2016-07-12

人間の営為が災害を増幅する/『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠


 ・人間の営為が災害を増幅する

『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦
『人が死なない防災』片田敏孝

 より豊かで快適な生活を求める人間の営為が、それまでそこにあった自然を変えていく。このようにして集積された自然に対する人為のインパクトが大きくなっていくと、反作用としての新しいタイプの災害が、次々と現われてくる。私たちは、それらに一つひとつ対応していかなければならないのである。いかに激しく自然が猛威をふるったとしても、そこに人間の営みがなければ災害はない。けれども、そこに人間の営みがあれば、とどまることなく不断に自然に働きかけるその営みそのものが、新たな災害の原因になりうるのである。効率化をはかるために、自然環境を無思慮に改造していくと、緩衝機能をうしなった大自然は、たとえわずかな変動であっても、それを増幅して私たちにかえしてくる。

【『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠(集英社新書、2004年)以下同】

 災害という概念そのものが人間の「勝手な都合」である。大地や海に悪意はないし、火や水に殺意があるわけでもない。人は死ぬ存在である。転んだり、血管が1本切れたり、餅が喉に詰まっただけでも死んでしまう。他人の死を呑気に眺めながら、自分の死を見失うのが我々の常である。

 文明は農耕に始まり、近代に至るまで治水の攻防が続いた。川の氾濫を防ぎ、ダムを造ることで水をコントロールし、居住地域を拡大してきた。経済の発展を支えるのは道路である。私が子供の時分はまだ舗装されていない道路があったが、現在は路地でもない限り、ほぼアスファルトに覆われている。線路や高速道路も日本中に行き渡っている。

 自然は長大な歳月をかけて少しずつ変化してゆくが、人間の営みは環境を一気に変えてしまう。抑えつけたエネルギーは蓄積する。自然を整備するという発想は人類の大いなる錯覚である。エントロピーは増大する。秩序は必ず無秩序へ向かうのだ。

 それだけではない。ライン河を筆頭にヨーロッパの国際河川では、19世紀より水運の便宜と洪水対策のため、河川の蛇行部分を削り、まっすぐにする“整形工事”が行われてきた。流に“遊び”がなくなったため、かつてはゆっくりと流れていた大河の流速が、それまでの2倍にもなってしまったのである。そして川岸を堤防で固めたことによって、流域の氾濫原が洪水時の貯水機能をうしなってしまった。加えて、森林の乱伐と道路のアスファルト舗装によって、大地の保水力に頼ることができなくなってしまった。そのため、降った雨が、猶予なしに河川に流れこむことになったのである。ドイツ、フランス、ベルギー、オランダなどを毎冬のように襲う大洪水には、このような人為的な原因が関わっている。河川の改修や護岸の整備など、本来は防災を目的にした行為自体が、逆に洪水の脅威を増幅してしまったのである。

 人類は平野を好む。土地が肥沃である上に住みやすい。日本の都市はどこも平野部にある。

Googleマップ

 北海道・四国・九州はドラッグせよ。

 人間が造った人工物は自然の循環機能を阻害する。そして時に手痛いしっぺ返しを食らう。

 東日本大震災の後に残ったものは瓦礫(がれき)の山と放射能であった。異変が起こっても自然はわずかな時間で修復する。人間がつくったものはゴミと化し、更なる人為を必要とする。

 防波堤や防潮堤よりも、津波の感知システムにカネを掛けるべきだろう。地震を予知することはできないが、津波は何らかの形で観測可能だと思う。

 後は逃げる能力を磨くだけだ。

人はなぜ逃げおくれるのか―災害の心理学 (集英社新書)

2016-07-10

ブッダ以前に仏教はない/『つぎはぎ仏教入門』呉智英


 ・ブッダ以前に仏教はない

『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英

 ところで、仏教のそもそもの宗祖は釈迦である。釈迦はその弟子や信徒たちと、どんな仏像を拝み、その前でどんなお経を唱えていたのだろうか。
 ちょっと考えてみよう。釈迦以前に仏教はない。覚(さと)りを開いて仏陀(ぶっだ)となった釈迦が仏教の宗祖だからである。イエス・キリスト以前にキリスト教はない。イエスの教えがキリスト教である。キリスト教では神父や牧師が信徒たちと十字架の前に額(ぬか)ずくけれど、イエス自らが使徒たちと十字架に額ずいたことなどありえない。十字架上にあるのはイエスその人だからである。これと全く同じように、仏陀釈迦が弟子や信徒たちと仏像を拝んだことなどありえない。釈迦以前に仏教はなく、仏像はないからである。

【『つぎはぎ仏教入門』呉智英〈くれ・ともふさ〉(筑摩書房、2011年/ちくま文庫、2016年)】

 気づくのは一瞬だ。「あ!」と思った途端に目から鱗が落ちる。少しずつ徐々に気づくということはない。呉智英〈くれ・ともふさ〉は儒者である。外側に立っていたからこそ仏教の本質が見えるのだろう。

 ブッダ以前に仏教はなく、イエス以前にキリスト教はない。言葉の限界性を思えば、悟りから発せられた言葉であったとしても、言葉そのものは悟りではない。

 念仏を発明した人は南無阿弥陀仏と唱えて悟ったわけでもないし、題目を編み出した人が南無妙法蓮華経と念じて悟ったわけでもない。

 ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)であるが、ゴータマ・シッダッタ(パーリ語読み/サンスクリット語読みではガウタマ・シッダールタ)以前にもブッダと呼ばれる人々は存在した。つまり悟りの道は一つではないのである。尚、イエスの実在については多くの疑問があり確かな証拠がない。

 理窟をこねくり回すのは悟っていない人々だろう。論者・学者は覚者ではない。ひとたび論理の網に搦(から)め捕られると、知識の重みに満足してニルヴァーナ(涅槃)から離れてゆく。

 教団が形成されると教義と儀式の構築に傾いてゆく。ブッダの教えはシナを経て日本に至り信仰へと変質した。お経を読み、仏像やマンダラを拝む宗教になってしまった。

 教義は死んだ言葉である。繰り返されるマントラ(真言)も生きた言葉ではない。

 言葉はコミュニケーションの道具である。真のコミュニケーションは自我を打ち消す。そして言葉を超えた地点にまで内省が深まった時、世界を照らす光が現れるのだろう。瞑想とは思考を解体する営みだ。

 教義を説く者を疑え。

つぎはぎ仏教入門 (ちくま文庫)

2016-07-09

エキスパート・エラー/『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦


『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠

 ・集団同調性バイアスと正常性バイアス
 ・エキスパート・エラー

『人が死なない防災』片田敏孝
『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ
『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

 9.11同時多発テロ事件発生時、世界貿易センタービルで勤務していたジョンソンさんのケースを見てみよう。55階のオフィスにはジョンソンさんを含め約10名のスタッフがいた。テロ発生後、彼らは、ビルの防災センターに電話をかけた。マニュアルでは災害や火災が発生したときは防災センターの指示に従うことになっていた。「我々はどうしたらいいのか」と尋ねると、警備員が出て「救助に行くから、待機していてください」と答えた。ジョンソンさんたちは待った。しかし煙がオフィスにまで迫ってきたので再度電話をすると「もう少し待ってください」。さらに煙は立ち込めて「これ以上ここにいるのは危険です」と言うと警備員は「それじゃ、すぐ非常階段で脱出してください」と言ったのだ。ジョンソンさんたちは愕然とした。直ちに脱出したがスタッフのうち4人は、命を落とした。自分たちで判断していれば、もう少し早く逃げていれば助かったと、ジョンソンさんは専門家の意見を信頼しすぎた自分を責めていた。
 一般の人は、専門家が指示するとそれを疑わず信じてしまう。【専門家の言うことだからと依存しすぎることを「エキスパート・エラー」という】。
 たとえ専門家といえども事故現場にいない以上、完全に正しい指示をくれるとは限らない。現場の情報は現場にいる人が一番把握しているはずである。だから、【生死に関わることは、自分の五感で確認した情報に基き、自分で意思決定をすることが重要】なのである。

【『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦(宝島社、2015年/宝島社、2005年『人は皆「自分だけは死なない」と思っている 防災オンチの日本人』改訂・改題)】

 ここでいうところのエキスパート(専門家)とは安全管理責任者・消防・警察などと考えてよい。彼らは「動くな」と指示する傾向が強い。ところが大規模災害の場合、災害の全容と動向を把握することは極めて困難である。9.11テロの場合、世界貿易センタービル・ツインタワーが崩落することは誰も予測し得なかった。根強い陰謀説があるのもこれが原因となっている。

 要は生きるか死ぬかという危機に際しては、専門家の権威を当て込むのではなく自らの責任で判断し、行動する他ないということだ。もちろんエキスパートですらエラーするわけだから、各人の判断も誤る可能性は高い。だが人生最後となるかもしれない選択を他人に委ねるか、自分が決めるかの差は大きい。

 韓国旅客船セウォル号沈没事故(2014年)でも「動かないで下さい。動くと危険です。動かないで!」(CNN 2014-04-17)との指示が再三に渡ってアナウンスされた。助かったのは直ぐ動いた人々だった。乗員・乗客 476人のうち295人が死亡する大惨事となった。そのうち250人が修学旅行中の高校生であった(海外「韓国・セウォル号から生還した高校生のクラス写真が切なすぎる…」)。

 災害に限らず専門家の言葉が当てになるのは平時のみである。経済学者やアナリストが経済危機を言い当てたことはない。専門家は事が起こった後で理屈をこねくり回すのが常だ。「わかったつもり」の専門家が一番怖い。

 タイトルにある通り、人は皆「自分だけは死なない」と思っている。我々は「自分が死ぬ」という前提で物事を発想することができない。文明は死から目を背け、死を忌避することで発展してきた。現代社会においては死を目撃することすら稀(まれ)である。死は病院に封印され、社会から隔離している。

 災害から学ぶといっても特別なことではない。日常生活の中から不注意を一掃することに尽きる。外へ出歩けば、いつ交通事故に遭ってもおかしくない。注意を払えば危険は至るところに見出すことができる。その意味で大東亜戦争を生き抜いた小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉(『たった一人の30年戦争』)や坂井三郎(『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子)から学ぶことは多い。

2016-07-08

集団同調性バイアスと正常性バイアス/『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦


『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠

 ・集団同調性バイアスと正常性バイアス
 ・エキスパート・エラー

『人が死なない防災』片田敏孝
『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ
『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン
『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

 実験を集計すると以下のとおりだった。(中略)
 つまり、【部屋に1人でいた場合は、全員が火災報知機が鳴ってからすぐドアを開けて何か起きていないか確認行動を起こしている。しかし、部屋に2人でいた学生は、1組だけが行動を起こし、ほかの部屋に2人でいた計6人は、火災報知機が鳴っても何の行動も起さず煙に気づいていから行動を起こしている】のである。食堂にいた学生に至っては3分の間、何の行動も起さなかった。
 避難が遅れた部屋に2人でいた学生に聞くと「多分誤報か点検だと思っていた。【まさか火災とは思わなかった】」がほとんどだった。これは食堂にいた学生たちも同じような答えだったが【「皆いるから大丈夫だと思った」】という言葉が付け加えられていた。

 緊急時、人間は1人でいるときは「何が起きたのか」とすぐ自分の判断で行動を起こす。しかし、複数の人間がいると「皆でいるから」という安心感で、緊急行動が遅れる傾向にある。これを【「集団同調性バイアス」】と呼ぶ。先の実験の食堂のように人間の数が多いと、さらにその傾向が強くなる。【集団でいると、自分だけがほかの人と違う行動を取りにくくなる】。お互いが無意識にけん制し合い、他者の動きに左右される。【自分より集団に過大評価を加えている】ことが読み取れる。結果として逃げるタイミングを失うことにもなりかねない。

【『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦(宝島社、2015年/宝島社、2005年『人は皆「自分だけは死なない」と思っている 防災オンチの日本人』改訂・改題)】

 山村は「防災心理を知っているか知らないか、その違いが生死を分ける」と訴える。本書を読んでいれば東日本大震災を生き延びることができた人々もたくさんいたに違いない。読みながら痛恨の思いに駆られた。災害心理学は新しい学問だが、認知科学に基づいており信頼性は高い。生存者の手記やインタビューの多くは愚行と偶然性に支配されていて読めたものではない。単なる僥倖(ぎょうこう)から他人が学べることは耳かきほどもあるまい。

 人は関係性の中で生きる動物であるため必ず他人からの影響を受ける。集団で生きることが進化的に有利であったとすれば集団に同調することは人間らしさといってよい。行列に連なり、流行のファッションを取り入れ、観光地を旅するのが大衆の姿である。納豆が健康によいとテレビ番組が告げれば、我々は慌ててスーパーに向かう。で、各店舗で納豆が品切れになった頃、番組の捏造(ねつぞう)が発覚するという寸法だ。

 日常会話においても同調は明らかで、話が合う人同士は微細な体の揺れ(ダンス)が一致している。特に若い女性に顕著で双方が頷き合いながら「そうそう」と語る場面を時折目にする。

 そして集団が大きくなればなるほど烏合の衆と化す。一人ひとりの役割が小さくなり無責任になるためだ。

「逃げる」という行為は非日常的である。そこに躊躇(ためら)いが生じる。日本人の場合、みっともないという価値観も混入する。一瞬の遅れが取り返しのつかない過ちとなる。

 加えて、非常時には「こんなことは起こるはずがない」と捉え、現実ではなくヴァーチャルではないかと考える【「正常性バイアス」】が働くことがある。韓国の地下鉄火災に巻き込まれた人々は口々に「まさか火災だとは思わなかった」「みんながじっとしているので自分もじっとしていた」と話していた。まさに、正常性バイアス、多数派同調バイアスに捉われていたものと思われる。

 韓国で起こった大邱(テグ)地下鉄放火事件(2003年2月18日)では立ち込める煙の中でじっと座り続けている乗客の姿が撮影されている。


 思考が日常の延長線上から抜け出ることは難しい。しかも五官が捉えるのは部分情報である。全体情報は神の視点に立たなければ見えない。スポイルされた空間は安心感を生む。東日本大震災ではクルマで逃げてそのまま流された人々が多かった。建物や乗り物が認知を歪める。大邱地下鉄放火事件では192人が死亡した(再現動画)。

 人間の知覚には歪み(バイアス)がある。集団同調性バイアスと正常性バイアスは何も災害に限ったことではない。人間関係が濃いコミュニティほどバイアスは強くなることだろう。例えば運動部のしごきや集団暴行、マルチ商法グループの暴走、宗教組織の反社会性など。またあらゆるハラスメントは距離の近い人間に対して行われる。

 異常な集団に身を置けば異常であることが正常となる。そして異常なコミュニティには必ず強い同調圧力がある。出来るだけ多くのコミュニティに所属することが望ましいが、もっと手っ取り早いのは異なる価値観を知ることである。その意味で人と会うことと読書は最大の武器となる。

春秋左氏伝』に「安(やす)きに居(お)りて危(あやう)きを思う。思えば則ち備え有り、備え有れば患(うれ)い無し」とある。備えるとは注意を払うことだ。災害心理学を学ぶことは、安きにいて危機を思うことに通じる。



「戦うこと」と「逃げること」は同じ/『逃げる力』百田尚樹