2013-07-31

極限状況で問われる死生観/『天才は親が作る』吉井妙子


 ・極限状況で問われる死生観

『リズム遊びが脳を育む』大城清美編著、穂盛文子映像監督

 これはダイノジ大谷が紹介していた一冊。さほど面白くはなかったが子育ての参考程度にはなるだろう。

 2002年夏、第51回大会(昭和44年)の決勝で2日間にわたって投げ合った松山商業の投手・井上明三沢高校の投手・太田幸司に、ある雑誌の企画で対談してもらったことがあった。松坂たちの甲子園も球史に残る熱闘だったが、40代以上の人たちならこの試合も記憶の箱からすぐに取り出すことが出来る。優勝旗を松山に持ち帰った井上は「その後の人生は余生だと思った」と言い、「野球があんなに恐ろしいものだとは思わなかった。恐怖で涙が出た」と述懐した。

【『天才は親が作る』吉井妙子(文藝春秋、2003年/文春文庫、2007年)】

 極限状況に追い込まれた人間心理が赤裸々に表現されている。過酷な鍛錬を経た者でなければ到達し得ない領域だ。




全編はこちら


 人は限界に直面すると気質があらわれる。実はここで問われるのが死生観に他ならない。井上選手が感じた恐怖はまさに「死の恐怖」であったのだろう。

 私が野球をしていたのは中学時代で札幌では優勝しているものの高校野球とはもちろんレベルが異なる。「もう二度と野球なんかやりたくない」と思うほど練習はきつかった。高校球児はその10倍くらいの練習量があることだろう。

 私は見た目とは異なり淡白な性格だ。敵地での試合は何とも思わないし、相手チームの応援が賑やかであればあるほど燃えるタイプだ。4番打者をしていたがピンチであろうとチャンスであろうと淡々と打席に臨んだ。自分にできることをやるだけのことだ。そのための準備はできていた。

 ま、そういうわけで「あの時こうしておけばよかった」という後悔が殆どない。できなかった事実をただ直視するだけだ。技術には限界があるのだから。だから私は敗れたチームが泣く姿を見るのが嫌で嫌でしようがない。彼らの姿はまるで「本当なら勝てたのに」と言わんばかりだ。運や不運は実力の後について回るものだ。

 しかし中学3年の私は最後の試合に敗れて泣いた。チームで一番最初に泣いた。それは負けた悔しさというよりは、「私の野球が終わった」という感慨の深さからであった。確かに「もっと練習できたはずだ」という思いもあったが、それは相手チームも同様だろう。

 死生観が生の彩(いろど)りを変える。恐怖は人生を抑圧する。誰人たりとも明日の命はわからないものだ。やがて必ず訪れる死を恐れるか、それとも今日の生に感謝できるか――死生観はこのあたりに着地する。朝目覚めるたびに「死んでみせるぞ」と生きてゆきたい。


天才は親が作る

2013-07-27

山口5人惨殺は村八分への逆襲





2013-07-26

「誤った記憶」作った!…利根川氏ら


【ワシントン】脳を刺激して実際と違う誤った記憶(過誤記憶)を作り出すことに、ノーベル賞受賞者の利根川進・米マサチューセッツ工科大教授と理化学研究所のチームがマウスの実験で成功したと、26日付の米サイエンス誌に発表する。

 過誤記憶を人為的に作り出したのは世界で初めて。

 人間はしばしば記憶違いを起こすほか、妄想を抱く病気もある。これらの原因はわかっておらず、今回の成果をきっかけに解明が期待される。

 利根川教授らは、マウスの脳の奥にある「海馬(かいば)」と呼ばれる部分に光を当て、実験を行った。海馬は記憶に関係すると考えられる。マウスの脳細胞には特殊な遺伝子が組み込まれ、光を当てると活性化、直前の記憶が再生されるようになっている。

 このマウスをまず、何もしない安全な部屋に置いた後、形の違う別の部屋に移し、脳に光を当てながら、マウスの嫌いな電気を足に流した。このマウスを安全な部屋に戻すと、外敵に遭った時のように身構え警戒したが、電気を流しただけのマウスを安全な部屋に戻しても、警戒しなかった。

 これは、海馬に光が当たったことで安全な部屋の記憶がよみがえり、マウスが「安全な部屋で電気を受けた」と混同したと考えられる。

【読売新聞 2013年7月26日07時27分】

 確証バイアスと似た状況か。

宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン

 この実験がもしも「恐怖の埋め込み」を意味するならば、新たな世界宗教を容易に創造し得ることだろう。マクロ的な視点では歴史の捏造すら可能になるような気がする。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

陰影のある太陽


 一度だけ見たことがある。思わず手を合わせたものだ。