2013-11-23

ラス・カサスの立ち位置/『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス


『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
『奴隷船の世界史』布留川正博
『奴隷とは』ジュリアス・レスター
『砂糖の世界史』川北稔

 ・ラス・カサスの立ち位置
 ・スペイン人開拓者によるインディアン惨殺
 ・天然痘と大虐殺

『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温

キリスト教を知るための書籍
必読書リスト その四

 カスティーリャの国王が神とその教会からあの大きな数々の王国、すなわち、インディアスという広大無辺な新世界を委ねられましたのは、その地に済む人びとを導き、治め、改宗させ、現世においても来世においても彼らに幸福な生活を送らせるためにほかなりません。しかるに、それらの王国に済む人びとは同じ人間が手を下したとは想像もつかないような悪事、圧迫、搾取、虐待を蒙ってまいりました。いと強き主君、私は50年以上にわたりその地でそれらを目撃してまいりました。それゆえ、とりわけそのうちのいくつかの行為を申し上げれば殿下は必ず陛下に対し、無法者たちが策略を弄してたえず行いつづけているいわゆる征服(コンキスタ)という企てを今後いっさい許可されないよう懇請していただけるものと確信しております。

【『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス:染田秀藤〈そめだ・ひでふじ〉訳(岩波文庫、1976年/改訂版、2013年)】

 キーが重い。気安く書くわけにはいかないためだ。私がもたもたしているうちに改訳版が刊行されていた。タイトルが広く知られていると、「ま、いつでも読めるよな」とか「今更俺が読んでも……」などと思いがちだ。挙げ句の果てには「読んでしまった」ような錯覚に至ることもある。ソクラテス、トルストイ、ドストエフスキー、夏目漱石……そして岩波文庫だ。

 インディアンの言葉を編んだものを数冊読み、その散漫極まりない編集に業を煮やし、「そろそろ本気を出すか」と意気込んで本書を開いた。寝しなに読むのは避けるべきだ。悪夢にうなされたくなければ。

 ルワンダを軽々と凌駕する大虐殺の歴史だ。アメリカに巣食う暴力の根は「アメリカ大陸発見」の時から地中に深く分け入ったのだ。ヨーロッパ人は元々「魔女狩り」と称して同胞を焼き殺すような連中である。世界の果て(※ヨーロッパから見た世界観)に存在した異邦人は化け物と変わりがなかった。

コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世

 しかもキリスト教の狭い世界観にインディアン(中国を始めとするアジア人も)は含まれていなかった。

 話はいささかそれるかもしれませんが、ここで日本人がいつから奴隷になったのか、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
 近代の奴隷制は、東インド会社の設立にその起源を求めることができます。ことは非常に単純で、奴隷制はもともと、人間とは何かという定義から始まりました。その経緯はおおよそ次のようなものです。
 現在ではカトリックといえば博愛主義の代名詞で、バチカンは世界の戦争や差別をなくす中心的な役割を果たす機関となっています。ところが中世の頃のバチカンはそうではなかったのです。
 1600年、インドに渡ったヨーロッパの貿易商は肌の黒いインド人を見て、同行した神父にこう訊ねました。「この肌の黒い人は人間ですか?」。その神父はその場で答えを出さず、バチカンにその回答を求める質問状を送るのですが、ずいぶんして戻ってきた返書には「人間ではない」としたためてありました。その理由は“キリスト教徒ではないから”というものです。
 アフリカに渡ったときも、同じ手続きが踏まれました。商人から同じことを訊かれた神父が、やはりバチカンに、人間かどうかの判断を仰ぐ質問状を送っているのです。すると、こちらも「人間ではない」という回答がきちんと送ってきました。そういう記録が残っているというのです。
 こうした当時のバチカンの判断によって、奴隷制が始まったと言われています。魔女狩りや異端審問がピークの時代です。東インド会社が行った最大の交易は、人身売買ですが、その背景にはキリスト教徒でない者は人間ではなく奴隷であるという判断があったわけです。
 このことは、日本の場合にも当てはまると思います。
 戦国時代、日本は海外から鉄砲の調達を始めました。織田信長がその近代兵器を駆使して勝利を収めたことは有名ですが、そのためには高性能の火薬、つまりガンパウダーが必要になります。当時のガンパウダーの値段はどのようにつけられていたかというと、一樽につき、娘50人です。織田信長の時代から戊辰戦争の時代まで、鉄砲隊のガンパウダーは、日本人の若い女性を海外に売ることで調達したのです。
 この事実は、裏を返せば、日本人の人身売買を行うにあたり、日本人は「人間ではない」というお墨付きがあったということになります。もし、人間を売買したとなると、キリスト教の教義に違反し、たいへんなことになります。しかし人間ではないから、鉄砲を求める戦国武将との間で、売買が成立したわけです。そのため、当時、大量の日本人の娘がヨーロッパに売り渡されたという記録が残されています。
 つまり日本における奴隷制は、鉄砲隊がその引き金を引くと同時に始まったと考えることができるわけです。

【『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(ビジネス社、2008年)】

 これが近代の現実である。ヨーロッパにとって世界とは聖書に書かれたことがすべてだった。そして聖書の解釈権はヴァチカンが握っていた。神に従うことはヴァチカンに従うことであった。インディアンと中国人(なかんずく中国文化)の存在がヨーロッパを揺るがした。全知全能の神もふらついたことだろう。

「インディアス」とはインドのことだ。クリストファー・コロンブスの第二次航海に参加したラス・カサスは、当然コロンブス同様アメリカ大陸をインドだと思い込んでいた。「新大陸」であることに気づいたのはアメリゴ・ヴェスプッチであった。で、彼の名前から「アメリカ」と命名されたわけだ。

 バルトロメ・デ・ラス・カサスはカトリックの司祭であった。しかもインディアンの奴隷を所有していた。彼は宣教目的でアメリカに渡ったわけだから、インディアンを布教対象としてしか考えてなかったことだろう。そうでありながらも彼はインディアン虐殺をじっと見ているわけにはいかなかった。ここに彼の自由な魂がある。

 時代の流れを自覚することは難しい。地球の自転や公転を意識できないのと一緒だ。時代の常識に逆らうことは勇気を必要とする。激しい毀誉褒貶(きよほうへん)を覚悟しなくてはならない。元々コミュニティには進化的な優位性がある。「皆と同じ」にすることで生存率が高まるのだ。ゆえに勇気をもって異を唱えることは時に死を意味した。諫言。

 一読後、私は思った。「ラス・カサスの名を冠した人道賞を設けるべきだ」と。彼こそは善きサマリア人であった。そして虐殺者の一員であることを断固として拒んだのだ。

 ラス・カサスは68歳で大著『インディアス史』を書き始める。

インディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫)インディアス史〈1〉 (岩波文庫)インディアス史〈2〉 (岩波文庫)インディアス史〈3〉 (岩波文庫)

インディアス史〈4〉 (岩波文庫)インディアス史〈5〉 (岩波文庫)インディアス史〈6〉 (岩波文庫)インディアス史〈7〉 (岩波文庫)

ラス・カサスとフランシスコ・デ・ビトリア(サラマンカ大学の神学部教授)/『大航海時代における異文化理解と他者認識 スペイン語文書を読む』染田秀藤
侵略者コロンブスの悪意/『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』ディー・ブラウン
虐殺者コロンブス/『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』ハワード ジン、レベッカ・ステフォフ編
米軍による原爆投下は人体実験だった/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
欽定訳聖書の歴史的意味/『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
残酷極まりないキリスト教/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル

リー・チャイルド著『キリング・フロアー』の新装版

新装版 キリング・フロアー 上 (講談社文庫)新装版 キリング・フロアー 下 (講談社文庫)

 ジャック・リーチャー。元軍人。仕事も家族も、友人さえも持たずただ一人放浪する男。伝説のギター奏者の面影を求めて訪れたジョージアの田舎町で身に覚えのない殺人容疑をかけられ、刑務所で殺されかかった彼は、自分を狙う何者かの意志を察知する。刊行と同時に全米マスコミの絶賛を浴びたアクション巨編。

 殺されたのはもう何年も会っていない、財務省で通貨偽造を調査していた実の兄だった。おれがこの手で犯人を挙げる、誰がなんといおうと――。容疑が晴れ釈放されたリーチャーは女性巡査ロスコーと共に事件を追い、町を覆い尽くすある巨大な陰謀を明らかにしていく。アンソニー賞最優秀処女長編賞受賞作。

ジャック・リーチャー・シリーズ第1作/『キリング・フロアー』リー・チャイルド

2013-11-22

ジョン・ル・カレ著『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の新訳(村上博基)が不評



ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ (ハヤカワ文庫NV)
【左が村上訳、右が菊池訳】

スクールボーイ閣下〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)スクールボーイ閣下〈下〉 (ハヤカワ文庫NV)スマイリーと仲間たち (ハヤカワ文庫 NV (439))
【2部、3部はもともと村上訳】

黒田清隆と木戸孝允~勝海舟の評価


小沢遼子足蹴り事件

 1983年1月26日、ロッキード事件被告田中角栄への求刑公判の日、テレビ朝日の番組「こんにちは2時」の生放送に出演した。番組のテーマはもちろん角栄の裁判であり、小沢遼子ら反角栄側2人と小室による討論を行った。ところが冒頭、突然立ち上がってこぶしをふり上げ、「田中がこんなになったのは検察が悪いからだ。検事をぶっ殺してやりたい。検察官は死刑だ」とわめき出し、田中批判を繰り広げた小沢遼子を足蹴にして退場させられた。

 ところが、翌日朝、同局は小室を「モーニングショー」に生出演させた。その際さらにパワーアップしてカメラの面前で「政治家は賄賂を取ってもよいし、汚職をしてもよい。それで国民が豊かになればよい。政治家の道義と小市民的な道義はちがう。政治家に小市民的な道義を求めることは間違いだ。政治家は人を殺したってよい。黒田清隆は自分の奥さんを殺したって何でもなかった」などと叫び、そのまま放送された。

 これをもってテレビ出演はほとんどなくなり、以後、奇人と評された。

キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教の「空(くう)」/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹Wikipedia



 平生はその手腕を買われていた黒田だが、一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であったと言われている。一度は木戸孝允が同席の酒席で暴れ、武術家としても知られていた木戸に取り押さえられ、毛布でくるまれたうえ紐で縛られ、そのまま自宅へ送り返された。以来、「木戸が来た」というと大人しくなったという。明治11年(1878年)の夫人の死も酔った黒田が斬り殺したのを同郷の川路利良がもみ消したのではないかとも噂された。

Wikipedia



三浦梧楼「木戸は剣客斎藤弥九郎の塾頭をやったくらいで、なかなか手が利(き)いておった。あの乱暴者の黒田(黒田清隆)でさえ、木戸には閉口しておった。ある年の正月三日であった。黒田が木戸の所へ、年礼にやって来たが、さんざん飲んだ果てに暴れ出した。木戸がいろいろなだめても、なかなか聞かない。果ては木戸におどりかかっていったが、木戸は柔術も心得ておる。黒田はただ蛮勇ばかりで、木戸の敵ではない。木戸はいきなり大腰にかけて、物の美事に投げつけ、両手で喉をしめつつ、『どうじや、まいったか』というと、『まいったまいった、許せ』とあやまる。『それじゃ帰れ』といって、手を放し、鴛龍へ乗せて、送りかえしたが、あの乱暴者が、木戸には全く閉口しておったものだ」

Wikipedia





2013-11-21

エリザベス・ロフタス「記憶が語るフィクション」~偽りの記憶


 心理学者のエリザベス・ロフタスは、記憶の研究をしています。正確には、彼女が研究しているのは「偽りの記憶」――起きてもいないことの記憶や、事実とは違う形で残っている記憶です。こうした虚偽記憶は、一般に考えられているより普通にあることです。ロフタスは、衝撃的な事例や統計を紹介し、私たちが考えるべき重要な倫理的問題を提示します。


 戦争やジェノサイドに至る道程には偽りの記憶が無数に存在することだろう。記憶は偽る。自らが捏造し、他人が書き換えることによって。人間は物語(フィクション)を生きる動物であることがよく理解できる。そして人類は21世紀になっても尚、宗教というフィクションにすがりついているのだ。

抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって目撃証言目撃者の証言

証言の心理学―記憶を信じる、記憶を疑う (中公新書)記憶はウソをつく (祥伝社新書 177)目撃証言の心理学

偽りの記憶/『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー
現実認識は「自己完結的な予言」/『クラズナー博士のあなたにもできるヒプノセラピー 人生を成功に導くための「暗示」の作り方』A・M・クラズナー
『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳
あと知恵バイアス
「社会への同調」で生まれる「ニセの記憶」:WIRED.jp

2013-11-20

システマ・ビデオ


 舞踏のように華麗だ。システマは格闘技ではなく護身術である。



ロシア武術システマ「HAND to HAND【接近戦】」日本語版 [DVD]システマ教則マニュアル ロシア最強の格闘術 [DVD]ロシア式軍隊格闘術 システマ入門 VOL.1エクササイズ編 [DVD]ロシア式軍隊格闘術 システマ入門 VOL.2ストライク編 [DVD]

Beat the Odds 英語版 [DVD]Dynamic Joint Breaks 英語版 [DVD]Escape from Holds 英語版 [DVD]相手を3秒で倒す技50! テイクダウン大全 (DVD付) (BUDO‐RA BOOKS)

セックスとは交感の出来事/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・身体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 増刷されたようである。朗報。せっかくなので何か書いておこう。

 セックスとはほんとうは交感の出来事であり、感覚のコミュニケーションの出来事であったはずなのに、それが身体の特定部位の性能の問題にずらされてしまっているのだ。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】

 これは何も今に始まったことではあるまい。巨乳を昔はボイン(日本テレビの「11PM」で大橋巨泉朝丘雪路の胸をからかったのが嚆矢〈こうし〉)と言ったし、「小股の切れ上がった」なんて言葉は、「締まりがよい」とか「具合がよい」などと大差はないと思われる。

 結局のところ「性の商品化」と絡む問題なのだろう。鷲田の論考はここから急激に深まる。

 こういう読み物とかグラビアといった快楽情報が溢れているのは、ほんとうの快楽が他人とのあいだで得られていず、しかも情報は増える一方なので、恒常的な飢餓感や不足感だけが確実に膨らんできているということなのだろう。器官的なものとしての〈性〉ではなく、感情としての〈性〉がもうきちんと語りだされなくなってきている。
〈性〉は、個体と個体のあいだで起こる身体間のもっとも濃密な交通である。これを軸に、親子のあいだの親密な相互接触、さらにはじぶんの身体とのあいだの何重もの厚い関係が交叉しながら、これまで家庭という、複数の身体がなじみあう特異な空間を構成してきた。だから他人の家庭を訪れたとき、だれもが家庭というもののあの異様に濃密な空気にうろたえる。

 情報が性を貧しいものに変えた。当然、「性」は「生」とつながる。ジュディス・バトラーも同じ指摘をしている。

ポルノは経験に取って代わる/『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー

 性を濃密な関係と押し広げているところが卓見だ。確かに他人の家庭は薄気味悪い。私の父は無口であったため、殆ど会話らしい会話がなかった。そんな私からすれば、父親と息子が話しているだけでぞっとさせられる。一方で我が実家は幼い弟妹が小学1年生になる頃までチューをし続けた。他所様から見れば気色悪いこと甚だしいに違いない。

 ま、夫婦の性行為から家族が生まれるわけだから、その延長線上に家族関係も構築されるのだろう。

性はアイスクリームを食べるのに似ている/『エロスと精気(エネルギー) 性愛術指南』ジェイムズ・M・パウエル

 氾濫する性情報のなかで〈性〉はむしろ義務のようなものになっており、そっとやりすごさないとせっかくの関係を壊しかねないという不安が、そこにはある。
〈食〉が自己への暴力へと転化することがあるように(過食や拒食)、〈性〉もまた自己への暴力となりうる。〈性〉の背景にあった〈愛〉や〈家族〉といった観念が、そしてそれを制度化してきた社会的装置が、さまざまな場面できしんでくると、〈性〉の不幸は社会的な問題性をますます深く内にはらむようになる。

 これは確か女性のケースだ。いわゆる処女喪失というテーマだ。「処女」とか「セックス」とか書くのをためらってしまうのも、私の古典的な性意識が為す業(わざ)だと思われる。

 これまた実に鋭い指摘である。不安定な家族関係で育った女性は特に注意が必要だ。特に父親の愛情を知らない――当然離婚も含む――少女が危うい。男性遍歴が激化するケースがある。

 新聞や雑誌を開ければ、援助交際、ブルセラ、投稿写真、ストーカー、家庭内強姦、あるいは中絶という自己への暴力のあとの底深い負い目、「純愛」として語りだされる不倫、自己解放としての身体毀損(ボディ・ピアシング)……と、気が落ち込むようなテーマがならんでいる。それぞれの性が、そしてそれぞれの世代が、共有できる物語を欠いたまま、問題としての〈性〉にむきだしで接触しているという感じがする。

 過剰な性愛は不毛だ。精神はやがて疲労と疲弊に覆われ、擦り切れ、必ず廃(すた)れてゆく。彼女たちの魂は放置自転車のように埃(ほこり)まみれで錆(さ)びついている。不足を補うための行為が、かえって空洞を広げてしまう。

 私がまったく違う例を挙げよう。義父の介護を献身的に行っているという評判の奥さんがいた。私が訪れたところ義父も義母もお嫁さんを手放しで褒めていた。何度か足を運んで気づいた。お嫁さんは義父の身体に触れることが殆どなかった。彼女にとって介護は嫁としての義務であったのだろう。甲斐甲斐しく身の世話をしていたが愛情は感じられなかった。身体の接触なくして要介護者とのコミュニケーションは難しい。仮に脳血管障害由来の失語症などで言葉を失っていても、手を取り肩を組むだけで喜ぶ人々は多い。人間という動物は好意を抱いていれば必ず触れ合うものだ。

 性は本来豊かなコミュケーションであったはずだ。そしてコミュニケーションは交換から交感へと変わり、更には交感が交歓へと昇華するのだ。商品としての性には金銭と肉体の交換しか存在しない。経済的な見返りを求めた結婚も長期的な売買春と考えることができよう。

 中学生となり初めてフォークダンスをした時のあの緊張感を思い出そう。密かに思いを寄せていた女子生徒の手を握った瞬間、私は確かに感電したはずだ(笑)。