2018-09-17

異常な経験/『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』会田雄次


 ・異常な経験

『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
『敗者の条件』会田雄次
『勝者の条件』会田雄次

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 この経験は異常なものであった。この異常ということの意味はちょっと説明しにくい。(中略)

 想像以上にひどいことをされたというわけでもない。よい待遇をうけたというわけでもない。たえずなぐられ蹴られる目にあったというわけでもない。私刑(リンチ)的な仕返しをうけたわけでもない。それでいて私たちは、私たちはといっていけなければ、すくなくとも私は、英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきたのである。異常な、といったのはそのことである。

【『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』会田雄次〈あいだ・ゆうじ〉(中公新書、1962年/中公文庫、1973年/改版、2018年)以下同】

 若い頃に何度か読んでは挫けた一冊である。その後、何冊もの書籍で引用されていることを知った。竹山道雄も本書に触れていたので直ちに読んだ。やはり読書には季節がある。それなりの知識と体力が調(ととの)わないと味わい尽くすのが難しい本がある。何気ない記述に隠された真実が見えてくるところに読書の躍動がある。

 会田雄次は敗戦後、1年9ヶ月にわたってビルマでイギリス軍の捕虜となった。その経験を元に「西欧ヒューマニズム」の欺瞞を日本文化から照らしてみせたのが本書である。

 それはとにかくとして、まずバケツと雑巾、ホウキ、チリトリなど一式を両手にぶらさげ女兵舎に入る。私たちが英軍兵舎に入るときには、たとえ便所であるとノックの必要はない。これが第一いけない。私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信頼されているのかとうぬぼれた。ところがそうではないのだ。ノックされるととんでもない恰好をしているときなど身支度をしてから答えねばならない。捕虜やビルマ人にそんなことをする必要はないからだ。イギリス人は大小の用便中でも私たちは掃除しに入っても平気であった。

 一読して理解できる人がいるだろうか? 特に我々日本人は汚れ物に対する忌避感情が強く、トイレを不浄と表現することからも明らかなように、人目を忍ぶのは当然である。今、無意識のうちに「人目」と書いた。私なら幼子に見られるのも嫌だね。「人の目」であることに変わりはないからだ。つまり白人にとって有色人種の目は「人目」ではないのだ。きっと「人目」に該当する語彙(ごい)もないことだろう。

 会田が「異常」と記したのは、人種差別の現実が日本人の想像も及ばぬ奇っ怪な姿で目の前に現れたためだ。私の世代だと幼い頃にウンコを踏んだだけで周りから人が去ったものだ。かくもウンコには負のパワーがある。それがウンコをしている姿を見られても平気だと? すなわち彼らにとって有色人種の人間は文字通り「動物以下の存在」なのだ。これが「喩(たと)え」でないところに彼らの恐ろしさがある。

 その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終ると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた。
 入って来たのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視していたのである。
 このような経験は私だけではなかった。

 有色人種は白人女性の性行為の対象にすらなり得ないということなのだろう。インドのカースト制度を軽々と超える差別意識である。無論、彼女たちは「差別」とすら感じていないことだろう。人種の懸隔は断崖のように聳(そび)える。まさに犬畜生扱いだ。

 はじめてイギリス兵に接したころ、私たちはなんという尊大傲慢な人種だろうかとおどろいた。なぜこのようにむりに威張らねばならないのかと思ったのだが、それは間違いであった。かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるのに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだらかなやり方なのである。

 イギリス兵にとって最大の侮辱は日本軍が優勢であった時に、捕虜として市中を行進させ、便所の汲み取りを行わせたことだった。七つの海を支配してきた大英帝国の威信は地に墜(お)ちた。黄禍(おうか/イエロー・ペリル)が現実のものとなったのだ。イギリスがアメリカを引きずり込んで第二次世界大戦の戦況は大きく動いた。勝った側となったイギリス人が日本人に思い知らせてやろうとするのは当然である。この流れは現在にまで引き継がれている。イギリス・フランス・オランダは自分たちを潤す植民地を失ってしまったのだ。戦前と比べて貧しくなった状況を彼らが簡単に忘れることはない。

 こうした文脈の上に南京大虐殺や従軍慰安婦というストーリーが作成されていることを日本人は知る必要がある。憲法9条もそうだ。アメリカは玉砕するまで戦う日本軍を心底から恐れた。二度と戦争に立ち上がることができないように埋め込まれたソフトが憲法9条なのだ。アメリカは原爆ホロコーストを実行しておきながら、日本の報復を恐れいているのだ(『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎)。

 その人種差別の頂点にいるイギリス女王やローマ教皇ですら天皇陛下に対しては敬意を払わざるを得ないところに日本の不思議がある。

アーロン収容所 改版 - 西欧ヒューマニズムの限界 (中公新書)
会田 雄次
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2018-09-16

苛烈にして酷薄なヨーロッパ世界/『敗者の条件』会田雄次


『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』会田雄次

 ・苛烈にして酷薄なヨーロッパ世界

『勝者の条件』会田雄次

 ヨーロッパ人というものは、勝者となりえたのちもなお闘争の精神を失わない。かれらは復讐でも何でも、ここまで執拗に、計画的に、そして徹底的に実行するのである。

【『敗者の条件』会田雄次〈あいだ・ゆうじ〉(中公新書、1965年『敗者の条件 戦国時代を考える』/中公文庫、1983年)以下同】

 大東亜戦争敗戦直後のビルマでイギリス人中尉がこう語った。「ジャップは、死ぬことを、とくに天皇のために死ぬことをなんとも思っていない。おれたちは、ジャップの英軍捕虜への残虐行為と大量殺害に復讐する。戦犯(ワー・クライムド)の処刑はその一つだ。だが、信念を持っている人間は殺されても平気だし、信念を変えようとも思わない。そういう人間に肉体的苦痛を与えても、なんの復讐にもならない。だからおれたちは、ジャップの精神を破壊(デストロイ)してから殺すのだ」。

 会田雄次が戦地で直接聞いた言葉である。具体的には死刑を宣告した上で一旦減刑し、時間を置いてからまた死刑の宣告をした。「再び家族と会える」「帰れないと思っていた祖国に戻ることができる」――何ものにも代え難い喜びに全身を震わせたことだろう。その希望を英軍は絶(た)つのだ。イギリス兵は甘美な復讐の味に酔い痴れた。

 敵を倒すにはその弱点をつけ。油断は大きい弱点である。相手に好意を持つものは、相手に対してどこか油断し、すきを見せるものだ。そこを見破り、突いて倒せ。自分を愛し信頼する叔父、自分に好意を持つ飯番――それが第一の餌食となる人間なのである。
 私が示した2例は、この論理を忠実に実行し、成功したある男の姿なのだが、ここにも、さきに言及した、ヨーロッパ人のうちに流れる勝負への徹底性を読みとることができる。
 このようにはげしく執拗な闘争の精神は、別に西ヨーロッパ人だけのものではない。アメリカ人やロシア人を含む白人全部に共通するものだ。それは彼らの住む風土と歴史の産物なのである。ヨーロッパの歴史をちょっとひもとくなら、そのことはすぐ理解できるだろう。

 自分が助かるためなら味方をも犠牲にする酷薄極まりない例が挙げられている。殺すか殺されるかという苛烈な世界だ。会田は事実を示すだけで批判をしているわけではない。かくの如きヨーロッパに立ち向かうだけの気構えが日本にあるのかと問い掛けているのだ。本書はヨーロッパ世界に比較的近いと思われる戦国武将のエピソードがメインである。戦乱のさなかから逞しい精神が立ち上がる。後に長過ぎる江戸時代の平和が日本人から逞しさを奪っていったのだろう。

 しりぞくことは死を意味する闘争の世界――それがヨーロッパである。それは同時に与えることが餓死を意味する世界でもある。このような条件下で数千年間鍛えられた人間性が、現在のヨーロッパ人のなかに生きている。いわば彼らは、ヨーロッパの歴史的風土のなかでそれを骨肉化してきたものなのだが、勝負に関し、かれらが私たちには想像外の徹底さと執拗さを持ちつづけているのは当然といわねばならない。

 更に神の計画を元とした欧米人の計画性を挙げておくべきだ。国際条約の恣意的な運用、世界銀行や国際通貨基金を通した経済支配、メディアを通じた世論操作、人種差別や奴隷文化の歴史的漂白など、第二次世界大戦~ソ連崩壊を経た後は完全にアングロサクソン・ルールが罷(まか)り通っている。

 大東亜戦争の歴史認識は少しずつ正しい方向に向いつつあるが国民的な気運の上昇には至っていない。学者やジャーナリストの影響力はそれほど大きくないのだろう。カリスマ性をまとった天才政治家の出現を待つ他ないのかもしれない。しっかりとした史観を持つ人なら、我が子の担任が日教組教員であればこれを断乎拒否すべきである。迂遠な道のりに見えるができることを一つひとつやってゆくしかない。

敗者の条件 (中公文庫)
会田 雄次
中央公論新社
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ペダリング革命の覚え書き


ペダリングの悟り

 ・ペダリング革命の覚え書き

自転車~幅寄せ対策と保険について

 動画はシクロクロスという競技である。巡航性を基準にすると、TT(タイムトライアル)バイク→ロードレーサー(ロードバイク)→エンデュランスロード→シクロクロス→グラベルロードとなる。エンデュランスは長距離向きで、シクロ・グラベルは舗装路以外も走るため太いタイヤとディスクブレーキに特徴がある。空気抵抗を考慮する必要がないのでポジションはアップライト。タイヤが太くなればサスペンションの機能を果たすので乗り心地がよくなる。でもまあ、乗り心地の悪い道を走るので相殺(そうさい)されてしまうわけだが(笑)。


 年をとると用意周到になる。私は自転車に乗ることを決意してから直ぐにストレッチを開始した。頭は柔らかいのだが体が硬い。前屈すると床に手が届かない。10cmほどの距離があった。ふた月ほどで床に親指が着くようになった。長く険しい道のりだった。そして週に二度エアロバイク(フィットネスバイク)を30分ほど漕(こ)いでいる。

 エアロバイクにはモニターがあり、距離、ケイデンス、心拍数、負荷などの数値が表示される。自転車に乗るのは風を感じるのが目的だ。風がないわけだから視覚情報で誤魔化すしかない。いつもだと負荷は最低の1で、ラスト10分になると2分間隔で5まで上げてゆく。ところがどうだ。ペダリングのコツを掴んでしまった私は勢い余って負荷を10まで上げてしまった。変われば変わるものである。なぜ回せるか? ふくらはぎに力を入れないためだ。より太い腿の筋肉を使うことで効率がよくなっているのだ。

 ここで慌ててはいけない。自転車に乗っても調子に乗ってはダメだ。オーバーワークが怪我の原因となる。そこで逸(はや)る脚を抑えて近所のパトロールに向かった。坂はいくらでもある。

 忘れないうちに覚え書きを残しておこう。まず「泥こそぎペダリング」だが、足指を軽く曲げて指の付け根でペダルの前方を掴み、拇指球で前に回す感覚で行う。こうすると1時の位置で力が加わる。股関節の動きも自然に大きくなる。私はギョサン以外で漕いだことがないのでスニーカーを履いたら再検証する。

 登坂の土踏まずペダリングは何も考える必要がない。斜度に合わせて頭を前方向に傾けるだけだ。重心を前に掛けても手には体重を乗せない方がいいと思う。ハンドルには手を添える程度で、残酷な上り坂に対してはハンドルを引いて立ち向かう。

 少し前までなら絶対に避けて通った坂道を次々とクリアした。輪っかの坂(真空コンクリート舗装のO型滑り止め)も辛うじて制覇した。上り坂はもはや敵ではない。きっと人生も上り坂となるはずだ。

2018-09-14

ヨーロッパは苛烈な力と力の世界/『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編

 ・ヨーロッパは苛烈な力と力の世界

『敗者の条件』会田雄次
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

キリスト教を知るための書籍
日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

目次

 一 力と力の世界
 二 ベルリンに住んで
 三 古都めぐり
 四 中世のおもかげ
 五 カトリック地方
 六 ダハウのガス室
 七 人民にとっての東と西
 八 東の人々
 九 ドイツ問題解決への提案
 十 壁がきずかれるまで
 十一 神もいる、悪魔もいる
 あとがき

【『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄(文藝春秋新社、1963年)以下同】

「じつにヨーロッパは苛烈な力と力の世界である! それはわれわれには想像がむつかしい」
 私は西ベルリンのティアガルテン公園のベンチに坐って、あたりを見廻しながら、よくこう考えた。目の前に、白いジャスミンの花が垂れている。
「われわれ日本人には、人間性がこのように非情でありうることは考えられない。われわれは人間をもっとおだやかな醇化されたものだと思っている。一つにはこれがあるので、日本で行われる世界理解は見当がちがうのだろう」
 ちかごろ人々はナチス映画を見て、その惺惨な歴史におどろいているが、ああいうことはヨーロッパ人にとっても十分不可解ではるのだが、しかしわれわれにとってほど不可解ではないだろう。私はあの事実を比較的はやくに知ったが、それを人に話しても、日本人は、「そんなことが起りうるものか。それはデマだ。お前の妄想だ」とて、信用する人はいなかった。また、「壁」ができるまでベルリンを通って毎月200万人の人間が逃亡していたのだが、その事実を報告しても、すべてを善意から解したがる人々は、「そういうことを考えるのは後向きである」とて、意識から排除してうけつけない。

剣と十字架 竹山道雄著作集5』林健太郎、吉川逸治監修(福武書店、1983年)は、一、二、六、七、八の抄録で、『 スペインの贋金 竹山道雄著作集2』(福武書店、1983年)には二が収録されている。更に、『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』平川祐弘編(藤原書店、2016年)は、一、二、六、七、十、十一、あとがきの抄録となっている。カバー装丁は神野八左衛門。表紙にはラファエルの絵が配されている。

 日本人は諍(いさか)いがあっても「水に流す」ことができる。なぜか? 国土の水が清らかだからだ。このことも私は竹山道雄から教わった。歴史上の内戦における死者数も少ないのが特徴で万を超えることは滅多にない。島原の乱3万7000人、織田信長の第三次長島侵攻2万1000人というあたりが最多で、西南戦争でさえ双方7000人である。

 一方ヨーロッパは土地が貧しく水が汚れている。多量のビールやワインを飲むのも水の汚れに由来するといわれる。欧州域内における戦争の死者数は数百万単位である。三十年戦争の死者数は400万人でドイツの人口は激減した。ナポレオン戦争の死者数は約500万人である(図録▽世界の主な戦争及び大規模武力紛争による犠牲者数)。第一次世界大戦の死者数が1600万人で第二次世界大戦が5000~8000万人である。つまりヨーロッパの戦争を歴史的に俯瞰(ふかん)すれば近代戦争に匹敵する死者を出していることがわかる。

 土地が貧しいゆえに寒冷化が激しくなると人々が移動する(ゲルマン人の大移動)。水は世界中どこでも紛争の種となっている。井戸を巡る殺し合いは各地であった(日本においても水利権〈すいりけん〉はあまりにも複雑で政治が手をつけることができない)。更にヨーロッパではキリスト教の正義が殺戮(さつりく)を後押しする。異教徒を殺すのは神の命令であり宗教上正しい行為と見なされる。日本人の感覚でいえば害虫駆除に近いのだろう。

 一番わかりやすいのは「アメリカ大陸発見」の歴史である。数千万人のインディアンが暮らしていたにも関わらず欧州白人は「発見」と位置づける。発見したわけだから発見以前の歴史は無視される。ところがインディアンはおとなしくなかった。彼らは勇敢に戦った。そして殺された。殺しすぎて人手が足りなくなった。ヨーロッパ人はアフリカ大陸から黒人を奴隷として輸入した。勇敢な者は殺され、友好的な者は奴隷にされる。これが歴史の真実だ。憲法9条信者はよくよく歴史を見つめるべきだ。

 日本に長らく祟(たた)り信仰があって、討ち取った敵将を神として祀(まつ)る習慣があった。ヨーロッパ人には想像もできないことだろう。この他、「一寸の虫にも五分の魂」「一視同仁」「盗人にも三分の理」「弱きを助け強きをくじく」「判官贔屓」(ほうがんびいき)、「天は人の上に人を作らず」(福澤諭吉)などの文化が底流にあり、理よりも情に重きを置く伝統が流れている。

 日本人であれば「何もそこまで」と思うところを徹底して「そこまで」行うのがヨーロッパの流儀である。ナチスドイツによるジェノサイドも、アメリカによる東京大空襲・原爆投下もその背景にはキリスト教文化が脈動している。近代においては社会主義・共産主義国での粛清や失政の犠牲者は数千万人単位であることが判明しているが、共産主義そのものがキリスト教文化から派生したものでキリスト教由来と考えてよい。

 ヨーロッパの植民地と日本の植民地を比較すれば万人が日本を支持するのは間違いない。日本は大幅な国家予算を割いて植民地のインフラを整備し、帝国大学を設立し、医療を充実させ、相手国の文化を保存する事業を行った。日本は一視同仁の思いで植民地政策を行った。

剣と十字架―ドイツの旅より (1963年)
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ペダリングの悟り


中高年初心者は距離よりも時間を重視せよ

 ・ペダリングの悟り

ペダリング革命の覚え書き

 恐るべきスピードである。彼はペダルと一緒に交通ルールをも踏みつける。きっと小さな政府を望む自転車新自由主義者なのだろう。アメリカにはこの手の愚か者が多い。時折、後輪をドリフトさせているのはシングルスピードの固定ギアでブレーキが付いてないためだ。見た感じだと時速50kmくらいか。決して真似をしないように。


 どんなスポーツでもそうだが経験者は素人を一瞬で見抜く。野球であればバッティングにおけるドアースイングやゴロに対するグラブさばきなど。経験者は壁から腕一本分のスペースがあればバットを振り抜けるし、ゴロを捕る場合はグローブを下から上に動かしてキャッチする。バレーボールならスパイクでドライブ(前回転)を掛けているかどうか。こうしたプレイは一朝一夕で身につくものではない。コツコツと練習を積み重ねて、ある瞬間に突然できるようになるのだ。その意味から申せばスポーツの技術は徐々に上達する代物ではなく、階段を上がるように急上昇するものである。

 ブレイクスルー(突破)を経験すると概念が変わる。ま、パラダイムシフトといってよい。このため私はスポーツを始める際は概念を掴むことを最優先している。最近だとバドミントンのスマッシュで行う回内運動がまさしく「概念」に相当する(回内運動のコツ)。

 自転車にも当然概念があるに違いない。私はそう睨(にら)んだ。乗り始めてから1ヶ月半を経過したがこの間、書籍に当たりホームページやブログを参照し続けた。プロだから説明能力が高いとも言えないし、ネット情報は些末(さまつ)な内容が多すぎる。時に全く相反する主張に遭遇することも珍しくない。例えば骨盤を起こすのか寝かせるのかなど。

 人類は動物であり、歩いたり走ったりする機能はDNAに刻み込まれている。しかし、ペダルを「回す」機能は本来もっていない。この地上で脚を回して移動する動物は、多分人間だけではないだろうか。つまりペダリングは本来もって生まれた運動能力ではなく、技術として身につけなければ習得できないのである。

瀬戸圭祐の 「快適自転車ライフ宣言」 3-2)心臓と肺で走る!ペダリングの極意【ファンライド】

 私のような素人が湖を目指して山道を70kmも走っていると疲れ果ててこの世の全てがどうでもよくなってくる。「生きてる意味? そんなものねーよ」と言いたくなる。コース選択の誤りを後悔する気力も残っていない。ただペダルを踏むだけの苦しい作業が続く。脚力がないのは当然なんだが、それ以前の非効率があるはずだ。でね、遂に見つけましたぜ。

 ペダリングは足裏の泥をこそげ落とすように……ペダリングは膝関節を動かす筋肉よりも股関節を動かす筋肉で行う方がいい(以下略)

難しい事は抜きにして、とにかく太ももで漕げ! : 自転車コギコギ日記

 読んだ瞬間に頭の中で電球が灯(とも)った。立て続けにネット上を調べてゆくと「腸腰筋の使い方」というのを見つけた。

 次に右の写真のように太腿の付け根から手のひら1つ分くらい膝寄りに手を置いて脚が上がらないように押さえつけます。そして脚を持ち上げるように力を入れてみてください。・・・そうすると大腿四頭筋ではなく脚の付け根の部分の筋肉を使ってませんか?多分それが腸腰筋を使ってるんだと思います。

ヒルクライム対策の効果が出た。グランフォンド軽井沢に完勝してきた! | Fertile-soil

 これまたピンポーンと脳内で音が鳴った。私はサンダル履きなので引き足は関係ないのだが腸腰筋を意識することは可能だ。時折、大腰筋の筋トレも行ってきた(『寝たきり老人になりたくないなら大腰筋を鍛えなさい』久野譜也)。

 プロ選手のふくらはぎが細いのは、ふくらはぎを使っていないためです。つまり、ふくらはぎは自転車のペダリング力を生み出す主な筋肉ではないということです。

自転車のペダリングのやり方でふくらはぎが変わる!? | BICYCLE POST

 やはり私のペダリングは間違っていた。ふくらはぎだけボディビルダー状態だよ。

 森本誠師匠に助けを乞うたところ、バスケットボールでドリブルしろとの事。ドリブルのボールを弾くタイミングが、ペダルに力を入れるタイミングだと言うのだ。しかも力を入れるのは一瞬で良いと。

「ペダリングは1日にして成らず」 “39.3%”のどん底からの復活劇 - cyclist

 ロードバイク歴5年の人のペダリング効率が39.3%という衝撃の事実に腰を抜かした。

 これを別のイメージに翻訳してみると,ちょうど,子どもが座ったブランコを後ろから押すのと同じイメージだと思います。

ペダリング考察 ── 踏むのは一瞬でいい? - ロードバイクの理科的考察

 絶妙なアシスト記事だ。

「つま先を押し下げるようにペダリングすると、ふくらはぎを介してパワーが失われてしまいます」と彼は指摘する。「足首を固定して、かかと、あるいは足の裏でペダルを押し込むことで最大のパワーを伝えることができるのです」

今すぐヒルクライムが速くなる6つの方法

 これまた目から鱗(うろこ)が落ちる。私は拇指球(ぼしきゅう)でふくらはぎをギンギンに張らせながら漕(こ)いできた。

 見よ、これが情報のブレイクスルーである。探し求めていた答えが一つ見つかると次々と必要な情報が現れるのだ。

 早速、次の日にまずエアロバイクで試みた。リカンベントタイプなのだが明らかに感覚が変わった。確かによく回る。そして登坂の土踏まずペダリングもやってみた。負荷を強くしても踏める。ふくらはぎの負担が少ないとこうも違うものか。面白くてどんどん負荷を上げていった。

 帰宅すると脚が疼(うず)いた。新しい感覚を忘れたくなかった。少しばかり走ろう。まず、泥こそぎペダリングだが足を前方向へ動かすことで1時の位置でペダルを捉えられるようになった。そして膝が高く上がることで股関節の動きを実感できる。サドルの位置が低いことまで体感した。もはや昨日までとは異なる新しい世界が開けた。ペダリングの悟りといってよい。

 次に土踏まず登坂(とうはん)である。確かに楽だ。ふくらはぎに力が入らないためだ。踵(かかと)ペダリングも試した。筋肉ではなく骨で踏む感触が強い。小雨が降ってきた。いつもは避ける坂を通って帰路に就(つ)く。そのままの勢いで近所の短い激坂(たぶん20%超)に向かった。後輪のスリップに注意しながらゆっくりと登った。難なく登りきった。

 高々10km余りの距離であったが、私の自転車人生は新しい段階に突入した。脳と身体(しんたい)に新しい神経回路が構築された。

 引用した記事のサイクリスト諸兄に満腔(まんこう)の感謝を捧げる。