2014-05-03

保守はゴジラを夢見るか


 佐藤健志〈さとう・けんじ〉の演説口調(コミュニケーション障害か? 中野に話を振っておきながら自分のマイクを口元から離すことがない)が耳障りだがこれは勉強になる。中野剛志〈なかの・たけし〉はいつもより控えめ(笑)。結果的には佐藤が自分の主張のために中野を利用している格好となっている。中野がおとなしいのはそれを割り切っているためだろう。









国家のツジツマ 新たな日本への筋立て(DVD付きデラックス版) (VNC新書)震災ゴジラ!  戦後は破局へと回帰する保守とは何だろうか (NHK出版新書 418)

2014-05-02

アメリカを代表する作家トマス・ウルフ/『20世紀英米文学案内 6 トマス・ウルフ』大澤衛編、『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ


 トマス・ウルフ(1900-38)という男は、一言でいうなら、20世紀の開幕と同時にアメリカ南部の山国で生まれ、ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸を数回遍歴し、アメリカ生活の万華鏡と若者の飢渇を、噴きあふれる河のように書き、『天使よ故郷を見よ』、『時間と河』、『蜘蛛の巣と岩』、『帰れぬ故郷』の四大作その他をのこし、1930年代の、彼の同時代作家らがアメリカの喪失に陥っている時に、いち早くアメリカ発見に到達し、ナチス・ドイツ抬頭のころ、いわば、第二次世界大戦の前夜に、37歳の若盛りで死んだ、並外れたスケールの、不敵な、人生派作家である。
 この噴き井のような暴れん坊は、並外(はず)れたスケールに反比例して、いかにも短命だったと言わねばならない。静かな成熟とかおもむろな大成といったような作風の生まれる年輩まで、彼は生きのびなかった。このことをまず初めに忘れないでおこう。

【『20世紀英米文学案内 6 トマス・ウルフ』大澤衛〈おおさわ・まもる〉編(研究社出版、1966年)】


 書き手は他に福田尚造〈ふくだ・しょうぞう〉、酒本雅之〈さかもと・まさゆき〉、井出弘之〈いで・ひろゆき〉、田辺宗一〈たなべ・そういち〉、輪島士郎〈わじま・しろう〉、古平隆〈こだいら・たかし〉など。Wikipediaは「トーマス・ウルフ」という表記になっている。翻訳がいずれも古いため発音に寄り添って「トマス」となったものか。

「活字になった彼の書きもののうち、目ぼしい本11冊の合計数は、5009ページであり、もしこの全部を邦訳するとすれば、少なくともその2倍以上の印刷ページ面を占める分量となろう」とある通りどれも大冊だ。しかも発行が古いため活字が小さい。本書も同様である。

 何となく名前に聞き覚えがあったのだがそれはトム・ウルフであった。ブラッドベリの短篇で彼の名前を知り、興味が湧いたというわけ。

「この本を見なさい」と、ややあってから、フィールドはそれを持ちあげて見せた。
「これは一人の巨人が書いた本だ。その男は1900年にノース・カロライナ州アッシュビルに生れた。生前に、四つの長い小説を発表している。この男は、いうなれば、つむじ風だった。山を持ち上(ママ)げ、風を集めた。そして1938年9月15日ボルティモアのジョンズ・ホプキンズ病院で、ベッドのかたわらに鉛筆書きの原稿をトランクに一ぱい残して、結核で死んだ。結核というのは、昔の恐ろしい病気だ」
 一同はその本を見つめた。
『天使よ故郷を見よ』。
 フィールドは更に3冊の本を見せた。『時と河の流れと』『蜘蛛の巣と岩』『汝ふたたび故郷を見ず』。

【「永遠と地球の中を」/『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ:小笠原豊樹〈おがさわら・とよき〉訳(河出文庫、2011年/集英社、1978年/集英社文庫、1982年)】


 とある未来の大富豪がタイムマシンでトマス・ウルフを連れてこさせ、宇宙の様相を書かせようと目論むという内容のSF作品だ。一緒に収録されている「親爺さんの知り合いの鸚鵡」では名だたる作家がけちょんけちょんに書かれているので、このテキストは否応(いやおう)なく目を惹く。

 トマス・ウルフの翻訳は少なく、長篇だと『天使よ故郷を見よ』以外では、『汝故郷に帰れず』が刈田元司訳(1959年)と鈴木幸夫訳(1968年)があるのみ。飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉のデビュー作『汝ふたたび故郷へ帰れず』はひょっとしてトマス・ウルフからの影響があるのだろうか?


人類の戦争本能/『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ

2014-05-01

「浦島記」/『塔和子 いのちと愛の詩集』塔和子


 ・「浦島記」
 ・美しい言葉

「浦島記」と題した随筆から紹介しよう。

 私が島の療養所に入園したのは、昭和18年の6月、だから今日まで、およそ15年の島暮らしを続けている訳である。私達入園者の仲間がよく使う言葉の一つに、社会という言葉がある。それはもちろん私達の生活している島も社会の中の一角であることには間違いないのであるが、私達がその言葉を使うとき、私達はいつも活き活きと活動している島の向こうの世界と、消費面だけの生活を続けている療養所という異形の島を、厳然と、或いは、自嘲的に区別しているものである。この島に(ママ)療養を続けている誰でもがそうであるように、私は社会に憧憬と郷愁をもっている。その私が、一度だけその現実の対象である、社会の対岸の街の土を踏むことに望みをかけた美しくもかなしい願いが実現したことがある。
 それは5年程前の或る晴れた日、園内作業をしていたとき、同じ作業をしていた友達が作用の縫物をしながら、「いっぺん社会へ出てみたいな!」と言った。独言のようでもあったが、傍にいた私は大いに賛同した。それで日頃の悲願をその友に話したのである。ところが話はそれからとんとん拍子にその希望に対(むか)って進行し、遂に実現のはこびとなった。もちろんそれまでには、ややこしい手続や多少の嘘をまじえた理由を作らなければならなかったのであるが。

【『塔和子 いのちと愛の詩集』塔和子〈とう・かずこ〉(角川学芸出版、2007年)以下同】

「島の療養所」でピンときた人もいるだろう。塔和子はハンセン病患者であった。「13歳でハンセン病を発病、14歳で小さな島の療養所に隔離された苛酷な現実も、塔和子の豊かな命の泉を涸らすことはできなかった」と表紙見返しにある。言葉がやわらかい。だが、生を見据える眼差しには厳格さが光っている。

「いっぺん社会へ出てみたいな!」――印刷された文字が涙で歪んだ。彼女たちを島に隔離したのは「らい予防法」であった。

ハンセン病の歴史
日本のハンセン病問題

 ハンセン病は姿形を損なうことから人々に忌み嫌われ、永きにわたり強い伝染力があると誤解されてきた。

てっちゃん: ハンセン病に感謝した詩人

 彼らは「同じ人間」として扱われることがなかった。無知に基づく差別は今なお根強い。

「いっぺん社会へ出てみたいな!」という言葉に恨みは感じられない。むしろその明るさが彼女たちを島へ追いやった社会の残酷さを炙(あぶ)り出すのだ。

 一軒の呉服店の前に立ち止まった友達は「あんた此処で何か買うて行けへんかな」と言った。私はそのとき初めて自分が自由に品物を選んで買い物の出来ることに気付き、優越感に似た感動を覚えた。

 彼女の心の動き一つひとつを通して、我々がハンセン病の人々から何を奪ったかを知ることができる。

痛み

 世界の中の一人だったことと
 世界の中で一人だったこととのちがいは
 地球の重さほどのちがいだった

 投げ出したことと
 投げ出されたこととは
 生と死ほどのちがいだった

 捨てたことと
 捨てられたことは
 出会いと別れほどのちがいだった

 創ったことと
 創られたことは
 人間と人形ほどのちがいだった

 燃えることと
 燃えないことは
 夏と冬ほどのちがいだった

 見つめている
 誰にも見つめられていない太陽
 がらんどうを背景に

 私は一本の燃えることのない木を
 燃やそうとしている

 ハンセン病の人々は親の葬式も知らされなかった。それでも塔和子は、凍てついた生命の木を言葉の焔(ほのお)で燃やし続ける。

塔和子 いのちと愛の詩集

森見登美彦、大村大次郎、今枝由郎


 1冊挫折、2冊読了。

新釈 走れメロス 他四篇』森見登美彦〈もりみ・とみひこ〉(祥伝社、2007年/祥伝社文庫、2009年)/文学パロディなのだが実に香り高い文章である。古めかしい常套句がきちんと使われており、科白(せりふ)も戯曲のようにピシっと決まっている。ただし個人的には京都のバンカラ大学生が放つ雰囲気についてゆけず。冒頭の「山月記」のみ。

 27冊目『税務署員だけのヒミツの節税術 あらゆる領収書は経費で落とせる【確定申告編】』大村大次郎〈おおむら・おおじろう〉(中公新書ラクレ、2012年)/これはオススメ。大村は元国税調査官だけあって実に目が行き届いている。しかも読みやすい。前著の『あらゆる領収書は経費で落とせる』も読む予定だ。確定申告をしている人は必読のこと。税金の世界は一般的に考えられているよりもはるかに曖昧で、国税庁のデタラメがまかり通っている模様。

 28冊目『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(トランスビュー、2014年)/今枝は『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワールの翻訳者。予想以上に出来がよい。ブッダの言葉が脳の奥深くまで突き刺さる。敢えてブッダが説いたであろう「やさしい言葉」にした上で、大幅に割愛したのも功を奏している。中村元訳の前に読んでおくのが望ましい。

2014-04-30

ニューアルバム『ナイン・デッド・アライヴ - デラックス・エディション』(DVD付)ロドリーゴ・イ・ガブリエーラ



ナイン・デッド・アライヴ-デラックス・エディション-(初回生産限定盤)(DVD付)

ギャンブラーという生き方/『賭けるゆえに我あり』森巣博


天才博徒の悟り/『無境界の人』森巣博

 ・ギャンブラーという生き方
 ・プロ野球界の腐敗

『福本伸行 人生を逆転する名言集 覚醒と不屈の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編
『福本伸行 人生を逆転する名言集 2 迷妄と矜持の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編
『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六

 ギャンブル欲は、食欲・性欲・睡眠欲という人間の三大本能を凌駕(りょうが)する、といわれる。そうかもしれない。カシノのゲーム・フロアでは、寝食も忘れ、勝負卓に張り付いている亡者(もうじゃ)たちをよく見掛ける。
 わたしの知り合いは、月に一度、必ずラスヴェガスに行く。眠るのは、いつも往(い)き帰りの飛行機の中だけだそうだ。
「無泊四日で勝負する。一応なんか喰(く)ってるんだろうが、記憶にない」
 なんておっしゃる。
 それほど、博奕は面白い。集中できる。飽きない。
 逆に言えば、それほど、博奕は怖い。いや、怖いから面白くて集中できるのである。
 恐怖と快楽は、いつも背中合わせだ。

【『賭けるゆえに我あり』森巣博〈もりす・ひろし〉(徳間書店、2009年/扶桑社、2015年)以下同】

 名言が星の如く散りばめられている。森巣の奥方はオーストラリア国立大学教授のテッサ・モリス=スズキ。子息は15歳で大学へ入学し、18歳で大学院入りした天才児。で、本人は主夫業のかたわら世界各地のカジノ(※森巣は「カシノ」と表記)を飛び回って荒稼ぎしている。

 修羅場とはギリギリの選択を迫られる地点のことだ。それが商売であろうと博奕であろうとも。選択を誤った時に失うものが多ければ多いほど「賭ける」という要素が大きくなる。賭けるとは跳ぶことだ。達することができなければ奈落の底に転落する。

 臆病じゃないと、博奕で生き残れない。同時に、リスクを冒さないと、やっぱり死んでしまう。
 ――リスクを冒さないのは、最大のリスク。
 この矛盾の海の中で、浮いたり沈んだりしながら、顔が水面上に出た時に勝負卓を離れる。これが勝ち博奕だ。

 豪胆と臆病のバランスが生き死にを分ける。喧嘩と格闘技の違いは計算にある。これが孫子の「計篇」だ(『新訂 孫子』金谷治訳注)。臆病でなければリスクが見えない。見えないものは計れない。

 時に権力に対して鋭い一瞥をくれる。

 しかし人間は賭博をする。これは太古の昔からそうだ。博奕は人間の歴史とともに古いのではない。歴史以前からである。博奕は先史から存在した。
 ――賭けをする動物が人間である。
 と、19世紀のイギリスの作家は喝破(かっぱ)した。
 それゆえ、昔も今も法律で賭博を禁止しておけば、取り締まり当局には膨大な利権が転がり込むことになっている。
 ついでだから書いておくけれど、パチンコで勝ち、景品交換所で「特殊景品」を換金したなら、『刑法』賭博罪違反である。それが「黙許」されているのは、警察利権が絡むからなのだ。パチンコ台の許認可、プリペイド・カード、「特殊景品」金地金の製造および流通、景品交換所等のあらゆる部分で、警察関連企業に金が流れる仕組みとなっている。

「パチスロ」は新しい利権だった/『警官汚職』読売新聞大阪社会部

 読み物としては十分面白いのだが、唯一の瑕疵(かし)は年甲斐もなく下ネタ自慢を披瀝しているところ。下劣の自覚よりも自慢に酔う性根が透けて見える。

 最後にもうひとつ紹介しよう。

 このバカラという鬼畜のゲームには、語り継がれているエピソードが多い。
 もっとも有名なのは、自動車のシトロエン社のオーナーだったアンドレ・シトロエンが、当時としては先端技術を集めた最新の自動車工場をバカラの一手勝負で失ったエピソードだと思う。現在の貨幣価値に換算すると1000億円を超えるものを、わずか数十秒の勝負で、シトロエンは失ってしまった。
 場所はロンドンにあるクラブ形式のカシノだったが、もちろんこんな高額の一手勝負を受けるハウス(カシノ)は、世界中に存在しない。この時のシトロエンには、相手が居た。サシの勝負だったのである。
 相手の名を、ニコラ・ゾグラフォリスという。あだ名が「ニック・ザ・グリーク」。その名からわかるように、アテネ生まれのギリシャ人だ。ついでだが「ニック・ザ・グリーク」とのあだ名を持った著名な博奕打ちは歴史上二人居て、こっちはポーカー・プレイヤーじゃない方の「ニック・ザ・グリーク」である。この「ニック・ザ・グリーク」は、350枚までのカードなら、出た順序に従って記憶できたそうだ。そういった、伝説の博奕打ちである。
 そんな天才博奕打ちでも、「ニック・ザ・グリーク」はその生涯に、天国と地獄の間を73回往復したといわれた。
 バカラとは、そういう恐ろしいゲームである。

 平坦な道を歩む人生もあれば、屹(き)り立った山に挑む人生もある。私自身はギャンブルとは無縁だが賭ける行為は理解できる。尚、森巣が行うギャンブルは手数料が数パーセントの世界であって、日本の競馬・競艇・パチンコの類いをギャンブルとはいわない。

賭けるゆえに我あり(森巣博ギャンブル叢書2)

クリシュナムルティ『真理の種子』