2016-10-15

電気を知る/『バーニング・ワイヤー』ジェフリー・ディーヴァー


『ボーン・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー
・『コフィン・ダンサー』 ジェフリー・ディーヴァー
『エンプティー・チェア』ジェフリー・ディーヴァー
・『石の猿』ジェフリー・ディーヴァー
・『魔術師(イリュージョニスト)』ジェフリー・ディーヴァー
・『12番目のカード』ジェフリー・ディーヴァー
『ウォッチメイカー』ジェフリー・ディーヴァー
『ソウル・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー

 ・電気を知る

『ゴースト・スナイパー』ジェフリー・ディーヴァー

 人は5000年以上前に電気というものを知って以来、畏怖と恐怖を抱いてきた。電気(electricity)の語源はギリシャ語の“琥珀”(こはく)だ。古代人は、樹脂の化石である琥珀をこすって静電気を起こしていたからだ。エジプトやギリシャ、ローマの川や沿岸地域に生息するうなぎや魚が発する電気に触れると体が痺れる現象は、西暦紀元のはるか以前に著された科学文献にもすでに詳しく説明されている。

【『バーニング・ワイヤー』ジェフリー・ディーヴァー:池田真紀子訳(文藝春秋、2012年/文春文庫、2015年)以下同】

 リンカーン・ライム・シリースの第9作で、『ウォッチ・メイカー』(第7作)の変則的な続篇である。系統としては『青い虚空』と同じくライフラインをコントロールするテロだ。犯人は送電システムを自由自在に操り、ニューヨーク市への送電を予告なしに50%削減することを要求する。

 ジェフリー・ディーヴァーの作品は謎解きに目を奪われると、どんでん返しというパターンが食傷気味になってしまう。ゆえに蘊蓄(うんちく)本として読むのが正しい。「電気を知る」と思えばこれに優る良書はない。

「人を死なせるには、何アンペア必要だと思いますか。交流電流で100ミリアンペア。それだけであなたの心臓は細動を起こす。あなたは死んでしまうんです。100ミリアンペアは、1アンペアのたった10分の1ですよ。電気店で売ってるごく一般的なヘアドライヤーは10アンペア消費する」
「10アンペア?」サックスはかすれた声で訊き返した。
「そうです。ヘアドライヤーの一つで。10アンペア。ちなみに、電気椅子も10アンペアで職務を果たします」

 その微量に驚かざるを得ない。尚、原文はどうあれ「一つで」の後は読点にすべきだろう。校正が甘い。

 人体は電気信号で動いている。脳波や心電図は電気活動を記録したものだ。神経とは「神気の経脈」の謂(いい)で日本語初の翻訳書『解体新書』(オランダ語『ターヘル・アナトミア』前野良沢〈翻訳係〉と杉田玄白〈清書係〉)の訳語である。

「気」が精神と物質との双方を包摂した概念であり、「気」は純度に応じ「精」「気」「神」に細分され「精」においては物質的、「神」においては精神作用も行うとされる。

Wikipedia - 精神

 気功の気も電気に通じているように私は思う(『気功革命 癒す力を呼び覚ます』盛鶴延)。

 都市機能を維持するライフラインは人体における神経や血管同様、密接につながり、滞ることがない。ライフラインの破壊を企てるテロは刺傷行為そのものだ。冒頭で犯人は「シビレエイのように」身を潜(ひそ)ませる。この一語に込められた諷意はソクラテスの賢さだ。被害者の動きは突然止まり、体が反り返り、ジュウジュウと音を立てながら黒焦げの死体と化す。西洋人であれば「神の怒り」を思わずにはいられないだろう。

 去る10月12日、東京で58万6000戸に及ぶ大規模停電があった。古くなった地下送電ケーブルの燃焼が原因で、35年前に設置された同型のケーブルは首都圏で1000kmもあるという。都市という名の巨人を支えているのは脆弱(ぜいじゃく)なインフラであった。東京オリンピック(1964年)前後に整備されたインフラが綻び始めたのは1990年代からで、広島新交通システム橋桁落下事故(1991年)、豊浜トンネル岩盤崩落事故(1996年)を皮切りに橋とトンネルが老朽に耐えられなくなった。「1930年代からインフラ建設が盛んになったアメリカでは、1960年代後半から、橋の事故が続発」(「橋の安全を考える」藤野陽三)した経緯を思えば、この国は「学ぶ力」を欠いていたと言わざるを得ない。介護の問題と全く同じである(『恍惚の人』有吉佐和子)。

「成熟しない社会」と言えばそれまでだが根はもっと深い。近代化の過程で克服し得なかったエートスが脈々と受け継がれているのだ(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹)。我が国では合理性が小集団の利益を意味する。明治維新以降、藩閥政治が始まり現在に至るまで村意識を脱却することがない。規制緩和は新たな利権を生むだけで古い構造はびくともしない有り様だ。戦前は武士道のエートスがあったが個人の領域にとどまっていた。そして歴史は既に改竄(かいざん)されている。

2016-10-13

東條英機首相暗殺計画/『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也


『北の海』井上靖
『七帝柔道記』増田俊也

 ・『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』関連動画
 ・東條英機首相暗殺計画

『VTJ前夜の中井祐樹』増田俊也
『木村政彦外伝』増田俊也

『武術の新・人間学 温故知新の身体論』甲野善紀
『惣角流浪』今野敏
『鬼の冠 武田惣角伝』津本陽
『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』木村達雄
『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之
・『ヤクザと妓生が作った大韓民国 日韓戦後裏面史』菅沼光弘、但馬オサム
・『ナポレオンと東條英機 理系博士が整理する真・近現代史』武田邦彦
・『黎明の世紀 大東亜会議とその主役たち』深田祐介

日本の近代史を学ぶ

 もし暗殺が決行され、木村が東條とともに死んでも、牛島も間違いなく逮捕されて死刑になっていただろう。だから牛島は木村に仕事を押しつけたわけではない。決行するには若い木村の方が成功率が高くなると考えていたのだ。天覧試合時にも木村だけにきつい思いをさせることは絶対になかった牛島だ。全国民を守るため弟子の木村もろとも玉砕の覚悟だったのだ。
 勝負師牛島は、国の大事に、絶対に成功させなければならない計画に、自身が最も信頼する超高性能の“最終兵器”木村政彦を選んだのだ。もし内閣総辞職があと数日遅れれば、木村が東條暗殺を決行し、人間離れした身体能力と精神力で間違いなくそれを成功させたであろう。日本史は大きく塗り替っていたに違いない。

【『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也〈ますだ・としなり〉(新潮社、2011年/新潮文庫、2014年)】

 第43回大宅壮一ノンフィクション賞、第11回新潮ドキュメント賞をダブルで受賞した作品である。『ゴング格闘技』誌上連載時(2008年1月号~2011年7月号)から話題騒然となった。ハードカバーは上下二段700ページの大冊である。単なる評伝に終わってなく、戦前戦後を取り巻く日本格闘技史ともいうべき重厚な内容だ。にもかかわらず演歌のような湿った感情が行間に立ち込めているのは、著者が七帝柔道の経験者であるためか。実際、増田は泣きながら連載を執筆し、「これ以上書けない」と編集者に弱音を漏らした。

 東條英機首相暗殺を計画したのは津野田知重〈つのだ・ともしげ〉少佐と木村の師匠・牛島辰熊〈うしじま・たつくま〉である。相談を受けた石原莞爾〈いしわら・かんじ〉が賛同した。東條英機は最悪のタイミングで首相となった。東條は陸軍大臣として対米開戦派であったが首相となって対米和平を強いられた。また性格に狭量さがあり敵対する人物を決して許さなかった。昭和天皇が後に「憲兵を使いすぎた」と東條を評したことも見逃せない。国家の舵取りが極めて困難な中で東條の負の部分が露呈したようにも感ずる。暗殺計画は青酸ガス爆弾を使うものだった。そして万一失敗した時に備えて木村政彦が用意された。言わば最終兵器といってよい。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

 表紙に配されたのは木村が18歳の時の肖像である。一見してわかるが「見せるための筋肉」ではない。鍛錬に次ぐ鍛錬から生まれた肉体が人間離れしており異形といってよい。木村に特定の政治信条は見受けられない。ただ師匠の命に従ったのだろう。ところが暗殺計画は東條内閣の総辞職によって実行されることはなかった。

 尚、東條英機については武田邦彦が「ナポレオン以上の英雄」と位置づけている。また菅沼本では力道山や大山倍達と彼らの祖国である朝鮮にまつわる記述があり、こちらも関連書として挙げておく。動画ページを既にアップしているがリンク切れが多いので再度紹介しよう。



2016-10-11

物語の再現性と一回性/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理


『物語の哲学』野家啓一
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・自爆せざるを得ないパレスチナの情況
 ・9.11テロ以降パレスチナ人の死者数が増大
 ・愛するもののことを忘れて、自分のことしか考えなくなったとき、人は自ら敗れ去る
 ・物語の再現性と一回性
 ・引用文献一覧

『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
『アメリカン・ブッダ』柴田勝家
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
『悲しみの秘義』若松英輔

必読書リスト その一

 では、その「物語」はどこから来るのか。近代の小説が「著者」という起源によって創出されるのに対し、「物語」は作者不詳だ。その起源は定かではない。物語はつねに、かつて誰かから聴いた話だ。そして、その誰かは別の誰かからその物語を聴いたにちがいない。(※アントン・シャンマース著『アラベスク』で)「ぼく」が語る物語が、かつてユースフ叔父さんが「ぼくたち」に語ってくれた物語であるように、幼いユースフ叔父さんもまた、別の誰かからそれらの物語を聴いたにちがいない。物語は、時と場合に応じて変幻自在に語られる。同じ物語がいつも同じように物語られるとは限らない。「ぼく」もまた、やがてそれらの物語を「ぼく」流にアレンジしながら、誰かに語り直すだろう。語られる物語のなかに、その物語を聴き、語り継いできた複数の語り手、複数の声が存在し、一つの物語には無数の物語が存在するのだ。

【『アラブ、祈りとしての文学』岡真理(みすず書房、2008年/新装版、2015年)】

 ブッダ、イエス、孔子はテキストを残さなかった。その理由を解く鍵がここにあると思う。

 視覚情報に特化した「文字」は温度を欠く。言葉に魂が吹き込まれるのは「語る」という行為を通して、声や表情・仕草をまとった時である。枢軸時代に人類の教師たちが語ったのは単なる理窟ではなく智慧であったはずだ。そして言葉は世代を超えて語り継がれ、社会の変遷に応じて変わってゆく。やがて思想体系としてまとめ上げられた瞬間に言葉はまたしても死んでしまう。今度は死んだ言葉が人間を束縛し、裁く。

「一人の高齢者が死ぬと、一つの図書館がなくなる」とはアフリカのある部族に伝わる俚諺(りげん)だ。口承文化は濃密なコミュニケーションを育んだが、知の蓄積は一生という時間内に限定されてしまう。コミュニティの範囲も部族を超えることはなかった。

 物語は人から人へ伝わる。画面や紙面越しのマス・コミュニケーションとは異なる。生の声と表情には温度・湿度・振動・匂いがある。そして相手の瞳に自分の姿が映っている。

 物語という遺伝子は話者に応じ時に応じて表現を変える。「一つの物語には無数の物語が存在する」――その再現性と一回性の交錯に物語の醍醐味があるのだろう。

 物語はやがて劇となり小説となり映画となり漫画となった。感動を通して自己の内部に規範が形成される。こう生きたい、かくありたいとのモデル(元型)が人を正す。

 我々は語るべき物語を持っているだろうか? 伝えずにはいられない衝動があるだろうか?

アラブ、祈りとしての文学 【新装版】

多田富雄、柳澤桂子、岸見一郎、古賀史健、原田伊織、長谷川熙、他


 6冊挫折、4冊読了。

貧乏はお金持ち 「雇われない生き方」で格差社会を逆転する』橘玲〈たちばな・あきら〉(講談社、2009年/講談社+α文庫、2011年)/橘本には当たり外れがある。これは外れ。

美と宗教の発見』梅原猛(ちくま学芸文庫、2002年/筑摩書房、1967年、『美と宗教の発見 創造的日本文化論』改題/講談社文庫、1976年集英社、1982年)/創価学会を批判した章だけ読む。力んでいる割には冴えない代物だ。

快楽(けらく) 更年期からの性を生きる』工藤美代子(中央公論新社、2006年/中公文庫、2009年)/『婦人公論』の連載記事。女性向けである。所詮、雑誌記事といった内容で深みがない。工藤はこのテーマを書き続けており、『快楽II 熟年性愛の対価』『炎情 熟年離婚と性』『百花繚乱 熟女が迎える生と性』などがある。

世界を騙し続けた[詐欺]経済学原論 「通貨発行権」を牛耳る国際銀行家をこうして覆せ』天野統康〈あまの・もとやす〉(ヒカルランド、2016年)/よくない。著者のブログを見たところ稲田朋美防衛大臣をカルトと断じていた。誰をどう評価しようと勝手だが、相手の前に立って言えないことを書くべきではあるまい。言葉よりも姿勢や態度にその人の本質が現れる。『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』を必読書から外した。

図説 日本呪術全書』豊島泰国〈とよしま・やすくに〉(原書房、1998年)/私が知りたいのは心象であって技法ではない。呪いは同じ精神的土壌でしか通じない。

しぐさの民俗学』常光徹(角川ソフィア文庫、2016年/ミネルヴァ書房、2006年『しぐさの民俗学 呪術的世界と心性』改題)/こういう本が文庫化されるのだからアベノミクスの効果は侮れない。最近ニュースになった股のぞきに関する記述あり。専門性の高い学術書。

 147冊目『崩壊 朝日新聞』長谷川熙〈はせがわ・ひろし〉(ワック、2015年)/良書。長谷川は1970年代の公害報道で名を成した朝日新聞のエース記者で、定年退職後『アエラ』で健筆をふるった。言わば内部告発の書である。感情を排し、冷静に糾弾している。ジャーナリズムの魂を見る思いがする。朝日新聞のオーナーである村山家・上野家にまで踏み込んでいないところが惜しまれる。

 148冊目『大西郷という虚像』原田伊織(悟空出版、2016年)/幕末・維新三部作の完結編である。読む順番を間違えた。原田の著作は感情が先立っているので注意を要する。人を悪く書くのだから当然後味はよくない。また何となくではあるが天皇陛下の位置を読み誤っている可能性があるように感じる。明治維新は飽くまでも尊皇という軸で動いていたのだ。徳川慶喜・勝海舟・岩倉具視に対する原田の厳しい評価はやや的外れである。

 149冊目『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII』岸見一郎、古賀史健〈こが・ふみたけ〉(ダイヤモンド社、2016年)/前作の『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』が100万部を超えるベストセラーとなり予定外の続篇が刊行された。「柳の下の二匹目のドジョウを狙う」で終わっていない。主筆は古賀と思われるが、文章がこなれ過ぎていて胡散臭い印象を免れない。才気に経験の重みがついていっていない。それでも説得力を失うことがないのはアドラーが実践(臨床)の人物であったためだ。「過去は存在しない」という時間論も仏教と共鳴する。

 150冊目『露の身ながら 往復書簡 いのちへの対話』多田富雄〈ただ・とみお〉、柳澤桂子〈やなぎさわ・けいこ〉(集英社、2004年/集英社文庫、2008年)/一度挫けている。読むのがあまりにも辛かったからだ。今回は一気に読み終えた。多田は脳血管障害で片麻痺となり言葉を失った。柳澤は30年以上も病に苦しんできた。一流の学者は一級の人物でもあった。知識と知性の違いを思い知らされた。一通の手紙に交情が通う。文中に季節の花々が舞い、苦悩を共有しながら互いを思いやり、労(いたわ)り合う姿に成熟した人間の姿が浮かび上がる。徐々に手紙を交わすペースが落ちてゆくのが痛ましい。死と隣り合わせにいる老人であるにもかかわらず強烈なエロスを発揮していることも見逃せない。それは肉欲としての性愛ではなく、男が女を想い女が男を立てるという姿勢に基づくものだ。多田は1934年(昭和9年)で柳澤は1938年(昭和13年)の生まれである。小林よしのりが指摘する少国民世代(『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』)といってよい。平和を希求する姿勢は尊いが、戦争に対する嫌悪感は底が浅いように感じた。本書は以前から「必読書」に入れてある。