2013-09-09

機能の廃物化、品質の廃物化、欲望の廃物化/『浪費をつくり出す人々 パッカード著作集3』ヴァンス・パッカード


 ・消費を強制される社会
 ・機能の廃物化、品質の廃物化、欲望の廃物化

『依存症ビジネス 「廃人」製造社会の真実』デイミアン・トンプソン

 日本の高度経済成長は1954~1973年である。アメリカと比較すれば10~15年遅れと考えていいだろう。経済的なテコとなったのは朝鮮特需(1950~55年)とベトナム戦争(1960~75年)であった。敗戦から高度経済成長の復興は「東洋の奇跡」と世界が絶賛したが何のことはない、「アメリカの需要」に応じて経済成長しただけの話。日本経済はアメリカの戦争とセットになっている。ま、アメリカの飼い犬みたいなものだ。

 来るべき世界についての陽気な予言として、1960年5月6日に『セールス・マネジメント』誌の編集者は次のように断言した。
「もしわれわれアメリカ人が、オートメーション化した工場、販売促進、それに広告の一斉射撃が押しつけるものを全部買って消費するとしたら、われわれは皆、よぶんの収入だけではなく、よぶんな耳と目と、その他の感覚器官を持たなければならない。実際すべての要求に応ずる唯一の確実な方法は、スーパー消費者とでもいった、まったく新しい人種をつくり出す以外にないだろう。」
 消費は上昇しなければならない。そうしてその上昇が続かなければならない。マーケティングの新しい専門家たちは、平均的な市民が、これからの十何年間に、いまよりも5割近く購買をふやさなければ、経済はだめになるだろうと言ってきた。わずか10年のあいだに、アメリカ市民は、消費のレベルを彼らの先祖たちが、植民地時代やら1939年までの200年間に行なってきたと同じ分量まで上げなければならないというのが、宣伝マンの言い分なのである。

【『浪費をつくり出す人々 パッカード著作集3』ヴァンス・パッカード:南博、石川弘義訳(ダイヤモンド社、1961年/原書、1960年)以下同】

 で、「よぶんな感覚器官」として電話~携帯電話、パソコン~タブレットに至ったわけだ。ウェブを見よ。どのページも広告に支配されているではないか。

 1991年2月、バブル景気が崩壊した日本は世界に先駆けてデフレへ突入した。通貨収縮≒供給過剰。日銀の無策が「失われた10年」を20年にまで拡大した。GDPと人口が増え続けなければ経済が頭打ちになるのは明らかだ。

 その頃、「持続可能な開発」という理念が登場した(1980年)。ま、こんなものを俺は信用しないけどね。誰も反対できないものには疑う価値がある。彼らが本気で考えているなら、まず南北問題を解消すべきだ。発展途上国の人口増加を抑制しない限り、「持続可能な開発」などあり得ない。

 アメリカ経済への刺激という点で、さらに大規模で決定的なのは、国防予算である。それは年間500億ドル近くになっている。国民の総生産高の10分の1に達して、アメリカ上院議員の多数は、彼らの州にある軍事基地、大きな航空機とミサイル製造の契約事業、海軍兵器廠を保護するようにと、強い圧力をかけられて、少しでも予算が削られると、議員のなかには、地位を失ない、その地方の産業が損失をこうむるということも出てくる。

 アメリカの基幹産業は軍産複合体である。戦争こそ最大の消費なり、ってわけだよ。スクラップ&ビルド。アメリカが行う第二次世界大戦以降の戦争は経済政策として推進されている。

 アイゼンハワー大統領は、記者会見で、後退を防ぐために、国民はなにをすべきかを質問されたことがあったが、そのときの会話のやりとりは次のようである。
 答「買うことだ」問「なにを買うのですか」答「どんなものでも」

 天才的な回答だ。政治家の本音が全開。国民はねずみ車をひた走るハムスターのように買い物をするべきなのだ。酒池肉林に行き着くまで。欲望を無限に増殖させることでしか発展は維持できない。何という経済の欺瞞か。

 飽和状態が強まってくるさなかで、売上高をさらに高める方法を探しているマーケティングの専門家たちは、消費者の一人一人が、いままで買ってきた製品をもっと多量に買わせなければならないということに、まず気がついた。

 前回紹介した「電通の戦略十訓」の件(くだり)だ。

 多くのペースト入れには、蓋の内側にブラシがついている。そうしてそのブラシは、底に届くには半インチほど足りない。つまり、どんなに苦心しても、底のほうに残っているペーストには届かないというわけである。こうした何百万という「空になった」ペースト入れが、まだスプーン何杯分か残っていながら、捨てられてしまうのである。同様に口紅は、全部使えないようにできているので、チューブに半インチくらい残ったまま、何百万の「使ってしまった」チューブが捨てられることになる。

 メーカーが意図的に生み出す無駄の数々。消費者の無駄は企業の利益だ。資本主義の本質がねずみ講である事実が理解できよう。連鎖商法の犠牲者を減らすべく広告代理店は一生懸命仕事をしている。彼らは消費者の満足感を創作・捏造する。

「計画的な廃物化」ということに、近ごろ多くの実業家が、魅力を感ずるということは、戦後の大きな動きの一つである。製品の形や、消費者の態度に影響を与える戦略の一つとして使われる、この計画的な廃物化は、投げ捨て精神のエッセンスである。

 俺たちはゴミを買わされているわけだ。

 ここでわれわれは現代のマーケティングの実際を検討するという見地から、この状況をよく精密に分析するために、製品が廃物にされる、三つのやり方を区別することにしたい。
 機能の廃物化――よりよい機能をもった、新しい製品が導入されて、現在の製品が流行おくれになる場合。
 品質の廃物化――比較的短い時期に、ある時点で、製品がこわれるか、あるいは消耗してしまうように計画する。
 欲望の廃物化――品質、あるいは機能の点で、まだ健全な製品が、スタイルその他の変化のために、心理的にそれ以上望まれないものとして「古くなる」。

 これだよ、これ。で、最終的に「人間の廃物化」が進行するのだ。流行らせ、廃(すた)らせ、捨てさせるのが電通の仕事だ。物を大切に扱わない人が人間を大事にするわけがない。

もったいない/『落語的学問のすゝめ』桂文珍

 物は者に通じる。物惜しみをしない人は「事」まで軽んずるようになるだろう。このようにして人生までもが消費されてゆくのだ。

「すべてのファッションは極端に終る」というポアレーの法則(後略)

 とすると全ての商品はオートクチュール化を目指すのだろうか? リミテッド、オプションによる差別化。いずれにしてもわずかな付加価値で高く売りつけようとしている魂胆が明白。

 経済格差の拡大は富の集中を意味する。つまり貧困はこれからも拡大してゆくのだろう。経済規模は縮小し、賃金は下がり続ける。国内で持たざる者が飽和点に達した時、国家は必ず戦争に向かう。経済は戦争でしか精算できないからだ。その時、広告代理店の売り上げは急速に伸びることだろう。

2013-09-08

野口健、宮城谷昌光、アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉、岸田秀、他


 10冊挫折、4冊読了。

性と呪殺の密教 怪僧ドルジェタクの闇と光』正木晃(講談社選書メチエ、2002年)/前置きが長すぎる。

偶然とは何か その積極的意味』竹内啓〈たけうち・けい〉(岩波新書、2010年)/まどろっこしい。

確率と統計のパラドックス 生と死のサイコロ』スティーヴン・セン:松浦俊輔訳(青土社、2004年)/冗長。無駄話が多すぎる。

なぜ少数派に政治が動かされるのか?』平智之〈たいら・ともゆき〉(ディスカヴァー携書、2013年)/これも安冨歩〈やすとみ・あゆむ〉のオススメ。TPP参加に賛成している件(くだり)を読んでやめた。

100年予測 世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図』ジョージ・フリードマン:櫻井祐子訳(早川書房、2009年)/文章がよくない。本書でも日本が戦争を行うことを予測している。

続 獄窓記』山本譲司(ポプラ社、2008年)/文章はいいのだが、メンタル面が弱すぎる。

2円で刑務所、5億で執行猶予』浜井浩一(光文社新書、2009年)/良書。ただし著者の性格が悪い。読者の無知を指摘し続けて辟易させられる。

徒然草』島内裕子校訂・訳(ちくま学芸文庫、2010年)/時間のある時に読み直す。『徒然草』は本書が一番よい。

唯幻論大全 岸田精神分析40年の集大成』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(飛鳥新社、2013年)/「第三部 セックス論」を除いて読了。ストックホルム症候群で一つ閃きを得た。

出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉〈みなみ・じきさい〉(サンガ、2009年)/やはりスマナサーラ長老は声聞であるとの確信を強めた。南のことを「先生」とは呼んでいるものの、常に上から目線で語っている。一方、南は南で遠慮しながら自らの疑問を投げかけている。議論が擦れ違う理由は南の仏教アプローチにある。知に傾きすぎているのだ。今のままだと宮崎哲弥の僧侶版となりかねない。

 38冊目『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健(集英社インターナショナル、2013年)/これはオススメ。素晴らしい写真集だ。しかも廉価(2100円)。構成がまとまりを欠いているのは仕方がない。本書は野口の眼を紹介するところに重きを置いたのだろう。小中学生にも読ませたい作品だ。

 39、40、41冊目『太公望(上)』『太公望(中)』『太公望(下)』宮城谷昌光(文藝春秋、1998年/文春文庫、2001年)/3日で読了。殷の紂王周の文王武王周公旦、そしてほんのわずかながら伯夷〈はくい〉と叔斉〈しゅくせい〉まで登場する。彼らの名は鎌倉時代の日本にまで及び日蓮も遺文で紹介している。壮大な復讐譚(ふくしゅうたん)。唯一の瑕疵は幼少の太公望が既に天才として描かれており、由来が示されていないところ。紀元前11世紀において軍に戦略を用いたというのだが凄い。

内村剛介の石原吉郎批判/『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介


 ゴリゴリの文体が嫌な臭いを放っていた。イデオロギーや教条(ドグマ)から見つめて人間を裁断するような印象を受けた。内村剛介もまたシベリア抑留者であった。そんな彼が同じ苦しみを生き抜いた石原吉郎を徹底的に批判している。

 感性の磨耗ということに石原ほどに抵抗した者も少なかろう。

【『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介〈うちむら・ごうすけ〉(思潮社、1979年)以下同】

 それは石原が詩人であったためではない。死んでしまった鹿野武一〈かの・ぶいち〉と共に生き、彼に恥じない生き様を貫こうとしたゆえであった。私にはそう思えてならない。

究極のペシミスト・鹿野武一/『石原吉郎詩文集』~「ペシミストの勇気について」

 希望が一切持てないにもかかわらず、なお他の精神をいたずらにそこなうようなことだけはさしひかえようとして沈黙する者がある。雄々しくみずから耐えることを強いるのである。彼は沈黙し耐えることによって絶望を拒否する。この沈黙は屈従ではない。迎合という名の屈従を拒むものが彼のうちにあって、それを支えとして沈黙し、絶望と格闘するのである。希望がないというだけではまだ絶望ではない。耐える力を、みずからのうちのこの支柱を失ったときはじめて絶望が訪れる。それまでは、その瞬間までは、私たちは耐えなければならない。むろん他に対してでなく自分自身に対して耐えるのである。

 私は猛烈な違和感を覚えた。石原の沈黙は能動的なものではあるまい。かといって強いられたものでもない。彼はただ「沈黙せざるを得なかった」のだ。なぜなら語るべき言葉を失ってしまったからだ。

ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある
詩は、「書くまい」とする衝動なのだ/『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 一方、鹿野武一〈かの・ぶいち〉は「絶望と格闘」したわけではない。鹿野は絶望を生きた。ロシア人の優しさに接した時、彼は自ら絶望に寄り添い、生きることを拒んだ。それ以降、誰に言うこともなく食を絶(た)ち、苛酷な強制労働に従事した。

ナット・ターナーと鹿野武一の共通点/『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン




 我々が通常考える幸不幸とは快不快でしかない。乙女の温かな人間性が多くの抑留者に希望を与えたことは疑う余地がない。しかし快は不快の裏返しでしかなかった。たちどころにそれを悟った鹿野は【希望を拒んだ】のだ。彼は人間の実存が特定の情況に左右されることを許さなかった。この瞬間において「世界から拒まれた者」は「世界を拒む者」へと変貌を遂げたのだろう。

 鹿野武一〈かの・ぶいち〉の沈黙は深海を想起させる。それに対して内村剛介は押し寄せる波のようにうるさい。

 人間を深く見つめる眼差しがなければ、我々は繰り返される革命や改革の歯車となってゆく。

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香月泰男が見たもの/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆