2019-12-02

日比谷焼打事件でマッチポンプを行い発行部数を伸ばした朝日新聞/『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通


『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編
『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『新・悪の論理』倉前盛通
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通
『自然観と科学思想』倉前盛通
『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通
『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通

 ・日比谷焼打事件でマッチポンプを行い発行部数を伸ばした朝日新聞

『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『戦争と平和の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠
『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 志賀直哉というたいへん高名であるが、そのじつ、たいへん愚かな老文士がいる。彼は日本が敗北した直後、「日本語は野蛮だからフランス語を国語にすべきである」と国会で述べた。いやしくも文筆をもって身を立ててきた人間でありながら、これほど軽蔑すべき人間はいないと私は今でも考えている。
「あれは一時の気の迷いだった」とあとで言ったそうだが、それは日本が復興してからのことである。
 このような輩が国家の指導的地位を占めるとき、その国は大戦略を誤まって敗北の戦(いくさ)をたたかう破目に落ちる。もし日本が勝っていたら、志賀直哉は「日本語は世界で一番すぐれた言葉だから、世界中の人間に強制し、全部日本語に変えるべきだ」と言ったに違いない。今も昔も、このような無節操なお調子者が国を誤まるのだ。
 戦争学といっても特別なものではなく、人間の本性をよく見きわめ、人間集団がいかに愚かな行為をくり返すものかという歴史の教訓を知ることにつきよう。

【『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉(太陽企画出版、1984年)以下同】

「小説の神様」と呼ばれた人物が日本語を捨てようとした事実を私は知らなかった。戦争という極限状況は人々の性根を炙(あぶ)り出した。生き延びようとする本能に急(せ)かされる時、論理は見過ごされ、過去は無視される。特に日本人の場合、いつまで経っても「お上には逆らえない」との意識が強く、敗戦後は天皇陛下からマッカーサーに乗り換えた人々も多かった。日本語に見切りをつけたのは志賀直哉だけではない。ローマ字表記にすべきだという意見も堂々と主張された。実に敗戦は惨めなものである。

 日露戦争が終結した明治38年9月5日、東京・日比谷で開かれた日露講和反対国民大会が暴動化した。暴徒と化した市民は、政府のロシアに対する弱腰を批判し、政府系新聞社、交番、馬車などを焼打ちしたのである。さらに、講和反対国民大会は全国各地に拡がっていった。
 このとき、もっとも無責任な講和反対論を掲げて世論に媚び、部数を増やしたのが、ほかならぬ朝日新聞だったことを、私どもはよくよく覚えておく必要がある。
 だが、時の首相・桂太郎は断固とした態度でこれに臨み、軍隊を出動させて民衆を鎮圧した。さらに、9月6日から11月29日のあいだ、東京に戒厳令を敷いてきびしい姿勢を示したのである。
 日本がなぜロシアと講和するのか、国民は真相を知らされていなかった。勝っているはずの日本である。なぜ徹底的にロシアを叩きのめさないのか。国民が不思議に感じ、政府が弱腰なのだと受けとめたのも、無理からぬところがあった。
 だが、日本政府のトップとしては、もうこれ以上ロシアと戦争を続けるだけの国力が残っていないことを、じゅうぶんに知っていた。だから、講和に踏み切ったのである。まさか国民に、もう弾が尽きはてたなどと真相を打ち明けるわけにはいかない。国家としての正しい選択を実行するために、桂首相はあえて涙をのんで、軍隊に民衆を鎮圧させたのである。
 朝日新聞の上層部は、このことを知らされていた。にもかかわらず部数を増やすため、世論を扇動した。まさに商業新聞の権化というにふさわしい。

朝日新聞の変節/『さらば群青 回想は逆光の中にあり』野村秋介

 日比谷焼打事件は知っていたが朝日新聞のマッチポンプは知らなかった。かつては社会の木鐸(ぼくたく)と称した新聞だが、一度でも社会を正しくリードしたことはあったのだろうか? スクープ競争に明け暮れ、抜いた抜かれたの物差しだけで仕事をしている連中だ。特に朝日の場合、虚偽・捏造が代名詞になった感がある。

 全国紙の朝夕刊セット価格は月額4037円らしい(日経は4900円)。私が購読していた頃は2600円でそれから2800円に値上がりした。当時、主婦が気楽に支払える金額は3000円と言われており、3000円を超えると部数が減ることは避けられないと見られていた。消費税増税を推進する新聞社が何と自分たちには軽減税率を適用せよと署名まで集めた。結局、日刊の新聞にだけ適用され赤旗日曜版が狙い撃ちされる格好となった。聖教新聞はOKというわけだ。言っていることとやっていることが違う人間は社会で信用を得られない。販売店に不要な新聞を買わせる押し紙問題もクローズアップされた。

 ジャーナリズムといえば聞こえはいいが、映画に登場する新聞記者はただの野次馬である。ただただ問題を掻き回し、騒ぎ立て、センセーショナルな言葉を並べる。民主政にジャーナリズムは不可欠と言われるが、民主政を誤らせ続けてきたのもまたジャーナリズムであった。

 嘘を撒き散らす新聞を購読するくらいなら、毎月4000円で数冊の本を購入した方がはるかに賢明だ。

朝日新聞の変節/『さらば群青 回想は逆光の中にあり』野村秋介


・『「豆朝日新聞」始末』山本夏彦
・『崩壊 朝日新聞』長谷川煕
『チベット大虐殺と朝日新聞 朝日新聞はチベット問題をいかに報道してきたか』岩田温
・『朝日新聞「日本人への大罪」』西岡力

 ・朝日新聞の変節

『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
・『激しき雪 最後の国士・野村秋介』山平重樹
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

日本の近代史を学ぶ

 ことに、朝日新聞社を中心とした、マスコミのこれまでの無節操さについては、我慢も限度にきている。戦前はあれほど日本の戦争の正義を謳い、アジア解放の大義を説き、「聖戦だ、聖戦だ」と喚きちらしたくせにして、日本が負けるやいなや、豹変して占領軍に媚(こび)を売り、GHQ(連合国軍総司令部)による日本民族の弱体化政策の片棒を担ぐどころか率先して日本批判に転じた。
 最近では韓国人の従軍慰安婦問題で、まるで鬼の首でも取ったかの如き騒ぎである。私は日本のエリート階層である東大出の朝日の幹部3名に、面と向かって言ってやった。百歩譲ってだ、日本軍のその行為がそれほど悪逆非道だったとするなら、君ら「朝日」にも一半の責任があるのではないのか? 他人(ひと)事のようにいっているが、中国へ渡った関東軍百万の兵士を、君らは“神兵”とさえ称賛し、歓呼の声を持(ママ)って送り出した事実を、知らぬとは言わせぬ。
 倫理的意味で、それが正しいと強弁するつもりはない。しかし、1945年までは、そのときのパワー・ポリティックスの価値観で世界は動いていた。日本が、ヤルタ・ポツダム宣言を受諾する1週間前、旧ソ連軍は「日ソ不可侵条約」があるにもかかわらず、ソ連国境を越えて侵入してきた。条約を破ったことは一応置くとして、その際、日本人婦女子に彼らが何をしたか、これも知らぬとは言わせぬ。銃で威嚇(いかく)し、公衆の面前で、それも路上で、次々と強姦し、輪姦し、どれだけ無法をはたらいたか、朝日も進歩的文化人と称する連中も、なぜそれをいわぬ。(中略)
 かかる史実を知りながら、朝日新聞社は、日本のみの戦争犯罪を得々として喋りまくった。それも半世紀にわたってである。GHQの占領政策が、日本のショナリズム(ママ)の解体と弱体化にその眼目があるのを十分知りながら、「極東国際軍事裁判」(昭和23年11月判決)という、“暗黒裁判”の判決を是とし、日本悪玉論を執拗に展開し続けた。反面ソ連に媚を売ることも久しく、ベトナム戦争においては、まるでアメリカ軍が撤退さえすれば、明日にでもインドシナは平和になると、うそぶき続けた。その後のインドシナが、いかに悲惨であったかは、私が説明するまでもあるまい。ポル・ポトは全人口の半分、350万人もの人びとを虐殺している。

【『さらば群青 回想は逆光の中にあり』野村秋介〈のむら・しゅうすけ〉(二十一世紀書院、1993年)】

 600ページ近い大著である。飛ばし読みするつもりであったが引き込まれた。野村秋介は民族派では括り切れない人物だ。交友が広く、左翼とも親交を結んだ。獄中の永田洋子〈ながた・ひろこ〉にまで会っている。

 東条英機は陸軍の主戦派であったが首相に就任すると天皇陛下の意に従い戦争回避の道を模索する。軍首脳の大半と政治家はアメリカとの戦争を何としても避けようと考えていた。戦争を煽ったのは新聞と国民であった。この歴史的事実を決して忘れてならない。日米和平の道はハル・ノートによって閉ざされてしまう。窮鼠(きゅうそ)と化した日本はアメリカという大猫に襲い掛かった。

 ソ連に敗れたドイツでも目を覆うような強姦が行われた。幼女から老婆に至るまでが犠牲となった。その惨状は『ベルリン終戦日記 ある女性の記録』が詳しい。

 左翼が仰ぐソ連は終戦のどさくさに紛れて鬼畜の所業を繰り返した。私はこれを絶対に許すべきではないと考える。故にロシアが謝罪するまでは平和条約を結んではならない。北方領土を取り返すために下手に出る必要はない。日本政府は昂然(こうぜん)と構えるべきだ。

 野村は明らかに理論武装をしている。左翼と闘うためには致し方ないとはいえ、理窟(りくつ)だけでは人の心をつかむことはできない。野村を直接知る人々は情を汲み取ったのだろうが、その影響力はやはり一部の人に限られたように思う。

 野村は「風の会」から参院選に立候補する。これを『週刊朝日』(「山藤章二のブラック・アングル」)が「虱(しらみ)の党」と揶揄した。



 野村は猛然と抗議をした。翌年、経営陣からの謝罪を受けるため朝日新聞東京本社を訪れる。一連のやり取りも本書に収録されている。野村はその場で拳銃自殺を遂げた。最も朝日新聞を批判し、最も朝日新聞に期待していた男の見上げた最期であった。

 朝日新聞の偏向報道については野村が完膚なきまでに鉄槌を下している。その真剣な声が朝日新聞に届かなかったことが無念でならない。

2019-12-01

絵画のような人物描写/『時流に反して』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘
『精神のあとをたずねて』竹山道雄

 ・昭和19年の風景
 ・絵画のような人物描写

『みじかい命』竹山道雄

竹山道雄著作リスト

 ある日のこと、私はいまは共に故人となられた岩元、三谷両先生がここを登って来られるのにゆきあった。両先生ともにこの登りが苦しそうだった。意外に思っている私を見て立ちどまり、私が降りてゆくのを微笑をうかべてうず高い石塊の上に立って待たれた。一人はつよく澄み、他はきよく澄みきった瞳をして、並んでいられた。
「いまな、柳君の民芸館に琉球のものを参観してきたのよ」と岩元先生が、いささかなまりのつよく館や観をはっきりクヮンと発音しながら、よく響く声でゆっくりといわれた。
 老先生は片眉を下げて前屈みになったまま、光が束になって発しているような眼差しや、はげしい意力のあらわれた下唇に微笑を浮べて、先生の癖で、相手の体をまじまじと見ながら話された。三谷先生はこの頃からますます全身が霊化して、スピリットのような感じを増してゆかれたが、この日も息づかいが苦しそうに、薄い外套が肩に重そうだった。しばらく立ち停まって話の末、私は両先生に夕飯のお伴をすることとなり、両先生の学校の用をすませてから、50銭の円タクをつかまえた。
 その夕は主として岩元先生が元気よく話された。話題はきわめて広かった。「ホメアのオデュッセイアにある豚汁とわたしの国の薩摩汁とは、調理の法が同じじゃ。大きな鉄の鍋があってのう……」「西郷が戦死した城山の戦の鉄砲の音を、わたしは子供のとき鹿児島できいた」「床次は禅をやった。それで進退の責任感がないのじゃ。禅をやるとそうなる」「田中の世話でヴァチカン法王庁からトマス・アクイノズンマ・テオロギカを送ってもらって幸せしてる」――こんな言葉を断片的に憶えている。一体岩元先生はあれほど厳格な激しい気性の方であり、随分極端な伝説の主でありながら、近く接して圭角といったようなものをついに示されたことがなかったのは、不思議なくらいだった。むしろヘレニストでありエピキュリアンである一面をよく示された。
 三谷先生はこれという話題をもって人に談ずるということはない方であった。しかも、先生ほどその何気ない言葉が相手の(求むるところのある若い人の)魂の底に浸みこんで、そこに火花を点じ、襟を正さしめ、同心せしめ、生涯の転機とすらなった人は、他にはけっしてなかった。この混沌として解きがたい世界人生にも何か動かすべらからざる真実があることを身を以て証(あか)しする人――傍らにいてそんな気のする人であった。(「空地」)

【『時流に反して』竹山道雄(文藝春秋、1968年)】

 入力することが喜びにつながる稀有な文章である。まるで絵画のような人物描写だ。テキストで描かれた印象派といってよいだろう。

 検索したところ岩元禎〈いわもと・てい〉と三谷隆正のようだ。どちらも大物である。Wikipediaによれば岩元は「夏目漱石の『三四郎』に登場する広田先生のモデルであるとする説がある」。三谷は内村鑑三の弟子で「一高の良心と謳われた」とある。

 空地の西側にある坂道のスケッチである。今は亡き一高の元老を描くことで政界の元老がいなくなったことを浮き彫りにしようとしたのだろうか。あるいは戦後に向かって戦前の校風を書き残そうとしたのだろう。

 老人は歴史の生き証人である。上京してから数年後のこと、私にも元老と呼べる存在のご老人がお二方あった。手に負えない問題を抱えて困り果てた時は必ずどちらかを頼った。涙を落とすほど厳しいことを言われたこともある。私の祖父母は既に亡くなっていたが、血がつながっていればこうした関係を結ぶことは難しかったことだろう。敬愛できる長老を知り得たことはその後の人生を開く鍵となった。

 以下に巻末資料を掲載しておく。書籍になっていないテキストも多い。












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リベラル派が日本海軍をダメにした/『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通


『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編
『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『新・悪の論理』倉前盛通
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通
『自然観と科学思想』倉前盛通
『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通

 ・リベラル派が日本海軍をダメにした

『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 大体、学校の成績などというものは、専ら左脳の言語と論理の領域の働きできまるものである。しかし武人として一番大事な決断力、直観力、動物的カン、総合判断力、創造性、臨機応変の発想転換、勇気、冒険心、一見無謀に見えることでもその背後に活路があることを見抜く力、敵の陥穽の察知、その他、一流の軍人としての主な資質はほとんど右脳の非言語的分野の守備範囲である。
 陸士や兵学校や陸軍大学、海軍大学等でトップクラスだった者は往々にして、言語分野の勉強にかたよりすぎて、軍人として一番大事な右脳の活動能力を低下させてしまうおそれがある。
 それが今次大戦の戦場で多くの将軍や提督たちが失態を演じた最大の原因であろう。決して、単なる運、不運の問題ではなかった。多くの人々の反撥を買うかもしれぬが、私は米内光政山本五十六井上成美という提督たちは、その意味では結局一流の武人ではなかったのかもしれないと思っている。
 一流の大将であったか、二流の大将であったかをきめるという「はからい」そのものが、ある意味ではきわめて不遜なことであるが、井上成美大将自身がそれをされていたようであるから敢えていうが、軍人は戦場でどのような戦(いくさ)をしたかによって、その評価はきまるべきものである。武運の強い人もあろうし、武運拙い人もあろう。しかし、武運拙く下手な戦さをした軍人は、その人がいくらリベラルな思想の持主であろうが、人間的に良い人であろうが、武人としては二流、三流の評価に甘んじなければならない。
「あの相撲取りは相撲は弱いですが、人柄が良いし、リベラルな思想の持主だから一流の力士です」
 などという評価は、世の中には通用しまい。少しくらい強情でも相撲に強いのが一流の力士ではないのか。
 私が常に奇怪に思うことは、米内、山本、井上というリベラル派の提督たちが日本海軍の主流を握って以来、明らかに日本海軍の運命慣性はマイナスの方向へ流され始めたように思われることである。あるいは、日本海海戦であまりにも見事な勝利を得たことで海軍の戦略思想にかたよりがあったかもしれぬ。しかし、世界で最初に航空艦隊を保有したのも日本であったはずだ。試行錯誤は日本も米国も同じようにやっている。責任を古い海軍の将星に転嫁するのは卑怯というものだろう。
 もちろん、陸軍がシナ大陸で無謀な消耗戦を何年も続けて国力を消耗したことが、日本そのものの命運を狂わせた最大の原因かもしれぬが、その一番困難な時期に海軍の首脳が揃って、いわゆるリベラル派で占められたことは不幸であった。しかも、これらの人々には過去の海軍の先輩たちを悪しざまに批判することで自分たちの立場を弁護しようとする傾向があったように見える。それは武人のとるべき態度ではない。
 軍人は勝たねばならぬ。勝てない戦とわかっていたなら、三人揃って腹でも切って日米戦の不可を断乎主張すべきであったはずだ。はじめから深層の無意識で敗北のシナリオを描きながら、ずるずると戦争に入りこんでしまったのではないのか。それがリベラル派などと称される人々の弱さであり、武将として二流に堕しやすい原因である。
 まして、ロンドン軍縮会議に反対したから東郷元帥は二流の軍人だったなどとは、珊瑚海海戦で下手な戦をした井上成美大将は口が裂けてもいうべきではなかった。
 戦後の日本海軍に対する評価は、多分にアメリカ海軍の見方に左右されている。米海軍としては、日本海軍にとってマイナスのシナリオを書いた人々を、リベラルで立派な提督だったと賞讃するだろう。
 しかし、それは米海軍の勝手であって、日本人としての評価は、いかにして米海軍と良い勝負をしたかという視点から、大東亜戦争の武人の評価はなされるべきである。

【『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉(プレジデント社、1983年)】

 先に桜井章一著『運に選ばれる人 選ばれない人』(2004年)を読んでおくといいだろう。

 私自身はあまり運不運を意識したことはない。ただ人との出会いには恵まれてきた方だと思う。特に20代から30代にかけて尊敬できる先輩と知遇を得たことは大きな財産となった。

 歴史を振り返ると運不運を感じることは少なくない。特に二・二六事件から大東亜戦争まで日本は不運の連続であった。倉前盛通は明治維新後に生まれた陸軍士官学校・海軍兵学校出身のエリートがその原因であったと言い切る。学生時代の序列を引きずる日本とは異なりアメリカが実力主義だったことを思えば、人事という点においても日本は既に敗れていた。

 昔は、陸士(陸軍士官学校)や海兵(海軍兵学校)を何番で出たか、その後の陸軍や海軍の大学校を何番で出たかで出世が決まった。そんな連中が仕切った戦争は、ことごとく現場を無視した机上の空論ばかりで、無残な大敗を喫した。

【『56歳でフルマラソン 62歳で100キロマラソン』江上剛〈えがみ・ごう〉(扶桑社文庫、2017年)】

 倉前は海軍出身で、陸軍よりも海軍組織の方が柔軟性に優れ、戦後を見据えて人材を確保したことも高く評価している(これらの人々が戦後の工業を支えた。ソニーなど)。その上で米内、山本、井上を批判しているのだ。

 悪しきエリート主義は東大法学部に受け継がれて日本を蝕み続ける。試験が得意な彼らが現実を見誤り、政策をミスリードし、失われた20年を30年にまで引き延ばそうとしている。武士であれば切腹は避けられない。

 国を憂える人はどこにいるのだろうか?