2021-11-02

道場六三郎のおにぎり


レシピ > お茶漬け・おにぎり

 おかかの方は横着をして大量に作ると乾燥しにくくて何度もチンする羽目になる。また、結構しょっぱいので白ゴマを多めに。マヨネーズと合わせるのもいいと思う。

【材料】握り飯:極小サイズ4個

・ふりかけ醤油
  カツオ節:20g
  醤油:50cc
  一味(七味):適量炒りごま:適量

・梅たく
  たくわん(角切り):50g
  梅干し:1個
  酢:適量

レシピ > お茶漬け・おにぎり


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お茶漬け●白だし梅茶漬け焼きおにぎりで白だし茶漬け

おにぎり●握り方講座三角おにぎりを握るコツレンチン最っ高の焼きおにぎり味噌おにぎりねぎの青い部分で万能ねぎ味噌ねぎ味噌ネギ味噌万能ネギ味噌ねぎ味噌ねぎ味噌人気レシピ簡単具材6選焼きおにぎり道場六三郎塩昆布わかめ焼きおにぎりだしチーズ焼きおにぎり生ハムクリームチーズおにぎりビビンバ風おにぎり油揚げの巾着おにぎり牛そぼろ豚そぼろ

昭和11年の日常風景/『工藤写真館の昭和』工藤美代子


 ・日露戦争がきっかけで写真館が増えた
 ・昭和11年の日常風景

『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子
『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子

 下町の朝は、物売りの声で始まる。一番早いのが浅蜊(あさり)や蜆(しじみ)売りの声で、午前6時頃には、もう聞こえてくる。
「あさり~しじみ~」
 朝の空気をふるわすように、その声が響くと、工藤家の子供たちは家の中から全員で声を揃えて怒鳴り返す。
「あっさり~死んじめぇ~」
 外を歩く物売りに、この声が聞こえるのではないかと、初めはハラハラして子供たちを叱りつけていたやすだったが、近頃はあきらめている。どうしたって、毎朝1回は怒鳴らないことには子供たちはおさまらないのだ。
 大騒ぎで子供や弟子たちが、顔を洗ったり身づくろいをしていると、今度は納豆屋が町々を通り抜ける。
「なっとぉ~なっと、なっとぉ~」
 こちらは少年の声だった。肩から籠を下げている。その中には藁の筒に包んだ納豆と辛子が入っている。
 青森育ちの哲朗は納豆が好物なので、朝食の膳に出ない日はなかった。
 続いて、豆腐屋のラッパが悲しいような、くぐもった音で鳴る。朝夕、必ず2回、このラッパの音が聞こえるのだが、夕暮れの方が、より物悲しい感じがする。豆腐屋は天秤棒の両端に盥を下げて、ピチャピチャと豆腐を泳がせている。頼むと厚い木のまな板を出して、「はい、味噌汁ね、やっこね」と、料理に応じた大きさに豆腐を切ってくれた。朝の味噌汁に、きちんと間に合う時間に現れる。
 少し遅れて煮豆屋が、チリンチリンと、遠慮がちな鈴の音を響かせて、ゆっくりと荷車を引いて来る。お多福、うぐいす、うずら、ぶどう、黒豆など様々な種類の煮豆が、甘辛く味つけされていた。下町育ちのやすは、煮豆にちょこっとでも箸をつけないと気がすまないので、これも納豆と並んで朝食には欠かせなかった。
 冷蔵庫もなく、お手伝いさんもいなかったが、買い物は家にいて、ほとんどの用が足りた。午前中のうちに魚屋は、今日仕入れた魚の種類を経木に書いて、注文を取りに来る。夕方には頼んだ魚が配達される。八百屋も酒屋も必ず御用聞きに来た。
 子供たちは学校が始まる時間に合わせて、順番に家を出る。一番早いのは、平井にある府立第七高女に通う初枝だった。
 その日は朝から、しんしんと雪が降っていた。そして、どうしてか物売りの声が、雪に封じ込められたようにどこからも聞こえてこない。
 なんだか変だ――と、初枝は思っていた。ラジオも雑音ばかりで、ガーガーと嫌な音を立てるので消してしまった。
 多分、この大雪のせいであろう。それでも、やっぱり学校には行かなくちゃと、初枝はオーバーを着て手袋をはめた。それから、生まれて10日しかたっていない赤ん坊の顔を、ちょっと覗き込んだ。
 工藤家にまた男の子が生まれたのである。名前は敏朗とつけられた。目がクリクリして、全体にまん丸い赤ん坊だった。「あの子の仇名、南京豆がいいや」。そう思いながら、初枝はゴム長を下駄箱から引っ張り出して履いた。準備完了。昭和11年2月26日、午前7時30分だった。
 学校は、どんなことがあっても休んではいけなかった。頭から、固く信じ込んでいた。初枝だけでなく、同級生はみんなそうだった。だから、去年の秋に、台風で中川が氾濫し、平井の駅前の大通りが水浸しになった時は、なんと舟に乗って学校までたどり着いた。まさ、あの大通りを舟で渡るなんて……と、初枝は思い出すたびにおかしくなる。学校側が、ちゃんと生徒のために、舟を出して、高台になっている駅から、4~5人ずつ乗せて運んでくれたのだった。
 あの時はさすがに遅刻しても、先生に怒られなかった。しかし、今日はそうはいかない。8時45分までには、教室に入っていなければと、いつもより15分も早く家を出た。
 ほとんど小走りに、雪を蹴散らしながら靖国通りに出て、国技館の前の交差点のところで、信号を見ようと傘を上げたとたんに、異様な感覚が全身を打った。
 音がない。靖国通りの音が消えていた。市電が通っていないのだ。市電だけではない。車も走っていない。朝のあの喧騒が、ぽっかりと嘘のように雪の中に消えていた。
 その代わりに、今まで見たこともない光景が、目の前にあった。交通が遮断された大通りの真ん中に、佩刀(はいとう)して武装した兵士たちが、何十人も並んでいる。彼らの前には機関銃が一列に地面に据えつけられていた。
 武装した本物の兵士を見るのは、初枝は初めてだった。しかも、こんなにたくさん、いっぺんに白い雪を被って立っている。ぎょっとして、しばらく立ちすくんだが、また気を取り直した。なにがあったか知らないが、とにかく学校へ行かなければならない。敢然と、初枝は信号を渡り始めた。両国駅へ行くには、ここを渡るしかない。
 通りの半分くらいまで来たところで兵士の一人に呼び止められた。
「君、駅へ行っても電車は走っとらんよ」
「でも、学校へ行かなきゃならないんです」
 必死の形相で初枝が答えると、
「学校も今日は休みだ」
 と、はっきりした口調でその兵士は言い切った。初枝は通りの真ん中で立ち往生した。兵隊さんが嘘を言うはずはない。しかし、どうして、電車も通っていなければ、学校も休みなのか。駅へ行けば、その理由を書いた貼り紙でも出ているのではないだろうか。
 じっと初枝が兵士の顔を見詰めたまま考えていると、まるで外観にそぐわぬやさしい声で傍へ酔って来て説明してくれた。今朝早く、反乱軍が首相官邸その他を襲った。今はもう鎮圧にあたっているから心配はいらないが、千葉方面から援軍が駆けつけるらしいとの情報が入った。それで、我々は待機して、もしも反乱軍が来たら、ここで喰い止めて一歩も都心に入れないつもりなのだ。
 こう言われて、はっと気づくと、確かに機関銃はピタリと千葉の方角を指して並んでいる。
 とにかく家へ帰って、今日は一歩も外へでるんじゃない。家族にもそう伝えておきなさいと言われて、初枝はすごすごと家へ引き返した。

【『工藤写真館の昭和』工藤美代子〈くどう・みよこ〉(朝日新聞社、1990年講談社文庫、1994年/ランダムハウス講談社文庫、2007年)】

 背表紙とハードカバーの表紙には「本所區東兩國」とタイトルの上に振ってあるが奥付にはない。工藤写真館があったのは現在の両国2丁目である。


 かつて私が仕事をしていた地域である。本書で知ったのだが戦前の国技館は回向院の敷地内にあったとのこと。東京大空襲で焼失し、現在の横綱1丁目に移転した。戦後は日大講堂となる。たぶん左側の高層ビルの位置にあったと思われる。

回向院と旧両国国技館

 やはりそうだった。この辺りは私にとって庭みたいな場所である。ツイートのURLをクリックしてGoogleマップを開いて右方向にスクロールすると、吉良上野介の邸跡がある。今でも吉良の頸(くび)を洗った井戸が残っている。更に右側に進むと両国公園がある。ここは勝海舟生誕の地だ。

 日常風景から二・二六事件への場面展開が秀逸である。「信号を渡り」という言葉が誤用かと思ったが、検索したところ当時は横断歩道がなかった可能性が高い(小林祐史:現在のような自動車が走る車道を、歩行者が横断するための横断歩道が登場し始めたのは、1950~1960年代(昭和30~40)から)。

 しかも哲朗が写真の仕事を始めたのは札幌である。我が故郷(ふるさと)だ。時代は異なれども不思議な感興が交錯する。

日露戦争がきっかけで写真館が増えた/『工藤写真館の昭和』工藤美代子


 ・日露戦争がきっかけで写真館が増えた
 ・昭和11年の日常風景

『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子
『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子

 もともと、日本全国で写真館が飛躍的に増えたのは、日露戦争のためといわれている。出生記念に兵士が写真を撮るのと同時に、家族たちも肖像写真を撮って、兵士に持たせた。まだ一般家庭に写真機などなかった時代に、人々は写真館で今生の名残となるかもしれない瞬間を凍結した。
 その思いは、昭和の代になっても変わってはいないのだろう。中国大陸がどれほど希望に満ちた約束の地であったとしても、兵士たちの顔には隠し切れない悲壮感や不安が漂っていた。
 カメラのファインダーを覗くたびに哲朗は、それを感じていた。普通の家族の肖像写真とは、空気の密度がまるで違っている。まだ10代後半や20代の初めの、若々しい兵士たちの顔は、いやにくっきりと、その輪郭を縁どる空気が濃く凝縮して見える。

【『工藤写真館の昭和』工藤美代子〈くどう・みよこ〉(朝日新聞社、1990年講談社文庫、1994年/ランダムハウス講談社文庫、2007年)】

 今時は冠婚葬祭くらいでしか写真撮影を頼むことはない。私が小学校の半ばくらいまでは年に一度家族で写真館に足を運んだ。懐かしさと共に突然思い出が蘇った。私の父は若い頃からカメラを嗜(たしな)んでいてセミプロ級の腕前だった。ニコンのFシリーズを愛用し、時折新聞社からも撮影を依頼されていた。

 写真を撮りにゆくのはあまり好きではなかった。正装するのも面倒だったし、何にも増して家族で外出すると怒られることが多かった。私は幼い頃、少しボーッとしたところがあって、母から持たされたハンドバッグをどこかに置き忘れたりして、そのたびに凄い剣幕で怒られた。撮影直前のしゃちほこばった数秒間も堪(たま)らなく嫌いだった。

 日露戦争がきっかけで写真館が増えたのは知らなかった。一葉の写真が忘れ形見となる。切り取られた瞬間は彼が生きた確かな証であった。死者数8万4000人(日露戦争はやわかり | 日露戦争特別展2)を思えば、涙に掻き暮れた家族は数十万人に及んだことだろう。

 昔、写真は厚い台紙のアルバムに貼り付けていた。私の世代だと既にセロファンみたいなやつで挟み込むような体裁になっていたが、それでもやはり貴重品だったのだろう。フィルムタイプは現像を待たねばならなかった。そうした時間も一枚の写真の大事な要素だった。

 その後、連写機能が開発され、家庭用ビデオが発売され、デジカメ~スマホという流れを辿り、写真は単なる画像情報に格下げされた。ウェアラブルカメラや防犯カメラでは長時間の動画撮影が可能となった。

 無限の記録と一枚の写真との違いを思う。

影武流(けいぶりゅう)合気体術は日本のシステマか


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