ま、金持ちの余技と考えるべきだろう。

ソロスは警告する 2009 恐慌へのカウントダウン』ジョージ・ソロス:徳川家広訳、松藤民輔解説(講談社、2009年)/前著よりもっと薄っぺらい本。パラパラとめくって直ぐに閉じた。

スリランカ仏教と神智学協会


 このように,スリランカ仏教と神智協会(※神智学協会)との関わりは,イギリス植民地支配のもとで,キリスト教への反発から仏教王権が回顧されていた時期に生まれた。仏基論争に触発されたオールコット(※ヘンリー・スティール・オルコット)とブラヴァツキーの2人は,1880年5月に,1人のイギリス人,5人のインド人とともにスリランカを訪れた。オールコットは,すでに1879年より教義論争の主役であったグナーナンダ師やスマンガラ師と親交を結んでいた。そのため,スリランカの側からも,その来島が待望されており,いわば,西洋の仏教理解者のチャンピオンとして歓迎されたのである。

「儀礼の受難 楞伽島綺談」杉本良男、P48(PDF)/一部に注(※)を施した】

「比較による真理の追求 マックス・ミュラーとマダム・ブラヴァツキー」杉本良男(PDF)

 下記リンクの論文では、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが神智学協会を批判した事実にも触れている。

「ノーベル賞つまらない」=候補のロシア女性活動家が批判