2014-04-10

浪花千栄子の美しい言葉づかい/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編


 ・落語とは
 ・浪花千栄子の美しい言葉づかい
 ・死の恐怖

浪花●だんだんバタのにおいがプンプンしてくる世のなかになってまいりましたけど、あたくしなんか、ドブヅケ(ぬかみそづけ)のにおいがプンプンいたしますんでございます。まだドブヅケたべてくれはりますあいだは、つづけていかれるやろおもてますけど、そのうち、ドブヅケはすみへすみへ追いやられてしまうことになりまっしゃろうと思いましてね、心ぼそいかぎりでございますねん。

【対談 浪花千栄子〈なにわ・ちえこ〉・徳川夢声〈とくがわ・むせい〉/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅〈もり・つよし〉、井上ひさし、安野光雅〈あんの・みつまさ〉、池内紀〈いけうち・おさむ〉編(筑摩書房、1990年/ちくま文庫、2011年)】

 浪花千栄子は8歳の時から奉公に出され、教育を受けることができなかった。苦労しながら独学で読み書きを学んだ。美しい大阪弁を話すことで知られる女優と思っていたところ、正確には船場言葉というそうだ(大阪弁完全マスター)。私と同世代であっても浪花千栄子を知る人は少ない。でも「オロナイン軟膏の看板」は殆どの人が知っているはずだ。


 浪花の本名は南口〈なんこう〉キクノという。ここから「軟膏効くの」に因(ちな)んで起用された。

 バタとはバターのこと。確かバルザック著『「絶対」の探求』にも「バタ」という表記があったように思う。今でも「バタ臭い」という言葉で残っている。

 文字を読めなかったがゆえに言葉を大切にした人なのだろう。それにも増して人を大切にしてきたのだろう。言葉づかいは作法というよりも流儀である。その美しい心に思いを馳せる。

ちくま哲学の森 1 生きる技術

筑摩書房
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2014-04-09

落語とは/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編


・落語とは
浪花千栄子の美しい言葉づかい
死の恐怖

「こんど地所を買いましてね……」
 と、いかにも得意そうにいうやつが、あたしの仲間にいた。
 そもそも噺家(はなしか)てえものは、地所なんぞ買うという了簡(りょうけん)がまちがっている。噺家は地所なんか買わないで、地所をもっている人の長屋にすまっているもんだ。音羽屋(おとわや)がいったように、噺家はゼニがなくておもしろいよ、というところから噺になるんですよ。
 噺家が地所を買って長屋をたて、その長屋に人を住まわせたんじゃ、噺家てえものの味わいというものがなくなっちまう。ゼニのないところがおもしろい、ゼニがなくて貧乏(びんぼう)しているというところに、おかしみというものが浮(う)きでてくるんです。

【「空気草履」古今亭志ん生/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅〈もり・つよし〉、井上ひさし、安野光雅〈あんの・みつまさ〉、池内紀〈いけうち・おさむ〉編(筑摩書房、1990年/ちくま文庫、2011年)以下同】

 アンソロジーである。安野と池内の名前が目を引いた。冒頭に志ん生を持ってくるあたりが侮れない。他には斎藤隆介、浪花千栄子〈なにわ・ちえこ〉、W・サローヤンが面白かった。全体的にはまとまりを欠いた印象が強い。

 昭和の落語界を代表する人物だが実は遅咲きであった。40代でぼちぼち、50代で人気を博した。芸は磨くのに時間がかかる。昨今の「一発当てた」お笑いタレントを芸人とは言わない。

 しかし、もともと落語てえものは、おもしろいというものじゃなくて、粋(すい)なもの、【おつ】なものなんですよ。
 それが今では、落語てえものは、おもしろいもの、おかしいものということを人々がみんな頭においているんですが、元来そんなもんじゃないんですナ。

 志ん生が放つ言葉は一つひとつが立っている。私はどちらかというと落語よりも志ん生の江戸弁に耳を傾ける。キレのよいべらんめえ調、女言葉のイントネーション、そして端唄(はうた)。

 現代は豊かな言葉の響きを失った時代である。コンクリートやマイクなどが言葉の響きを不要としたのかもしれぬ。テレビが行き渡るようになってから方言も少なくなってきたように感じる。

 言葉が響かないのは身体を震わせないためだ。体格はよくなっても思いが弱まり、気持ちが小さくなっている。大太鼓を割り箸で叩くような状態だろう。声に生命の響きが表れる。生きることそのものにもっと貪欲であっていい。

ちくま哲学の森 1 生きる技術



キリスト教の問題点/『キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』』ニーチェ:適菜収訳


 話が込み入ってまいりましたので、ここでキリスト教の問題点をまとめておきましょう。
 第一に、「神」「霊魂」「自我」「精神」「自由意志」などといった、ありもしないものに対して、本当に存在するかのような言葉を与えたこと。
 第二に、「罪」「救い」「神の恵み」「罰」「罪の許し」などといった空想的な物語を作ったこと。
 第三に、「神」「精霊」「霊魂」など、ありもしないものをでっちあげたこと。
 第四に、自然科学をゆがめたこと(彼らの世界観はいつでも人間が中心で、自然というものを少しも理解していなかった)。
 第五に、「悔い改め」「良心の呵責(かしゃく)」「悪魔の誘惑」「最後の審判」といったお芝居の世界の話を、現実の世界に持ち込んで、心理学をゆがめたこと。
 まだまだありますが、ざっとこのようになるのではないでしょうか。
 こうした空想の世界は、夢の世界とはまた別のものです。夢の世界は現実を反映していますが、彼らの空想は現実をねじ曲げ、価値をおとしめ、否定します。
 キリスト教の敵は「現実」です。なぜなら、彼らの思い描いている世界と現実はあまりにもかけ離れているからです。

【『キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』』ニーチェ:適菜収〈てきな・おさむ〉訳(講談社+α新書、2005年)】

 既に7万部売れたらしい。買っているのは2ちゃんねらーとネトウヨだろうか(笑)。

 語尾に作為を感じる。その邪(よこしま)な意図に誑(たぶら)かされるほど私は若くない。やはり、『ニーチェ全集 14 偶像の黄昏 反キリスト者』を開くべきだ。適菜の超訳はイエロー哲学といってよい。哲学することよりも、むしろ扇情に目的があるのだろう。ニーチェは材料に過ぎない。

 私もアブラハムの宗教は邪教であると考えているが、彼の著作には与(くみ)しない。日本でキリスト教批判をするのであれば、欧米人の目を覚まさせるくらいの骨太さが必要だ。適菜収の言論はネット掲示板の臭いがする。

キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』 (講談社+α新書)ニーチェ全集〈14〉偶像の黄昏 反キリスト者 (ちくま学芸文庫)

2014-04-08

脳は宇宙であり、宇宙は脳である/『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン


『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・脳は宇宙であり、宇宙は脳である

『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『しらずしらず あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』レナード・ムロディナウ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル

 脳はニューロンとグリアという細胞が何千億個も集まってできている。その細胞の一つひとつが、都市と同じくらい込み入っている。それぞれに全ヒトゲノムが入っていて、複雑な営みのなかで何十億という分子をやり取りする。一つひとつの細胞がほかの細胞に電気パルスを毎秒何百回も送る。脳内で生じる数十兆のパルスそれぞれを1個の光子で表わしたら、目がくらむような光になるだろう。
 その細胞どうしをつなぐネットワークは驚異的に複雑なので、人間の言語では表現できず、新種の数学が必要だ。典型的なニューロン1個は近隣のニューロンと約1万個の結合部をもっている。何十億というニューロンがあることを考えると、脳組織わずか1立方センチに銀河系の星と同じ数の結合部があることになる。
 あなたの頭蓋骨のなかにある1300グラムのピンク色でゼリー状の器官は、異質な、計算する物質だ。小さな自己設定型のパーツで構成され、私たちがつくろうと志したことのあるどんなものもはるかに超えている。だから、自分が怠け者だとか鈍いと思っている人も、安心してほしい。あなたは地球上で最も活発で、最も鋭い生きものなのだ。
 それにしても、うそのような話だ。私たちはおそらく地球上で唯一、向こうみずにも自らのプログラミング言語を解読するゲームに打ち込むほど高度なシステムである。あなたのデスクトップコンピューターが、周辺装置を操作し始め、勝手にカバーをはずし、ウェブカメラを自分の回路に向けるところを想像してみてほしい。それが私たちだ。

【『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン:大田直子訳(早川書房、2012年『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』改題)】

 今気づいたのだが著者は、リチャード・E・サイトウィック(リチャード・E・シトーウィック改め)『脳のなかの万華鏡 「共感覚」のめくるめく世界』の共著者であるデイヴィッド・M・イーグルマンとたぶん同一人物だろう。

 意識三部作としては、『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ→『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ→本書の順番で読むことを勧める。次にアントニオ・R・ダマシオへ進み、更に『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム、『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ、『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロースを読めば理解が深まる。たぶん天才になっていることだろう。

 宇宙に匹敵する広大な領域。それが脳である。脳が宇宙であるならば、宇宙が脳である可能性も高い(『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック/『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル)。


 ニューロン(神経細胞)の数は「大脳で数百億個、小脳で1000億個、脳全体では千数百億個にもなる」(理化学研究所 脳科学総合研究センター)。大脳よりも小脳に多かったとは露知らず。そしてニューロンとニューロンをつなぐシナプスは1個につき1万箇所ある(生理学研究所)。ただし脳の状態をいくら調べたところで意識が解明されるわけではない。

何を意識の発生とするか


 私は意識発生のメカニズムを解く鍵は自己鏡像認知にあると考える。既に何度か書いてきたが、自己鏡像認知とは「相手の瞳に映る自分を理解する能力」と定義したい。「私」だけでは意識たり得ない。「私」を客観的かつ抽象的に捉える視点(メタ認知)こそが意識なのだ。

 しかしながら我々の日常生活は無意識で運転されている。

 車でいえば、教習所にいたときには、クラッチを踏んでギアをローに入れて……、と、順番に逐次的に学びます。
 けれども、実際の運転はこれでは危ないのです。同時に様々なことをしなくてはなりません。あるとき、それができるようになりますが、それは無意識化されるからです。
 意識というのは気がつくことだと書きましたが、今気がついているところはひとつしかフォーカスを持てないのです。無意識にすれば、心臓と肺が勝手に同時に動きます。
 同時に二つのことをするのはすごく大変です。けれどもそれは、車の運転と同じで慣れです。何度もやっていると、いつの間にかその作業が無意識化されるようになってくるのです。
 無意識化された瞬間に、超並列に一気に変わります。

【『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(PHP研究所、2007年/PHP文庫、2009年)】

論理の限界/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 例えば旅行に行くとしよう。行き先は意識的に選択するが、現地で何を見るかは条件反射的に行われる。すなわち何を見るかを我々は意識的に選べないのだ。五感は外界への反応に基いており、五感情報は一方的に受け取る性質を帯びている。

 意識が発生するのは違和感を覚える場合が多い。他者や世界を自分の外側に強く意識した時、自我意識が立ち上がってくるのではあるまいか。その意味で疎外感を知らない幼児が鏡像認知をできないのは当然である。もちろん国家意識も自我意識から芽生えたものだろう。

 瞑想が諸法無我の実践であるならば、シナプスの発火は止(や)み、自我は解体され宇宙に溶け込むのだろう。ジル・ボルト・テイラーがそう語っている。

あなたの知らない脳──意識は傍観者である (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)心の操縦術 (PHP文庫)


死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編

2014-04-07

大虐殺を見守るしかなかったPKO司令官/『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール


 以下は、1994年ルワンダで起こったことをめぐる私の物語である。それは裏切り、失敗、愚直、無関心、憎悪、ジェノサイド、戦争、非人間性、そして悪に関する物語だ。強い人間関係が作られ、道徳的で倫理的かつ勇敢な行動がしばしば描かれるものの、それらは近年の歴史の中で最も迅速におこなわれ、最も効率的で、最も明白なジェノサイドには太刀打ちできない。80万人以上の罪のないルワンダの男たち、女たち、子供たちが情け容赦なく殺されるのにちょうど100日が費やされたが、その間、先進世界は平然と、また明らかに落ち着き払って、黙示録が繰り広げられているのを傍観するか、そうでなければただテレビのチャンネルを変えただけのことだった。私の父や妻の父はヨーロッパの解放に手を貸した――その時、絶滅収容所の存在が暴き出され、声を一つにして人類は「二度とこんなことはさせない」と叫んだ。それからほぼ50年たって、私たちは、この言葉にできない惨事が起こるのをふたたび手をこまねいて見ていたのだ。私たちはこれをやめさせる政治的意志もリソースも見出せなかった。以来、ルワンダを主題にして多くのことが書かれ、つい最近に起こったこのカタストロフはすでに忘れられつつあり、その教訓は無知と無関心に埋もれている、そのように私は感じている。ルワンダのジェノサイドは人類の失敗であり、それはまた疑いなく繰り返される可能性があるのだ。

【『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール:金田耕一〈かなだ・こういち〉訳(風行社、2012年)】

武装解除 紛争屋が見た世界』で伊勢崎賢治を知った。伊勢崎の著作を数冊読み、ロメオ・ダレールを知った。

「私たちは大量虐殺を未然に防ぐ努力を怠ってきた」/『NHK未来への提言 ロメオ・ダレール 戦禍なき時代を築く』ロメオ・ダレール、伊勢崎賢治

 何と、映画『ホテル・ルワンダ』に登場した国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)の司令官であった。



 それから直ぐに以下の動画を見つけた。

ロメオ・ダレール、ルワンダ虐殺を振り返る

 ロメオ・ダレールは元カナダ軍中将であった。その彼が帰国後、自殺未遂をした。ダレールはルワンダという地獄に身を置きながら、国連の政治に翻弄された。彼は虐殺を見守るしかなかった。真の地獄は目撃者をも間接的に殺するのだろう。ダレールは生還した。ルワンダからも、自殺からも。タフという言葉はこの男のためにある。


 当時、第8代国連難民高等弁務官を務めたのは緒方貞子であった。

ルワンダ: Strings Of Life
特別対談 | 池上彰と考える!ビジネスパーソンの「国際貢献」入門 - JICA

 緒方に反省と悔恨が見えないのはどうしたことか。緒方もダレールを見捨てた一人ではなかったか?

 信じられるのは見捨てられ、傷ついた人間である。安全な位置や快適な空間にいる連中は信用ならない。戦争決定者が戦地へ赴くことはないのだ。紛争を支えるのは大国の無関心だ。彼らは原油やゴールドが埋蔵されていない地域には目もくれない。有色人種がいくら殺し合おうと知ったことではないのだ。

 この世界を肯定することは虐殺に加担する可能性がある。

なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか―PKO司令官の手記
ロメオ ダレール
風行社
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ストーリー展開と主人公の造形が雑/『流刑の街』チャック・ホーガン


 残金すべてでチップをはずむと、ブーツの紐をきつく締め、ナップザックをかついで、家までの長い道のりを走る。
 家はボストン南東のクインシーにあった。13キロ離れている。
 走ることは浄化であり、瞑想だった。物騒な地区のひび割れた通りに、厚いブーツの重い足音が響く。

【『流刑の街』チャック・ホーガン:加賀山拓朗訳(ヴィレッジブックス、2011年)】

 走る描写が好きだ。私が走らないせいかもしれない。飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉の『汝ふたたび故郷へ帰れず』に名場面がある。歩くことが一本足で前へ進むことなら、走ることは跳ぶ行為だ。

 主人公はイラクからの帰還兵だ。不如意な生活、うだつの上がらぬ日々が続いた。暴漢に襲われ、仮借のない反撃を加える。その後、見知らぬ男からオファーがある。男も元軍人であった。仕事内容は麻薬組織の襲撃で、軍隊時代を彷彿(ほうふつ)とさせる生き生きした生活が蘇った。ドン・ウィンズロウ著『犬の力』と似ているが、私はプロパガンダ臭がない分、本書に軍配を上げる。

 ただ、文章は素晴らしいのだがストーリー展開と主人公の造形が雑だ。実にもったいないと思う。序盤の硬質な緊張感が中盤からダレ始める。で、最終的には安っぽいパルプ小説になってしまった。主人公のニール・メイヴンにリーダーとしての資質はなくても構わないが、あまりにもヒーロー的な要素に欠けている。復讐も中途半端だ。ボスのロイスと麻薬捜査官のラッシュも見分けがつかない。

 などと散々文句を並べておいたが、警句を思わせる文章を味わうだけでも損はない。最近のミステリ作品挫折率を思えば、そこそこ良作だと思う。

流刑の街 (ヴィレッジブックス)

2014-04-06

今日、ルワンダの悲劇から20年/『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ


『ホテル・ルワンダ』監督:テリー・ジョージ
『生かされて。』イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン

 ・眼の前で起こった虐殺
 ・ジェノサイドが始まり白人聖職者は真っ先に逃げた
 ・今日、ルワンダの悲劇から20年

『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール
『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク
『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア
『それでも生きる子供たちへ』監督:メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、スパイク・リー、カティア・ルンド、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウー
『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス
『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ
『命がけの証言』清水ともみ

必読書リスト その二

 そのとき私は、悪魔がこの世に存在することを知った。たった今、その瞳と視線を交わしたところだった。
 シボマナはまず、私に寄りかかっていたヴァランスに切りかかった。従弟の血が降りかかる。シボマナが再び鉈(なた)を振り上げる。私は反射的に左手で、頭の前、額の辺りを守った。まるで父親に平手打ちを食らわされる時のように。敵が襲いかかってくる。刃が振り下ろされ、私の手首をぱっさり切り落とす。左手が後ろに落ちた。温かい濃厚な液体がほとばしる。私はその場にくずおれた。

【『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ:山田美明〈やまだ・よしあき〉訳(晋遊舎、2006年)以下同】

 20年前の今日、それは起こった。大虐殺に手を染めたのは警察でも軍人でもなかった。同じ町に住む隣人であった。ここにルワンダ大虐殺の恐ろしさがある。教会による断罪でもなければ、異人種による侵略でもなかった。迫害ですらなかった。かつて宗主国であったベルギーが分割統治するべく、身長や鼻の高さなどで二つの民族を創作した。それがツチ族とフツ族だった。ベルギーに続いてイギリスとフランスが手を突っ込む。80万人の大虐殺にはミッテラン大統領の子息も関与したとされる(『山刀で切り裂かれて ルワンダ大虐殺で地獄を見た少女の告白』アニック・カイテジ)。

 本書を読んだ時、私は45歳だった。「私を変えた本」は数あれど、この一書の衝撃に比するものはない。しばらくの間、精神的に立ち上がれなくなったほどだ。そして1年後にクリシュナムルティと邂逅(かいこう)する(クリシュナムルティとの出会いは衝撃というよりも事故そのもの/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ)。


 レヴェリアン・ルラングァは既に鼻を削がれ、左目を抉(えぐ)り取られていた。眼の前で家族を含む43人が殺された。シボマナは顔見知りの男だった。

 本書後半で地獄を見た男の内省は神への疑問と否定に向かう。同じように私は大衆部(大乗仏教)の因果応報思想と向き合わざるを得なくなった。ルラングァは養父と暮らすことになる。この養父の言葉がいぶし銀さながらの光を放っている。

「それは勇敢だな」
 ある晩、雪の小道で養父リュックにばったり出くわした。私が、この冷え切った暗闇を歩きながら幽霊を追い払おうとしていたのだと打ち明けると、リュックはこう言った。
「そうさ、怖がらないことが勇気なんかじゃない。恐怖に耐え、苦しみを受け入れることが勇気なんだよ」

 私にとってはパウル・ティリッヒ著『生きる勇気』1冊分以上の価値がある言葉だ。セネカ(『怒りについて 他一篇』)と同じ響きが感じ取れる。理解と寛容こそが本物の優しさなのだ。だがルラングァの懊悩(おうのう)は続いた。


 二人の間には敬意のこもった愛情が織り成された。私たちの間には、随分押し付けがましい物言いもあれば、歯に衣着せぬ言い争いもあったが、言葉と沈黙を通して私たちは一緒に歩んでいった。
 例えば今日の午後も、二人の対話は随分白熱した。彼には既に話したことがあるが、私は母が腹を切り裂かれるのを見た時から信仰を失っていた。だから、模範的な説教なんかして、あまり私をうんざりさせない方がいい。私たちに生を与えておきながら私たちを死に置き去りにした、わが少年時代の司祭たち。彼らの説教を思い出すと吐き気がする。

 白人の司祭(カトリックの指導者。プロテスタントは牧師)は真っ先に国外へ逃亡した。フツ族の司祭は教会の中でツチ族の少女たちを次から次へ強姦していた。神よ……。あんたはいつまで黙っているつもりなんだ?


「ある文化の中で、服従することが神聖なことだと考えられるようになれば、人は良心の呵責なく罪なき人を殺すことができる」
 精神科医ボリス・シリュルニックはこう答える。大戦当時子供だった彼は、両親が捕まった時見事に逃げ出すことに成功した(両親はアウシュヴィッツに送られて殺された)という経験の持ち主だ。
「服従によって、殺戮者は責任を免れる。彼らはある社会システムの一員であるに過ぎないからだ。そのシステムに服従して行う行為は全て許される」

 スタンレー・ミルグラムはアイヒマン実験を通してそれを証明してみせた(『服従の心理』スタンレー・ミルグラム/『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス)。権威者に判断を委ねた無責任が罪の意識を軽くする。集団は人間を手段として扱い、矮小化する。アイヒマンは裁判で「命令に従っただけ」と答えた(Wikipedia)。

 いじめも組織犯罪も大量虐殺も根っこは皆同じだ。「命令されたから」「皆がやってたから」という安易な姿勢が80万人を殺すに至ったのだ。たぶん人間には「社会の標準に位置すれば生存率が高まる」という本能があるのだろう。だが、そのまま何も考えずに進めば、やがて欲望に翻弄されて人類は滅びてしまう。現実に資本主義や新自由主義が発展途上国の貧困や餓死を支えているではないか。

 ルワンダも同様である。ジェノサイドの犯人はベルギーであり、イギリスであり、フランスだ。かの国の人々はルワンダを始めとするアフリカ諸国から奪うことで豊かな生活を享受した。このように考えると先進国の犯罪性を自覚せざるを得ない。日本の経済発展はそのすべてがアメリカの戦争に加担することで成し遂げられた。ま、戦争のおこぼれ経済といってよかろう。ツチ族を切り刻んだマチェーテ(大鉈〈おおなた〉)の大半は中国製であった。私の生活が実は何らかの形でルワンダにつながっているかもしれないのだ。


 35歳になったレヴェリアン・ルラングァの心には今どんな風が吹いているのだろうか。

 先ほどツイッターでルワンダの画層を紹介した。Bloggerには暴力表現の規制があるため貼りつけることができない。リンク先を参照せよ。

小野不一(@fuitsuono)/2014年04月06日 - Twilog



強姦から生まれた子供たち/『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク
ルワンダ大虐殺を扇動したラジオ放送
虐殺の光景
ルワンダ大虐殺の爪痕 - ジェームズ・ナクトウェイ
ルワンダの子供たち 1994年
ロメオ・ダレール、ルワンダ虐殺を振り返る