2019-01-09

若き日の感動/『青春の北京 北京留学の十年』西園寺一晃


 ・中国人民の節度
 ・若き日の感動

『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦

「我々は口ではどんな格好のよい事も言える。しかし、問題は実践だ。君達は準備討議の時、たくさん立派な事を言った。でも実際行動はまるで正反対だ。働けば疲れる。コヤシは臭い。臭くないと言ったら嘘だ。しかし、疲れるのを嫌がったり、臭い仕事から逃げるのは思想問題だ。それに、疲れる仕事、臭い作業も誰かがやらねばならない。僕はそういう仕事こそ進んでやるべきだと思う。それを一つの鍛錬の場と思い、喜んでやるべきだ。それでこそ進歩するんだ。口でいくら進歩すると言っても、結局は実践の中で努力して、初めて実現するんだ。口先だけの革命の本質は、不革命か反革命なんだ」

【『青春の北京 北京留学の十年』西園寺一晃〈さいおんじ・かずてる〉(中央公論社、1971年)以下同】

 35年前に読んだ本である。同じ頃に本多勝一著『中国の旅』(朝日新聞社、1972年)も読んでいる。1980年代はまだ進歩的文化人が大手を振って歩いていた。知識がなければ判断力が働かない。直接会えば声や表情から真実を辿ることは可能だが、読書の場合かなり難しい。例えば相対性理論に関する間違いだらけの解説書を読んでも素人には判別しようがない。特に大東亜戦争を巡る歴史認識は専門家たちによって長く目隠しをされてきた。

 若さとは「ものに感じ入る」季節の異名であろう。10代から20代にかけてどれほど心の振幅があったかで人生の豊かさが決まる。西園寺少年が直接見聞した中国の姿に私は甚(いた)く感動した。社会主義国の高い政治意識に度肝を抜かれた。

「あの店はあなた方、外国同志達のためにあるのです。私もあの店の洋菓子がおいしいことを知っています。でも今は食べません。もう少ししたら、我々は今の困難(100年振りの大災害による食糧不足)を克服して6億人民全部がいつでも好きなだけ、おいしい菓子を食べられるようになります。そうしたら食べます。その時は、おいしい菓子が一段とおいしく感じられるでしょうから、その時までとっておきますよ」
 と言って笑った。彼はその日、中国の笑い話やことわざについて色々と話してくれ、僕達を腹の皮がよじれるほど笑わして帰っていった。しかし、彼の前に出されたシュークリームはそのまま残っていた。僕達一家4人は、同じように手をつけなかった菓子を前に、妙に白けた気持ちになった。僕は苦いものを飲み込むようにそれを食べた。少しもおいしくなかった。

 これらのテキストは当時私がノートに書き写したものだ。他にもまだある。

 西園寺一晃〈さいおんじ・かずてる〉の父・公一〈きんかず〉が尾崎秀実〈おざき・ほつみ〉(『大東亜戦争とスターリンの謀略 戦争と共産主義』三田村武夫)の協力者でゾルゲ事件に連座して公爵家廃嫡となったのを知ったのは最近のことだ。公一〈きんかず〉は西園寺公望〈さいおんじ・きんもち〉の孫である。

 公一〈きんかず〉は真正の共産主義者であった。息子の一晃〈かずてる〉が同じ道を歩むのは当然だろう。とすると本書はただのプロパガンダ本ということに落ち着く。著者は嘘つきだったのか? その通り。西園寺は「大災害による食糧不足」としているが、実際は毛沢東が行った大躍進政策が原因であった。中国人が語った「今の困難」とは5000万人の餓死を意味する。まるで秋にやってくる台風のような書きぶりだ。左翼に限らず主義主張に生きる者は都合の悪い事実に目をつぶり、自分たちに都合のよいことは過大に評価する。

 若き日の感動は長く余韻を残しながらも、情報は書き換えられて更新されてゆく。今となっては嘘つきに騙された無念よりも、嘘つきに気づいた満足感の方が大きい。尚、親中派つながりで創価学会が組織を上げて本書を購入した経緯があり、後に西園寺は『「周恩来と池田大作」の一期一会』(潮出版社、2012年)という礼賛本を書いている。

青春の北京―北京留学の十年 (1971年)
西園寺 一晃
中央公論社
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狂者と獧者/『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦
『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
・『陸奥宗光』岡崎久彦

 ・長く続いた貧苦困窮
 ・狂者と獧者

『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦
『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

「バランスのとれた人物」という表現は、戦前の日本にはなかった。それよりも度胸とか腹とかいうことのほうが重視された。しかし、戦後の日本では「バランスのとれた」はすでに日本語として定着し、社会人の評価としては最高のほめ言葉の一つとなっている。

 宋(そう)の人、蘇東坡(そとうば)はいっている。
「天下がまだ泰平でないときは、人々は相争(あいあらそ)って自らの能力を発揮しようとする。しかし天下が治まると、剛健(ごうけん)で功名(こうみょう)を求める人を遠ざけ、柔懦(じゅうだ)、謹畏(きんい)の人(かしこまってばかりいる人)を用いるようになる。そうして数十年も過ぎないうちに、能力のある者は能力を発揮する場もなく、能力のない者はますます何もしなくなる。
 さて、そうなったときに皇帝が何かしようとして前後左右を見渡しても、使える人間が誰もない。……上の人はつとめて寛深不測(かんじんふそく)の量(りょう)をなし(度量が大きく、しかも中身が計り知れない大人物の恰好〈かっこう〉ばかりして)、下の人は口を開けば中庸(ちゅうよう)の道(バランスがとれている、というのが適訳であろう)ばかりい、……もってその無能を解説するのみなり」
 そして蘇東坡は、「中庸」のもとの意味はこれとはまったく異なることを論証している。そして、右のような人々を孔孟(こうもう)は「徳の賊」と呼び、むしろ「狂者」(志の大にして言行の足らない人)を得ようとし、それが得られない場合は、「者」(けんじゃ/たとえ知は足りなくても何か守るところのある人)を得ようとしたという。狂者は皆のしないことをやる人であり、獧者は皆がするからといってもこれだけは自分はしないというものをもっている人、つまり土佐の「いごっそう」である。蘇東坡はいま天下をその怠惰(たいだ)から奮いたたせるには、狂者、獧者であってしかも賢い人間を使うに如くはない、というのである。

 明治の人はよく自らを「狂」と呼んだ。山県有朋(やまがたありとも)は「狂介」(きょうすけ)と名乗り、陸奥宗光(むつむねみつ)は雅号(がごう)を「六石狂夫」(きょうふ)とした。まさに身に過ぎた志をもつ狂者と自らを呼んでいるのである。
 小村は、まさに狂者であり獧者であった。とても「バランスのとれた人物」という範疇(はんちゅう)には入りようがない人物であった。明治維新から30年近く経て官僚制度もそろそろ硬直化してくる時期に、その小村が「余人(よじん)をもって代え難い」として重用(ちょうよう)されたのは、やはり日清、日露という日本の危機の時代だったからであろう。小村の業績に毀誉褒貶(きよほうへん)が現われるのは日露戦争の勝利後であり、それまでの危機の時期においては、あらゆる局面において小村の判断は結果として正確であり、小村の起用が正しかったことが実証されている。時代が狂者、獧者を必要とし、小村がその時代の要請に応えたのである。

【『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、1998年/PHP文庫、2003年)】

 諸橋轍次〈もろはし・てつじ〉著『中国古典名言事典』(1972年)では「狷者」という表記になっている。異体字なのだろうが正字が判らず(Jigen.net - 漢字と古典の総合サイト)。

 バランスは均衡と訳す。衡は秤(はかり)の意。バランスする、バランスさせると自動詞や他動詞を付けると「権」の字が浮かび上がってくる。権力の権には「はかる」という意味がある(『孟嘗君』宮城谷昌光)。「所体のなかにおいて、軽重を権(はか)る。これを権という」(墨子)。とすると権力を擁(よう)する者の慎みとして「軽重を権(はか)る」姿勢は堅持すべきものだが、彼の周囲にいる人々は種々雑多で構わない。むしろ宋江(そうこう)のように梁山泊(りょうざんぱく)の猛者(もさ)どもをバランスさせる能力が望ましい。平和の世には能吏(のうり)が、混乱する時代には狂者、獧者が求められるのだろう。

 風変わりな人を見直し、称(たた)えよ。新しい時代を開くのは今表に出ていない人々なのだから。



『銀と金』福本伸行
恩讐の彼方に/『木村政彦外伝』増田俊也

2019-01-07

長く続いた貧苦困窮/『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦
『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
『陸奥宗光』岡崎久彦

 ・長く続いた貧苦困窮
 ・狂者と獧者

『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦
『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
『村田良平回想録』村田良平『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 もう一つ小村について書かざるをえないのは、その貧乏であった。おそらく世界史上、政治家、外交官のなかで、小村より貧乏な人物はいかなったといってよいであろう。
 着ているものといえば、夏も冬も着古しのフロック・コート一つだけだった。夏は暑いだろうというと、貧乏していると暑さを感じないと答えたという。昼食時には、そのフロック・コートからほつれて出てくる糸を鋏(はさみ)で切るのを習慣にしていたという。その昼食の金もなく、しばしばお茶だけで過していた。
 親が事業に失敗した借金をそのまま引き継いだのが原因であったが、東京中の金貸しから借金をしていて、家のなかに金になりそうなものがあればみな借金取りがもっていくので、家財(かざい)はまったくなく、座布団も2枚しかないので客が来れば布団なしで座ったという。雨が降っても傘はなく、まして車に乗る金もないので、帽子から雨の雫(しずく)をたらしながら歩き、それでも外務省の裏門のほうが家から近いのに堂々と正門から入ったという。
 北京の代理行使として赴任するとき、新橋駅に見送りに来た友人が、小村が時計をもっていないのを見て自分の時計を贈ろうとした。小村はそれを遮(さえぎ)って、見送りのなかに高利貸しがいて何か餞別(せんべつ)を貰(もら)えばただちに取り上げようと待ちかまえているから、くれる気があるならば先の駅でくれ、といったという。別の本では、北京赴任に際して陸奥(むつ)は小村に対面をもたせるために金時計を贈ったが、北京着任のときは、小村はもうその時計はまったくもっていなかったという。

【『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、1998年/PHP文庫、2003年)】

 北京赴任は1893年(明治26年)のことである。小村寿太郎〈こむら・じゅたろう〉は1855年(安政2年)生まれだから38歳である。没したのが56歳だから人生の大半を貧苦困窮の内に過ごしたといってよい。第1回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学していることを思えば、よほど圭角のある人物だったのだろう。貧困は人を惨めにする。志を手放すことがなかったところに強靭な精神力が窺える。

 小村を引き上げたのは陸奥宗光である。陸奥~小村という外交官によって日本は不平等条約を解消し、日清・日露戦争を乗り越え一等国の仲間入りを果たした。この二人は真正のエリート(選良)であった。近代人の存在があって近代の扉が開かれる様子がよくわかる。彼らはまた愛国者でもあった。世論の誹謗中傷を恐れることなく、ただただ国の行く末を案じて身を処した。

 明治から昭和初期にかけて政治家は辛労の限りを尽くし、絶命することも決して珍しくはなかった。財を成した人物も殆どいない。国を造ることに真剣であった。

小村寿太郎とその時代―The life and times of a Meiji diplomat
岡崎 久彦
PHP研究所
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2019-01-06

狂者と狷者/『中国古典名言事典』諸橋轍次


『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦
『中国古典 リーダーの心得帖 名著から選んだ一〇〇の至言』守屋洋

 ・狂者と狷者
 ・人生の目的
 ・「武」の意義

『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登

必読書リスト その五

 狂者(きょうしゃ)は進(すす)みて取る。(『論語』「子路」)

 中道を行なう人間がもっとも好ましい。しかし、中庸(ちゅうよう)の人は少ない。そこで次に選ぶとしたら、狂者である。なぜか。狂者とは、実行はまだともなわないが、志は高く、進取的な人間だからである。

 狷者(けんしゃ)は為さざる所あり。

 中庸の人が第一、狂者が第二、これについでとるべきは狷者である。狷者は引っ込み思案ではあるが、そのかわり、不善、不義はだんじてしないという操(みさお)の固い所がある。

【『中国古典名言事典』諸橋轍次〈もろはし・てつじ〉(新装版、2001年/座右版、1993年講談社、1972年講談社学術文庫、1979年)】

 何度か中国古典に取り組んできたが『論語』すら読了できない始末だ。いずれも訳文がしっくり来ない。本来であれば原典に当たるのが基本であるが、人生に残された時間を思えばそろそろ好き勝手な放浪も許されない時期だ。たとえそれが読書であったとしてもだ。「名言集」の類(たぐ)いはつまみ食いである。文脈も見落としかねない。名言集だと「読書百遍義自(おの)ずから見(あらわ)る」(「意自ずから通ず」とも)は通用しない。しかしながら私がやろうとしているのは言葉によってシナプス結合を整理することである。もっと言えば半世紀近く読んできた本や出会った人々で入り乱れた配線をつなぎ直し、太く短いケーブルにしようと目論んでいるのだ。

 本書に関しては文庫本を避けた方がよい。解説のフォントが小さくて読みにくい。7ポイントから6ポイントだと思われる。老眼気味の人は迷うことなく座右版を選ぶこと。

 岡崎久彦著『陸奥宗光とその時代』で「狂者と獧者(狷者)」という言葉を知った。山縣有朋〈やまがた・ありとも〉は狂介と名乗り、陸奥宗光は雅号を六石狂夫と称した。

 吉田松陰が「諸君、狂いたまえ」と教えた理由も腑に落ちる。時代が激動する時に中庸の人の居場所はない。中庸人が支えるのは過去の時代である。「吉田松陰が彼らに教えたのは『狂』という字でした。狂うという字は、クレイジーという意味ではなく、本来は『自分でも持て余してしまうような情熱』を指します」(山縣有朋(狂介)の「狂」の字 -どういういきさつで名前に「狂」という- 歴史学 | 教えて!goo)。

 白川静もまた「狂」の字を愛した。「狂は気がくるうことではない。好むところに溺れること、憑(つ)きものがおちないことをいう。例えば風雅に徹する人のことを風狂の徒という。それは〈世間の埒外(らちがい)に逸出しようとする志をもつもの〉であり、狂とは〈最大の讃辞(さんじ)〉だった」(「天声人語」2014年1月3日付)。

 狂の字のけもの偏はもともと犬を意味する。つまり犬がくるくると激しく動き回る様を「狂う」と名付けたのだろう。維新回天の志士たちが狂の字を好んだのも当然か。

 一方、狷の字は狷介(けんかい)で辛うじて生き残っている。「自分の意志をまげず、人と和合しないこと」で頑固・頑迷と同意である。一方的な言葉のイメージに囚(とら)われると豊かさを失う。乱れた世の中において狷者たり得る者は賢者に通じる。「赤信号みんなで渡れば怖くない」(ビートたけし)という時に「人と和合しないこと」は正しいのである。

 世の中の大勢に流されないことは簡単なようで難しい。例えば2005年の郵政解散とその後の総選挙である。私はさしたる考えもなく小泉首相を支持した。自民党内の造反議員に敬意を抱くこともなかった。資本主義は競争原理で動いているのだから巨額な貯金を有する郵便局も競争に晒されるべきである、と考えた。郵便局が社会インフラだとは思いもしなかった。時流に流された事実を言い逃れする言葉を私は持たない。人生にくっきりと残した汚点の一つである。

 映画や漫画の世界だともっとわかりやすい。ヒーローは常に狂者である。常識から「はみ出す」ところにドラマが生まれるからだ。

 誤解される人の姿は美しい。
 人は誤解を恐れる。だが本当に生きる者は当然誤解される。誤解される分量に応じて、その人は強く豊かなのだ。誤解の満艦飾となって、誇らかに華やぐべきだ。

【『芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録』岡本敏子(小学館文庫、1999年)】



『銀と金』福本伸行
小善人になるな/『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
恩讐の彼方に/『木村政彦外伝』増田俊也

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