自転車の教科書 ー身体の使い方編ー (やまめの学校)
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堂城 賢
小学館
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学校に着いたときには散々な気持ちになっていた。ずいぶん大変そうな顔をしていたに違いない。私の顔を見た守衛さんがびっくりして、どうかしましたかと訊いてくれたほどだ。事実、東京港を出発して南極に着いたぐらいの気分にはなっていた。
その日は、家に帰れば帰ったで、家人が「なんだってそんな顔をしているのよ」と言うのであった。夕方暗くなった環状7号線や青梅街道を、野方はまだか、高円寺はまだか、五日市街道はまだか、荻窪はまだか、とガタガタの歩道を尻の痛さをこらえながら我が家めざしてこぎまくる。あまりの痛さにそれではと車道に下りると、生意気な乗用車がすれすれに追い越してゆく。ひとの命のことなどすこしも考えない走りかただ。轟音をあたりに響かせて迫ってくる大型トラック、ぎりぎりに幅寄せしてくるいやらしい都営バスや関東バス。横丁からもいきなり自動車が鼻先をつき出してくる。ぎりぎりにセーフということが何度も生じる。男が一歩家を出れば外はすべてこれ敵なのだ。
私はトロイ戦争から帰ってきたオデッセウスの気持ちが分かった。あまたの修羅場をくぐり抜けやっと帰宅したのである。家に着いたときは朝出たときより10歳ぐらい年取ったような気がしていた。すこし顔が変になるぐらいは仕方なかった。気だって変になっていたかもしれない。しかし女というのは想像力が貧弱だからそういうことが理解できないようだった。
自転車乗りの第1日目は刺激的だった。命を落とすか落とさないかという1日だった。排気ガスをたっぷり吸って気絶した私とか、オートバイに跳ね飛ばされて10メートル先に墜落し、アスファルトの道路にピンク色の脳ミソを垂れ流して死んでいる私。そんな想像もつぎつぎ脳裏をかすめた。だがこれに懲りず、そのあとも天気さえ良ければ私は自転車で学校に行ったのであった。
【『こぐこぐ自転車』伊藤礼〈いとう・れい〉(平凡社、2005年/平凡社ライブラリー、2011年)】
過去の歴史を支配する者は、未来を支配することもできる。日本は先の戦争に敗れてから、自国の歴史を盗まれた国となってしまった。
歴史は記憶だ。記憶を喪失した人は、正常な生活を営むことができない。国家についても、同じことである。
【『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』加瀬英明〈かせ・ひであき〉(ベスト新書、2015年)以下同】
ルーズベルト大統領が中国を愛して、日本を疎(うと)んでいたことが、日米戦争の大きな原因となった。
ルーズベルトの母サラの父は、帆船(クリッパー)時代の清朝末期に、阿片貿易によって巨富を築いて、香港にも豪邸を所有していた。サラは少女時代に香港に滞在して、中国を深く愛するようになった。(中略)
多くのアメリカ国民が、中国をアメリカの勢力圏のなかにあると、みなしていた。
中国は、多くのキリスト教宣教師をアメリカから受け入れていたし、アメリカ国民が“巨大な中国市場”を夢みて、中国に好意を寄せていた。ところが、日本は市場が地位さすぎたし、伝統文化を守って、キリスト教文明に同化することを拒み、アメリカに媚(こ)びることがない、異質な国だった。(中略)
ルーズベルトはそれにもかかわらず、日本が中国を侵略したとみなした。(中略)
ルーズベルトは盧溝橋事件も、第二次上海事変も、日本が中国を計画的に侵略したと、曲解した。
日華事変は、日本から仕掛けたのではなかった。
戦後になって、日華事変は日中戦争と呼ばれるようになったが、日本も中国も、日米戦争が始まるまで、互いに宣戦布告をしなかった。事変と呼ぶのが正しい。
ルーズベルト政権は、日本がアメリカに対して、いささかの害も及し(ママ)ていなかったのにもかかわらず、日本を敵視した。(中略)
ルーズベルト政権は、中国へ惜しみなく、援助資金と、兵器、軍需物資を注ぎ込んだ。
多くのアメリカ国民が、蒋介石総統とその宋美齢夫人がキリスト教徒だったために、キリスト教国である中国が、異教の日本による侵略を蒙(こうむ)っているとみなした。
蒋政権はアメリカの世論を工作するために、アメリカのマスコミや、大学、研究所に、ふんだんに資金をばら撒(ま)いた。
翌年、シェンノートは大佐として、中華民国空軍航空参謀帳に任命された。
シェンノートは、蒋介石政権に戦闘機と、アメリカ陸軍航空隊のパイロットを、「義勇兵」(ボランティア)として、偽装して派兵する案を、ルーズベルト政権に提出した。ルーズベルト大統領はこの提案を、ただちに承認した。
これは、重大な国際法違反だった。シェンノートの航空機は、機首に虎の絵を描いていたので、「フライング・タイガース」として知られた。アメリカが戦闘機を供給した。中国の「青天白日」のマークをつけて、アメリカの「義勇兵」が操縦する「フライング・タイガース」は、アメリカで大きく報道された。
何故、日本人は戦争を選んだのでしょうか。驕っていたとの批判は甘受しても構いません。何故に、日本人は戦争を選んだのでしょうか。この問いこそが重要です。
戦争を選択した日本側の動機を探っていく上で極めて参考になるのが、昭和天皇の御指摘です。
昭和天皇は、独白録の冒頭で、「大東亜戦争の原因」について次のように指摘しています。
「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在している。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず。黃白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない。」
(『昭和天皇独白録』文藝春秋)
昭和天皇は、大東亜戦争の遠因が、第一次世界大戦の平和条約、すなわちベルサイユ条約の中に存在していることを指摘しています。そして、国際連盟設立の際に日本が主張して、アメリカ、イギリスによって退けられた「人種平等案」について言及しています。さらに、アメリカのカリフォルニア州における排日移民法の存在についても言及しているのです。
ここで昭和天皇が指摘しているのは、一言でいえば「人種差別」の問題です。昭和天皇は「人種差別」こそが大東亜戦争の遠因であったと指定記してえいるのです。
大東亜戦争と人種差別。
普段、意識されることの少ない組み合わせなのではないでしょうか。
何故に、大東亜戦争が人種差別と深く関わっているのか。それは、大東亜戦争が、「人種平等」という理念を掲げた戦争であったからです。「侵略戦争」というイメージが先行する大東亜戦争ですが、当時の日本人が掲げた大義は「人種平等」だったのです。
【『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温〈いわた・あつし〉(彩図社、2015年/オークラNEXT新書、2012年『だから、日本人は「戦争」を選んだ 』改訂改題)】
現在の日本には、さまざまな問題があふれかえっています。
10年来の不況、財政破綻(はたん)、陰惨(いんさん)な少年犯罪、学級崩壊、自国民を拉致(らち)されても取り返さない政府……実はこうした問題の原因をたどっていくと、すべては憲法に行き着くのです。
現在日本が一種の機能不全に陥(おちい)って、何もかもうまく行かなくなっているのは、つまり憲法がまともに作動していないからなのです。
こんなことを言うと、みなさんはびっくりするかもしれませんが、今の日本はすでに民主主義国家ではなくなっています。いや、それどころか近代国家ですらないと言ってもいいほどです。
憲法という市民社会の柱が失われたために、政治も経済も教育も、そしてモラルまでが総崩れになっている。これが現在の日本なのです。
では、なぜ日本の憲法がちゃんと作動しなくなったのか。
その理由は憲法学そのものにあると、私は考えます。
たしかに大学の法学部に行けば、そこでは憲法の講義が行われています。しかし、その中身はといえば、要するに司法試験や国家公務員試験を受験するためのもの。憲法の条文をどのように解釈すれば、試験に合格できるかが講じられているに過ぎません。こんな無味乾燥(むみかんそう)な「憲法学」に誰が興味を持つでしょう。こんなことで、誰が憲法に関心や理解を示すでしょう。(まえがき)
【『日本人のための憲法原論』小室直樹(集英社インターナショナル、2006年/集英社インターナショナル、2001年『痛快!憲法学 Amazing study of constitutions & democracy』改題、愛蔵版)】