2020-05-28

堀江貴文×立花孝志


 いやあ、びっくりするほど面白かった。関連動画も併せて紹介する。









2020-05-26

小野寺まさる:北海道が日本で無くなる日~中国の土地爆買いとアイヌ新法の罠[R2/5/4]


『北海道が危ない!』砂澤陣
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹

 ・小野寺まさる:北海道が日本で無くなる日~中国の土地爆買いとアイヌ新法の罠[R2/5/4]

茂木誠:アイヌは樺太から避難してきた渡来人


・多くの国際機関が中国の水はあと20~30年でなくなると推測している。

・世界的にも水不足が深刻となり水を巡って戦争が起こることが予想されている。

・アイヌ政策と日本分断活動の歴史。

北海道庁爆破事件(死者2名、1976年)で犯人グループはアイヌ革命論を唱えた。

・北海道旧土人保護法はアイヌ人が国会にまで陳情してできた法律。アイヌ保護を目的としており「差別法」という考えは誤っている。

・1970年、北海道ウタリ協会は土人保護法廃止の動きに対して反対した。

・アイヌと中国共産党の繋がり。

・日中国交正常化の前年(1971年)にアイヌが中国の新聞記者を平取町(びらとりちょう)に案内。1974年以降はアイヌが中国に頻繁に招待される。

・1986年まで外務省は国連で「日本には少数民族は存在しない」というスタンスを堅持してきた。「アイヌも少数民族ではない」と明言していた。

・1991年、外務省は唐突に「アイヌは少数民族といっても差し支えないかもしれない」と国連で言い始める。

中山成彬国交大臣が単一民族発言で辞任。

・いつの間にかアイヌは少数民族から先住民族になっていた。

シャクシャインの戦い(1669年)も元々はアイヌ同士の部族間闘争が発端で、アイヌの誤情報から357人の和人が殺害された。

2020-05-25

ペストは中世キリスト教会の権威も打ち負かした/『飛行機に乗ってくる病原体 空港検疫官の見た感染症の現実』響堂新


『コロンブスが持ち帰った病気 海を越えるウイルス、細菌、寄生虫』ロバート・S・デソウィッツ
『感染症の時代 エイズ、O157、結核から麻薬まで』井上栄

 ・ペストは中世キリスト教会の権威も打ち負かした

『感染症と文明 共生への道』山本太郎
『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝
『続・人類と感染症の歴史 新たな恐怖に備える』加藤茂孝
『感染症の世界史』石弘之
『人類史のなかの定住革命』西田正規
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 かつて“黒死病”の悪名で恐れられたペストは、記録に残っているだけでも、これまでに三度の大流行を起こしている。最初の大流行は、6世紀半ばの東ローマ帝国(ビザンチン帝国)で起きた。ユスティニアヌス皇帝統治下の541年にエジプトで始まったペストの流行は、またたく間に北アフリカ、ヨーロッパ、中央アジア、アラビア半島へと広がっていった。首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)では、全人口の40パーセントがペストで命を落としたといわれている。
 二度目の大流行は、14世紀半ばのヨーロッパで起こる。シチリア島に突然現れたペストは、あっという間にヨーロッパ全土に広がった。ドーバー海峡を隔てたイギリスでも、フランス帰りの一人の船員が持ち込んだペスト菌が原因で、多くの犠牲者を出した。
 結局、このときの流行で命を落としたのはおよそ4400万人。これは、当時のヨーロッパの全人口の3分の1にあたる。ペストの大流行は、単に人口を激減させただけでなく、人々の精神面にも重大な影響を与えた。疫病から救ってくれなかったキリスト教会に対する強い不信感は、中世の終焉(しゅうえん)を早める大きな要因となった。イタリア・ルネッサンスを代表する作品の一つであるボッカチオの『デカメロン』には、こうした社会状況が見事に描き出されている。
 三度目の大流行は、1860年代に中国で始まった。1890年代に入ると流行は香港にも及び、そこから船で南米、アフリカ、アジアへ、さらにはアメリカ合衆国のありフォルニアにまで飛び火していった。インドは、この時期の大流行によって最も大きな被害を受けた国の一つで、20世紀前半だけで、1000万人以上がペストによって命をおとしている。
 1948年、抗生物質ストレプトマイシンがペストに有効であることが確認され、“感染するとただちに死に繋がる病気”として恐れられていたペストにも、ようやく治療の道が開かれた。
 しかし、その後もベトナムや中国、アフリカや南米の一部の国で散発的な小流行が続き、現在に至っている。

【『飛行機に乗ってくる病原体 空港検疫官の見た感染症の現実』響堂新〈きょうどう・あらた〉(角川oneテーマ21、2001年)】

 環境史という学問的視点に立つと戦争は寒冷化で起こるという。農作物の不作~住居の移動が人々の衝突を生む。ペストが中世キリスト教会の権威も打ち負かしたとすれば、人類史の大きな変化は人間の主体性よりも環境要因の方が大きいように感じてくる。

 環境への適応が進化を決定するなら、あらゆる生物は環境が育んだと考えてよかろう。仏教東漸(とうぜん)で教義が目まぐるしく変遷してきた歴史を思えば、言語や民族の違いも環境に由来するのだろう。

 人類の課題は「飢饉と疫病と戦争」(『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ)である。日本が島国であることを卑屈に捉える向きもあるが、「飢饉と疫病と戦争」という観点から考えると明らかに地の利が優る。日本の国土は66%が森林で耕地面積は12.6%と少ない。しかしながら多くの海流が集まっており漁撈(ぎょろう)で賄(まかな)える。海で隔てられているため感染症リスクも低い。戦争に至っては200年を超える鎖国政策で平和を堅持してきた実績がある。

 日本は温暖湿潤気候で最も暮らしやすい環境である。雨も豊富だ。現在、世界を席巻している新型コロナウイルスについても「日本人は重症化を防ぐ免疫を持っている」のではないかという仮説が出てきた(中村ゆきつぐのブログ : 日本人は重症化しにくい理由 精密な抗体検査でわかった免疫学的な動き 完全な中和抗体ではないけど日本人は重症化を防ぐ免疫を持っている)。

 人類が病から解放されることは決してないだろう。ひょっとすると病んで恢復(かいふく)する中に進化の鍵があるのかもしれない。

2020-05-24

「日本ほど子供が大切にされている国はない」と外国人が驚嘆/『逝きし世の面影』渡辺京二


『日本人の誇り』藤原正彦
『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン

 ・失われた日本の文明
 ・幕末の日本は「子どもの楽園」だった
 ・「日本ほど子供が大切にされている国はない」と外国人が驚嘆

『幕末外交と開国』加藤祐三
『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織
『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』エリザ・R・シドモア
『武家の女性』山川菊栄
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『近代の呪い』渡辺京二

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 子どもが馬や乗物をよけないのは、ネットーによれば「大人からだいじにされることに慣れている」からである。彼は言う。「日本ほど子供が、下層社会の子供さえ、注意深く取り扱われている国は少なく、ここでは小さな、ませた、小髷をつけた子供たちが結構家族全体の暴君になっている」。ブスケにも日本の「子供たちは、他のどこでより甘やかされ、おもねられている」ように見えた。モースは言う。「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」。いちいち引用は控えるが、彼は『日本その日その日』において、この見解を文字通り随所で「くりかえし」ている。
 イザベラ・バードは明治11年の日光での見聞として次のように書いている。「私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子どもに誇りをもっている。毎朝6時ごろ、12人か14人の男たちが低い塀に腰を下して、それぞれ自分の腕に2歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしているのを見ている大変面白い。その様子から判断すると、この朝の集まりでは、子どもが主な話題となっているらしい」。彼女の眼には、日本人の子どもへの愛はほとんど「子ども崇拝」の域に達しているように見えた。

【『逝きし世の面影』渡辺京二〈わたなべ・きょうじ〉(平凡社ライブラリー、2005年/葦書房、1998年『逝きし世の面影 日本近代素描 I』改題)】

 乳幼児の死亡率が高かった背景もあるのだろう。子供が死ぬことは珍しくなかった。そんな状況が戦前まで続いた。

 赤ん坊はただただ可愛い。私が生まれた北海道では「めんこい」と言う。赤ん坊を抱っこすれば誰もが笑顔になる。特に女性の場合、妊娠・出産を通して脳内のホルモン分泌が変化しオキシトシンが急増する。オキシトシンは「愛情ホルモン」とか「幸せホルモン」などと呼ばれている。つまり赤ん坊を可愛いと思えない母親は何らかの異常があると考えてよい。幼児を可愛がるのは動物の本能なのだ。

 生意気になるのは言葉を覚える3歳前後からである。私に子はいないが年の離れた弟妹(ていまい)3人を育てた経験がある。同じ年頃の子供と一緒になると性格の違いがくっきりと浮かび上がる。3歳児はとにかくわがままだ。私は過酷な訓練を行った。おもちゃで遊んでいたり、お菓子を食べている時に「ちょーだい!」と私が手を差し出す。当然寄越すことはない。で、軽くビンタをする。それでも渡さない。ビンタは少しずつ強くなり、泣いても許さない。最後は泣きながら寄越すことになる。これを日常的に繰り返すと3歳児は1週間ほどでゲームの仕組みを理解する。ま、寄越せば直ぐに返すから当たり前なのだが(笑)。こうすることでよその子と遊んでいる時に何でも譲る親切な振る舞いが身につく。直ぐ下の弟たちも私の真似をするため訓練は速やかに行われる。

 かつて『スポック博士の育児書』(原書は1946年、アメリカ/日本語版は1966年、暮しの手帖社)というベストセラーがあった。世界各国で5000万部以上売れた。「抱き癖が子供の自立を妨げる」「夜泣きをしても無視」など、明らかに誤った育児法が紹介されていた。親が鵜呑みにして育てられた子供は後に愛着障害となった。核家族化というタイミングが重なったことも大きい。生殖後の余命が異常なまでに長いのがヒトの特徴であるが、これは幼児を育成するためと考えられている。子供を舐(な)めるように可愛がるのが日本の伝統だ。そうやって育てられた子供たちが後に日清戦争・日露戦争を戦ったことは偶然ではあるまい。自分が愛されたがゆえに、愛するもののために命を犠牲にしたのだ。

 いじめが社会問題化した背景には子供が愛されなくなった情況があるように思われる。中野富士見中学いじめ自殺事件(1986年)で受けた衝撃を忘れることができない。1970年代生まれから何が変わったのだろうか? 「1970年の こんにちは」(「世界の国からこんにちは」)は大阪万博(1970年3月~9月)のテーマソングだが、やはり豊かになったことが最大の理由だろう。1954年(昭和29年)12月から始まった高度経済成長が1970年(昭和45年)7月まで続く。

 それまでのいじめは先輩が後輩に対して行うものだった。戦時中の陸軍や高校・大学の運動部では常態化していた。私もバレーボール部に所属していた高校1年生の時は毎日ヤキを入れられた。母親に告げると「ざまあみろ」と言われた。絶対に忘れてはならないのは帰還した特攻隊への仕打ちだ(『月光の夏』毛利恒之)。日本人の陰湿さが極まった事例といえる。

 日本で子供が大切にされなくなったとすれば、やがて滅びることは必定だ。振り返ると認知症が知られるようになったのも1970年代のことだ(『恍惚の人』有吉佐和子、1972年)。この国の行く末は甚だ危うい。



美しき日本の面影 その5 子供の情景

JA相模原市緑化センターの覚え書き


 JA相模原市緑化センターに行ってきた。私のサイクリングコースから少し外れた場所にあった。ポトス・ステータスを探しに行ったのだが残念ながらなかった。サンセベリアは数が少ない上に高価であった。

 確かに広いが広大というほどでもない。花や庭木が中心である。観葉植物は少ない。私の印象としては「でかい百姓家(ひゃくしょうや)のだらしない庭」といったところ。陳列された鉢は土埃にまみれていた。注目すべきは土の豊富さで日向土(ひゅうがつち)や富士砂があった。他には藁(わら)や米糠など。

 平日のせいか年寄りが多かった。「いよいよ俺もこの連中に仲間入りか」と胸の内で呟いた。家に戻ると少しふらついた。たぶん「緑酔い」だろう。

 場所がわかりにくいのでよく確認する必要がある。