2018-09-14

ヨーロッパは苛烈な力と力の世界/『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編

 ・ヨーロッパは苛烈な力と力の世界

『敗者の条件』会田雄次
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

キリスト教を知るための書籍
日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

目次

 一 力と力の世界
 二 ベルリンに住んで
 三 古都めぐり
 四 中世のおもかげ
 五 カトリック地方
 六 ダハウのガス室
 七 人民にとっての東と西
 八 東の人々
 九 ドイツ問題解決への提案
 十 壁がきずかれるまで
 十一 神もいる、悪魔もいる
 あとがき

【『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄(文藝春秋新社、1963年)以下同】

「じつにヨーロッパは苛烈な力と力の世界である! それはわれわれには想像がむつかしい」
 私は西ベルリンのティアガルテン公園のベンチに坐って、あたりを見廻しながら、よくこう考えた。目の前に、白いジャスミンの花が垂れている。
「われわれ日本人には、人間性がこのように非情でありうることは考えられない。われわれは人間をもっとおだやかな醇化されたものだと思っている。一つにはこれがあるので、日本で行われる世界理解は見当がちがうのだろう」
 ちかごろ人々はナチス映画を見て、その惺惨な歴史におどろいているが、ああいうことはヨーロッパ人にとっても十分不可解ではるのだが、しかしわれわれにとってほど不可解ではないだろう。私はあの事実を比較的はやくに知ったが、それを人に話しても、日本人は、「そんなことが起りうるものか。それはデマだ。お前の妄想だ」とて、信用する人はいなかった。また、「壁」ができるまでベルリンを通って毎月200万人の人間が逃亡していたのだが、その事実を報告しても、すべてを善意から解したがる人々は、「そういうことを考えるのは後向きである」とて、意識から排除してうけつけない。

剣と十字架 竹山道雄著作集5』林健太郎、吉川逸治監修(福武書店、1983年)は、一、二、六、七、八の抄録で、『 スペインの贋金 竹山道雄著作集2』(福武書店、1983年)には二が収録されている。更に、『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』平川祐弘編(藤原書店、2016年)は、一、二、六、七、十、十一、あとがきの抄録となっている。カバー装丁は神野八左衛門。表紙にはラファエルの絵が配されている。

 日本人は諍(いさか)いがあっても「水に流す」ことができる。なぜか? 国土の水が清らかだからだ。このことも私は竹山道雄から教わった。歴史上の内戦における死者数も少ないのが特徴で万を超えることは滅多にない。島原の乱3万7000人、織田信長の第三次長島侵攻2万1000人というあたりが最多で、西南戦争でさえ双方7000人である。

 一方ヨーロッパは土地が貧しく水が汚れている。多量のビールやワインを飲むのも水の汚れに由来するといわれる。欧州域内における戦争の死者数は数百万単位である。三十年戦争の死者数は400万人でドイツの人口は激減した。ナポレオン戦争の死者数は約500万人である(図録▽世界の主な戦争及び大規模武力紛争による犠牲者数)。第一次世界大戦の死者数が1600万人で第二次世界大戦が5000~8000万人である。つまりヨーロッパの戦争を歴史的に俯瞰(ふかん)すれば近代戦争に匹敵する死者を出していることがわかる。

 土地が貧しいゆえに寒冷化が激しくなると人々が移動する(ゲルマン人の大移動)。水は世界中どこでも紛争の種となっている。井戸を巡る殺し合いは各地であった(日本においても水利権〈すいりけん〉はあまりにも複雑で政治が手をつけることができない)。更にヨーロッパではキリスト教の正義が殺戮(さつりく)を後押しする。異教徒を殺すのは神の命令であり宗教上正しい行為と見なされる。日本人の感覚でいえば害虫駆除に近いのだろう。

 一番わかりやすいのは「アメリカ大陸発見」の歴史である。数千万人のインディアンが暮らしていたにも関わらず欧州白人は「発見」と位置づける。発見したわけだから発見以前の歴史は無視される。ところがインディアンはおとなしくなかった。彼らは勇敢に戦った。そして殺された。殺しすぎて人手が足りなくなった。ヨーロッパ人はアフリカ大陸から黒人を奴隷として輸入した。勇敢な者は殺され、友好的な者は奴隷にされる。これが歴史の真実だ。憲法9条信者はよくよく歴史を見つめるべきだ。

 日本に長らく祟(たた)り信仰があって、討ち取った敵将を神として祀(まつ)る習慣があった。ヨーロッパ人には想像もできないことだろう。この他、「一寸の虫にも五分の魂」「一視同仁」「盗人にも三分の理」「弱きを助け強きをくじく」「判官贔屓」(ほうがんびいき)、「天は人の上に人を作らず」(福澤諭吉)などの文化が底流にあり、理よりも情に重きを置く伝統が流れている。

 日本人であれば「何もそこまで」と思うところを徹底して「そこまで」行うのがヨーロッパの流儀である。ナチスドイツによるジェノサイドも、アメリカによる東京大空襲・原爆投下もその背景にはキリスト教文化が脈動している。近代においては社会主義・共産主義国での粛清や失政の犠牲者は数千万人単位であることが判明しているが、共産主義そのものがキリスト教文化から派生したものでキリスト教由来と考えてよい。

 ヨーロッパの植民地と日本の植民地を比較すれば万人が日本を支持するのは間違いない。日本は大幅な国家予算を割いて植民地のインフラを整備し、帝国大学を設立し、医療を充実させ、相手国の文化を保存する事業を行った。日本は一視同仁の思いで植民地政策を行った。

剣と十字架―ドイツの旅より (1963年)
竹山 道雄
文藝春秋新社
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ペダリングの悟り


中高年初心者は距離よりも時間を重視せよ

 ・ペダリングの悟り

ペダリング革命の覚え書き

 恐るべきスピードである。彼はペダルと一緒に交通ルールをも踏みつける。きっと小さな政府を望む自転車新自由主義者なのだろう。アメリカにはこの手の愚か者が多い。時折、後輪をドリフトさせているのはシングルスピードの固定ギアでブレーキが付いてないためだ。見た感じだと時速50kmくらいか。決して真似をしないように。


 どんなスポーツでもそうだが経験者は素人を一瞬で見抜く。野球であればバッティングにおけるドアースイングやゴロに対するグラブさばきなど。経験者は壁から腕一本分のスペースがあればバットを振り抜けるし、ゴロを捕る場合はグローブを下から上に動かしてキャッチする。バレーボールならスパイクでドライブ(前回転)を掛けているかどうか。こうしたプレイは一朝一夕で身につくものではない。コツコツと練習を積み重ねて、ある瞬間に突然できるようになるのだ。その意味から申せばスポーツの技術は徐々に上達する代物ではなく、階段を上がるように急上昇するものである。

 ブレイクスルー(突破)を経験すると概念が変わる。ま、パラダイムシフトといってよい。このため私はスポーツを始める際は概念を掴むことを最優先している。最近だとバドミントンのスマッシュで行う回内運動がまさしく「概念」に相当する(回内運動のコツ)。

 自転車にも当然概念があるに違いない。私はそう睨(にら)んだ。乗り始めてから1ヶ月半を経過したがこの間、書籍に当たりホームページやブログを参照し続けた。プロだから説明能力が高いとも言えないし、ネット情報は些末(さまつ)な内容が多すぎる。時に全く相反する主張に遭遇することも珍しくない。例えば骨盤を起こすのか寝かせるのかなど。

 人類は動物であり、歩いたり走ったりする機能はDNAに刻み込まれている。しかし、ペダルを「回す」機能は本来もっていない。この地上で脚を回して移動する動物は、多分人間だけではないだろうか。つまりペダリングは本来もって生まれた運動能力ではなく、技術として身につけなければ習得できないのである。

瀬戸圭祐の 「快適自転車ライフ宣言」 3-2)心臓と肺で走る!ペダリングの極意【ファンライド】

 私のような素人が湖を目指して山道を70kmも走っていると疲れ果ててこの世の全てがどうでもよくなってくる。「生きてる意味? そんなものねーよ」と言いたくなる。コース選択の誤りを後悔する気力も残っていない。ただペダルを踏むだけの苦しい作業が続く。脚力がないのは当然なんだが、それ以前の非効率があるはずだ。でね、遂に見つけましたぜ。

 ペダリングは足裏の泥をこそげ落とすように……ペダリングは膝関節を動かす筋肉よりも股関節を動かす筋肉で行う方がいい(以下略)

難しい事は抜きにして、とにかく太ももで漕げ! : 自転車コギコギ日記

 読んだ瞬間に頭の中で電球が灯(とも)った。立て続けにネット上を調べてゆくと「腸腰筋の使い方」というのを見つけた。

 次に右の写真のように太腿の付け根から手のひら1つ分くらい膝寄りに手を置いて脚が上がらないように押さえつけます。そして脚を持ち上げるように力を入れてみてください。・・・そうすると大腿四頭筋ではなく脚の付け根の部分の筋肉を使ってませんか?多分それが腸腰筋を使ってるんだと思います。

ヒルクライム対策の効果が出た。グランフォンド軽井沢に完勝してきた! | Fertile-soil

 これまたピンポーンと脳内で音が鳴った。私はサンダル履きなので引き足は関係ないのだが腸腰筋を意識することは可能だ。時折、大腰筋の筋トレも行ってきた(『寝たきり老人になりたくないなら大腰筋を鍛えなさい』久野譜也)。

 プロ選手のふくらはぎが細いのは、ふくらはぎを使っていないためです。つまり、ふくらはぎは自転車のペダリング力を生み出す主な筋肉ではないということです。

自転車のペダリングのやり方でふくらはぎが変わる!? | BICYCLE POST

 やはり私のペダリングは間違っていた。ふくらはぎだけボディビルダー状態だよ。

 森本誠師匠に助けを乞うたところ、バスケットボールでドリブルしろとの事。ドリブルのボールを弾くタイミングが、ペダルに力を入れるタイミングだと言うのだ。しかも力を入れるのは一瞬で良いと。

「ペダリングは1日にして成らず」 “39.3%”のどん底からの復活劇 - cyclist

 ロードバイク歴5年の人のペダリング効率が39.3%という衝撃の事実に腰を抜かした。

 これを別のイメージに翻訳してみると,ちょうど,子どもが座ったブランコを後ろから押すのと同じイメージだと思います。

ペダリング考察 ── 踏むのは一瞬でいい? - ロードバイクの理科的考察

 絶妙なアシスト記事だ。

「つま先を押し下げるようにペダリングすると、ふくらはぎを介してパワーが失われてしまいます」と彼は指摘する。「足首を固定して、かかと、あるいは足の裏でペダルを押し込むことで最大のパワーを伝えることができるのです」

今すぐヒルクライムが速くなる6つの方法

 これまた目から鱗(うろこ)が落ちる。私は拇指球(ぼしきゅう)でふくらはぎをギンギンに張らせながら漕(こ)いできた。

 見よ、これが情報のブレイクスルーである。探し求めていた答えが一つ見つかると次々と必要な情報が現れるのだ。

 早速、次の日にまずエアロバイクで試みた。リカンベントタイプなのだが明らかに感覚が変わった。確かによく回る。そして登坂の土踏まずペダリングもやってみた。負荷を強くしても踏める。ふくらはぎの負担が少ないとこうも違うものか。面白くてどんどん負荷を上げていった。

 帰宅すると脚が疼(うず)いた。新しい感覚を忘れたくなかった。少しばかり走ろう。まず、泥こそぎペダリングだが足を前方向へ動かすことで1時の位置でペダルを捉えられるようになった。そして膝が高く上がることで股関節の動きを実感できる。サドルの位置が低いことまで体感した。もはや昨日までとは異なる新しい世界が開けた。ペダリングの悟りといってよい。

 次に土踏まず登坂(とうはん)である。確かに楽だ。ふくらはぎに力が入らないためだ。踵(かかと)ペダリングも試した。筋肉ではなく骨で踏む感触が強い。小雨が降ってきた。いつもは避ける坂を通って帰路に就(つ)く。そのままの勢いで近所の短い激坂(たぶん20%超)に向かった。後輪のスリップに注意しながらゆっくりと登った。難なく登りきった。

 高々10km余りの距離であったが、私の自転車人生は新しい段階に突入した。脳と身体(しんたい)に新しい神経回路が構築された。

 引用した記事のサイクリスト諸兄に満腔(まんこう)の感謝を捧げる。

2018-09-11

中高年初心者は距離よりも時間を重視せよ/『サヴァイヴ』近藤史恵


『サクリファイス』近藤史恵
『エデン』近藤史恵

 ・余生をサドルの上で過ごす~55歳の野望

  ・中高年初心者は距離よりも時間を重視せよ

 ・ペダリングの悟り

・『キアズマ』近藤史恵
・『スティグマータ』近藤史恵
・『逃げ』佐藤喬

 もちろんこの程度の坂で速度が変わることもなく、足が乱れることもない。だが、感触の違いは脚に伝わってきて、それがおもしろい。徒歩ならば気づかないことが、自転車に乗っていればわかる。
 ロードバイクに乗り始めて、すでに10年以上経つ。今では、歩くよりも、ただ立っているよりも、自転車の上にいる方が楽だ。そう言えば多くの人は驚く。
 身体が自転車によって変えられるのだ。自転車に、乗る人間の癖がつくのと同じことだ。歩くのに必要な筋肉は次第に衰え、ペダルを回す筋肉だけが発達してくる。

【『サヴァイヴ』近藤史恵〈こんどう・ふみえ〉(新潮社、2011年/新潮文庫、2014年)】

 昨日は大山を目指したのだが雨に祟(たた)られて途中で引き返してきた。「裏切りの天気予報」というタイトルが浮かんだ。1時間ほどコインランドリーの軒下で雨宿りをしていたのだが、時折私は大山目掛けて大きく息を吐いた。ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を引き起こすなら、私の吐息が大山の雲を払うことも十分あり得ると考えたのだ。雨は強くなるばかりだった。多分山の反対側で誰かが息を吐いているのだろう。帰宅すると中華サイコンが成仏していた。

 伊東の川奈に富士急が開発した別荘地がある。海越しに小さい三角形の山がきれいに見える。道往く人に訊ねたところ、「あれは大山ですよ」と呆れ顔で答えた。私は胸の内で呟いた。「大山はのぶ代と倍達〈ますたつ〉しか知らねーよ」と。後日、江戸時代にはお伊勢参りに次いで関東で人気の高い山だったと物の本で読んだ気がする。

 今日も時間があったので再び大山を目指した。家を出てから道順を記したメモを忘れたことに気づいた。神奈川の県央地域は道路が入り組んでいる。マッカーサーが厚木飛行場(綾瀬市、大和市)から日本入りするためにこの界隈は爆撃を免れているという話がある。地図かメモがなければ辿り着くことは難しい。意外と起伏に飛んでいて山の姿も直ぐに見えなくなる。きっと山の神に嫌われているのだろう。

 中高年初心者は距離よりも時間を重視せよ、と申し上げたい。っていうか私が現在心掛けていることだ。距離を目標にするとどうしても疲れる。しかも私は山の中を走ることが多いので遭難しかねない。いや、ホントの話ですぜ。チューブ交換で済む程度のパンクならどうってことはないが、タイヤが破損したり、衝突でホイールが変形したり、クルマにひき逃げされたりした暁には徒歩で数十kmの道のりを歩く羽目となる。私は夜のサイクリストなのだ。

 ロードバイクを買う前から私の心はなぜか湖を目指していた。宮ヶ瀬湖、津久井湖、相模湖を制覇してわかったのだが、私が求めていたのは湖ではなくせせらぎの音だった。湖の近くを走っているとどこからともなく水の流れる音が聞こえてくる。生命を支えているのは水と空気だ。苦しみながらペダルを踏んでいると生きる実感が湧いてくる。

 しかも湖付近には必ず道がある。地図を見ていて不思議に思ったのだが多分湖が山の中でも低い位置にあるためなのだろう。それに気づいた瞬間、私の興味は峠に向かった。つまり地図で波打っている道路に注目したのだ。まあ、あるわあるわ。いくらでもある。日本の国土の7割は山間部といわれるのだから当然だ。一生困らないほど峠道はある。

 坂道をじっくりと登ることで脚力がつく。衰えつつある体に鞭を打ち、念仏を唱えるように「踏む、踏む」と呟くと、「不無、不無」という瞑想の境地に至る。更には「クランクを回せ、回せ」と念じていると「輪廻」(りんね)の文字が頭を支配するようになる。凡夫ゆえ転法輪(てんぽうりん)とならないところが悲しい。

 ひと月半ほどで700km走った。ふくらはぎの筋肉は造形が変わり、心拍は20近く減った。

 本書は短篇集で『サクリファイス』以前の物語も描かれている。最初に読んでも問題はない。

サヴァイヴ (新潮文庫)
近藤 史恵
新潮社 (2014-05-28)
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2018-09-10

「戦うこと」と「逃げること」は同じ/『逃げる力』百田尚樹


 ・「戦うこと」と「逃げること」は同じ

 逃げることが積極的な行為であることは、次のことからもいえます。「戦うとき」は脳内にアドレナリンが放出されることはご存知だと思います。アドレナリンは動物が敵から身を守るときに、副腎髄質(ふくじんずいしつ)から分泌されるホルモンで、運動器官への血液供給増大や、心筋収縮力などを引き起こします。
 実はこのアドレナリンは「戦うとき」だけではなく、「逃げるとき」にも分泌されるのです。つまり生命にとって、「戦うこと」と「逃げること」は同じなのです。両方とも、命を守るための行動を起こすときに分泌されるものなのです。英語でアドレナリンのことは、「fight-or-flight」(闘争か逃走か)ホルモンと呼ばれるのはそのためです。
 つまり、逃げたほうがいいのに逃げられないでいるということは、アドレナリンが分泌されにくい状態になっているともいえます。これは危険なことです。

【『逃げる力』百田尚樹〈ひゃくた・なおき〉(PHP新書、2018年)】

 学校や職場でのいじめを苦に自殺する人が後を絶たない。ハラスメントとは「嫌がらせ」の意であるがカタカナ語にすることで暴力性が薄められているような気がする。「いじめ」、あるいは「心理的暴行」とすべきだろう。

 まず、暴力に対する耐性を培う必要がある。弱い者いじめは絶対に許さない。やられたら必ずやり返す。これだけ教えれば小学生なら何とかなる。あとは友達が多ければ心配ないが、少ないとなると何か考える必要がある。ゆくゆく行き詰まることが見えれば、武道や格闘技を習わせるのも一つの手である。

 親子の間で腹蔵なく話し合える関係性があれば、子供は悩みを打ち明けることができる。学校でのいじめ問題は30年ほど前から顕著になっているのだから、親としては備えておくのが当然である。子供にとっては学校が世界の殆どを占めている。そこから「逃げ出す」可能性を想像することもできない。だから、いつでも「逃げられる」ことを教えておくべきなのだ。

 私にとって本書は必読書ではないのだが、やはり多くの人々には有益だと思って必読書に入れた(※教科書本に変更した)。

 私の場合、自殺する可能性はまずないのだが他殺に及ぶ心配がある。幼い頃から異様に正義感が強く、困っている人を放って置くことができない。悪い人間を見れば遠慮会釈なく攻撃する。もしも知り合いの中にいじめを苦に自殺を考える者がいれば、私は迷うことなくいじめた相手に制裁を加える。それゆえ、悪い人間を見たら近づかないようにしている。つまり「逃げて」いるのだ。

「逃げる力」という言葉で思い出さずにいられないのは、やはり東日本大震災である。膨大な数の動画を繰り返し見ては、いざ我が身に降り掛かった場合を想定した。そして普段の生活にあっても「集団同調性バイアスと正常性バイアス」(『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦)を排除するよう心掛けている。

 戦っても勝ち目がないとわかっていれば逃げた方が早いのだ。特に組織の中では喧嘩のやり方を知らないと後々大変な目に遭う。悪い上司がいたら、2~3発殴って、速やかに辞めるのが正しい。



カルマの仕組み/『自動的に夢がかなっていく ブレイン・プログラミング』アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ

わかりやすいニュース解説を求める「池上彰」化/『ジャーナリズムの現場から』大鹿靖明


 ・わかりやすいニュース解説を求める「池上彰」化

『創価学会秘史』高橋篤史
『週刊東洋経済 2018年9/1号 宗教 カネと権力』

 ――そういう気概が報道機関全体で失われてきていませんか? 訴訟はもとより抗議や苦情に恐ろしくナーバスになってしまい、安全運転しかなくなっています。

高橋篤史●そういう業界全体の空気は感じます。とりわけ雑誌ジャーナリズムの衰退を感じますね。「FACTA」ぐらいですよ。がんばっているのは。

【『ジャーナリズムの現場から』大鹿靖明〈おおしか・やすあき〉(講談社現代新書、2014年)以下同】

 勘違いしていた。沖縄の米軍基地反対運動で山城博治が沖縄防衛局職員を暴行した動画を撮影したのは「THE FACT」で幸福の科学が運営している。一方、「FACTA」は元日経新聞論説委員の阿部重夫が立ち上げた情報誌で企業批判や宗教批判に特徴がある。すっかり混同していた。高橋が持ち上げる「FACTA」だが、実は楽天の三木谷浩史が影のスポンサーで捏造記事によって株価を操作しているとの噂もある(地に堕ちた出版社「ファクタ」の裏の顔 : 真相の扉)。

高橋●いまのジャーナリズムを覆っているのは、わかりやすいニュース解説を求める「池上彰」化ですよ。
 池上さん自身の功績は大いにあるとは思いますが、あまりにそればっかりだと読者のリテラシーが一向にあがってこない。それどころか今の読み手は、書き手に対して「もっとわかりやすく解説してくれ」とか「どうすればいいのか答えを教えてほしい」と求めてばかりいるようになってしまう。かつての読み手はもっと向上心、向学心をもって書物に触れていたと思います。

「池上彰」化だってさ(笑)。言い得て妙だ。テレビ番組で何も考えていない若い女性タレントや頭の悪そうな若手芸人を起用するのは、視聴者のレベルに合わせているためか。これをツイッター化と言い換えてもよい。140字以内で説明せよ、と。

 池上彰は馬脚を露(あら)わし始めており、ツイッターでも批判する向きが増えつつある。メディアリテラシーを磨くためには格好の人物で、「何を言ったか」よりも「何を言っていないか」に注目する必要がある。池上彰は意図的に情報を隠蔽(いんぺい)し、ありきたりの見方で一般化し、ひっそりと誤った結論に導く。私は池上を「ソフト左翼」と呼んできたが、実態としては「ソフトな語り口の左翼」に傾いている。

 ただし池上を軽んじるのは危険で、田原総一朗に辟易した視聴者を取り込んでいると思われるが、テレビ局において一定の権力を握りつつあるようだ。

八幡和郎氏「池上彰の番組から取材があってさんざん時間を取らされたあと『池上の番組の方針で、番組では八幡さんの意見ではなく池上の意見として紹介しますがご了解いただけるでしょうか』といわれた」~ネット「そうか!そうだったのか!」 | アノニマスポスト ネット

 高橋篤史の発言は一見するともっともなのだが、その言葉がジャーナリストにも跳ね返ってくることを自覚すべきだろう。取材情報を盛り込みすぎて結論の抽象度が低すぎる記事やノンフィクションが、読者の向上心を奪っているケースも少なくない。「わかりやすい解説」「安易な答え」に需要があるのならばそれを書けばよい。一定数の読者を獲得しながら自分の好きなように書いても遅くはあるまい。やろうと思えば有料メールマガジンの配信やオンデマンド出版は誰にでもできるのだから、書き手にとっては追い風が吹いていると考えてよい。

 大鹿靖明は朝日新聞の記者である。それだけで信用ならない。従軍慰安婦捏造記事によって日本の国威を失墜させたり、中国共産党によるチベット侵略を擁護してきた新聞社(『チベット大虐殺と朝日新聞』岩田温〈いわた・あつし〉)の人間にジャーナリズムを語る資格があるのだろうか? 講談社ノンフィクション賞を受賞した程度で増長するのは早すぎる。本書に安田浩一が入っているのも人選に政治色があり過ぎる。

 特定の政治信条や宗教思想に被(かぶ)れた人々は嘘に目をつぶることができる。理想や目的を目指す彼らの言動・言論はプロパガンダとならざるを得ない。大衆の操作・誘導を旨とする姿勢はやがてファシズムに向かうことを避けられない。自分たちを高みに置いた途端、見えなくなるものが増えてくる。「見える」ことには「見えない」ことを含んでいる。その自覚を忘れてしまえば、彼の言葉の結論は「私に従え」というメッセージとなってしまうだろう。